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第五章 社畜と本当に大切なもの
3.社畜と特別な後輩
しおりを挟む前田さんと会って話したあとも、色々な相談を受けてもらった。前田さんはアナログ人間らしく、LINEなどの通信手段は一切使わず、電話オンリーだった。
その話の中で、俺が理瀬の家に住んでいることは、やはりまずいという話になった。
「今の宮本さんが理瀬ちゃんの買ったマンションに住む理由、一つもありませんわ。他人に貸すのが嫌なら、管理会社に頼んで最低限のメンテナンスだけしてもろうたらええだけの話ですし。宮本さんがなんの理由もなくその部屋に住んで、古川さんに借りができるのはやっぱり、まずいですわ。理瀬ちゃんが買ったマンションとはいえ、保護者である古川さんの持ち物みたいなもんですからな」
この話には、俺も概ね同意だった。古川に貸しができることもあるが、俺としては、理瀬のいないこの家にいても、あまり意味がなかった。
会社で篠田にそんな話をしたら、最後に一度だけ行ってみたい、と言われた。断る理由もなく、とある平日の夜、篠田を理瀬の家に招いた。
俺の荷物はすぐ引き上げられるように準備されていて、残されたのは冷蔵庫や洗濯機といった最低限の家具のみ。理瀬の部屋はもぬけの殻。リビングに残されたソファで、俺達はビールを飲みながら静かに話しはじめた。
「それで、理瀬ちゃんは、なんて言ってるんですか?」
「えっ」
「えっ、じゃないですよ。まさか急にお父さんのところへ行った後、一度も連絡取ってないわけじゃないですよね?」
図星だった。
理瀬が引っ越してから、俺はLINEなどでの連絡を特にしていなかった。下手に接触したら、古川にそれを見咎められて、俺と理瀬をますます離す方向に動くかもしれない、というのが俺の懸念だった。
「私だって、理瀬ちゃんとLINEしてるのに、宮本さんが何もしてないなんて……」
「えっ、理瀬とLINEしてるの?」
「そうですよ。普通にお友達なんですから、話してもいいじゃないですか。理瀬ちゃん、一応うまく生活してるらしいですよ。お父さんは土日も含めてほとんど家にいないので、家政婦さんが主な話し相手みたいです。お母さんと住んでた時もそうだったから、特に嫌だとは思っていないみたいですね」
「そ、そうなんだ」
「宮本さん、今すぐ理瀬ちゃんにLINE送ってください」
「えっ」
「元気? の一言でいいです。宮本さんに送る勇気がないなら、私が代わりにスマホ使ってあげますから」
「……いや、その、まだ気まずいというか」
「宮本さん、理瀬ちゃんに嫌われてるかもしれない、と思ってびびってるんでしょ」
また、図星だった。
突然押し寄せてきた古川に対し、俺は何もできなかったのだ。とても難しい状況だったのは間違いないが、男として頼りないところを見せてしまった。もう理瀬は俺のことなんか頼りにしていないんじゃないか、と思っていたのだ。
「そういうとこですよ。ほら、早くLINEする!」
「お、おう」
篠田に背中を押してもらったことで、俺はやっと自分から理瀬へ連絡する気になった。折れかけていた気持ちがもとに戻ったようで、篠田には感謝しかない。
その後、俺は前田さんと会い、古川から理瀬をどうにかして取り戻すよう、画策していることを話した。乗ってくれるかと思ったが、篠田はむしろ、青ざめていた。
「それ、本気ですか? その前田さんって人、信用できるんですか」
「理瀬のお母さんの上司だから、嘘はついてないと思うんだ。でも、古川のスキャンダルを引っ張り出せるかどうかは、前田さんでもやってみないとわからない、って」
「いや……そうじゃなくて、本当にそこまでする必要あるんですか?」
「そこまで、って?」
「そこまでして理瀬ちゃんをこの家に戻す必要あるんですか? お父さんがいるなら、それでよくないですか。宮本さんが理瀬ちゃんと付き合いたいだけなら、理瀬ちゃんがどこに住んでいようと、関係ないですよね。今のままでも理瀬ちゃんとは付き合えるでしょ」
あんな堅物そうな親父がいたら、女子高生と社会人との交際なんてまず無理だ。古川も、そのようなことを俺と会った時に話していた。
しかし、篠田が言うとおり、理瀬が古川の家にいる、という状況はそのままで、俺と付き合うこともあり得る。
「いや……それも考えたんだが、俺としては、理瀬が仮想通貨への投資で手に入れた財産をもとに、自分で描いた人生プランを貫き通してほしい。それは和枝さんも応援していたことだ。親が変わったからといって、あんなに立派に生きていた理瀬の人生を狂わせたくない。それが一番だよ」
「本当ですよね、それ。信じていいんですよね」
「どういう意味だ?」
「宮本さん、理瀬ちゃんがいなくなって、寂しがってるだけじゃないですよね?」
篠田をよく見ると、かなりの酒が入って、顔が真っ赤になっていた。座り方も体全体がぐにゃっとしていて、目はとろん、としている。いつの間にか酔いが回っているらしい。俺はなんともないが。
「寂しく……ないわけではないが、それは関係ない。俺はあくまで、理瀬の――」
「寂しいって言えばいいのに。正直に言えばいいのに」
「いや……」
「そしたら、私のこと抱いて、寂しさを紛らしても、いいですよ」
「何言ってるんだよ」
篠田はもう、俺に心を許しているとは思えなかった。あんなにひどい別れ方をして、友人としてはともかく、恋愛対象としては完全に破綻している、と思っていた。
そんな篠田が、今更俺を誘惑するなんて、ありえない。
「お前こそ、正直に言えよ」
「はい?」
「困ってる時に強がるの、お前の悪い癖だからな。仕事で何度も見てきたから間違いない。何か聞きたいこと、あるんだろ?」
「それはとある先輩の真似してるだけですけどね」
「悪い先輩だな」
「あの……これ言ったら軽蔑されると思うんですけど」
「なんでもいい。俺はお前の、本音が聞きたい」
「私、今のまま宮本さんが理瀬ちゃんのお父さんと争って、宮本さんが負けて、ひどい目に会うのが……すごく怖いんです」
この状況で篠田は、理瀬ではなく、俺の心配をしているのか。
「宮本さんは……理瀬ちゃんのことが好きだって決めてしまった宮本さんは、多分もう怖いものはないんでしょうけど……私は、心配です。だって、相手は財務省の事務次官なんでしょ? ただのサラリーマンが勝てるわけないでしょ。このへんで引いたほうがいいと思いますよ。理瀬ちゃんだって、ショックで引きこもりになるような子じゃないんですから」
「ああ……すまん。お前に心配させてたことは、謝るよ」
「……ふうん」
「でも、俺はもう戻れない。お前を一度振った男として、いまさら都合よく理瀬のことを諦めるわけにはいかない。というか、自分でも理瀬を諦めきれない。だからこうしてるんだ」
「あの、宮本さん」
「なんだ?」
「振ったの、私ですから」
「あ、そうだったな」
かっこよくまとめようとしたら、普通に突っ込まれた。つらい。
「宮本さんがそういうなら、止めませんけど」
「俺の心配はするな。あと、抱いてもいい、なんて言うんじゃない。女がすたるぞ」
「宮本さん、急に男前になりましたよね」
「そうか?」
「私にもそうしてほしかったんですけど」
「あんまり変わってないと思うけどなあ」
「もういいです。ばーか」
篠田は(会社の後輩にしては)ひどく乱暴な言葉を残し、部屋を去っていった。
一人になって、俺は色々と考えた。俺のことを嫌悪しているはずの篠田が、いまさら抱いてもいい、なんて言い出す理由が何かあるはずだと、そのことばかり考えていた。それは俺を慰めるというより、最後の別れの挨拶のように聞こえたからだ。しかし、その理由は、いくら考えてもよくわからなかった。
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