in Cells ~花眠病~

もりえつりんご

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Part.1 doctoral students

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 細胞とは、生物の最小単位である。
                           
                                  ——細胞説












 細胞には二種類の分類カテゴリがある。
 動物性細胞と植物性細胞といって、簡単に言えば外側に細胞壁の無い方が前者、有る方が後者である。
 故に、動物の腹は自由に膨れることができ、裂けることなく元に戻る。一方、壁に支えられた植物は膨れることは出来ずとも、ある程度なら、どんな状況でも形を保つ。
 どちらが良いかの話では無い。これは単なる適応的な進化の先、結果の一つに過ぎぬ話なのだ。





 人類の増殖速度が停滞し、世界人口が初めて五十億を下回ったニュースがトップを飾る時代になった。
「ふうん」
 重力に干渉する物理研究は加速し、他所の国では宙に浮く棚が販売されるようになった。太陽銀河系内への移動可能な兆しが見えた。そんな、希望なんだか絶望なんだか、判断もつかないような記事の並びを、親指の右スライドで消去する。平凡な国内事情を載せたトップページに戻った。当然ながら一文字として変化しない文章を眺めて、吐息を一つ。
 実験台の上に端末を置き、水野瑤子みずのようこはゆっくりと机と水平な伸びをした。
「はーあ、どっこもおんなじニュースばっかですねえ」
「なにがー? あ、水野ちゃん、培養液ちょっとちょうだい」
「はいよ」
 共用冷蔵庫に向かう同期に手を振り、気を取り直して別の新聞記事を人差し指で開く。某車会社がタイヤレス車の開発に成功したという、画期的にも思える話題ながら、これで再び黒字決算、という詰まらない締め方をされている。控えめに言って、会社側が可哀想な記事だ。十年前なら、有名な古い映画でも引っ張り出して、紙面いっぱいに持て囃しただろうに。世知辛い世の中だ。
 そこかしこに広がる物理の世界は、数学の次に歴史が古い。
 相対性理論が花開いてからというもの、人類の夢の大半は物理法則に逆らうところから始まってきた。わば老舗、昔から勢いのあるトップスター、伝説のあの人──人ではないけれど──、素人目から見ても華やか賑わいお祭り真っ盛り、な分野が物理と呼ばれる世界になる。
 物理が大きな木の幹にあたるなら、その枝の端にちょこんと芽生えた蕾が生物の世界だ。いや、もう少し見栄を張ってもいいかもしれない。枝の数本を使って、生物の世界も頑張っている。霊長類研究とか、再生医療とか。
 しかし、哀しきかな、生きとし生けるもの全てが生物である以上、あまりにも当然過ぎて、見逃されてしまうのがこの世界だ。
「私達の方がさあ、現状正しく研究してると思わない? ひよりんよ」
「仕方ないよー。だって、どうしても話題が暗くなっちゃうもの」
 伊崎日依の最もな返しに、もう一度溜息をついて、瑤子はむー、と唇を尖らせた。
「再生医療でちょちょいと治せるかも、っつったのはどこのポンコツよ」
「バラエティのなんちゃって医者とかー」
「当てにしたわけじゃありませえん」
「知ってます~」
 冗談にわざと乗っかりあって、二人、けたけたと笑い合う。
 ──一時は天敵としてヒエラルキーの頂点に立っていた人類だが、今この時代において、その頂点は植物が支配している。
 花眠病かみんびょう──Flowering asphyxiaと名付けられたその病気は、七年前に『公表』された。
 最初の発症者は、一人の外国人旅行者。彼が眠り続けたまま、一向に目覚めないというところから、全てが始まった。
 彼は健康な男性で、眠りに沈む前日は友人達と楽しくホームパーティをしていた。初日はアルコールや疲れのせいだろうと放っておいた家族だったが、二日経っても彼が目覚めぬことを心配し、近くの病院へ相談に行ったという。医者が検査を行うも異常はないということで、家族は泣く泣く帰宅する。
 どんなに起こそうとしても彼が起きることはなく、一週間経っても目覚めぬ彼から漂い始めた腐臭に怯え、大学病院へ連れて行ったことから、この病気は発見された。
 主な原因は不明。レントゲンの結果、肺に花のような靄が写っていたことから花眠病と名が付いた。
 結論から言って、肺そのものに異変はなかった。なにせ、レントゲンが写したのは、肺胞に咲いた小さな花であり、腫瘍の類ではなかったからだ。人間の細胞に住み着いたその『植物』が、根から睡眠を促す成分を分泌している──そう推測され、花の摘出手術はすぐに執り行われた。
 しかし、彼は今も尚、眠り続けている。
 ただ眠っているだけとはいえ、体内に残っていた食塊が腐敗すると菌が増殖し、内部から腐るのが生物だ。検査の過程で胃腸洗浄が行われ、内容物は検査部署へ。そこで件の成分らしいものが発見されたわけだけれど、動物性蛋白質に触れると成分が変化することから、ワクチンの生成は困難を極めている。
 彼自身は点滴とリハビリを受けることでバイタリティを保ち続けているが、目覚める兆しは見られず、快復はほぼ絶望的だと表明された。
 この病気が厄介な理由は、脳死でも心臓死でもないために、家族の了承があってもドナーとなれず、安楽死も出来ないところだ。
 死ぬことも生きることもできず、ただただ生きる時間と家族の活力を奪う。
 本人の同意が得られなければ殺人罪に問われる現代の法律が、眠り続ける彼とその家族を蝕んでいる。とても素晴らしいくらい、植物的な搾取の仕方だと思う。
 大半の人間がこの目に見えない植物の脅威に怯える一方、その恩恵に預かっている世界がある。
 私たち研究者による植物研究界と、製薬業界だ。
「百人超えたんだよねー、感染者。まだ日本に上陸はしてないみたいだけど、東南アジアで一人発症したから、時間の問題かなあ」
 ラーメン店の行列人数を数えるような軽い口調で、日依が厳しい状況を語る。彼女が言うと、嵐も春の一番に変えられてしまうから、気を付けなきゃいけない。これは明日は我が身レベルの、切羽詰まった話なのだ。
「香椎先生が高山植物専門で良かったよほんと。例の患者は登山しない人だったみたいだし。移動で使うの国内航空会社だし」
「航空会社は関係ないでしょー、水野ちゃん」
 専用器具で培養液を移し替え、日依はテキパキといくつかのシャーレに蓋をする。ガラス越しの動作を遠目に見ながら、瑤子は体勢を戻し、実験室を見渡した。
「それにしても、今日さびしいね」
 伽藍としていながら騒がしい感じを受けるのは、室内が散らかっているからだ。けれど、それを除いたとしても、いつもより実験室が寂しい気がする。
 瑤子の言葉に日依が「出た、不思議ちゃん発言」と笑い、片耳に髪を掛けながらさらりと応える。
「春休みだからねえ」
「そうだけど……あれっ、今日ってゼミじゃないの?」
「人数集まらないからお休みだーって、早苗くんがメールしてたよ」
 瑤子の培養液を冷蔵庫に戻し、日依はその上の冷凍庫から酵素と専用の培養液を取り出す。クリーンベンチ前に座ると、ドライヤーで美しく整えられた焦げ茶色の髪が、白衣の上にしっとり落ちた。ゴオオと稼動音が鳴り響く。
「嘘でしょキディングボーイ! 実験始めちゃったんだけど!」
 あどけない顔で笑う日依とは対照的に、瑤子は頭を抱えて立ち上がる。だらしなくポニーテールに結んだ毛先が弾みで首筋を撫で、背筋に悪寒まで走らせた。
 端末を開いて、メール画面を起動させる。未開封マークの付いたメールの一つに、『今週のゼミについて』という件名を見つけ、開くまでもなくシャットダウンする。実験台に寝そべるようにぐたりと脱力した。
「あーあーほんと、無い。休みなのに実験するとかない。それならお布団でゆっくり寝てから楽しく論文ランデブーしたかった」
「今でもできるじゃない。私と」
「何が?」
 ピペットを操作して小容器カラムに様々な溶液を放り込みながら、振り返らずに日依が笑う。
「ランデブー」
「ああ、そっち」
 DNAを切断しながらそんな冗談が言えるようになったのは、かれこれ二十年以上も前になる。
 瑤子の世代は、中学校の教科書から既に制限酵素だのRNAなどの名前が並んでいて、ヤマナカファクターやiPS細胞も歴史の一つとして常識扱いされている。
 期待と不安を集めながらも発展した再生医療は、今では保険適用三割負担で多くの人間が使用できる医療と化していた。
 汎化に成功した今でも再生医療が脚光を浴びるのは、疾患や事故が多様で困難で防ぎにくい強敵だからで、それ以上の存在価値はきっとない。だって、大半の人間は健康だ。それに、再生医療よりも再生医学を応用した化粧品の方がよっぽど需要があって、おかげで再生医学はあまりに当然のモノになっていた。そんな中で、へえ、すごいね、なんていわれるには困難な方に行くしかないわけである。
 瑤子たちはどちらかといえば、そちら側の人間だ。
 京都国立総合大学大学院、生命医科学研究科、応用生物科学専攻。それが瑤子と日依の所属する専攻の名称で、この研究室には表向き植物生命応用研究室という大層な名前がついている。
 二人は学部生の頃からの同期で、先月修士を卒業したから、数えて六年の付き合いになる。瑤子達と同じ年に小学生になった子が中学生になる年だと思うと、ちょっと恐ろしい。
 兎も角、瑤子のことを日依はある程度分かっているし、瑤子もまた、日依のことをそれなりに理解している。日依の隣に立ち、彼女の動作を邪魔しないように、彼女の香りに触れる。
「私さあ、ひよりんのこと好きだけど、もっと好きになる方法知ってるんだ」
「へえ、教えて教えて? 私、水野ちゃんにもっと好きになってほしいの」
「コレです」
 冗談を羅列しながら、真面目な顔で背後に隠していた論文の山を空いたスペースにどさりと置く。最後の遺伝子を落としたカラムの蓋をし、日依は瑤子の手元を見て、また笑った。
「水野ちゃん、ほんと論文オタクだね~」
 女神のようだと研究室で歌われるその微笑みが、引きつった。そのくらい、瑤子セレクトの論文は量も内容もえげつないことで評判だ。
 今年の春に博士課程に進んだ瑤子は、何も知らない無邪気な院生と卒論研究生をターゲットに、平易で参考になる論文を与え、徐々にレベルアップさせていくことにハマっている。ゼミの質が上がるので、香椎教授はセーフティネットを下ろさず、企みを理解した賢しい学生のみが瑤子の手から逃れていた。
 同期の日依も、瑤子の毒牙から逃れた側になる。寧ろ、瑤子が論文オタクになる過程を見守ってきた側なので、必然的に対象から外されていたというのが正しい。
「論文読むの楽しくない? 書き手の拘り出るし特徴あるし同じこと言ってたりぼかし方一緒だったりさあ」
「いやあ、私はそれより今の間に研究室の掃除がしたいなあ~って思うなあ」
 日依の視線が瑤子から離れたところで、精一杯だか本気だかの話題逸らしに遭う。彼女の読めない表情が、本気の話題かもしれないと思わせてくるから、日依には敵わないなと密かに唸る。
「みんないる時にすればいいじゃん」
「みんないる時にしないでしょー」
「……それもそうだわ」
 別段、読むのを急ぐ必要がある訳でもないので、素直に促しに乗って論文を棚に戻す。ほっとした声が聞こえたけれど、見逃すことにする。やっぱり話題逸らしか、と心の中で指を鳴らしておいた。
 実験室は、この棟内では平均的な広さだ。実験台が入り口に向かって縦に三列、窓際には棚のない実験台が一列に並び、一個間隔で冷蔵庫が置かれている。クリーンベンチは実験台に合わせて縦並びに、向かって左の壁際に設置されていた。反対側の壁は、教授室へ向かう扉があるせいか、小さな本棚があるだけで実験器具は一つもない。
 そこが問題だった。いらない授業プリントやらゼミで扱った論文が所狭し、否、乱雑に捨てられて一つ山を築いている。
 これではいつ山崩れを起こして教授室への出入り口を塞ぐか知れたものではない。
「ほぼ燃やすだけだよね」
 瑤子の記憶に浮かぶのは、農学部の友人達が毎年行っていた焼き芋大会だ。これまで提出したレポートやプリントやらを集めあって、敷地の安全な場所で燃やすだけ。学部生の頃、瑤子もちゃっかりそれに乗っかって参加したことがあるのだが、名前も知らない後輩の「よく燃える燃える~」と笑っていた青い顔が忘れられない。
 徹夜上等、今では珍しいブラックに包まれたあの学部で、よくまあ生きていたものだ。
「私物あるかもしれないからさー、論文とか」
「置いておく方が悪いでしょこれは。もう春だし、むしろ春だし、燃やそう」
「ふあ……農学部に感化されすぎだよ」
 欠伸をしながら、日依も瑤子の隣に並ぶ。外は長閑にホトトギスが鳴いているくらい春だ、眠たくなるのも頷けた。授業でもよく居眠りしていたなあと数年前を思い出しかけて、振り払う。
「そのまま寝ちゃわないでね。やりますよ、ひよりん」
「あいさー」
 ちょうど真ん中に立ったのをいいことに、左右で分担してプリントをまとめることから開始した。




 廃棄したプリントはよく燃えた。
 春の霞がかった青空に、それはもう綺麗にもくもくと白い煙が上がって、電話で呼び寄せた農学研究科の友人達も歓声を上げて喜んでいる。勿論、彼らも瑤子と同じく実験途中に抜けてきているので、そんな場合ではない。
「ひよりん」
「春の焼き芋ってなんか変ー。あっつい!」
 風下側で膝を折って座っていた日依が、焼き芋を包むアルミホイルをタオルで冷やしている。瑤子はその背後から近付いて、彼女の独り言を拾った。
「春のマシュマロならいかがかね」
「お、いただきまーす」
 流水で洗った枝に刺した焼きマシュマロを、日依の細い指がちょいと千切る。膝を抱え込むように隣に座り込んで、瑤子も焦げのついたマシュマロを指でつまんだ。
「思ったより美味しいねー」
「そうだね。というか、気分が暇人すぎるな」
 焚き火番をする友人を振り返り、瑤子は苦笑を溢す。
 研究に没頭する学生の多いこの大学でも、修士を過ぎると就職する者が増えてくる。瑤子と仲の良かったかつての同期も、親が退職するのを区切りに、働くわと言って卒業してしまった。
 日本政府はまだまだお金の使い方が下手っぴで、未来への投資も上手くない。そんな風に、時間と心と環境に余裕のある人間しか、残れなくなるのが学校社会なのだろう。お金はまあ、奨学金をなんとかもらえればいいのだろうけど、枠の狭さと奨学金という言葉のイメージがいつまで経っても古いままなのがいけない。
「暇人はお前らもだろ」
「福永くん」
 農学研究科で、同じく博士に進んだ福永啓太が割り込んできた。彼は奨学金をもらって研究している。いろんな事情を知っているし、様々文句や愚痴を聞かされてきた側だったろう。
「研究に向いてても、つながりに狭さを感じたら出てっちまうんだよ」
「あー、元カノさんか」
「えっ元カノ?」
 日依が頷くので、慌てて瑤子も反応した。聞き流そうとした話題だっただけに、日依が反応したことに驚いたのだ。
 うんうんと神妙に頷いて、啓太は傷ついていないような顔で語る。
「そう。コミュニティってのは難しいからな。俺ももうしゃーねーなと思ったよ」
「前向きな福永くんには焼き芋をあげよう」
「どーも。あっつ!」
 瑤子を挟んで日依と啓太がやり取りをする。なんだこれは、もしかしてそういう流れか、と思わないでもなく、瑤子はじとりと隣を睨んだ。
「だから乗ってきたわけ? 他女子だけだから?」
「それは違う。とだけ言っておく」
「ふうん」
 啓太の研究室は、生命動態分析研究室と言って、電子顕微鏡や光学顕微鏡を使った細胞動態の観察を扱う分野になる。簡単に言えば生物を物理で解析するという話で、薬物動態とも似ているとかなんとか、薬学研究科との連携で学内では有名だ。ついでに、女性が少ないというのでも有名だった。
 半分与えられた焼き芋をかじりながら、啓太が焚き火番へと戻っていく。彼と繋いでくれたのが働くと言って卒業した同期だから、縁とは不思議なものだ。
「やばい、美味しい! ホットケーキミックスいける!」
 バウムクーヘンに意気込んでいた友人が一生懸命皿に切り分けているのを、横からもう一人が摘んで笑う。第二弾のマシュマロもまだ残っているようで、端では誰かが持ち寄ったチョコレートがどろどろに溶けていた。
 ここにいるみんなは瑤子よりも賢くて、論文雑誌に名前が載るような優秀な人間だけれど、ある意味バカみたいな提案に乗ってくれるくらいには優しくて、能天気だ。
 今生きている人間の半分が眠ってしまっても、ここにいる人たちはきっと、呑気な方を貫くのだろうと思うと、ちょっとだけ誇らしい気分になる。
 どんな時だって、この余裕が、先を作るのだ。
「水野ちゃん」
「なにかね、ひよりん」
「あのねー、私、水野ちゃんのこと好き」
「なんだい、急に。私もすきですよお」
 マシュマロをもう一つ摘んで頬張っていると、とん、と日依が持たれてくる。長閑で甘い空気に乗せられたのか、目がとろんとしていた。
「なんかね、眠いんだ……」
「え、じゃあ帰りなよ。帰れる? ……ひより?」
 ずるずると体重がかかって、春の野原にどさりと押し倒される。青い空が、視界いっぱいに見えた。きゃあ、なんて明るい声を響かせて、友人達が騒ぎ始める。
 日依は動かない。すうすうと寝息を立てて、眠っている。
 確かに日依はどこでも寝られる子だったけれど、こんなすぐに寝落ちするような子じゃなかったように思う。こんな、誰かにのし掛かっても起きないような子じゃ、なかったと思う。
「え、はは……ひよりん、あのさ」
 嫌な予感がした。揺さぶっても肩を叩いても、彼女はぴくりとも動かない。長い髪の毛を掻き分けて、頬に触れる。温かい。死んではいない。それが何よりの恐怖だ。
「ひよりん、……日依!」
 瑤子の声が、虚しく春の空へ飛ぶ。
 それから間もなく、救急車に搬送された日依は、大学病院で花眠病と診断された。
 日常が文字の世界へ飛んだ、瞬間だった。


 春になると、人間は死にやすいという。
 冬の厳しさを耐え抜いた結果、春の温かさに生気を吸われて、そのまま空の世界に誘われてしまうからだというが、それは四季のある東アジアの、それも、日本という局所的な場所でのみ通用する謂れだ。
 けれど、どの場所でも季節は巡るし、時間は流れる。地球が自転をしているその時から、人間の身体には多かれ少なかれ、循環する規則が埋め込まれている。
 花眠病の検査を全て終わった数日後、瑤子は、過去の時間を生きていた。
(なんで、日依だったんだろう)
 埒もない疑問を繰り返しては、腫れた目を濡らすしかなかった。
 どちらかといえば、バイトを掛け持ちして、毎度人と接触し、外に出回っている瑤子の方が感染する機会は多いはずだった。
 日依は親の理解と援助があって、交友関係も広くなく、サークルや部活にも大して参加していなかったから、外に出る用事といえば研究室と学生達の集まりぐらい。学会で出掛けた時は、教授や瑤子と同じルートを辿ったし、同じ列車や飛行機に乗ったから違いはない。
 もしかして、瑤子の知らない場所で、恋人と会っていたのだろうか。誰かに呼ばれて、どこかに手伝いに行ったのだろうか。そんなことがあったらニコニコと笑顔で語ってくれそうな日依だから、理由の分からなさに不安と疑問が増していく。
 お葬式でもないのに彼女の席を片付けなくてはいけない現実が、瑤子の心を傷付ける。
「水野さん」
 はっとした時、瑤子は研究室の自分の机で、ぼんやりと端末を弄っているところだった。
 声を掛けられるまで何もしていなかったようで、端末はすでにブラックアウトし、浮かない顔を写している。
「あー……はい、はい、なんでしょ……うか」
 誤魔化しがてら髪の毛を梳こうとして、眼鏡のフレームに手が当たる。
 かしゃん、と虚しく響く眼鏡の音の向こうに、唇を引き結んだ女性の悲しむ顔があった。日依の、面影があった。
「水野、瑤子さん、ですね?」
 紅を引いていない唇が、震えながらも瑤子の名を模る。セミロングよりも短い黒髪は綺麗に揃い、彼女が動くと筆が動くように背後へ流れた。
 瑤子に駆け寄るように、彼女が手を、言葉を伸ばす。
「良かった、あの子からよく話を聞いていて……、あなたはいつも研究室にいるって、それで、私」
「は、え、あの、と、とりあえず落ち着いて」
「あの子が! あなたにと、残したノートなの」
 握りしめたノートを瑤子の前に掲げ、日依の母親は涙で潤んだ瞳を細める。青白くやつれた顔に浮かんだその光が、沈んだ瑤子の心に突き刺さった。
 言われなくても、ノートの文字が日依のものだとすぐ分かった。母親がやってくるくらいのことだ、あの子が眠りに落ちるまでの何かが書いてあるのだろう。
 だからこそ、今は読む気分にはなれない。
「……とりあえず、椅子を、どうぞ」
 勧められた丸椅子に腰を下ろすまでの間を、素数で埋める。冷静さを思い出さないと、彼女が期待するような対応も、彼女を傷付けないような対応も、できそうになかった。
 息を吸う。正常に機能するこの肺が、侵されていれば違ったのに。
「下宿先を引き払うことになって。部屋の、整理をしようと思ったの……でもね、あの子の部屋、綺麗だったの」
 滔々と語られた内容は瑤子の予想そのもので、的中させたことに言葉にできないかなしみを覚える。
「あの子、……きっと、知っていたと、思うの。気付いて、いたんだと」
 ぽたりとノートに雫が落ちて、慌てて、日依の母親がノートを差し出す。不意打ちの動作に目を逸らせず、瑤子はその文字を目に入れてしまった。
 水野瑤子さまへ。
 丁寧に書かれたその文字に、視界が滲んだ。
「だから、水野さんにも、渡さなきゃって……水野さん?」
「……っ」
 母親の声が、外耳の外で遮断される。
 これまで溜め込んできた慟哭が、じわりと涙袋から溢れ出た。
「……ずっと、いっしょにっ、いたのに」
 小さな丸文字が残した日依の過去を思うと、その時呑気に過ごしていた自分の存在を惨めに思わずにはいられない。
 助けてとも言われないなんて、思いもしなかった。考えたくなかった。日依のことを大事に思っていたから余計に、相談もなく、眠りに落ちる瀬戸際まで何もできなかったことがつらかった。
 しゃくりあげる喉が声を発しなくなって、研究室が静かになる。
 瑤子の泣く姿を見て正気を取り戻したのか、それとも瑤子の若さを思ったか、日依の母親は瑤子が泣き止むまでしばらくの間、背中をさすって黙っていた。
「……ずみません」
 はしたなく洟を啜りながら謝罪をする。苦笑に似た微笑みを浮かべて、日依の母親は首を振った。
「いいえ……こちらこそ、ごめんなさい。まるで私達だけが悲しいみたいなことを言って。……水野さんにも、ずっとお世話になっていたのにね」
 二人揃って椅子に座り直し、息を吐く。
 長い夜が始まったような重苦しい雰囲気ながら、かなしみの共有により、心は潤いを取り戻していた。
 改めて差し出されたノートを、今度はきちんと手に取り眺める。
 大学ノートの三分の一だけ、ページのめくられた跡が残っていた。日依が記録を開始してからと計算して、二週間も経たずに発症ということになる。
 眠気を感じることを、症状とするならば。
「これを読んで、それから、……そこに書いてあることを教えて欲しいの。役立てて、欲しいの」
 開く勇気を持てずに表紙を眺めていると、日依の母親が堪えきれぬように口を開く。ノートを渡して空っぽになった手を瑤子の手に添えて、柔らかく、縋るように優しく掴む。
「あの子のために、お願い」
 懇願する姿を見たくなくて、俯いたまま、静かに顎を動かす。
 変わらない時間を残す日依の文字が、そんな瑤子を無情に見つめ返していた。 



 日依の母親とともに日依の机を片付けると、実験に手をつけぬまま、瑤子は研究室を後にした。細胞培養のサイクルは時間が決まっているから、後輩に後を任せられたのである。
 心配する彼らだって驚きと不安で堪らないだろうに、瑤子を思って譲ってくれる。
「なんて優しい後輩だろう」
 茶化すように言っても、友人は寝息を返すだけだ。
 許可をもらい、今、瑤子は日依の病室に居る。アルコール消毒の臭いのイメージしかない病院も、時代とともに内装共々クリーンアップしたようで、目に優しい暖色系のレイアウトで部屋も調えられている。
「会うだけなのに、バカみたいだよね」
 マスクの下でもごもごと言って、笑うことに失敗する。
 花眠病の感染経路が不明な以上、殺菌処理のされた防護服とマスクは必須だ。真っ白な手袋も外せないから、生きていることを確かめたくてもゴム越しに感じるしかできない。
「眠り姫の王子様だったらよかったのに」
 狐の形を指で作って、触れる間際まで彼女の唇に近づける。なんだってよかった。彼女を目覚めさせることができるのなら、瑤子は世界を助ける救世主にだってなってやれる。
「……なんて、できないんだけどさあ」
 ねえ、日依、と応えもしない友人に声をかけ、呼吸の繰り返しを三回ほど見送る。
「ノート、ありがとね」
 ぽつりと言い置いて、病室から外へ出た。
「福永くん、ありがとう」
 廊下で待っていた友人に声をかけると、彼は思いつめたような顔を有耶無耶にして駆け寄ってきた。
「ほんとによかったの? 日依、見ていかなくて」
「寝てるだけなんだろ。彼氏でもないのに、寝顔なんて見れねーよ」
「律儀だなあ、君は」
 疲れたようにはは、と笑って歩き出すと、肩が当たりそうな距離まで啓太が近付く。わざとらしい距離の詰め方を平然と往なして、瑤子はエレベーターのボタンを押した。足を開いて、重心を傾ける。
「近いの嫌なんだ。やめて」
 チン、とエレベーターの開く音に言葉が紛れる。中には誰も居らず、数秒二人きりになることが推測された。一階のボタンを押して振り返ると、エレベーターという狭い個室ながら、やはり近い距離に立っている。苛々した。
「別に、寄ってねーけど」
「はいはい。じゃあ、それ以上近寄らないで」
「……情緒のないやつだなあ」
 なんの情緒だと言い返さなかっただけ、自分を褒めようと瑤子は思った。日依との会話を思い出し、なるほどこっちの方かと納得する。自分へのベクトルにも気付かない、恋話にもまともに乗れない日依が、どうして啓太の恋人の話を知っていたのか。彼女が眠ってから分かるなんて、瑤子も大概友達バカだ。
「日依に相談してたの?」
「それ聞く? 今」
「いいから」
 せっかちにならない程度に意識して、開いた扉からホールへ出る。
 ロビーにはちらほら家族連れや受付待ちの人がいて、病院ながら騒がしい。コンビニが売店代わりに入っているのも理由の一つだ。忙しなくレジを回す音がする。
「今年の冬頃か、彼女に別れ切り出されてたところに伊崎が通りかかってさ」
 パンを買って帰ろうとしていた日依と目が合って、誤魔化し切らずにそのまま近くの喫茶で愚痴大会に突入したのだと彼は語った。彼女の誕生日に渡したインテリアも押し返されて困っていたところを、日依が代わりに貰ってくれたのだとも。
「インテリアって……」
「観葉植物だよ。前、彼女が見てたから買った」
 病院の外に出ると、生温い、湿気混じりの風が頬に当たった。三寒四温の時期を通り過ぎ、本格的に春を始めるための準備の時期が来たのだ。
 墨で濃淡をつけたような灰色の空を見上げて、階段を降りていく。研究室も自宅も、大学病院からは目と鼻の先だ。雨の心配も要らない。
「不憫なやつめ」
「お前も不憫にさせないでくれよ」
「知らんわ。そんじゃあね、ありがとう」
「……おう。気をつけて帰れよ」
 他愛ない会話にまで持って行って、階段を降りたところで分かれる。
 脇目もふらずに自宅へ一直線、部屋の鍵を閉めた途端、滝の下に立ったように疲れがドッと肩にのし掛かった。
 知らないままでいたことが多過ぎて、しんどさを覚える。鈍感だとはよく言われてきたが、ここまで鈍感であることに我ながら気味が悪く思われて、それでも正しく機能する身体に水を与える。
 ノートを、取り出した。御守りのように手放せないそれを手に、ベッドにもたれるように座る。開きたくない。開きたい。どちらにも進みたくない自分は、一体何を期待しているのだろうと思って、そっと、ページを捲った。

  『水野ちゃんへ。
   やっほー、泣いてる? ありがとう、ごめんね。
   今これを水野ちゃんが読んでいるということは、
   私はもう起きることができなくなっている頃だね。
   お母さんたちには見られていないといいけど
   ……そんなことより、まずは、言い出せなくてごめんね、かな』

 声が聞こえてくるような滑らかな文字に、少しの間呼吸を忘れる。日依は瑤子を不思議ちゃんだと言ったが、瑤子からしてみれば彼女の方がよっぽど不思議ちゃんだ。
 一歩間違えれば失礼になるんだぞ、と唇を尖らせて、続きの文章を読んでいく。

  『私が気付いたの、驚いたことに二月の終わりなんだよー。何ページ進められるんだろう。
   経過を辿っていくから、水野ちゃんがこの情報を使ってね。
   先生にあげてもいいし、他の、まさに研究している先生たちにあげてもいいけど、
   私は水野ちゃんに起こして欲しいから、お願いね。王子様』

「同じこと考えてる……」
 気の合う友人だと、こういうことは良く起こる。時間を飛び越えて日依と会話をしているみたいだ。

  『体調・血圧・食事内容・移動した場所は必ずメモします。
   あとは一日で特に眠気を感じやすい時間とか。何か規則的なものが分かればいいんだけど、
   とにかく、書くよー。
   今日は三月十二日、病院に行ったので検査結果も残しておきます』

 二ページ目の先頭には診断書や検査結果が貼られていて、その下から彼女の記した通りの内容が一日単位で書き込まれていた。所々に、何があって嬉しかったとか、悔しかったとか、啓太くんの彼女が思ったよりも激しい人だったとか、彼女とはあまり関係のない話も書かれてあって、日記のようにも思われた。

   『眠気に負けることが多くなってきた。今日から毎日研究室に行く。
    寝落ちても、誰かが見つけてくれるだろうから』

 記録を書き始めて二週間が経過した日に、日依はこう書き記していた。
 そういえば、と、日依が土日もなるべく研究室に来るようにしていると言っていたことを思い出す。
 強い眠気と、気を抜くと時間が経っている不安を隠して通っていたのかと思ったが、実際は、眠ってしまわないように人が出入りする研究室を選んでいただけなのだと思うと、くよくよしていただけの自分が少し恥ずかしくなる。
「ひよりんはすごいな」
 そうして、ノートの日付が四月になると、文章の量が増え、文字はだんだんと崩れるようになってきた。

   『眠い。夜、日が沈むと、すっごい眠い。
    うわーこれ、なんで前日パーティとかしてたのかわかる。
    大きな音を聞いていないと、眠いよー』
   『夜、眠るの、怖いなあと思って、寝袋を、
    研究室に持って行ったよ。見つけてね』

 本筋を忘れた日記のような文も、必死で起きるためのものだ。
 睡眠のリズムが崩れたことによる眠気か、病による眠気か、どちらかもわからないから眠ることを恐れるしかない。
 それは、どんなに孤独で、苦しい話だろうか。

   『水野ちゃんは今日も楽しそう。好きだなあ』

 ぱた、と雫が滲んで、慌てて服の裾で拭う。

   『論文も読めないし、細胞管理してるだけしかできなくなったけど、
    私の経過が参考になって、何かわかったら嬉しいな。ね、水野ちゃん
    また、話そうね』

 まるでラブレターのようにあたたかい言葉を残して、記録はそこで途絶えていた。

   『あのねー、私、水野ちゃんのこと好き』

 最後に会話した言葉を思い出して、次から次へと溢れる涙を止められない。
 生きることも死ぬこともできないまま、置いてきぼりにされた言葉と願いを思うと、悲しいのか悔しいのかもわからない感情で胸が苦しかった。


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