籠中の鳥と陽の差す国〜訳アリ王子の受難〜

むらくも

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事件

16.不始末

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 老紳士テネスは、仁王立ちの状態で深い溜息を吐いた。
 
「ここがお二人の巣でないことはお分かりでございますな」
「「……はい」」
 
 朝日に照らされるラズリウとグラキエ王子は、床で寝間着のまま正座をしていた。
 一晩抱き合った寝台の汚れた寝具は交換され、入った時のように整えられつつある。
「お分かりでありながら、宿屋で何をなさっておられたのでしょうな」
「すまない……」
「申し訳ございません……」
 そう、ここは宿屋である。
 グラキエ王子の誘拐事件で完全に意識から外れていたけれど、多くの人が寝泊まりして体を休める宿屋なのだ。
 だというのに、抱き合った片付けもせず力尽きてしまった。
 人攫いの被害者になったグラキエ王子と、番を見失ってひどく焦燥していたラズリウ。そんな二人を気遣い、皆そっとしてくれていたのに……だ。
 朝になって声をかけに来たテネスに惨状を見咎められ、盛大に雷が落ちて今に至る。
  
 静かに成り行きを見守っていたスルトフェンもテネスと同じような溜め息をつき、じとりとした視線で見下ろしてくる。これではどっちが従者なのか分かりやしない。
「帰りは色宿に変えた方がいいんじゃないですか、師匠」
「ふむ……それも一考か」
「いろ、やど?」
 とんでもない提案にテネスまで頷いてしまって、ラズリウの背中にぶわりと変な汗が吹き出した。
 おまけにその意味をグラキエ王子は理解していない。というよりも、そもそも色宿を知らない。あの顔は絶対に知らない。
「スール! 変な事言わないで!!」
 大切な番に変な事を覚えさせる訳にはいかない。その一心で噛み付くラズリウを、スルトフェンは軽く鼻先で笑った。知ってはいたが本当に失礼な男である。

 しかし。
  
「そうは言っても、普通の宿屋で力尽きるまでヤったんだろうがよ」
「き、昨日はたまたま……ちょ、ちょっと、興奮状態が治まらなくて……」
「そのたまたまに当たった宿からすれば、とんだ迷惑客だぞ」
「ううーっ……」 
 失礼な言葉が投げかけてくるのは、ぐうの音も出ないド正論である。
 抑えが全く利かなかった。ただただ取り返したグラキエ王子しか見えていなくて。現在地が何処かなんて毛の程も考えていなかった。
 その自覚が痛いほどあるだけに、全く反論の余地がない。
 
 言葉に窮して苦し紛れに睨み返していると、急にグラキエ王子が間に割って入ってくる。 
「なぁ。さっきから何なんだ、その色宿というのは」
 置いてけぼりで話が進んでいたのが気に食わなかったのか、その顔は少し不機嫌そうだ。どう伝えたものかと焦るラズリウとは反対に、スルトフェンはニヤリと口角を釣り上げた。
「ヤりたい奴らが泊まる宿」
 いくらなんでも端的すぎる。
「……うん?」
 けれどそのお陰か、グラキエ王子はぱちぱちと目を瞬かせるだけ。大丈夫かもしれない。これはまだセーフかもしれない。
 そう気持ちが上向いた所を、次の言葉が叩き落としにかかる。
「だーから、性行為するための施設がメインになってる宿。そのための道具も揃って至れり尽くせりらしいぞ」
 入って確かめたことはねぇけどな、と笑うスルトフェンにラズリウは頭を抱えた。

 流石に意味するところが分かってしまったらしく、何やら考え込む素振りを見せる。真っ赤になって動揺するのかと思ったけれど、そこは耐性があるようだ。
「何故そんなものがわざわざ」
「普通の宿屋でヤるとこうなるからだろ。他にも性欲発散したい時のサービスとか」
「スール!!」
 この幼馴染は余計な事ばかり言う。
 グラキエ王子はお堅い国の王族なのだ。一対の相手を大切にする国の人なのだ。
 城下にだってそういう類の店は影も形もなかった。そんな環境に居る相手に、なんということを吹き込もうとしているのか。 
「ガキ相手じゃないんだから良いだろ別に。夫婦は色宿に泊まるのが普通だし、お前らみたいな番も似た様なもんだろうが」
「そっ、それはそう、だけどっ……」
 小賢しいことに、絶妙に否定しづらい言葉を使ってくる。スルトフェンなんかに言いくるめられるなんて。

 ラズリウとスルトフェンのやり取りをじっと聞いていたグラキエ王子は、ふむ、と小さな声で呟きながら頷いた。
「分かった。スルトフェンがそう言うなら、そうしよう」
「ぐ、グラキエ!」
「テネスも反対しないし、その方がいいんだと思う」
 真っ直ぐな視線を向けてくる金の瞳に見つめられて、ラズリウは口を閉じるしかなかった。
 会って間もないアスルヤやグノールトはともかく、教育係ならばけしからんと一喝してくれると思ったのに。若干複雑そうな顔はしているけれどテネスが口を挟んでくる気配はない。
 もしや実物を見たことがないのだろうか。色宿の周辺環境を知らないのであれば、強く反対しないのにも頷ける。
 
「で、でも、色宿には色を売る職業の人達も居るんだよ」
 あの場所の周りには色々な人間が立っている。
 性別も年齢も様々だけれど、唯一共通しているのが非常に扇情的な格好をしていること。男性が半裸なのは気候的にままあることではあるけれど、女性もそれに近い。
 艶かしく飾り立てた刺激的な女性に迫られて、何も知らないグラキエ王子が果たして無事でいられるのか。
 そして……目がいってしまわないか。
 漠然とした不安が体に沁み込もうとし始めた頃、言葉を咀嚼し終えたらしい婚約者がじっとラズリウを見つめた。 
「つまり風俗ということだろうか。ネヴァルストはその関係者も宿泊施設に出入りできるんだな」
 思わぬ返答に声が出ない。
 風俗なんて言葉を、あの王都のどこで知ったのだろう。

 スルトフェンも同じ事を考えていたのか、じいっとグラキエ王子の顔を覗き込む。
「アンタ変なところだけ知識があるよな。城下町にそんなもんあったか?」
「地方領主に風俗店を集めた街区を作ったのが居てな。どういうつもりかと母に詰められて、今にも死にそうな顔をしていたからよく覚えている」
 そう言いながら何かを思い出したらしい。グラキエ王子は笑顔のままふるりと身を震わせた。
「で、でもね、グラキエにはちょっと……色を売る女性は刺激が……つよい、かも、しれない……」
 どうしても、不安が勝る。
 寒さの厳しいアルブレアに住む人々は男女共に服を着込む。露出のある服を着ている女性には会ったこともない。そんな環境しか知らない人間が、彼女達にどんな反応をするのか予想が出来ない。

 歯切れの悪いラズリウの顔を、金色の瞳が覗き込んでくる。
「相手がいても売り込みをしてくるのか?」
「それはない……と、思うけど……」
「じゃあ大丈夫だな。ラズリウが隣に居て売り込めるとは思えない」
 穏やかに微笑む婚約者の手が、さらりとラズリウの髪を揺らす。抱き寄せられ、宥めるようにグラキエ王子の唇が額に触れる。
 単純なものだ。たったそれだけで、さっきまで渦巻いていた不安が溶けるように掻き消えてしまった。
「グラキエ……」
 落ち着く優しい香り。温かい体温。ひとつ小さな息をついたラズリウはじっと己の番を見る。
 
 ――そこに、わざとらしい咳払いがひとつ。それも若干大きな音が響いた。

 振り返れば、じとりとした視線を向けてくるテネスの姿。
 グノールトはいつも通りの表情だが、スルトフェンは呆れ顔、アスルヤに至っては笑いを堪えている。
「そろそろ満足なされましたかな? ネヴァルスト王宮を待たせている状態なのですぞ」
「そ、そうだな。日程の再調整を頼む」
 片眉をつり上げた教育係に睨まれ、グラキエ王子は慌てて様子で頷き返す。合図を受けたグノールトが部屋を出て行くと、さて、とテネスの呟きが聞こえてきて。
「お説教の続きと参りましょうか」
 ……これは長丁場になりそうである。
 延々と続く話に返事をしながら、ラズリウはそっと腹を括るのだった。
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