今宵、月あかりの下で

東 里胡

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11.それぞれの事情・勇気の場合

11-1

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「おはよう」

 静かな朝だった。
 リビングに入ってきた祥太朗さんの顔色も冴えない。

「おはようございます」

 出来上がったばかりのちぎりパンとサラダとホットコーヒーを出してからスクランブルエッグを作り始める。

「吉野さん、勇気と連絡ついた?」
「いえ、既読にはなるんですが返事はありませんでした。祥太朗さんもですか?」
「ん、アイツ、本当にマネージャーのとこ泊まったのかな?」
「だとしたら心配ないような気もするんですけど」

 もっと心配な人がいる。
 お互いの視線が、天井もとい、二階へと注がれる。
 美咲さん、大丈夫なんだろうか?
 勇気さんと何かあったんだろうか?
 いつもなら起きてくるだろう時刻になっても降りてこないことにソワソワする。
 遅刻しちゃいますよ、と声をかけようか迷っていたら。
 静かに階段を降りる音、そしてこちらへは来ずに洗面所に行った後、そのまま玄関に向かった音に気づき祥太朗さんと共に慌てて駆けつけた。

「美咲、飯は?」
「あ、今日はいいや。ごめんね、風花ちゃん、せっかく作ってくれたのに残しちゃって。夕飯もいらないから」
「どこか出かけるのか?」
「ん、ちょっとね、会社の友達と約束してんの。遅くなったら先に寝てていいから」

 こちらを振り向くことなく美咲さんが、いつもよりも低いヒールを履いている。
 その背中がなんだかひどく頼りないし、声だって風邪をひいたみたいに鼻声だ。
 俯きがちなその姿勢が心配になる。

「遅くなるなら連絡しろよ、危ないから。駅まで迎えに行く」
「過保護だなあ。ありがと、祥太朗。じゃあ、いってきます」
「美咲さん、いってらっしゃい」
「気を付けて行けよ」

 パタンと閉まった十秒後、カツンカツンと響く美咲さんの足音がいつもよりも元気がない。

「大丈夫でしょうか」
「いや、」

 少しだけ考え込んだ祥太朗さんが、リビングに踵を返しながら。

「ごめん、吉野さん」
「はい?」
「ご飯、残しちゃって。心配だから、俺追いかけるわ。今日は先に行くね」
「あ、」

 承知しました、と返事をする前に祥太朗さんはコートを羽織ると、いってきますと風を切るように走り出していく。
 いってらっしゃいも伝えられなかった。
 祥太朗さんはほとんど朝ごはんを食べることなく、私はそれを静かに処理をする。
 シトラスの残り香が、なんとなく物悲しい。
 毎朝一緒に出勤して「いってきます」と最後に向けてくれる優しい笑顔が今日はなかったからかもしれない。

 結局あの後起きてきた洸太朗くんも桃ちゃんも勇気さんとは連絡がつかなかったとのこと。

「やっぱ姉ちゃん、勇気くんに振られ」

 洸太朗くんの口をバシンと桃ちゃんの小さな手が塞いだ。

「縁起でもないこと言わないでよ。まだそうと確定したわけじゃないし」

 夕べから皆が抱えていた疑惑をやすやすと口にしてしまった洸太朗くんは、桃ちゃんに怒られた。
 余ってしまったちぎりパンをどうしたらいいか悩む。
 祥太朗さんと勇気さんと美咲さんの分だ。
 明日に残したら固くなりそうだし。
 今日のまかないは、このちぎりパンを食べることにしてラップに包んで、タッパーに入れた。

 土曜日じゃないのに一人の出勤。

『梅のつぼみ、芽吹いてないですか?』

『長野って桜の開花っていつ頃?』

『お花見? 行きたいです! 行ってみたいです! お弁当いっぱい作りますね』

 季節の移り変わり、まだ見ぬ東京の春に想いを寄せながら何気ない言葉を交わす日々。
 榛名家の一つのパーツ、それが見当たらない事で何もかもがうまくいかなくなってしまった気がする。
 毎朝のルーティーンが狂ったせいか、少しだけため息をこぼしてしまう。
 あの時、美咲さんが『うまくいくように』と心の底から祈り切れなかった自分を恨む。
 心のどこかで祥太朗さんの悲しい顔が見たくない、なんて思ってしまったから罰があたったのかもしれない。
 美咲さんの顔、今朝は見れなかったけれど、その背中が泣いていた。
 私の身勝手な願いが、今度は美咲さんを苦しめてしまったようで、店のドアを開ける前に思いきり大きなため息をこぼしてから、顔を作る。

「おはようございます」

 店内にはマスターの姿はない。
 時々そういうこともあるので気にせずに仕込みの準備をしながら店内の掃除を始めた時だった。

「とにかく! 風花さんにだけは言うから! 俺、無理、匿いきれない」

 マスターが、家から店に出てくる扉を開きながら、誰かに向かって苛立っているようだ。
 今、風花さんって言ったよね?

「おはようございます」
「あ、おは、よう」

 聞こえてしまったかというようにポリポリと頬をかいたマスターが、私から目を逸らす。

「今、誰かと」
「あ、うん、えっと」

 気まずそうに二階にある家の方を見上げたマスターが顔をしかめた。

「夕べ、深夜に家出したヤツが家に雪崩れ込んできてて」

 クイッと二階を親指で射すマスターに全てを悟る。

「勇気さん、いるんですか!?」

 仕方なさそうに頷いたマスターが上に向かって声をかける。

「降りてこい、勇気! 家に置いてやるからには、風花さんとだけはちゃんと話しておけよ。俺隠しきれないから」

 マスターの声に反応し、階段を降りてくる音が聞こえた。

「お、おはよー! 風ちゃん、今日も可愛いね~!」
「勇気さん!!」

 気まずそうな笑顔を浮かべた勇気さんに、私は思わず怒鳴ってしまう。
 皆が必死に探していたのに、まさかここにいたなんて。

「勇気さん、説明して下さい! 皆、心配してるんですよ? どういうことですか? なんで、マネージャーのとこなんて嘘ついてマスターの家にいるんですか?」

 自分でも珍しく機関銃のように言葉が口から連射する。
 だって、美咲さんを悲しませておいて。
 皆に心配をかけておいて。
 どうして、この人はヘラリと眉尻を下げて笑っているのかと思うと、心配していたことが悔しくなるのだ。

「ちょ、風花さん、ちょっとストップ。珈琲淹れよう、勇気も座って。落ち着いて話しをしよう、いいね?」

 今にも噛みつきそうになっている私をなだめるようにマスターが私の両肩に手をかけて四人掛けの席につかせる。
 勇気さんは、真正面だと気まずいのか、斜め向かいへ、三人分の珈琲を淹れてくれたマスターは私の隣に座った。
 三人腰かけたところで、私が深くため息をついたら、勇気さんはビクリと身をすくめる。

「怒ってる?」
「いいえ、怒ってるというより、呆れています。嘘をついたことに」
「あー……、うん、あはは」

 その誤魔化すような笑いに、むうっと口を尖らせたら、向かいの席からグウウというお腹の鳴る音が聴こえた。

「朝ごはん食べましたか?」
「まだ」
「マスターは?」
「俺も、勇気とずっと話してたから」

 そういえばマスターも勇気さんも寝不足の顔をしている。
 バッグに入れていたタッパーのちぎりパンを思い出して二人の目の前に出した。

「あー!! 風ちゃんの作るこのパン、俺めちゃくちゃ好き! 食べていいの?」
「はい、マスターもよろしければ」
「ありがとう、いただきます。あ、勇気、ジャムとバターいる?」
「サンキュ、もらう!」

 二人が美味しそうに頬張っている構図を見ていると、一瞬さっきまで私が憤っていたことを忘れそうになってしまう。
 食べ終わり満面の笑みでご馳走様と手を合わせた勇気さんが。

「もう、風ちゃんのご飯食べれないかと思った。でも、そっか、ここに来たら何か食べれそう」
「それって……、もう榛名家には戻らないっていう意味ですか?」

 ん~……と苦笑して否定とも肯定とも取れない煮え切らない態度で背を丸めていた。
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