「ひょっとこさんが死んだ」

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「ひょっとこさんが死んだ」No.1

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「ひょっとこさんが、死んだ」

       

第一部
「火男さんの遺骨を持ち去った男」

           1、
 火男さんが、朝、食事の時間に食堂に降りて来ないので、施設担当介護職員が起こしに行った、
いつもならベッドを揺すれば閉じた目をゆっくり開けて、職員の顔を無表情に見つめる火男さん、だが、この朝は、布団をめくって耳元で名前を呼んでも、目を覚まさない、頬を抓っても目を開けない、抓って伸び切った頬の皮膚が、何となく冷たい、揺り動かすと、体も固い、  
死人を扱い慣れた職員、別に慌てもせず、部屋の外に出て、廊下を通って事務所に戻り、
「誰か、あとで、先生に連絡しといて、火男さん、死んでるって、あ、ごめん、私は駄目、朝食介助で手が一杯、頼んどく、ね」

 火男さん、これは通称、その火男さん、最近は老齢で体の衰えのせいか、大人しく自室で暮らしていたが、いつもは、夜半に必ず脱け出して、町角にひょいとその長い顔を現わして、その口をひょっとこ面の口か、タコの口のようにすぼめて突き出し、腰に刀のように差した、普段それを何処に隠しているのか、竹筒の節をくり抜いて作った火吹き竹をその口に咥えて、他人の家の、自転車置き場や、ゴミ箱、郵便受けからはみ出した朝刊など、あちこちに火をつけて、炎が燃え立つと、自分から、子供のような声で、
「火事やあ~火事やでえ~」
と、はしゃぎながら近所に報らせて巡わる、迷惑で、危険極まりない男であった、
警察では、火男爺さんと呼んで、その出没情報に常から神経を尖らせていた、

 だが、火男爺さん、必ずしも、生まれてからずーっと爺さんだったのではなく、人並みに何処かでおギャーと生まれんだろうし、何処かの学校へも行き、何処かのええ学校を卒業したかどうかは別にして、人並みに、この施設に収容されるまでは人に紛れて、どこかで働いていたんだろうし、家族も持っていたかも知れない、しかし、こんなこと、そこそこ歳いった人なら男女問わず、皆な一緒、敢えてどうのこうの云う程のことはない、

しかしこの火男さん、何時頃からこの、傍迷惑な奇癖を持つようになったのかは、多分本人さえ記憶が定かではなかったに違いない、
何故なら、火男さん、ほぼ一切記憶の無い、完全認知症患者であり、警官も、
「火事やあ~火事やでえ~」
と、うれしそうに楽しそうに、叫ぶ当人、捕まえて署に連れてきたものの、最初の一言二言、問答しただけで、こんなの逮捕したところで、その症状故、即刻無罪釈放、これが彼の有名な火男爺さんだと判ると、すぐにこの施設へパトカーで送ってきた、
 火男さんの身柄を受け取る施設の職員でさえも、火男さんがこの施設に入所してきた経緯も、何処かで保護され、しかしその認知症状のひどさと悪癖を怖れてか、どの施設でも入居を拒否され、受け入れしてくれるところがなく、無理にこの施設に収容されたと、その程度にしか、誰も詳しく知る者はない、し、火男さん本人も、当然ながらその辺りの事情について全く記憶はない、と思われる、
 頭以外は元気だった頃の火男さん、夕方になれば、夏だろうが冬だろうが、西の空が朱く染まる頃、火男さんは決まってそわそわし始めた、
警察からの指導もあって、鉄格子付きの特別待遇の部屋に監禁されていたが、どこをどう細工するのか、必ず脱出して、数日後は、警官に、サンマを盗み食いして捕まったどぶ猫のように、汚ならしげに首根っこを掴み上げられて送り返されてくる、

 その厄介者、火男さんが、とうとう死んだ、それを聞いた職員一同、日々緊張で血管のどこかに出来た血栓で、血の流れが滞っていたか、その栓が破れて血が一気に流れ出し、溜まっていた血が心地よく流れて、凝り固まっていた全身の筋肉が、温泉湯で温めたように一気に解れ、何かしらに四六時中、怯えていたような心臓の不整脈も忽ち消えて、心臓が規則的に心地よく鼓動を打ち始めるのを実感出来るようになった、
火男さんの死の知らせは、ここの施設職員だけではなく、麓の警察署員や、消防署員、消防団員、そして町民に深い安堵の日々を再び齎してしてくれることになった…


            
 町並みから遠く離れた山合いの町営火葬場、その駐車場で笹山重雄は、勤務する老人介護施設のネーム入りのライトバンの中で、椅子を倒して、先日死んだ入所者、通称、火男さんの火葬が終わるのを待っていた、
笹山は、昨日、火男さんの遺体を納めた棺を火葬場に運び入れ、火葬場職員と笹山の二人で、簡単な手続きを終えて帰る笹山に、火葬場職員が声を掛けた、
「ちょっと混んでるんで、時間、ちょっとズレるよ」
そう聞いてはいたが、一晩おいて、時間を見計らって来てみたが、確かに、駐車場にはいつもより多くの車が行儀よく列を作って並び、館内で遺骨拾いの順番を待つ人の数もいつになく結構多かった、ここ数か月、猛威振るう流感の影響か、と笹山は思った、
別に何も急いで帰る必要も理由も、それだけの大事な仕事も笹山には元より無かった、有るとすれば笹山が乗って来たこの車、職員の誰かが、車使いたくて帰って来るのを待っているかも知れない、と云う気掛かり、だけだった、
事務所に電話入れて状況を伝えた笹山は、特に今は、自分にではなく、車に急ぎの用はないと聞き、椅子を倒して体を仰向け、頭の後ろに腕を組んで枕にし、窓の外を何気に見遣っていた、
窓ガラス越しに火葬場を見遣れば、四本の、どこかの街の大工場のような大きな煙突が並び建ち、その内三本が黒煙を噴き出しているのが見えた、残りの一本の煙突からは、熱風だけが吐き出されて、陽炎のように空気が揺れて、遠くの雲がその形を歪めて見える、
この三号煙突が、火男さんと通称されていた老人の遺体を納めた棺を焼く窯の煙突だった、

昨日、火葬場に手続きに提出した役所の書類を見て初めて笹山は、通称火男さん、その本名が上村吉信、享年八一歳、だと初めて笹山は知った、
その本籍地など確める前に、火葬場職員から面倒くさそうに書類をひったくられて、それ以上のことは何も笹山には判らず仕舞い、笹山にしてもこの火男さんの履歴に特に何か興味が有ったわけでもない、知ってようがいまいが、どうってことない、だが、ひとの履歴が、我がことの過去を振り返る切っ掛けになった、
笹山は長く務めたバス会社を、釣り銭誤魔化しがばれて首になり、この施設でデイケア、訪問介護等施設利用者を送迎するマイクロバスの運転手を求めていることを知り、応募して、笹山もそこそこに高齢ながら、バス運転手だった経歴が優先されて、すぐ採用された、その時には、この「火男さん」こと上村吉信はこの施設に既に入所していた、

 施設の行事で、春は桜、秋は紅葉、コスモス鑑賞と、入所老人をのろい牛を追うようにマイクロバスに乗せて送迎するのだが、この火男さんも何度か一緒に乗せた、
だが火男さん当人には、その日、何処へ何しに、何を見て、何を食ったかさえ覚えていないように、マイクロバスの運転手が誰だったか、全く記憶にないと笹山は確信する、
このことに笹山には未だに不慣れだった、普通、ひとは、自分の周囲の人の声を聞いたり、ひとの顔を見て、その表情を読んで自分がそのひとにどう映っているか、それにより自分の人生が、自分の運命が決められていくものだと、笹山は長い間生きて来て、漠然とだがそう思っていた、
だが、世間並みに忙しく生きて来た笹山が、この施設で働くようになって、それまでの職業的習慣で、ひとの顔を見れば反射的に挨拶してしまう笹山が、ここの入所者に挨拶しても、全くの無反応だったことに初めは驚いた、
だが、それは決して、笹山が懸念したような、意地悪に無視されたのではなく、目の前に誰が居て、その誰がどんな顔をして挨拶しているのかまったく認識しない、自分一人の世界に入ったきりの人々だと判っても、そんな人との毎日の出会いが奇妙でならなかった笹山だったが、ここの仕事にもようやく慣れて、もうとっくにこの奇妙な感覚にも慣れてもよい筈なのだが…
「火男さん」こと上村吉信も、当然に無表情でバスに乗り込み、職員の世話で椅子に座らされ、バスに揺られて病院に行ったり、時にスーパーに買い物に行ったりする、そしてその顔に何の変化も無いままスーパーから出て来てバスに載せられ、施設へと帰る、
バスから下ろす時、職業的習慣から笹山が、その背中に声を掛けてやるのだが、一度でも何か反応があった試しがない、
しかし、笹山、思い返せば、バスの客の誰にしても、運転手笹山が何と声をかけようが客は誰も知らん顔でバスを乗り降りしていた、それでも笹山は、必ず声を掛けた、その習慣が抜け切れないで、笹山はここの施設の老人達にも今以ってそう一人一人に声を掛けてしまっていた、


           2,
 その火男さんこと上村吉信が3日前の朝、ベッドで寝たまま死んで発見された、この施設に入所する老人達の殆どは、死ぬ直前に、大概、大声も上げず、苦しみもせず、前夜に何かの予兆も無く、その為、家族の誰にも職員にさえも看取られず、ひっそりと死んで行く、
火男さんも先輩諸氏の例に漏れず、皆さんと同じく、元からこの世に存在しなかったかのように静かに、ひっそりと死んだ、ようだ、
ここでは人の死なんか何も特別なことではない、と笹山にも最近ようやく理解出来るようになっていた、
ここでは人の死は極く当たり前、日常茶飯事であって、ここの職員の誰も、テレビドラマように一々誰かの死に驚きもしないし、悲しみもしないし、何も慌てたりしない、
そのことも笹山には、初めの頃は、職員のそんな態度が冷たく思え、皆な非人情、皆なが何だか人間離れしているように思えて、実際ここの人たちに人間としての感情があるのかと疑った時もあったが、今では笹山も、入所者の死を聞いても一々、そのひととの思い出に浸ってみたり、ましては驚くことなんぞは無くなっていた、

 ここに入所してくるのは、あの世に行くちょっと手前のご老人達、そんなご老人達にとって、ここは、あの世に旅立つ前に、生きた過去の全てを忘れるため、苦しかったことも栄光の経歴も、恥も外聞も、全て忘れ去ってあの世に行く前に、ちょっとの時間立ち寄って、天国か地獄、どっちへいくか考えて過ごすための仮の住まい、なのだ、
 笹山は、此処へ来るまでの、我が恥晒しの人生を振り返っては、何度も同じ後悔を繰り返してきたことを、ここで働き始めて後悔するようなった、もっと早くこんな世界がこの世に存在すること知るべきだったと悔やまれた、
何も、ひとと競合したり、人と肩を組んで大声で友情を誓わなくても、恥や外聞を惧れて委縮しなくても、世間を怖れて身を隠さなくたって、所詮人間、死ぬ前には全てこうして忘れさせてくれる時間があって、死んでも、悠々窯の炎に焼かれて死んで行ける至福の時間の中で、あの世に旅立つことが出来るのだ、と、もっと早くに知っておきたかった、

火男さん、こと上村吉信に対して、笹山には特別な印象は無かった、笹山に特別な感慨が無かったように、火男さんには、遺体を引き取ってくれる身内が無く、聞けば実際には誰か身内が居るようだが、引取りや、一切の連絡を拒否されていたようで、従って誰にも知らされず、誰にも見送られず、誰にも悲しまれずに、棺の中で寝たまま窯に押し込まれたのだった、
それにしても、もうそろそろ火葬場職員から、
「焼けたぜ~」
と携帯に通知が届いてもよさそうな頃、

 笹山、三号窯の煙突の先、熱風で揺らぐ陽炎を眺めながら、皆が「火男さん」と呼ぶ、だが実際には笹山の耳には「ひょっとこはん」と聞こえて、実際、職員皆な、そう呼んでいた、ように思うが、ふと火男さんのことを何気に考えていた、
 通称にしても奇妙な名前、いつだったか施設の職員にその謂れを聞いたことがある、
その職員は、ここに入所して来た経緯は知らないが、元は悪名高い放火魔、だったと教えてくれた、今でも施設を抜け出しては近在の町や村、時にはちょっと遠く離れた見知らぬ町まで出掛けて、ゴミや自転車に火をつけて帰って来る、と云い、それで誰もが「火男さん」「ひょっとこさん」と呼ぶようになった、と笑いながら話してくれたことがある、
冗談にしてもかなり物騒な人物だったようである、それにもしそれが事実なら、そんなヤバい人物がこんな施設で暮らしている筈は無い、普通なら、硬い煉瓦の壁に鉄格子の入った窓のある部屋住まい、
冗談がきつい、と笹山はそう聞いてもその話を疑った、しかし、その職員は、話を信用しないふうな笹山に、次のように付け足した、
「ひょっとこはんの部屋の窓は鉄格子されてるし、鍵も外から、数字合わせの南京錠でロックされている、そんな部屋、うちでは火男さんの部屋だけよ」
と真顔で云った、単にマイクロバスの運転手である笹山が入所者の部屋を訪ねることは無い、従って、鉄格子、数字合わせの南京錠云々の真偽は定かではない、

          3,
ふと、枯葉が転がる音がして、笹山、頭を起こして車の窓の外を見回した、一人のコート姿の、白髪の、それでも歳の割にはガタイの良さそうな老人が、火葬場の煙突を見上げている姿が目に留まった、
その老人と目が合って、笹山は無意識に会釈した、見た目、しゃきっとした服装、笹山とほぼ同じ八十歳くらいか、男も会釈して、笹山の車に近づいてくる、
 笹山、起き上がって、ドアガラスを手巻きで下ろすと、コート姿の老人が話しかけて来た、
「上村吉信さんの、施設の方、ですか?」
施設で暮らす老人達の姿に見慣れ、耳慣れした笹山の耳に男の声は若々しく響いた、
頷くと、男は
「わたし、杉下、と申します」
と名乗り、名刺を差し出した、
「~社 代表」とあり、広島県~市と記してある、
「定年まで広島県警に勤めていまして、上村さんには色々とご縁があったものですから、上村さんが亡くなられたとお聞きし、昔のこと、懐かしく思い出しまして」
笹山、元警官と聞き、反射的に昔の不祥事を思い出して身が固まったが、ふと我に戻り、もうあのことは片付いたんだ、相応の罰も受けてこんなところで働いてるじゃないかと思い直し、それに目の前の元警官は、笹山さんですか、とは聞かなかったことに気付いて落ち着きを取り戻した、
それでも、どこか情けない声が出て、
「あ、そう、なんですか」
「施設の方に先にお伺いしまして、こちらで、うちの者が、上村吉信さんのお骨上げを待っているとお聞きしたものですから」
「上村さんの、お身内の方、ですか」
「違います、上村吉信さんが死んだと当時の仲間から連絡がありまして、出来れば最後にお顔を拝んで、私の気持ちも整理出来れば、と思って来たのですが…」
「何か、上村さん、何か警察にご厄介でも?」
元警官杉下は、
(色々とご縁があって)
としか云ってなかったが、笹山の頭の中に、施設職員の、元は放火魔だった、放火癖があったとの話が残っていたせいで、ついそう訊いてしまったのだ、
「いや、別に、何も、もう昔の話、で…」
元警官ははっきりと否定しなかったが、その言い方は、上村吉信の過去を匂わせているように聞こえた、
そう云えば、今日の、遺骨拾いに上村吉信の身内の誰も来ていないし、職員の話では身内は一切の連絡を拒否しているとのことだったが、元警官が、わざわざ火葬の日に、しかも聞けば広島から遠路はるばる、退官して相当年数も過ぎているだろうに
「気持ちの整理をするために」
訪ねて来た、と云っている、と云うことは、上村吉信は、身内に音信を拒否される程の重大な警察沙汰を起こした過去がある、と暗に教えているようなもの…
 昨夜、遺体を納棺する時、上村の顔はちらちらと見えていたが、生きていた時にあちこちへと送迎するときに見た顔も、棺に納まって仰向けて眠っている顔も全く無表情で、子供らの教科書に載っていた、ムンクかモンクの「叫び」の顔を連想させるみたいに、口をすぼめて蛸のように斜めに突き出していた、昔、風呂の釜口で竹筒を吹く時のような顔、どっちかと云えばふと笑ってしまいそうな上村吉信の普段の表情から、そんな恐ろしいことを想像出来るものは何もなかった、
ただ納棺しながら、笹山は、上村吉信の顔の特徴から誰かがひょっとこの面を連想してそんな仇名をつけ、見た目に合せて放火魔の伝説を誰かが作って広めたのかも知れないとふとそう思っていたところだった、
「もうすぐ、終わると思います」
笹山は車から出て、3号煙突の頂きを見ながら、駐車場から、火葬場の建物に向かって元警官、杉下を誘うように歩いた、杉下もゆっくりと従いてくる、

 建物内の待合室で、杉下に椅子を薦め、
「コーヒー、でいいですか」
「済みません、あったかいの、頂けましたら」


          4、
 火葬場の職員が笹山に、申し訳なさそうに云った、
「あと、もうちょっと、かかりそう」
笹山は頷いた、職員が離れるのを待って、杉下に話し掛けた、
「私は、今の施設、勤めてまだそう長くはないんですが、上村さんは、相当以前から認知症患っていたらしいんです」
杉下は表情変えず、缶の底を上げて残りのコーヒーを喉に流し込んだ、
その横顔を笹山は観る、自分とさほど年齢は変わらないが、しかしその眼は、この辺りの農家の老人と違って理性的で落ち着いてみえ、元警官と聞いたせいか視線の鋭さも笹山は感じた、
呑み終えた缶コーヒーを、缶の温もりから暖をとるように両手で包んで、何かほっとするような表情になり、その顔に、意外にも人懐っこい表情も見えた、

 火葬場職員に呼ばれて二人は案内され、ステンレス台の上に人の形に焼け残った骨を前にして骨壺が渡された、
その時、先程迄穏やかな表情していた杉下の、骨を拾う箸を持つ手が震えていることに笹山は気付いた、笹山は心配げに顔を覗き見た、
杉下の顔に尋常ではない、現職の、笹山も以前取り調べを受けた警官のように厳しい表情が浮きあがり、血の気が退いたように蒼褪めていた、
 笹山は、勤める介護施設の職員から教えられたやり方に倣い、数個の骨片だけを壺に入れ、火葬場職員に壺を渡して布で包んで貰い、杉下の袖を引いて外に出た、
「大丈夫ですか?お顔の色が…」
「ああ、大丈夫です、持病で、貧血気味なんで、偶に」
「そうですか、で、この後、どうされます?車で来られたんですか?」
「いえ、電車と、駅からはタクシーで」
「もし駅に戻られるんでしたら、送りますよ、駅まで」
「そうして頂けたら、助かります」
 後部シートに、触ればまだ温もりが残る骨壺の包みを載せてドアを閉めた、
杉下が、後部座席の反対側のドアを開けて、自分のコートと鞄を骨壺の横に、被さるように無造作に置いた、
何もわざわざ骨壺の横に置かなくても、と思ったが、手に持って乗れば助手席が狭くなるのを嫌がったかも知れない、そう思い直して、そのまま車を走らせた、
「広島まで、このまま帰られるんですか?一日仕事、ですね」
「どうしても、最後、顔を見ておきたかったので、仕方ない、です、最後、どんな様子、でした、ですか、上村吉信、さん?」
さん、を付け足すように云った、
「私は、施設のマイクロバスの運転手で、実際に入所者に関わることは殆ど無いので、全く、ただ、時に、病院や、スーパーに何人か乗せて送迎する時にお見掛けした程度、ですが、認知の方はかなり進行していたようですね、職員の話では、最後は眠るように穏やかな顔だったと聞いています」
聞いてはいなかったが、納棺の時に笹山が見た顔は、事実そうだった、
「そうですか…」
会話はそこで途切れた、

 車は山間の道をくねりながら走って駅前の広場に着いた、助手席から降りた杉下は後ろのドアを開け、コートと鞄を取って腕に抱え、運転席の笹山に、
「お世話になりました、ありがとうございます」
と軽く会釈した、
「お気を付けて」
笹山も軽く会釈を返して車を走らせた、駅前のロータリーから車道に出る手前で車を止めた時、バックミラーに杉下の、駅舎内に入る姿が映ったが、笹山は、ほぼ本能となった習慣通りに、前方左右丁寧に確認して、駅前の広場から車道に出て行った、
 

         5、
 勤務先の施設駐車場に着き、車を降りて、笹山は後部座席のドアを開けた、
「え、無い…?」
そこに在るべきものが無い…?
上村吉信の遺骨と遺灰を納めた、白布で包んだ骨壺が無い、シートの下にも頭を突っ込んで覗き、手を突っ込んで探したが、指に触れるものは無かった、
笹山は骨壺を失くしたことで、予想される我が身に降りかかる難儀の数々と、その罰の重さを思い、体が一気に震えた、
 笹山は、自らを励まして落ち着かせた、事の顛末を、順を追って思い出した、
火葬場職員が、
(済みません、長い時間、お待たせして)
と恐縮しながら、白布に包んだ骨壺を、落とさぬよう両手で大事そうに抱えて渡してくれた、
その骨壺を受け取って笹山は車に戻り、骨壺を脇に抱えて落とさぬよう注意しながら後部座席のドアを開け、座席シートの上に置いた、その不安定な状態に気付き、
(こんなところに置いて、途中、山間いの曲がりくねった道、転がり落ちて割れでもしたら大変)
そう思い直して後ろのドアをもう一度開けた時、反対側から杉下がドアを開け、手に下げていた黒皮の鞄と、腕に掛けていたコートを、その骨壺の上に無造作に、被せるように置いてドアを閉めた、 
何で骨壺の上に、とその無神経さにいらっとしたが、よく見ると、杉下のコートと鞄に覆われて、骨壺は却って安定したようにみえ、これなら繰り返す曲り道でも大丈夫だと判断して運転席に戻った、
 山道を走り降りて来る間、骨壺が転がったり、シートから落ちて割れる音は聞かなかった、
 ふと、笹山は考えた、杉下が駅前で車から降りた時、何かの間違い、何かの勘違いで、杉下が骨壺をコートや鞄と一緒に持って出た…?一番有り得る、ことだった、
笹山は駅舎に向かって歩く杉下の後ろ姿を思い出してみる、手に提げていた鞄に骨壺は入り切らない、腕に掛けたコートに包んで持ち去るには、明らかにコートは膨らんで、一目でその重さと大きさに杉下は気付いただろうに、自分だって気付いた筈、
それに、杉下の後ろ姿に、何か異変に気付いて立ち停まったりするようなそんな素振りは何もなかった、  
杉下が、身内でもない他人の骨壺をわざわざ持って帰るなど考えられないし、もし間違って骨壺をコートに挟んで持ったとしてもすぐ気付き、笹山を呼び返した筈、
笹山は思い直してみた、自分が骨壺を受け取ったこと自体が、それに受け取ったつもりの骨壺を後ろの座席に積み込んだことも、全て錯覚、自分が勝手にそう思い込んでいるだけ、ではないか、
笹山は携帯電話で火葬場職員を呼び出すが、忙しいのか電話に出ない、
愈々焦って笹山は、杉下の名刺に書いてある会社の電話番号にダイヤルした、誰か電話に出てくれれば杉下の携帯番号教えて貰えばいいし、もし携帯持っていなければ、骨壺の事で電話が有った、折り返し電話するよう伝言して貰えばいい、
そして何よりも、まだ杉下が駅の待合で次の電車を待って居ることも期待出来る、ようやく目先に明かりが見えて来た気がして、それでも笹山、震えの治まらぬ手に持つ携帯を耳に当てた、直ぐに女の声が聞こえた、杉下の会社の事務員か、用件を云い出そうとした笹山の耳に聞こえたのは、
「お架けになった番号は現在使われておりません、お確かめの上…」
笹山は、駅に戻った、駅に客は誰もいなかった、             


 夕暮れ、朱い陽が沖の水平線に沈んでいく、その陽の残光が、小舟の舵を握り、舳先を向いの小さな島、鹿木島へと向ける老人の白髪と日焼けした頬を赤く染めていた、
 老人の名は、鹿木正男、老人介護施設職員笹山に訊ねられて杉下と名乗り、偽造した名刺を渡したが、元から杉下と云う名には縁もゆかりもなく、鹿木正男のこれまでの人生の何処にも、また今生きる身の回りにもそんな名の男は一人も居なかった、
 鹿木正男は、介護施設に戻った笹山が、骨壺が消えて無くなったことに気付いて、慌てふためく姿を思い浮べた、

 鹿木島には港は無く、砂浜からコンクリート製の突堤が波打ち際に突き出しただけの、それも長年の放置と、幾度もの嵐の大波にコンクリートはその殆どの箇所が打ち砕かれていた、
島の反対に夕日が沈み、島影に覆われてすっかり暗くなった中、突堤に横付けして、ともづなで舟を結わい、鹿木は舟から降りた、
 砂浜を革靴履いたまま横切り、島の山裾から獣道のような狭い道に入った、すぐ右手に鳥居が在る、両側の鳥居の柱は塗装が無残に剥げ落ちて元の木肌が現れ、砂地に埋まった柱の根元は汐に朽ちて腐ってしまっている、
山を少し登ると正面に小さな祠、今は鹿木以外、誰も住む者はいないが、その昔は、こんなちっぽけな島の社でも秋には近在の漁師達が集まって例祭が行われ、祠から小さな神輿が担ぎ出されて島内に点在する小さな集落を巡って賑わった、
 祠の横に小さな木板の、島の由緒を書いた立て札がある、塗装が剥げて一文字も読めないが、鹿木は今でもその由緒書きを暗誦することが出来る、
「わが髮のゆきといそべのしら浪といづれまされりおきつ島もり」
「わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひ風やまずふかなむ」
平安の昔、土佐國府赴任を終えて帰京する紀貫之とその一行が、海路の悪天候と海賊に襲われる恐怖に苛まれ、この祠を見つけて幣を納めて早々の出航と航海の無事を祈って詠んだ歌だと教えられた、
 当時通った分校の先生はその後、決まって必ずこう付け加えた、
「お前らは海賊の子やけん、誰にも負けんよう勉強して偉うならないかんけんな」
幼い鹿木はそう云われても、海賊の子なら他と何がどう違うのか、偉うなるとはどう成れば偉うなったと云えるのか、何も目標となる未来、想像する未来の形がなかったことを今も覚えている、

土中から道に剥き出して絡み合う木の根を踏みながら鹿木は更に登った、笹竹で囲われた小さな墓地の前を通り掛かる、
山道を登って鹿木、やはり息が切れた、墓地を覗くと、磯の岩を持って来て積み上げただけの粗末な墓が苔むして数個、まばらに並んでいる、
鹿木は足を止め、笹竹を跨いで墓地に入り、その内の一つの墓石の前に立った、汐風に腐った卒塔婆が斜めに傾いて、今にも倒れそうだった、
鹿木は長い時間、墓石を睨むように見下ろしていた、が、脱いだコートに、隠すように包んでいた骨壺を取り出すと、不意に頭上高く振り上げ、癇癪でも起こしたように、その墓石の角に投げつけた、
骨壺は破裂し、破片が一帯に飛び散り、数個の骨片が辺りに撒き散り、遺灰が墓石の上や辺りの地面を白く覆った、
 撥ね散った一個の骨片が鹿木の靴の前に落ちて転がってきた、鹿木は、暫しその骨片を憎々し気に睨んでいたが、その骨片を靴で踏みつけ、たばこの吸い殻を消すように踏みにじった、
 骨片は、煎餅菓子でも踏むような音を立てて粉々になる、その音が、鹿木の古い記憶を刺激し、蘇らせた…



        6,
それは、もう何十年も前の、或る日まで遡った…
鹿木は浜で拾って来た貝殻を石で叩いて粉状に潰していた、時に鹿木はこの島に来て放し飼いの数羽の鶏の世話をする、数日前に来て畑の大根を掘って持って帰り、その時、畑に棄てて置いた大根の葉を細かく刻み、潰した貝殻と米糠とを混ぜて鶏の餌を作る、
糠だけまぶすのではなくこうして貝殻を混ぜてやると鶏は互いが頭を突っつき合いながら、普段に増して勢いよく餌箱の底を啄む、 
翌日に採る卵は黄身に張りがあって、その色も濃く、生で喉に流し込むと、その後2,3日は体がしゃきっとする、持って帰って近所に配ってやれば大層喜ばれる、

 常の日なら鶏の糞を掃除し終えると、鹿木は島を登り、頂きの松の幹に凭れて、のどかな波間に小さな島々が群れ浮かぶ景色を飽きずに眺める、
島々の向こう、沖は霞んでいるが、晴れた日には水平線がくっきり見えて、その先に太平洋の大海原が展開する様子が連想されて鹿木は暫し雑事を忘れて眺め入る、
 だが今日の鹿木には、のんびりと鶏相手に戯れる心の余裕は無かった、それどころか、陸の町並みの方から聞こえて来る、明日の県議会議員選挙候補者の、大音量のスピーカから、是非一票をと吠える声が、波間に響いて、鹿木の心は重く沈んでいた、
ここに来たのも、夜が明けた途端、身に降りかかる難事から逃れたい一心からだった、
明日の選挙、定員17名に、19名が立候補し、余裕の当選を確実視されている有力候補16人は明日の結果を待たず、選挙事務所で支援者に祝い酒を振るまって宴会騒ぎ、どんちゃん騒ぎの真っ最中、とラジオは報じる、
だが残り1枠を争う、鹿木を除いた、まだ奇跡の希望を残す2人の候補者は制限時間ぎりぎりまで、自分の名を連呼して県内至る所を走り回っている、
元県議会議員鹿木は、前々回の選挙で、ようやく17番目の当選者となったが、前回は遂に命運尽き、数十票の差で落選、今回、起死回生、大逆転を期したが、県民の反応は冷たく、今回は新聞も、県民の誰もが鹿木の最下位落選を予想してくれていた、
そんな声を聞かずとも、鹿木自身が選挙戦を通じて、鹿木に対する県民の冷たい視線を浴び、敵意と憎悪に満ちた視線に晒されていることを身に染みて感じていた、
 一昔前なら、正月や盆に一升瓶や餅、それに甘い菓子を配り、後は邸に支援者を招いてただ酒振る舞っておけば中位当選は確実だった、
 時代が、世の中が、国が大きく変わって行く流れに、鹿木は乗り切れなかったのだ、

 戦後間もなくの頃、鹿木島には、数軒の苫屋が寄り集まった集落が島のあちこちに点在し、どの邑でも、若者や子供らの声、それに赤子らの泣き声が満ち々ちていた、
 鹿木島の頂きの平坦な辺り、襲来する嵐の風除け用に植えられた松林に囲まれて、昔からこの島の主、鹿木家本家の屋敷、鹿木正男が生まれた家が在った、
鹿木家は、言い伝えによると平安の昔から、この島を含め、周囲の群島全てが、そして島の向かい、陸側の町村一帯の山や田畑を領し、農作物や海産物、材木等取引の一切を取り仕切った家柄で、古文書(土佐日記)によれば、
『廿三日、日てりて曇りぬ、此のわたり、海賊のおそりありといへば神佛を祈る、
廿四日、昨日のおなじ所なり、
廿五日、舵取らの北風あしといへば、船いださず、海賊追ひくといふ事絶えずきこゆ、
廿六日、まことにやあらむ、海賊追ふといへば夜はばかりより船をいだして漕ぎくる、道にたむけする所あり、』
と、紀貫之一行がその来襲を恐れた海賊の氏族であり、かつ、
『舵取してぬさたいまつらするに、幣のひんがしへちれば舵取の申し奉ることは、
「この幣のちるかたにみふね速にこがしめ給へ」
と申してたてまつる、これを聞きてある女の童のよめる、
「わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひ風やまずふかなむ」
とぞ詠める、』
ここに云う、紀貫之一行が航海の無事を祈願して幣を納めた神社が鹿木家本家の氏社、鹿木神社であり、鹿木神社の神主は、代々鹿木家の分家、上村一族が交代で勤めてきた海賊の統領家であり、また領海外からの海賊からの襲来を防ぎ、航海の無事を祈願する神社の主でもあった、


          7、
東京五輪を終え大阪万博が大盛況の裡に閉幕、世間は二大国際イベントの終了で景気の冷え込みを危惧した、が、しかしいざなぎ景気の熱は冷めるどころか更なる活況を見せ、市場の好景気は続いた、
 鹿木の父は、分家の一人の、若い頃から大阪で商売して一財産を築いていた上村元信の薦めと協力もあって、切り出した木材を建売住宅ブーム真っ最中の大阪に、自ら設立した運送会社のトラックに載せて出荷し、更にその木材の一部を、新たに自ら地元に設立した造船所用にも製材し、漁船も積極的に建造するなどして事業を拡大した、
 鹿木正男は、大阪の私大を卒業後、上村元信の大阪の会社に暫し身を置いていたが、父親の事業の拡大に伴い、将来の後継者養成の意図もあって呼び戻され、父親の仕事を手伝っていた、
 だが、日本の経済市況は、神武景気、岩戸景気、いざなぎ景気と湧いていたが、誰も、それが故の、経済の捩じれ現象に気付き、警鐘を鳴らす者は居なかった、
 都会の盛況の裏で地方では、百姓や漁師を百年やっても埒が明かない、誰もがその苛酷な労働と収入の低さを身に染みて知っていて、中学を卒業すれば子らは、金の卵と呼ばれて都会に働きに出た、
迎える企業は彼ら若い労働者を他社より多く迎え入れる為に快適な寮をつくり、給料など厚遇して少年少女を呼び入れた、
少年少女は年頃を迎えて結婚する、その若いカップルは寮を出て夫婦だけで暮らせる家を求めた、なにもかもが都会では都合よく回転していた、
だが、農村、漁村から若者が消え、木を伐り出すに人はいなかった、漁をするにも網を上げる人の手は無く、舟を造るにも職人は高給を求めて都会へと出て行った、たんぼや畑には、曲がった腰を伸ばして空を見上げる老人の姿だけが残された、
無知無能の国会には予想外、想定外の円高の波が押し寄せて、作ったものが売れなくなり、海外からのものが安く流れ込み、旧来の日本製品は瞬く間に日本から、世界の市場から消えた、
木材はプラスチックにとって代わり、建売住宅の窓はアルミが主流となり、舟の板にはプラスチックや発泡スチロールが使われた、 
経営に陰りが見え始めた会社が躓いて、一社が躓くと、何十社もの会社が連鎖して倒産した、不況の嵐が吹き荒れた、
鹿木の父親は、そんな状況下、一端の経営者振ってか、それとも支族、分家に頭を下げることを嫌がってか、追加の融資を渋る上村元信の会社と縁を切り、別の業者と組んで事業継続を試みたが、この会社の社長は、手形を乱発して夜逃げした、
煽りを食って鹿木の父親の会社は致命的な損害を被った、返済のため、資金繰りの為、山や田を売ったが、それでも追い付かず、また景気の回復する兆しも見えず、鹿木の父親は分家の上村元信に泣きついた、
上村元信は、本家鹿木家の、残った資産の多くを自分の会社名義に書き替えた、全てを失い、生きる気力も失って鹿木正男の父は、姿を消した、
行方不明の父親は、多分この、先祖の栄華を象徴する鹿木島で死んでいると鹿木正男は見当をつけ、島の麓、本家鹿木家の氏社、鹿木神社の松林の中で、松の枝に揺れる父の遺体を見つけた、死体を降ろし、笹竹の群生する処に穴を掘って父親の死骸をそこに寝かせて埋めた、浜から小岩を持って来て土饅頭の上に載せて弔った、

            
          8,
繁栄と没落を一瞬の間に見せつけられて鹿木の人生観は一変した、父の事業を継続するにはその負債は余りに大き過ぎた、かと云って何かを今更始めるにも鹿木には、何の知恵も、技術も、ひととのコネもなかった、有るは、この近在では珍しく大学出であり、しかも曲がりなりにも経済学部出身者であった、
役所で仕事を得、住民とのトラブルや対外的な交渉など、鹿木の法律的知識は殆ど無くでも、またそのことを詳しく知らずとも、何を調べてどう対処すればよいかの発想は誰よりも素早く確実に出来た、次第と重宝された、
或る日、珍しく里帰りしていた上村定信が役場に顔を出し、見掛けた鹿木に、今夜、家へ来い、飯、一緒に食おう、と鹿木を誘った、
上村定信は、鹿木正男の父から、情け容赦も、血も涙もなく、資産を奪い取り、松林で首を吊るほどまで追い詰めた、上村元信の長男だった、
鹿木の父の死後、本家鹿木家と分家上村家との立場は逆転していた、逆転どころか、片や泣く子も黙る大資産一族の嫡男、片や、文無し、辛うじて木っ端役人として薄給を両手で拝み受けて、惨苦に生き、借金と負債の泥を被ったような極貧の総領の甚六、比べようもなかった、
 上村定信は時に大阪から戻り、何日かを家族で過していると噂には聞いていたが、これまでに顔を合わせたことはなかった、
「飯食いに来い」
との誘いは、鹿木には、偶には酒でも飲んでうまいもんでも食え、と聞こえたし、嫁さんの一人や二人、いつでも世話したる、とも聞こえたし、飯食いながら俺の法螺話でも聞いとけ、とも聞こえた、 
だが、役所で何かの手続きを終えた上村定信が、見掛けた鹿木に声を掛け、役所の職員全員が一斉に、鹿木の顔を、それがどういう意味なのか鹿木には判断出来なかったが、皆の注目を浴びて、咄嗟に断ることも出来なかった、
どうせ、皆なの手前、ただの愛想だけ、口先だけの誘いに過ぎないと鹿木は思ったが、そこが鹿木の、機を見るに愚図なところ、しかし今の鹿木は、藁をもの、悲惨な状況、その夕には上村定信が借り住まいする家の玄関の前に立っていた、
 女中に誘われて奥の座敷に通された、大きな座卓が部屋の真ん中に居座り、その上に、この辺りの、客接待の時に必ず出される皿鉢料理がずらりと並んでいた、
 やがて、上村定信が、寛いだ格好で、赤子を抱き、横によちよち歩きの二人の女の子、この二人の顔の造りのどこかに上村家の血筋を表す特徴が観えていた、
 どこか高級料亭の女将のような和服姿の女がしずしずと部屋に入って来て、上村定信が紹介した、女は、上村定信の嫁、由美子、と紹介され、自らもそう名乗って、深々と頭を下げた、見た目、定信よりは二回り程若く見え、鹿木よりも一回り程若く見える、
 昔、鹿木本家に勢いがあった頃、父親は、何かの宴会では、必ずこの手の女を招いてどんちゃん騒ぎをしていた、ことをふと鹿木は思い出した、
鹿木も丁寧に、父が呼んだ芸者に挨拶させられた子供の時のように、名を名乗り、頭を下げて挨拶を返した、
 ふと顔を上げた鹿木、定信の妻、由美子の、くもの糸のように粘着質に絡みつく、熱い視線に囚われてその真意を探って二人は見つめ合った、
ふと鹿木、気付いて、由美子から目を離した、亭主・定信は、不機嫌そうに手酌で盃の酒を一気に喉に流し込んだ、
「まあ、遠慮せんとやれや、正男、しかし久しぶりや、元気にしとったか?大阪からこっちへ戻って来て、どないしとるんか心配しとったけんが、まあ、見たところ、元気そうじゃ」
鹿木正男が上村定信の父の会社で働いていた頃、定信は、鹿木より一周り年長ながら、その頃既に、重役として父・元信の代わりに経営一切を切り盛りしていた、
「当時はお世話になりました」
「ま、ええ、そんな固苦しいの、抜きにして、ま、一杯、やってくれ、由美子、この正男は、うちの、数多ある分家、上村家の本家本元の御曹司、今でもこの辺り一帯の大地主、いや、それこそ遠い昔は、ここから鳴門の、土佐泊り辺りまでの山や川、それに海岸線の漁師町や、数え切れんぐらい海に浮かんどる島の一切を総領、取り仕切っていた海賊の親玉、土地の神様、みたいなもんやったんや」
(それが、今では、落ちぶれて、本家の惣領が、役場でせこせこ働いて、このザマや)
と次の言葉を覚悟したが、
「今日な、ワシ、こっち来たんは、この御曹司に話があって、な」
意外な言葉に鹿木はふと顔を上げた、
「どや、もう一遍、ワシんとこで働いてみんか、いや、わざわざ大阪まで出て来んでもええんや、大阪も、何んとか景気の後遺症で、たいがいのとこ消えてしもたが、そろそろ落ち着きも見えてきて、な、今は住宅公団やなんかでも、住宅着工の数も増え始めて、やっぱり材木の良さも見直されて、木の需要がこの先、増えていきそうなんや、 
何でも売れだしてからもの探しとったんでは、消し忘れた蚊取り線香みたいなもんや、気が付いたら灰になってしもとる、
それで、お前に、うちの重役なって貰うて、この辺り一帯の山の木、伐り出して大阪に積み出して貰いたいんや、
お前も聞いて知っとるやろ、四国と本州の間、瀬戸内挟んで3本も橋が架かる、その内の明石鳴門大橋はあと10年も経たんうちに完成する、
そうなりゃ、物が流れる、何でもかんでも流れる、中でも、やっぱり、住宅建築用木材が真っ先に大阪に運び込まれる、
ひとは仕事を求めて街に集まる、街に集まれば、住む家が要る、なんやかや云われて来たが、やっぱし木材や、木は売れる、それでワシの会社の支店をここに作る、そこを、お前に任せたい」
余りに突飛で思い掛けない話に、鹿木はどう反応すれば良いか判らず言葉に詰まった、
「何も悩むことない、ワシから注文出す、その註文に合せて出荷段取りしてくれたら済むこっちゃ、建売住宅云うのは、大体が同じ間取りで造る、せやから寸法もほぼ決まっとる、お前なら出来る」
注がれるままに鹿木は酒を飲み、普段の度を越えて酔ってしまい、定信の強い説得に圧されて定信の話に乗った、
「そうか、お前にやって貰うたら心強い、やっぱり商売は、身内でやるのが一番や、ま、ついでやから聞いてくれ、ワシは、な、近い将来、本家鹿木家を再興したい、と考えている、お前の親父からうちの親父が借金の担保やらで山や土地、なにもかも奪ったようにこの辺りのひとは、分家の癖にと、とワシの親父の悪口を云うてんの知っとる、
せやけど、ワシの親父、或る時、涙流してワシに云うたことがある、何て云うたと思う、ワシの親父、
(本家、商売に窮して、山や畑、売りに出しとる、銀行から金借りる担保に財産、手放そうとしとる、せやけど、今の時代、何ぼ金借りても、追っつかん、何れ、銀行や金貸しに取られてしまう、今はじっと我慢しとかなあかん時なんや、それが本家には判らん、俄か商売、大名商売しかしてない本家にはそのことが判らん、どない説明したっても聞き入れん、それどころか、もう頼まん、もう二度とお前に頼まん、見とれ、必ず盛り返して、お前の顔、札束で叩いてやる、と啖呵切って出て行った、
そやないね、このワシでも今はじっと動かずにおる、その時が来るのを待っとるんや、それが本家には判らんのや、これな、本家に金貸した時の証文や、担保にとった本家の土地や山や、ワシはな、本家の山や土地、人手に渡しとうないんや、このままやったら、全部他人の手に渡ってしまう、そうなったらどうにもならん、ワシの目の黒い内は、何ぼ苦しいなってもこれだけは他人に渡さへん、
ええか、お前の代になっても、手放さんようしたってくれ、本家にエエ目が向いてきたら、ちょっとずつ返したったらええ)
定信は話しながら、酒の酔いで感情が揺れやすくなったか、大粒の涙を流した、
「ワシの夢はな、本家の再興や、その為には先ず、お前にも商売で金作って貰いたい、次にお前にやって欲しいのは、政治家になって貰いたい、商売はな、何ぼ一生懸命、まじめにこつこつ働いてもアカンのや、何年もやってきたこのワシも今になってようやく気がついた、 
世の中、動かすんはやっぱり政治や、さっき云うた、橋3本の話、角栄の列島改造論、政治家の一言でやっぱり経済は動くんや、商売は政治と繋がらなあかん、
それでや、商売或る程度落ち着いたら、お前に、初めは町会議員から始めて、次に県会議員、それから国会議員になって、誰ぞ有力なやつの腰巾着になって、情報をとれ、そいつに金渡して動いて貰え、そうすりゃワシらの商売、それに合わせて動けばええ、その為にはワシはお前を全力で支援する、
ワシが自分ですりゃええと思うかも知れんが、もう遅い、それに学も知識もない、子に夢を託すにもおなごばっかりや、そこでお前に目をつけたんや、お前がワシの話、聞き入れてくれたら、ワシの二つの夢、本家の再興、お前を政治家にして政治に絡んで商売する夢が実現する…」


            9,
 鹿木正男は役所を辞めた、商売は、順調に軌道に乗って利益も予想を遥かに超えた、全て上村定信の指示通りに動いた結果だった、  
山の木の伐り出しから、製材、搬送、それに付随して造船業、島に転がる二束三文の小石や、砂、それに小岩までもが、街の住宅建築ブームに乗って、浜が消滅するぐらいに売れた、寂れ、死んだように冷え切っていた近在の町々が一気に蘇生し、活況した、
 定信から、今や、と連絡があった、鹿木は町議選に出た、トップ当選、だった、あれ程に、本家、惣領家を侮辱していた人々だったが、遥か遠くで見掛けても、鹿木の選挙カーに手を振った、 
 日の出の勢いに、金の匂いに誘き出されて、県議会議員らがしきりと鹿木に接触してくる、やがて、地元で最有力の県会議員と鹿木は結託した、この県会議員は、次期県議会議員選挙には、自分の息子よりあんたを党県連から推薦する、とまで約束した、当然大金がこの議員の懐に納められた、鹿木は無事県議会議員に当選した、

 いざなぎ景気もそろそろ天井が見え始めた、と予想する新聞記事を鹿木は、暗い表情で読んでいた、時に顔を合わせる上村定信も、この頃は景気先行きを悲観していた、定信は云った、
「ま、また、マイマイ(かたつむり)みたいに出した角、引っ込めて、暫くは様子見や、しようない」
云いながら、その顔にはまだまだ余裕の色が見えたりした、

 数日後、飛んでもないニュースが日本列島を走り抜けた、
ロッキード事件、
時の総理大臣田中角栄が、汚職で逮捕、冷え始めていた日本の経済は、この逮捕をきっかけにまさしく長い冬眠期に入り、その寒さと飢えに耐えられず多くの企業が凍えて死んで行く、
 県議に当選したばかりの鹿木でも、田中角栄の下で、甘い汁を吸い、税金を横取りしていたと対抗野党議員から吊るし上げられ、鹿木の地元民は、無知ゆえ一遍的報道に煽られてこの種の記事を鵜呑みにし、忽ちに鹿木は嫌悪された、

 上村定信が病を患い、取り敢えずは弟の吉信に事業を任せて、大阪から、鹿木本家から担保にとってあった島の一つに移り住んで、そこに邸を構えて養生することになった、
 定信は見舞いに来た鹿木正男を外に連れ出した、玄関の扉の影に、由美子の姿が隠れ見えている、その眼差しは定信の痩せ細った体を案じているようにも見えた、
二人は海の景色を眺め下ろす辺りまで歩いた、定信は吐く息も辛そうに呟いた、
「ほんまは、お前にやって欲しかったが、お前も今はそれどころやないのは判っとる、ちょっと頼りないが、吉信に暫く、会社、面倒見させる、せやけど、急の時は、お前が代わりにやったってくれ、ほんまのとこ、おまえにしか頼られへん」
癌、だと、定信は云った、二人は暫し、海の景色を見たまま沈黙した、やがて定信が云った、
「弟の吉信は、親父の妾の子、なんや、ワシも殆ど一緒に暮らしたことがない、ま、大学は出とる、みたいやが、普通の世間の会社では、ま、何の役にも立たん、身内から見ても、どうしようもない奴や、
偶にややこしそうな連中が吉信を呼び出しに来る、銭だけは死んだ親父が持たせとったようなんで、その金にたかって来とるんやろ、 
ま、何れはどこかに追い出すつもりやが、その代わりがおらん、ほんまはお前に全部譲りたい、こんなときやからこそ、お前に代わりやって貰いたい、
せやけど、今は、無理や、今、お前をこの地元から連れ出したら、足を千切られた蟹みたいなもんや、前にも後ろにも、右にも左にも身動き出来へんなる、今になって後悔しとる、初めっからお前を大阪に置いといた方が良かったんやないか、と、しようない、今更、云うても、な」
頬の削げ落ちた定信は海を見たまま、自嘲するような笑いを浮かべた、
「もう一つ、お前に云うとかなあかん、ワシの嫁、由美子、な、何や最近、変な動きしとるんや、それも、吉信とつるんで、何か企んでるふうなんや、あいつらが企む云うたら、ワシの財産、ワシ死んだらそのまま二人で持ち逃げしようと考えてるんやろ思う、
由美子は元は新地の飲み屋の女、なんや、実を云うと、由美子、まだ籍に入れてない、一時はワシも若気の至り、熱うなって見境いつかんで正式に嫁にしようとしたが、親父が絶対許さへんかった、当時は恨んだが、今となっては感謝しとる、
今の由美子はワシには目もくれん、娘の佳代、佳子も、末の富子も皆な死んだ先妻、益美の子や、この3人は未だに由美子をおばちゃんと呼んで懐こうとせん、娘らを見る由美子の目は鬼婆みたいや、由美子が吉信と攣るんでワシの財産狙うてることは間違いない、
そこでや、ワシはいざという時のことを考えて、その時がいつ来てもかんまんように、弁護士に遺言書作って貰うた、財産分けの目録、みたいなもんや、
内訳は、3人の娘に半分、残りの半分の半分、4分の1をお前に、その残った8分の1毎を吉信と由美子に遺すことにした、8分の1云うても金に換えりゃ大概の額になる、
そこで土地や山売って出る現金は娘やお前に、お前には事業の権利の殆どや、それに由美子と吉信には不動産の一部、せやけどそれ処分するには、お前の署名が要るように遺言書に書いた、揉めるやろ、多分、せやけど、妥当なところや、要するに、後のことはお前に任せる、て書いた遺言書や、
お前にはワシらの先祖が築いてきた土地や山を守って貰い、本家鹿木家の復興という大仕事をして貰わなならん、お前の親父が手放した山や土地も取り返して貰わなあかんからな、再興出来んかったら、ワシ、死んでも親父に顔向け出来へん、お前かて一緒や」




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