「ひょっとこさんが死んだ」

Tosagin-Ueco

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「ひょっとこさんが死んだ」No.2

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 第二部

              10,
 養生していた邸から、容態の急変に備えて島を出、町の病院に入院していたが、定信はひと月もせず、そこで息を引き取った、
 葬儀を終えた後、弁護士が遺族を呼んで、遺言書を披露した、読み進めていくうち、吉信と由美子が次第と顔色を変え、読み終えた弁護士に食って掛かった、
 揉めに揉めた、特に由美子と吉信は自分達への取り分の少なさ、遺産を金に換えるには上村定信の事業や個人資産に直接関わりのない鹿木正男の認可が要ると知って、読み終わって立ち上がる弁護士を罵った、
 一緒にいた、定信の娘の上の二人、佳代と佳子は、大人たちの突然の喚き合い、罵り合いに驚いて泣き叫んだ、末娘の富子は姉二人の大泣きにつられて泣いた、

 それから数日後、鹿木は、熱が出て、診療所に行った、軽い風邪だとして薬を受け取って帰る鹿木は誰かに呼び止められて振り向いた、先程、診察室で、医者に付き添っていた若い看護婦だった、怪訝な顔で看護婦を待っていると、看護婦は鹿木の袖を引っ張り、診療所の壁に隠れるよう促した、そして、
「私の云うこと、鹿木さん、誰にも云わないで欲しい、私ひとりで勝手に疑っているだけで、何も証拠がない、でも私、自分一人で黙っているの、とても怖くて」
 云っている意味が分らず、きょとんとしていると看護婦は続けた、
「上村定信さん、容態急変する直前まで、ほんとお元気で、冗談ばっかり言って笑わしていたの、部屋にノックもせずに奥さんが入って来られて、私、すぐ部屋、出たんですけど、何だか、私と上村さんが笑っていたことが気にくわないみたいに、私、睨みつけられて、でも上村さん、奥さんが暫くして病室出られて行くの私見て、そのすぐ後、上村さんの部屋から呼び出しのベル、鳴って、私らが駆け付けた時には、口から泡出して、心臓マッサージする先生の手を跳ねのけるぐらい苦しんで、それからすぐに心臓停まってしまって」
 定信の死は突然だったとは聞いていた、が…?
 看護婦はそこで言葉が詰まり押し黙ってしまった、未だ何か云い難いことを云おうとしているようで鹿木は次の言葉を待った、
「上村さんの遺体を運び出した後、ベッドの下、掃除していたら、床に湯飲み椀が落ちてるの見えて、それ拾ってみると、普段、上村さんが自分専用に持ち込んでいた高級な湯飲みじゃなく、病院で入院患者さんに支給している安物の湯飲み、転がって倒れていたけど湯飲みの底に白い粉薬みたいなのが、残った水で固まって残っていたの、
 その湯飲みの底に溜まっていた水の匂い嗅いでみたの、とても嫌な臭い、何て云っていいか、そう、何か、腐った卵のような匂い、吐きそうになった、
 上村さんには、普段は錠剤か点滴だけで粉薬は出してなかった、変に思って、その湯飲み、家に持って帰って、金魚の水槽にその固まっていた粉薬、溶かしてみたら、二匹、飼っていたんだけど、二匹ともすぐ腹を上向けて浮いて来ちゃったんです、
 誰かにこのこと云おうとしたんだけど、先生は、ただの心不全、多臓器不全、癌があちこち転移していて、それで、と仰っていたし診断書にもそう書いて、
 私の知っている誰かが殺されるなんて、考えられないし、それにその湯飲みの底に固まっていたのが毒薬だった証拠も無いし、もしそれが本当に毒だったとしてもそれを呑んで死んだかどうか、何も証拠がないし調べようもないし」
 鹿木は、直前に部屋を出たという由美子の仕業を想像した、弁護士が定信の遺言書を読み上げた時の由美子のあの時見せた顔は正に、狂った鬼の顔だった、
 鹿木はひとがあんなにまで怒りに狂う顔を初めて見た、余程に強情の女だと恐ろしく思ったことを思い出した、
 あの由美子なら、やりかねない…
 鹿木は、看護婦に他に誰にも云わないよう説得した、今更騒ぎ立てても、それを証明しようもない、まして疑いだけで、ひとを訴えたりすれば却って名誉棄損で訴えられて、飛んでもないことになってしまう、と諭した、
「判りました、でも、良かった、このこと、ずっと誰にも云えず、このまま黙ってたら私、本当に病気になってしまうとこ、でした」


          11,
 遺言状により、定信の会社を継承した鹿木正男だったが、大阪の事務所には定信の弟吉信と、由美子の二人がいつも居着き、鹿木の一挙手一投足を監視していた、
 多岐にわたる定信の事業の全てを、何から手を付ければよいかも判らず、また何か一つの系統の事業を知ることからはじめてみようと、その初歩から手を付けてみたが、その業務の流れを把握するだけでも鹿木には難事であった、
 横の机で、一日の大半をたばこばかり吹かして過ごす吉信は鹿木に訊ねられても、やや突き出た口を更に膨らませるだけで、鼻の穴からたばこの煙を天井向けて噴き出すだけで明らさまに無視した、 
 その吉信の視線を怖れて従業員は机にかじりついて忙しいふうを装い、鹿木の質問に誰も応えようとしなかった、こんな状態で、鹿木は何事にも手を付けられなかった、
 県会議員としての仕事もこなさねばならず、県議会出席の為に地元に戻らねばならず、どうしても会社を留守にすることも多くなった、結局はどっちにも中途半端な対応しか出来ず、定信から委託された事業継続は次第と委縮し始め、また地元に金を回さなくなった鹿木議員に対し、地元選挙民は冷ややかな目を向けるようになり、次第と離れた、

 恐れていた結果、県議会議員としての鹿木への死の宣告が、愈々明日の朝、いや、今夜半には言い渡される、
(結局、俺は甘ちゃんだった、商売に才はなく、政治家としての力にも欠けていた…)
 明日の朝、夜明けを待ちかねて、玄関には銀行や、農協の担当者が大挙押し掛け、裏口には闇金融の恐ろしい男達が、逃げ出してくる鹿木の首根っこ掴まえんと待ち構えていることは火を見るよりも明らか、だった、
 全てが暗転した舞台の上で、次に鹿木がしなければならない役どころは、木の枝に垂らした縄に首を突っ込む芝居、だけ、が残されていた、
 この期に及んで、鹿木は3日前、由美子と、何故か偶然事務所に二人きりになった時のことを不意に思い出した、由美子は別室の、応接室に居た、それを知らず、鹿木は、体を休めようと応接室に入った、ソファに座る由美子の姿に気付いたが、入ってすぐ部屋を出るのも何だか逃げ出すように思えて、鹿木は、由美子の正面のソファに座った、由美子は鹿木をじっと見据えている、ただの一度もこうして互いに向き合ったことはない、
「お疲れ様」
 と由美子が云った、遺言状披露の時に見た、鬼のような形相の印象が強く残っていた鹿木には、その何の意図も悪意もなさそうな軽い声掛けに、鹿木の緊張は少しばかり解れた、
 だが、2,3日後に確実に訪れる、死を宣告される瞬間、その恐怖に思考の全てが雁字搦めに捉われた鹿木は、一旦解れた心も、忽ちに元の通りに凝り固まった、
「あんた、どうするつもりなん?このままじゃ、会社、潰れてしまうよ」
 この言葉で鹿木の心は更に深い闇に落とされた、
 その時、何故か、何の脈絡もなく、定信の死後、看護婦からの訴えを思い出した、
「姉さん」
 鹿木は、定信を兄さんと呼んでいた手前、そう呼んでいた、
「姉さん、俺はもう金、使い果たして、一銭も無い、月末の手形約定日に当てがう金はもう一銭も残ってない、
 姉さん、金、貸してくれ、姉さんの持ってる土地、それか娘らの持ってる土地のどれか、担保に出して貰えたら、この先、何か月かは持ち堪えられる、その間に、色々手配して、その担保で借りた金を返して、担保を外す」
「何を寝惚けたこと云うてんの、そこまであんたが言うんなら、もう、あんたもこの会社も終わりや云うことね、
 でも、あんた、悪いけど、それ、諦めて、うち、定信さんの娘3人抱えて、これから何年も生きて行かなあかんねん、
 うちら親子、定信さんから享けた土地だけを頼りにこれから先、何年も生きていかなあかんのや、悪う思わんといて」
 と云って、由美子は立ち上がり、応接室を出ようとした、
「兄さん死んだん、あんたに、毒、飲まされたからや、俺、知ってんね」
 由美子の体が一瞬、凍り付いたように固まったのが判った、由美子は、遺言状披露の時に見せたと同じ鬼のような恐ろしい形相で鹿木の顔を睨みつけた、
「今、何云うたん、あんた、しようもないこと云うてたら承知せえへんぜ、吉信さんに云いつけたら、あんた、エライ目に合わされるんやで」
「俺は、別に今更エライ目に合うてもどうってことない、後何日かしたら、もっとエライ目に合わされるんや、半殺しにされて、最後には簀巻きにされて、どっかの橋の上から突き落とされるんや、
 せやけど、こないなったら道連れや、誰もかれも、ほな、姉さんも、覚悟しときや、簀巻きにされる前に、ちゃんとした証拠持って、警察寄って来とくんで」
「何やの、その証拠て、ちゃんと言うてんか」
「警察行って全部云う」
 由美子は、暫く背を向けて立ち止まっていたが、ドアを開けて出て行った、



          12, 
 鹿木島から対岸の町並みの灯りを呆然と眺める鹿木、父親が首を吊った辺りに自分が今立っていることにふと気付いた、
 遠い記憶をまさぐる、記憶の中に在る父親の墓、闇の中、町から届く微かな光に、雨風に殆ど潰れた土饅頭を見つけた、磯から持ってきてその上に積んだ墓石は無い、鹿木の父は、行方不明のまま、失踪宣告を受けてその死が認められたが、その遺体は、この土饅頭の下に、もう犬の骨もひとの骨も区別つかない程に粉のように砂に埋まっている、
 鹿木はその崩れた土饅頭の前に跪き、両手で掬った砂を胸に抱いて天を仰いだ、声を出さずに泣き、涙が枯れるまで泣いた、

 そして鹿木はようやく決心した、邸の物置へ、首吊り用に使う縄を取りに行くつもりで、鹿木は立ち上がった、
 その時、墓地の周りを囲んだ笹竹が、犬か猫でも迷い込んだか、がさがさと鳴って、鹿木を驚かせた、
 追い払おうと、咄嗟に足元の木切れを拾おうと腰を曲げた時、笹竹の中に立つ人影を見つけた、余りの驚きに鹿木は息を飲み、後退りした、
「あ、ごめん、驚かした?うち、由美子やんか、ほんと、ごめん、びっくりさせた?」
 何で由美子がこんなところに、しかもこんな夜中?
「ごめんな、あんたのこと心配になって、もしかして、悲観して、ここで首吊って死んじゃうんじゃないかと思って、港で舟出して貰って、あんたのあと付けてきた、 
 実は、ね、ほんと云うと、あんたのこと心配で来たんやない、あんたに首吊られたら、うちら親子の土地、あんたのはんこ無しでは一銭もお金に換えられへんこと、気いついたんで、あんたのこと追っかけてきたんや」
 くすっと悪戯っぽく笑った、
「良かったな、姉さん、間に合うた、せやけど、俺、首吊る縄持ってまたここへ来る、生きててもどうしようもない、そや、はんこ、今持ってる、これ持って行ってもええけど、姉さんも一緒にこの木の枝、ぶら下がってくれたら、俺も寂しいないし」
「アホか、さっさと勝手に一人で死にくされ」
 長年、二人の間にあった、義理の関係の固苦しさ、ぎこちなさみたいな感情がふと解れたようで、二人は声を出して笑った、
             
 二人は島の上の屋敷に戻る、
「あんた、死んだりせんといてな、定信さん死んで、あんたまで死なれたら、うちら母娘、ほんま、生きていかれへんよって」
 肩を寄せ合って歩きながら、由美子はそう云った、その物の言い方のどこかに、職業的な媚のようなものを含み、男を色香で惹きつけるような、甘い蜜に誘うようなものを鹿木は感じた、
 鹿木は、適当に遊びはするが熱中する程の女に縁がなかった、鹿木の父、祖父、その昔から、札束の力で上等の女を妻に迎えてきた、またどこかで妾が生んだ子を養子に迎えたことも有るに違いない、 
 鹿木家の子孫の血の中に、それがいつしか遺伝となって残り、その遺伝を受けて、鹿木と初対面の女の殆どは、暫く鹿木の顔に見惚れる程に、鹿木の顔は整っていた、しかしどうしても奥手のところもあり、気持ちが高揚することもなく、鹿木は未だに独身だった、

 島の屋敷は、偶に利用する為、電気だけは通してあった、大きな屋敷、その内の部屋に二人は座り、冷蔵庫で冷やしてあったビールを座卓に置いて、
「ま、取り敢えずは、無事ご生還のお祝いに」
 二人はビールを注ぎ合い、一気に飲み干した、
「こんな大きな屋敷もまだ残ってたんや、いったい、本家さんは、どれだけ財産持ってんの?遺言書の目録だけでは見当もつかへん」
 由美子は部屋を見まわしながら云う、汗でも出るのか、胸の釦、外して、胸の割れ目が鹿木の目を惹きつける、その鹿木の眼の動きを由美子は見逃さなかった、
「先祖は、大海賊の大元締め、この辺り一帯の島全部、鹿木家の物、やった」
「せやけど、これだけの物、他人の手に取られてしまうの、辛いな」
「確実に、あと、1,2時間で俺の命運も力尽く、夜明け前には、ややこしいのが、俺の姿探して、町の中、走り回る、やろ」
「エゲツいな、それ、そうなん、やっぱり、もうアカンのや」
「一つだけ生き延びる手がある、この前、チラッと姉さんに頼んだこと、聞き入れてくれたら、何んとか凌げる、定信兄さんの事業に、俺、専念して、必ず盛り返す自信もある、手立ても考えて有る、今、俺に必要なんは、明日、一日生き延びるだけの金が有れば、後はどないなと出来る」
「うち、あの後、考えてんけどな、うちら母娘、土地や山や貰うても、それ、どないしてええんかさえ判らへん、定信さんの会社も、うちには、はっきり云うて、あの吉信さんにもどうにもならへん、三日で消えてまうの、目に見えてる、それに、あんたも知っての通り、うちら、母娘や云うても、あの子ら、うちと全然、血、繋がってない、定信さん、間に置いて成り立ってただけの親子やねん、
 せやから、うち、あの子らにあんまり愛情感じへんし、子供らも、全然、うちに懐いてくれへんで、未だに、おばちゃんて、うちのこと呼ぶ、この先、うちら母娘、どないして生きて行けばええんか、何も考えられへん、
 あんたが、あない云うてくれたことが切っ掛けなって、うちら母娘の将来のこと、色々考えさせられてん、ほんま云うと、
 もしかして、あんたの云うこと、聞いたったら、何か、うちの目の前、開けてくるんちゃうか、て思えて来て、それで、急いで、あんたが首吊る前にと来てんや」
 心の動きを、ところどころ茶々入れて話す由美子に、何んとなく親しみが湧く、
「姉さん、ほんま、何んとかしてくれんと、前にも云うた通り、道連れにせんでも皆な、共倒れしてしまう」
「あんたに、任せてええんか?」
「任しいや、死んだつもり、全部、俺に、俺、さっきほんま死ぬつもりやったんやけど、姉さんに助けて貰えるんやったら、今晩死ぬのは延期する」
「その前に、あんた、その姉さん、姉さん、云うの止めてんか、それ云われる度、あんたとうちの間に無理にぶ厚い壁、挟まれるみたいに思えて」
「その壁、取るには、こないすんのが一番手っ取り早い」
 鹿木は、由美子の手を握って手前に引き寄せ、凭れかかる由美子の体を倒して、上から体を乗せた…
「あ…」
 と由美子の口から熱いため息、そして、由美子は鹿木の耳元で囁いた、
「定信さんのことやけど、うち、殺したりしてへんよ、勝手に、うちが、病室、出たら、勝手に泡吹いて死んだんや、うち、ほんま、何もしてへん」
「ま、ええや、それ、何も証拠、無い、ただ云うてみて、姉さんがどんな反応するか試してみただけや、それより、俺のこと、大事にしてや」
「何や、ほんま、びっくりしたわ、あんなこと急に云われて、それより、あんたこそ、もう、うち、あんたのん、うちの下の口に咥えてる、これ、もう放さへん、それに、もう姉さん、て云うの止めて、な、ほんまに、それ云うの聞いたら、あんたと、こんなんしたらアカン、て思うてまうやんか、せやけどあんたって、こない下から見てたら、ほんまに綺麗な顔してる」
「あんたもや、ええ体してるし、顔も、ほんま、やっぱり別嬪や、それよか、な、もう、ぐちゃぐちゃ云いないな、気が削がれてまう、それにや、二人で褒め合いしてたら世話ない」


         13,
 鹿木は余裕の表情で、向けられたマイクに向かい、敗戦の弁を述べた、大して聴衆も居ないが、見るからに闇金融、町金融から派遣されたような男が、少し離れて、固まって煙草を吸っている、
 銀行や農協など公的金融機関の担当者や、この手の恐ろし気な男達にも、今朝、自宅玄関前で、笑顔を浮かべて、今後は事業に専念すると公言し、以後の借金返済予定を公表し、必ず約束は守る、と納得させてはいたが、疑り深い男達だけがこうして居残っている、
 将来の県政への復帰は、と問われて、債権者の皆さまに、約束通り返済出来ました時点で、改めて考えます、と答えた、

 角栄逮捕をきっかけに日本経済は瀕死状態に陥った、この状態から脱却するにも、国会へ居眠りしにくる政治屋には何の打開策も有る筈はなかったし、考える能力などは元々持ち合わせず、小手先にでも何かしなければと思う義務感、責任感なども毛頭有る筈もなかった、
 以後一切の公共事業が国民から目の敵にされた、調子に乗ってマスコミも、己れの無能を棚に上げ、政治の裏を暴くことがジャーナリズムだと勘違いして躍起になり、公共事業を悪共の餌場、諸悪の根源、巣窟であると罵り、国民の不審を煽ってばかりいた、評論家の誰一人、昨日の日本を真に悔い、明日の日本を真に憂うる者は一人もいなかった、

 負債返済は、鹿木自身の、また由美子の保有する資産を切り崩して何とか実行してきたが、公共事業に頼って生きてきた企業は軒並み仕事が激減し、明日の希望も持てない状況に追い込まれる中で、鹿木の会社が例外である筈はなく、全く身動き出来ない状態になっていた、
 由美子の顔は次第に険を帯び、鹿木への物言いもつっけんどんになっていく、時に、どうでもいい些細なことで罵り合う、
 元々、心で結ばれた仲ではない、何かひとことの物の言い方で、聞き方で、互いの仲は一瞬にして冷え切り、修復不可能になる、鹿木の由美子への気持ちは一気に萎え、憎悪だけが芽生えた、由美子も同じ思いでいる、
 憎しみ、嫌悪が膨張するにつれ、却って、何んとかしなければと云う思いが強くなる、
 鹿木は、僅かな可能性でも有ると思えば試し、もしかしてと思える手立てを思い付けば実行した、だが、何をしようにも、国は一切何もしないし、従って大手は動けず、三次、四次下請けどころか末端的存在の鹿木の会社などには、何一つ希望の持てる話は聞こえてこない、
 何とかしなければと鹿木は気ばかり焦った、だが、何の希望も見い出せなかった、家に居てテレビを見ていた鹿木は、娘らが無邪気にはしゃぐ声を、普段は全く気にならない鹿木だったが、この時は苛立ちが治まらず、癇癪が切れて、怒鳴り声が喉元迄噴き出してきた時、或る一つの思い付きが鹿木の頭の中を駆け抜けて、鹿木の怒りは一瞬にして収まった、
 悶々と思考する鹿木の頭の中で、預かっている定信の娘3人の持つ資産を処分出来れば、と云う閃きが一瞬、掠めて走ったのだ、
 しかし、次の瞬間には鹿木の頭の中、走った閃きは跡形無く掻き消えた、現状、この子らの資産を換金して凌いでみたところで所詮は一時凌ぎでしかない、と改めて思い知っただけで、折角のその思い付きも儚く消えた、
 誰のせいでもない、それもこれも鹿木が、引き継いだ事業を、無計画に更に大きく拡げた結果であり、被った負債であった、全て自分の、商才の無さ、予見予知能力の無さだと、鹿木は自らを責めるしかなかった、

 だが、この時の一瞬の閃き、思い付きは、鹿木の行き詰った思考の中で、気づかぬ内に根を張り、やがて小さな芽を出し、少しずつ成長し、鹿木の明日への苦悩を、唯一打開出来る解決策ではないかと鹿木は本気で、いや憑依り付かれたように思うようになった、
 どうすれば…初めは常套的に、娘ら名義の不動産を担保に金を借りる、ことを考えていたが、しかしこの未曽有の不況真っただ中、銀行がおいそれと金を貸す訳もなく、そうなれば町金融に頼む他、道は無かった、
 だが鹿木は身に染みて知っていた、闇金融の高金利、その高金利故に、払っても払っても、払えば払うだけ借金が増え続ける絡繰りを、
 ではどうすればいい、いっそ売り飛ばして換金する、これが最良、一番あとくさりが無い、だが、と鹿木は思い停まった、叩かれて二束三文に売って、僅かばかりを手にした現金も、どこで聞きつけるか、善悪入り混じった債権者が押し掛け、鹿木の手から一銭の金も残さず持ち去って行く…そんな光景を鹿木は想像する、
 前にも行けず、後ろに行けず、右も左も塞がった状況を改めて思い知り、鹿木は天を仰いで、力ない溜息を漏らすしかなかった、



           14,
 事務所入口で、銀行員、債権者が押し掛け、事務員と押し問答している、毎日、そして一日中、同じ風景だった、その騒動が、吉信の恐ろし気な一喝が聞こえて、途端に鎮まりかえった、 
 見遣ると、ガラス戸を荒々しく開けて吉信が入って来た、久しぶりに見る吉信の顔、大声を出して興奮してるかと思ったが、別段いつも通りで、少しばかり左に逸れた口で、口笛でも吹くように煙草の煙を吐いて、鹿木の横の、いつもの席に座り、それこそ取立に来たやくざ者のように椅子にふんぞり返って座った、
「相変わらず、金かやせ、金かやせ、と賑やか、やの、ちっとは、見込み、ついてんか?」
 鹿木は帳簿を見る目を上げず、
「何んも、変わらん、変わったんは、金利で増えた借金、だけや」
「この期に及んで未だおもろいこと云うやんけ、どや、鹿木社長はん、金、貸そか、うちの社長に話したら、一遍、会うて、話、聞いてやってもええで、て云うてくれてんねん、どや、会うてみるか?ちったあ、業界では名の知れた社長や、入口に、社長の名刺、一枚でも貼っとくだけで、翌くる日から、ここ、誰も近寄らんなる」
 鹿木は顔上げず、
「折角やけど、吉信さんとこの会社の社長さんの世話に成る気、全然あれへん、云うて悪いけど、おおきに、すんません、て借りた金、三日で、百万が一千万に成った云う話、嫌云う程聞かされとる、よってな」
「ま、ひとは、金借りる時はぺこぺこ、返す段になったら嘘八百、悪口ばっかり云う、正直なとこ、もうアカンのちゃうんけ、この会社、もう諦めたらどやね、潮時やで、今が、 
 借金、返そ思うて頑張りゃ頑張るだけ、どツボに嵌って、抜けられへんなるで、そんなん、嫌云う程見てるぜ、ここはうちの社長に頼んで、一切任したら、明日から、借金取り来んなって皆、静かに仕事出来る、思うで、心配せんでええや、俺がついてんねんから」
 それだけ言うと、吉信は出て行った、暫く間を措いて外に出てみると、実際、表の何処にもあんなに大勢居た借金取りの姿は消えて無くなっていた、

 鹿木はふと気付いた、自分は、吉信のことを、定信さんの弟だと云うことしか実際は何も知っていない、と、何処か、町金融みたいな事務所に出入りしている、ぐらいは知っているし、その事務所の悪い評判も、仕事仲間の社長達からよく聞かされる、
 しかし、吉信がどんな人間なのか、どんな性格なのか、正直なところ、その声だけ聞かされても、それが当人かどうかさえ判別出来る自信はなかった、
 だが、時に由美子が事務所に、娘三人を連れて来た時に、偶々事務所に居た吉信を見つけて、娘たち、特に末の娘、富子などは、
「よしのぶおっちゃん」
 と無邪気に飛びついて抱きつき、口の曲った吉信も、その口一杯開けて愛嬌崩し、富子を抱きしめてやる、あれほど苦労してこの定信の3人の娘らに三度の飯を食わす金を稼ぐ鹿木に、末娘の富子はただの一度もそんな甘える姿を見せたことはない、
 ただ上の二人、佳代と佳子は、どこか冷ややかに妹の甘えん坊ぶりを見ていたりする、そろそろ、そんなあからさまな甘えん坊ぶりに、はにかみを覚える頃かも知れないと鹿木は勝手に思っていた、しかし吉信と3人の娘は、いつもじゃれ合って遊んでいる印象がある、
 それは、吉信と娘たちとの、多少薄くても血の繋がりがそうさせるのか、と鹿木は思ってみたりする、何分の一か、同じ血が流れる故の、甘えか、と思ったりもした、その様子を見ていると、吉信が、決して、芯からの悪人では無さそうにも思えてくる、

 その吉信が、出入りする事務所の社長が、金を貸してやってもいいと話を持ちかけてきた、誰かを訪ねて、土下座迄して頼んでも相手にして貰えない鹿木には、喉から手が出る程一銭の銭でも手元に欲しい鹿木には、無碍に断ってしまうには惜しい話だった、
 何日か考えに考え、そして鹿木は決心した、考えれば考える程、決心せざるを得ない状況に在ることが鹿木を追いやった、
 吉信の捨て台詞が、最後に鹿木の背中を押した、
「心配せんでええや、俺がついてんねんから」

 取引初めとして貸してくれたのは、希望の1割にも満たない額だった、差し出す担保も無い鹿木に、伴野社長は云った、
「担保は無い、保証人もない、借金塗れのあんたに、これ以上は無理やで、鹿木さん、あんたの弟の、吉信の絶っての頼みやさかい聞いたってんねんけど、ま、そやな、そこそこ仕事も回復基調に乗って来とる云う、吉信の話、信用してやな、あんたが、手形に書いた支払い期日通りに、金払うてくれたら、あんたの云う額、出したってもええ、それは約束したる」

 だがその借金も、約束の期日に返金は実行出来なかった、鹿木の会社が青色吐息なら、鹿木の会社に発注した会社はその時既に、吐く息さえ途切れた状態だった、夜逃げした、
 支払期日の翌朝、数人の男が会社に雪崩れ込んできて、机や事務機器、空っぽの金庫まで、一切合財、表に停めたトラックに積込み、応対に出た鹿木は、何度も顔を殴られ、倒れた腹や背中を蹴り上げられた、
 その午後、吉信と吉信の事務所の社長、伴野が鹿木を訪ねて来た、
「鹿木さん、顔中、傷だらけや、どないしたん、それ?え、うちの者ん?そりゃないわ、うちの若い衆、今、東京の方に皆、出張しとる、どやね、あんた、またこないエライ目合う前に、担保、出したらええんや、まだ、多少残ってるて吉信から聞いとる、吉信かて折角、仲介したったのに、面子丸潰れや、おまけに保証人になった俺迄、借金、せたろうてしもたと泣いとる、全部あんたの所為や、どないかしたらんと、命取られんのはあんただけやない、この吉信も、それにあんたの嫁さん、由美子て云うんか?まだ籍入れてないみたいやけど、却ってその方が都合ええ、何処ぞの色呆け爺に売ったってもええね」
 吉信の話に乗った時に、もしやと予想した通りの舞台であり、台詞の全ても何度も聞いた通りであった、鹿木は担保を差し出した、もう何もない、


            15,
 鹿木は会社を整理し、鹿木家所有で唯一残る鹿木島に、3人の娘を連れて引っ越した、末娘の富子が、
「よしのぶおっちゃんはいつ来るの?」
 と訊いた、返事はしなかった、娘ら3人は引っ越しを嫌がったが、由美子の剣幕に圧されて渋々納得した、
 由美子は片付けしてから後で行くと云ったが、云いながらその眼は揺れていた、無理強いはしなかった、云ったところで、激しく罵り返されるだけ…

 子らの転校届や住民移転届け等で訪れた役場で、元同僚に呼び掛けられて役場の外で立ち話した、
 元同僚は、鹿木の苦境を察して、慰めた、
「ま、しようないや、じたばたしても、な、ぼちぼち、やりゃええや」
 何の慰めにもならない、
「ま、山や土地の税金、払わんでようなっただけましや、住民税も払わんでええやろ、また何かあったら相談来る」
 そう云って背中を向ける鹿木に、元同僚は云った、
「山や土地の名義、全部、あんたの名義から、上村吉信と清水由美子というひとの名前に書き換えられた、が、この吉信て云う人、あれかいな、上村定信さんの、弟さん、やな?
 それに清水由美子て云う人は、前に聞いたことあんねんけど、上村定信さんの、後妻さんやな、籍入ってなかった、みたいやけど、この二人が、一緒に、役場来て、その後、法務局支所へ行くようなこと云うてた」
 鹿木が、
「税金払わんでようなった」
 と云ったのは、全部、吉信が出入りする事務所の、伴野に差し出した担保物件、その分の権利書名義が伴野の名義に換わったのだと思ってそう云ったのだった、だが、元同僚は、
 吉信と由美子が一緒に来て、それらを鹿木名義から二人の名義に書き換えた、と云う、
 二人が役場に来た日を訊くと、それは鹿木が伴野に、権利書一切を渡した2,3日後、のことだった、
 全て芝居、吉信と由美子が鹿木に仕掛けた大芝居、だった、と鹿木は今になって知った、鹿木は、吉信と、由美子二人に嵌められた、とこの時になって漸く判った、
 あの日、定信の葬儀のあと、遺言書を読み上げる弁護士に食って掛かった二人、吉信の激しく罵倒する声と、由美子の鬼のような形相を鹿木は思い出す、定信の死ぬ以前から二人は、心も体も結託していたことを鹿木は今更に思い知らされた、
 定信の巨額の遺産の内、総額の八分の一ずつしか貰えなかった二人、それでも相当の額になる筈だが、二人は不満を露わに、
(俺は弟として陰に陽に定信の事業を助け、うちは先妻の娘を、それこそ我が腹痛めて産んだ子のように世話してきた、せやのにこの仕打ち、なんですか?
 おまけに、幾ら本家かも知れへんが、いきなり遺産の四分の一を鹿木正男に、事業は鹿木に任す、現金は鹿木の事業に回せ、やなんて、はいそうですか、と大人しう退き下がるつもりは有れへんで…)
 定信の遺言書には条件があった、財産処分には必ず、鹿木の承認を必要とした、だが、担保に出して、それを処分されれば、そんな条文など何の意味も法的効力も無い、
 今、横に居て聞くように二人の話し声が生々しく鹿木の耳奥に蘇った、そして鹿木を罠に嵌めた二人は遂に、念願の、二人合わせれば総額の二分の一を手にしたことになる、そこから、鹿木に貸し倒れた金に相当する不動産を伴野に譲れば済む、定信の遺した遺産の額から見ればそんな金、微々たるもの…

 鹿木は、狂う程に湧き上がる怒りに震え、まんまと子供のように騙された己の不甲斐なさに己を罵った、
 鹿木は冷静であろうと務めた、だが、二人に騙されたこと、それに多少でも数年、いがみ合ってはいたものの夫婦同然に暮らした由美子の裏切りを知って血が一気に逆流し、怒りは更に沸騰した、
 だが時間が経つにつれ冷静になれた、気が落ち着くに従い、却って清々するような気持にさえ成れた、
 これで、二人に遠慮しなくてよくなった、定信から信頼され、後を託された事業の不振を責められることもなくなった、却って、鹿木はすっきりする、
 奇妙な程に冷静になれた、が、鹿木は、この恥辱を思い出す度、怒りは腹の中で煮え滾った…


           16,
 ぐずぐずと未練がましく思い返せば、鹿木が地獄の底へ落ちた切っ掛けは、定信の突然の死からはじまった、
 定信の事業を引き継ぐなど、また、県政と雖も政治の世界に飛び込むなど、鹿木は今になって、商才に欠け、政治の一端でも担える能力は無く、ただの田舎の、役場の職員として中途半端な知識をひけらかす、ただの甘ちゃんでしかなかった、と後悔する、
 結果、事業は潰し、親父の遺産、定信の遺産の多くを他人手に取られ、おまけに、夫婦同然に暮らした女にまで裏切られた、このド甲斐性無し、に今更、何の意地がある、何が出来る?
 どうせ、この俺には何も出来やしない、どうせ飲めぬ酒で一時を忘れてくだまいて、果てには浴びる程飲んでも足りずに、酒の匂いを求めて町中を彷徨うのが関の山…
 振り返れば振り返るだけ、鹿木の頭に、恥辱に塗れた過去の一つ一つが、走馬灯のように次々と蘇る、
 鹿木は、うっ伏して泣いた、止めどなく泣いた、もう、死ぬしかない…
 しかし、鹿木が幾ら思い詰めようとも、なかなか死を決心するには至らない、やがて、鹿木は諦めた、どうせ、この俺には死ぬ勇気さえない、ただの意気地なしなんや…
 だが鹿木、どうせ死ぬなら二人への仕返しだけはやってから死のう、と思った、そう思うと、生きる勇気が湧いて出た、不思議だった、なら、どんな仕返しをすれば俺の気が済む?
 鹿木の頭に、定信の死の直後、担当の看護婦が鹿木に訴える声がふと蘇った、
(上村さん、ほんとお元気で、冗談ばっかり言っていたの、部屋に、奥さんが入って来られて、私、すぐ部屋、出たんですけど、私、睨みつけられて、でも上村さん、奥さんが、病室出られてそのすぐ後、上村さんの部屋から呼び出しのベル、駆け付けた時には、口から泡を出して、それからすぐに心臓停まって)
 このことを後に由美子に軽い気持ちで問い質したことがある、
(定信兄さん死んだん、あんたに、毒、飲まされた、からや、俺、知ってんね)
 由美子の体が凍り付いた、由美子は鹿木の顔を睨みつけて云った、
(何云うてんの、あんた、しようもないこと云うてたら承知せえへんぜ、吉信さんに云いつけたら、あんた、半殺しの目に合わされるんやで)
 この後すぐ、死を決意して鹿木は島へ渡った、その鹿木を由美子が追って来た、由美子は体を預けて来た、由美子の口から熱いため息が漏れた、そして、由美子は鹿木の耳元で囁いた、
(定信さんのことやけど、うち、殺したりしてへんよ、勝手に、うちが、病室、出たら、勝手に泡吹いて死んだんや、うち、ほんま、何もしてへん)
(ま、ええや、それ、何も証拠、無い、ただ云うてみて、姉さんがどんな反応するか試してみただけや、それより、これからは俺のこと、大事にしてや)
(何や、ほんま、びっくりしたわ、あんなこと急に云われて)
 思い返せば、由美子は、定信殺しを鹿木に疑われていると思い込み、鹿木が警察に訴えて出ないよう、体で手懐けるために鹿木の後を追って来たのだった、
 鹿木にしても由美子からの出資がどうしても欲しかった、金を出してくれると聞けば、それでいいのであって、あの時、それ以上、由美子を責める気は緒からなかった、

 鹿木は考えた、あの2人にどうやって仕返しをる?どうすれば自分の気持ちが納得できる?
 だが、鹿木のこれまで、我が身の不甲斐なさを知る度に何度も「死ね」と己れ自身を罵倒したが、他人に対して殺してやる、正面切って「死ね」と悪態をつく、そんな激しい敵意を感じたことがなく生きてきた鹿木には、この怒りを、この恨みをどう晴らせばいいのか、何をどうしたいのか、何も思いつけなかった、
 怒りに対して、恨みに対して冷静だった鹿木、しかしこの天性の、起伏のない感情のお陰で、鹿木はこれ以上ない、一石二鳥、いや三鳥も不可能ではない妙手に辿りつくことが出来た、


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 その方法とは、由美子が定信をやったと同じやり方をそのまま真似すればいい、だけのこと、簡単なことだ、と鹿木は結論した、 
 うまくやれば、いや俺ならやれる、あの由美子でさえ出来たのだ、自分ならもっとうまく出来る、
 吉信、由美子二人の不自然な死で、自分が疑われることのないよう上手くやる自信もあるし、その結果、由美子と吉信の二人の資産、元々俺のものを二人から奪い返すことも出来る…一石二鳥…
 それに、このやり方で事上手く成就すれば、結果的に、定信の娘3人が持つ資産も、俺のものにすることだって出来る…そうなれば一石三鳥、
 鹿木が人生で初めて味わう、自分一人でも上手くやれる予感に、鹿木の心は踊る…


「よしのぶおっちゃんが来た」
 街の生活からいきなり田舎の、それも小さな島に閉じ込められて、水は谷の水、風呂は釜風呂、飯はかまどで炊き、お菜は焼き魚か煮野菜だけの粗末な生活に、また、通い始めた小学校や幼稚園で、田舎の子供らの好奇の目に晒されて、何をどう反応すればよいのか分らぬ3人の娘たちは、一日を全く不機嫌に過ごしていた、
 そんな中、上村吉信がふらりと島を訪ねて来た、用件は当然ながら、伴野が鹿木に貸した金、未精算分の取立に来たのは判り切っている、
 不意に現れた吉信の姿に3人の娘ははしゃいだ、特に末の富子の喜びようは、まるでクリスマスに、欲しくて溜まらなかったおもちゃを貰った子供のようにはしゃいでいた、吉信にじゃれつき一時も離れようとしなかった、
 吉信と鹿木は目を合わすこともなければ言葉を交わすこともない、2,3日もすれば、吉信から金返せ金返せと、坊主のお経のように止めどなく責め続けられ、鹿木も、返せる宛もないのに、必ず返す、暫く待ってくれと延々答えるだけの苦しい時間が待っている、
 だが吉信の不意の訪問は、吉信と由美子二人同時に殺ると思い描いていた光景を、吉信だけを、ついでに3人の娘も一緒に葬る計画に修正して実行する決心がついた、
 その心の余裕か、鹿木は、吉信に、地元の農協に勤める元同級生が、鹿木の窮状を知って救ってくれると約束してくれた、大きな額ではないが、金利分ぐらいにはなる、取り合えず、それだけ持って帰れば、お前も伴野に顔は立つだろうと平然と嘘をついた、
 鹿木の笑みさえ浮かべて云う言葉を信じたか、吉信の顔に浮き出ていた険が僅かにでも和らぐのが観えた、

              
 窯風呂で体を流して出て来た吉信が、奇妙な動きをみせた、板張りの風呂小屋の陰に隠れたのだ、奇異に思った鹿木は、隠れて様子を窺っていると、現れた吉信の右の手に、小さな注射器が握られているのが見えた、ピンと来た、覚醒剤、
 吉信が次第に痩せていく様子に以前から鹿木は気付いていた、顔の口の歪みが次第に片方の頬に引き攣り、鹿木はもしかして脳梗塞か何かの後遺症か、それとも何か悪い病気にでも罹っているのかと思っていたが、原因はこれ、覚醒剤、だった、のだ、
 ややこしい筋に身を置く男らの大半は覚醒剤を常習すると聞いてはいたが、まさか我が身の近くに覚醒剤の常習者が居るとは思わなかった、
 鹿木にふっと或る考えが湧いて出た、鹿木は、吉信と由美子の二人を殺そうと、しかしその方法をどうやるか考えあぐねていたが、今、遂にその方法が突然に閃いた、
 二人を殺すにしても、刀や鉈を振り回して、逃げる二人を追って斬りつけたり、後ろから不意に襲い掛かって縄か紐で首を絞めたり、バールか何かで思い切り頭を殴るなども考えたが、余りに非現実的で、到底自分に出来そうな荒技では無かった、
 万一失敗すれば、反撃喰らい、いや確実に吉信に反撃されて、それこそとんでもないことになってしまいかねない、
 それに、何とか二人をそんな粗暴なやり方で殺せたとしても、全身返り血でずぶ濡れて、俺は何もやっていないと白を切るのは不可能だと、何を思い付き、何を考えても、どれも次の瞬間には非現実的過ぎると判って、諦めていた、
 唯一、可能性のあるやり方は、由美子が定信を殺したと同じ、毒殺することこそ全てを可能にしてくれる方法ではないかと、初めの思い付きに戻り、以後、鹿木はこの方法に拘わっていた、
 しかし毒薬、劇薬などが素人に簡単に手に入れられる物ではないことは、ちょっとものの本、開いただけで知らされ、鹿木の計画は呆気なく行き詰ってしまっていた、
 だが、吉信の手に握られた小さな注射器を見た瞬間、鹿木は、これこそ完璧だと自信の持てる方法に思い当たった、
 全ての手順が、初手から最後の、吉信と3人の娘が、血塗れになった死体で発見されるまでの全ての光景を一気に想像することが出来た、この方法なら、これまで憑りつかれてきた毒薬を使った方法も簡単に実行出来るし、その実行後、一切知らんふりして、身内の悲劇に悲痛して泣き叫ぶ己の姿も容易に想像出来た…


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 その気になって調べれば、パイプの詰まりが取れたように、見出せなかった難問の解決策が、次々に、意外と簡単に見つかって鹿木を安堵させた、
 毒薬、劇薬の類は、病院か薬局に押し込み強盗でもして盗んで来ない限り、一般人には入手出来ないのは判っていた、その入手の難しさに鹿木の計画は端緒から躓いて鹿木は実行を決意出来ずにいた、
 ふらりと町の外れ、海岸線の磯の岩場に沿って、退屈する娘らを伴れて散歩している時だった、海岸線、山手の方から人の声がした、
 見遣ると、数人の男女が、たわわに実る、小ぶりで濃緑のミカンを収穫していた、普通のミカンに比べて強い香りが先程から鼻にツーンとくるものがあった、
 柚子、だった、この辺り、海岸線に沿う山の斜面に、陽の光をたっぷり浴びて柚子の木が群がっている、この地の、昔からの特産品、であることは知ってはいた、
 娘らに、食べてみる?と聞いたが、その強烈な酸味の効いた匂いに首を振った、一人、石垣の上を、老人が、小さな小屋から、四角い、小さな缶を下げて出て来るのが見えた、
「有機燐酸パラ…」
 とだけだが、読めた、薬剤、農薬には全く無知な鹿木、だが、その缶に貼り付けた赤いラベルが何を意味するかぐらいは見当がつく、
「猛毒注意、厳重保管」
 の注意書き、警告が表示されているに違いない、だが、老人は、汐風に腐った板で囲っただけの、みすぼらしい小屋から出て来た、その小屋が厳重に何か保管出来る場所には到底見えなかった、
 様子をみていると、老人はその缶を他の何かと混ぜて別のホース付きの、農薬散布用スプレー缶か、そこに移し替え、その缶を背中に背負って柚子の木を群がり植えてある畑に入り、タオルで顔を覆い、そして噴射した、
 その霧が、鹿木たちの所まで流れて来て、鹿木も、娘たちも、その卵の腐ったような匂いに溜まらず口と鼻を抑えて逃げ出した、
 鹿木は思い出した、定信の死に不審を抱いて、鹿木に打ち明けた看護婦はこう云った、
(その湯飲みの底に溜まっていた水の匂い嗅いでみたの、とても嫌な臭い、何て云っていいか、そう、何か、腐った卵のような匂い、吐きそうになった)
 正に、たった今、鹿木と娘たちが襲われた悪臭、あの看護婦はこの匂いのことを云っていたのだ、
 盲点だった、この種の農薬なら、他所はいざ知らず、ここでは、何時でも、誰でも容易に、何処にでも在る農作業用の物置小屋から持ち出せるのだ、
 毒薬、劇物は厳しくその保管方法が決められている、だが果たして農薬の類は?いま、老人が下げて行った缶のラベルに表示されているように、それは精々が、注意書き、であり、その保管については、この柚子畑の板張りの小屋のように、精々、風が吹けば吹き飛んでしまいそうな入口戸に、塩噴いて錆びた南京錠の一つでも掛ければそれでいいのに違いない、
 由美子はどこかでこの農薬を、多分殺虫剤なのだろうが、どこかで手に入れて、定信の病室に持込み、嫌がる定信の口を無理にこじ開けて、その口に、湯飲みに溶いたこの農薬を喉奥に流し込んだ…

 鹿木の計画を天の神が見守り、援けてくれているように思えて鹿木はこの発見が嬉しくなった、
 鹿木の人生で、何かを始めるに、幸先が良かったことなど、ただの一度もあった試しはない、
 ふと、思った、何かの事業や開発、研究に成功する人にはこういう吉兆が何度も何度も、いつもついて回っているに違いない、
 遅れ馳せながらこの俺にもそろそろ、責めて人並みの幸運が巡って来てくれたに違いない…

 山の斜面での、老人達の作業をいつまでも見ている鹿木を、娘らは、早く、帰ろう、と促した、長女の佳代が、
「よしのぶおっちゃん、大阪帰る前に、あそこの、海が一番よく見えるとこ、ドライブしてくれるんやって」
 それを初めて知ったのか、末娘の富子が
「ねえ、いつ連れてってくれるの?」
 と佳代に何度も聞いた、
 佳代が富子に指さして場所を教えている、指さす先に見えるのは岬の先端、その足許、崖になっているが、見晴らしは、この辺りでは最高だった、鹿木は子供の頃から知っている、
 西の山に沈む夕日の、茜色が映えて、太平洋の水平線一帯が鮮やかな朱色に染まる、
 そう云えば、吉信は、この町並みのどこかのガソリンスタンドに車を駐めてあると云っていた、確か、車はスカイライン、みたいなことを云っていた、
 鹿木の脳裏に、一瞬にして或る方法が閃いた、この方法なら、吉信と三人の娘を、一気に葬ることが出来る、当然それは不慮の事故として処理され、万一事件性を疑われるような事態になっても、その場に居ない鹿木には何の疑いも掛けられることは無い…


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 当日の朝、この日をあれ程に楽しみにしていた富子は突然の発熱と下痢症状に苦しみ、それでも一緒に行くと、赤子のように泣いてぐずっていたが、やがて飲ませた薬が効いてきたか、眠ってしまった、
 その間に、と二人の娘と吉信の三人は、対岸の港から迎えに来た小舟に乗って、町へと向かった、娘二人はコンクリート桟橋で見送る鹿木に、本当に嬉しそうな顔で手を振り、鹿木も精々それに応えてやった、
 吉信は、一度も振り返りはしなかった、その背中に、旧軍人が使っていた、昭五式の、紐のついた丸い水筒を背負っている、
 吉信は、喉が渇けばそこら辺の店で飲み物買うからそんな水筒は要らん、と不機嫌に云っていた、鹿木は前日に沸かしておいたお茶をその水筒に入れておいたが、吉信はその水筒を持ち出していた、
 長女が、吉信がドライブに連れて行ってくれると、富子に教えていたその日の二日前、鹿木は夕暮れを待って、町にちょっと忘れ物を買いに行くと、小舟を漕いで町に出た、
 今すぐには要らない買い物を終えた鹿木は、海岸沿いの、先日見掛けた、柚子農家の物置小屋に忍び込んだ、そこに、無造作に置いてあった「有機燐酸パラ…」と書いた、赤い紙を貼りつけた缶を見つけ、持って来た牛乳瓶に移し入れて持って帰った、
 それを水筒に入れ、そこに冷やしたお茶を注ぎ足した、

 吉信ら三人の乗った小舟が港内に入って行くのを確認した鹿木は、山の頂に在る邸に戻り、旧軍隊用の双眼鏡を持ち出した、ふと幼い娘らの部屋をみると、富子は、薬が未だ良く効いているのか、布団に顔を半分埋めて、すやすやと眠っている、
 余程運の強い子なんだと、鹿木は富子の寝顔を見ながら、不思議な運の強さに感じるものがあった、
 すぐ邸を出て、対岸の、国道が峠を登り切った辺りを見通せる所に立った、 岬の、足元は断崖絶壁ながら、そこに立てば太平洋の大海原が見渡せる、鹿木は両つの眼を双眼鏡につけ、国道を走り抜けてくる、スカイラインの車影が、双眼鏡の丸い視界に現れるのを待った、

 いつ吉信は農薬入りのお茶を飲む?
 小舟から降りて車を取りに、スタンドに向かう途中で喉が渇いて飲む…?
 それとも、車に乗り運転しながら、娘ら二人を後部座席に乗せ、助手席に置いた水筒を手に取って飲む…?
 それとも岬の先端で車を止め、三人一緒に降りて、海原広がる太平洋を見渡しながら、水筒のお茶を喇叭飲みに一気に飲み干す…?
 そんなことを想像しながら、岬の先端に現れるスカイラインの影を待つ、だが、通り過ぎるのは、ボンネット型のトラックか、偶にバスぐらい、だった、
 三十分程、不安にかられて、苛々しながら辛抱強く、待った、道を換えたのか、行き先を変更したのか、それとも娘らが何かでぐずって取り止めたのか…?
 峠の坂を、こんな田舎道では有り得ない猛スピードで、1台のスポーツカー、金色の車体のスカイラインが、坂を一気に登り切る勢いで現れた、そのマフラーから吐き出される爆音が、遠く離れた、向かいの島の頂きに立つ鹿木の耳にまで轟いてきた、
 峠の、先端のカーブに差し掛かったスカイラインは、峠の向こうに急カーブを曲って走り抜けるかと思いきや、金色の車体はカーブを曲がらず、そのまま直進してコンクリートブロックを突き破り、ブロックに車体は撥ね上がってその勢いのまま、宙に大きくふわっと浮き上がり、一瞬間止まったかのように見えた、
 が、車の前部がガクっと下向くと、崖下の磯の岩場に頭から正に墜落しかけた、正にその時、だった、宙に浮いた車から、何か黒い物が飛び出した、
 何?ひと?それとも何?、ロックにぶつかった衝撃で車のドアか、フェンダーか、グリルなど大型の部品でも千切れて撥ね飛んだのか?
 車は頭から岩場に真っ逆さまに突っ込んで落ち、岩に挟まれて車が逆立ちしているように見える、前半分は完全に潰れてしまったように見える、
 落ちてほんの一、二分後、直ぐ近くの岩の上に、何か黒い影が蠢き、立ち上がった、宙に浮いた車から何かが飛び出したように見えたが、それか?
 鹿木は双眼鏡の倍率を上げてその黒い影に焦点を合わせた、岩の上に立つ影、人のようにように観える、人影は、そこから次の岩に飛び移り、這うようにして岩を伝って、車から離れた、
「くそ、生きて、やがる」
 鹿木は、罵った、
 次の瞬間、だった、まるで色付きの影絵でも見るように、頭を岩の間に突っ込んだ車体から、蝋燭に火を付けたように小さな炎がぽっと出た直後、真っ赤な炎が噴き上がり、爆弾でも落ちたかのような破裂音が一瞬遅れて鹿木の耳にまで、地揺れするように轟いた、金色の車体は次の瞬間、一気に真っ赤な炎に包まれた…

 鹿木は、岩場を這っていた吉信の姿を探したが、見つけられなかった、爆風で吹き飛ばされたか、それとも岩場の隙間に転げ落ちたか…


           20,
 佳代と佳子の二人は、性別の区別もつかぬほど、見るも無残な焼死体となって、黒焦げた車から引き摺り出された、磯の岩場の間に挟まって動けずにいた吉信は駆け付けた消防団員の手で引き上げられ、血塗れの体を担がれて国道に出た、そしてそのまま町の診療所に搬送された、
 脚も、腕も、肋骨も数本骨折していたが、磯の岩に激突した衝撃は、内臓にまでは至らず、命の危険は無いと医者は診断した、
 その医者も立ち会って、警察の、吉信からの事情聴取が行われた、
 吉信は突然、急に吐き気がして、前方が見えなくなり、スピードも出し過ぎてカーブを曲がり切れず、道路縁のコンクリートブロックに突っ込み、それを飛び跳ねて車は、崖下の磯に墜落した、と状況を述べた、
 吐き気に何か心当たりは、と警官が訊くと、この日は朝から、風邪気味で、一番下の娘も熱と下痢、吐き気で朝から寝込んでいるが、それと同じ症状だった、と説明した、立ち会った医者も、詳しくは診察出来ていないが、今も体に熱があり、風邪による下痢もあるので、ここ数日流行している風邪に罹っているのは間違いないと、説明した、
 加えて、吉信は、警察に、子供の頃から、時に軽いが、癲癇の発作があると話した、
 警察は状況から、癲癇の発作がその時にあったかどうかは調べようもないが、やはり流行り風邪の症状により、また本人も認めるように、速度超過気味で運転していて、症状が悪化して運転を誤り、大事故を起こし、幼い女の子二人の命を奪った、と調査を結論した、

 上の娘二人の葬儀を終えた由美子は、事故から二日後に鹿木島に来た、すぐに来れなかったことを誰も聞きもしないのに、長々と言い訳をしていた、
 祭壇の前に現れた由美子の、正しく新地の女がそうであるように、喪服ながらネックレスや指輪、数珠までがけばけばしく、地元の参列者から顰蹙を買った、
 葬儀が始まると、由美子は狂ったように泣き、子らの名を大袈裟に叫んだ、末の富子を膝に抱きしめたが、富子は嫌がってむずがっていた、
 暫くの間、富子の面倒をみるため、また吉信の容態も心配だからと鹿木島の邸に滞在することになった、

 入院中の吉信を見舞って、由美子と富子を病室に残して病棟を出た鹿木は、覚えのある声に呼びとめられた、前に、定信の死の不審を訴えた看護婦だった、さっきまで、吉信の病室で、体中、包帯で簀巻きにされた吉信に薬を飲ませていた、
「私、前に鹿木さんに変なこと、云っちゃったんじゃないかと、ずっと悔んでいたんですけど、今度もね、あの、吉信さん、事故現場から救急車で運ばれて来た時、口の縁に白い泡が付いてて、その泡が、あの時と同じ匂いがして、先生にそのこと云ってみたんですけど、先生が仰るには、あのひとには少し癲癇症状があるらしくて、事故直前に軽い発作が出た、ようなことを本人が警察にも云っていた、口縁の泡は、それが影響しているかな、みたいなこと云われて、そうなのかな、って、私、
 だって、本当に同じ匂いだったの、私の思い過ごしなんだろうな、きっと、私また、変な事云ってる、みたい?あ、あ、ごめんなさい、忘れて下さい、今、云ったこと…云わないで下さい、だれにも」

 警察による処理、調査が淡々と進められている状況に、鹿木は正直なところ、少しはがっかりするような気持になっていた、
 折角、コソ泥までして用意した農薬が、今度の事故に全く影響がなかったような警察の調査結果、それに事故発生に起因する特別な理由がないことを裏付けるような担当医の、本人の申告通り、事故は運転手の直前の風邪症状の悪化により運転操作を誤った、との診断を聞き、何か拍子抜けしたような気持になっていた、
 農薬の影響を疑われずに済みそうな安堵感よりも、何だかすっきりしない気持ちになっていた、


               21,
 数日後、吉信を見舞いに行った帰り、診療所の玄関横に、この辺りでは見掛けぬ様子の男が立っていることに鹿木は気付いた、ふさふさの黒髪を七三に分け、一見、街のサラリーマンふうにも見える、一瞬だったが男と視線が合った、その眼にどこか陰湿なものを鹿木は感じた、   
 素人ではないだろう、と思ったが、暴力団関係者かそれとも警官か、どっちにしてもロクな人間ではなさそうだ、
 その男が、前を通り過ぎる鹿木に、声を掛けた、
「鹿木、さん?」
 鹿木は不機嫌な顔をして振り向き、男の顔を改めて見た、そして鹿木は思い出した、この男、二人の娘の葬儀場に、殆どが喪服姿の参列者の中で、普段着に黒い腕章をつけて参列していた男だった、
「~県警、刑事課の、青木、です、時間、頂けますか」
 刑事課、と聞いて鹿木は一瞬身が凍り付いた、もしや、と思ったのだ、それが証拠に警官は、
(鹿木、さん?)
 と鹿木の名を呼んだのだ…
 しかも男の物言いには有無を言わさぬ、権力の圧があった、鹿木はその時が来たかと覚悟して頷いた、
 鹿木は、警官に自分の表情を読まれまいと、診療所病棟の方に視線を逸らせた、そして或る部屋のガラス窓のカーテンが揺れたのを目敏く見つけた、そこは吉信の病室だった、  
 病室には由美子と富子も一緒に居る、外の様子を見ていた由美子が、鹿木と警官の二人が立ち話を始めたことに気付き、自分が二人の様子を見ていることを知られては、とカーテンに隠れたのか?

「少し付き合って貰えます?」
 ぶっきらぼうな物の云い方、見れば鹿木と齢は変わらない、促されて、鹿木は男と肩を並べるように歩いた、この男、病室のカーテンに隠れる由美子の視線に気づいて、この場を離れようとしているのかも知れない、何故か鹿木はそう思った、
 警官は歩きながら、云った、
「率直に云いますと、死んだ娘さん二人に、本当は三人の娘さん全員に、高額の生命保険が掛けられていたことが判りまして、受取人が清水、さん、清水由美子、さん、だったので、由美子さんは、上村定信さんの、入籍されていなかったようですが、実質的には娘さん達には義理の母親、そう云う関係から、保険会社から、今度の事故、不自然なことがなかったか、と…」
 事故への疑念が、生命保険の受取人である由美子に宛てられているような話しぶりに、鹿木は自身の心臓の鼓動の早鳴りが静まっていくのが判った、
「義理であれ、母親が、子らに生命保険を掛けるのは別に不思議ではないんですが、事故が事故だけに、少し異常過ぎるのではと保険会社の方では疑っているようです、
 受取人さんは、事故当時、大阪に居たことが確認されていますので、事故関与でこれ以上調査する必要はないんですが、調書作成する上で、叔父である鹿木先生にも、出来ればお話をお聞かせ願えればと…」
 もう今となっては懐かしい呼び名「鹿木先生」、元県議会議員鹿木への敬意を表してくれているのか、
「先程まで、清水由紀子さんが見舞いに来ておられたので色々とご本人にお聞きしたんですが、ごく普通の母娘さんのようで、別段、何も有りませんでした、
 それで、あと三人の娘さんを預かっておられた鹿木先生にお話、お聞きして、それで保険会社の方に報告しておこうと思って、お待ちしていました、鹿木先生が、何か気が付かれたようなことは?」
 娘三人に高額の生命保険が掛けられていたことを鹿木は初めて知った、鹿木は、吉信の病室のカーテンが、再た揺れた、ようで、そっちに視線を送った、そして一つの疑問が湧いて出た、
(吉信も由美子も、病室にこの刑事が先に訪ねて来ていたことを俺には一言も云わなかった)
 鹿木は、青木刑事に、
「私にはその辺りの事、良く判りません、姪の三人と一緒に暮らしたのはつい最近のことで、その生命保険のことも私は聞いたことも無いです、ま、普通、生命保険、誰それにこれだけ掛けてるなんて話、普通、しませんでしょうが、その、契約って、いつ、契約したん、ですか?」
 事故直前の契約なら事件性が疑われるかも知れないが、第一、由美子、吉信には今回の事故については全くの予想外のことである、鹿木は、軽い気持ちで訊いてみた、
「そうですか、いや、先生、ありがとうございました、お時間、取りまして、これで、結構です、ありがとうございました」
 契約日がいつだったか青木は答えなかった、
「吉信は、生命保険のこと、何か云ってました?」
「上村吉信さん自身、保険の受取人になっていましたから、ね…」



            22、
「上村吉信さんがこちらへ来たのは、いつ、でした?」
 鹿木は、はっきりその日を覚えていなかったので、曖昧なところでと断って答えた、
「あ、そうですね、ご本人さんも、その日を仰ってました、何か、ご用件、あって、のことなんですか?」
 借金の取り立てに、と云える訳はない、
「子供らが寂しがっているんじゃないかと心配、だったんじゃないですか、実際、子供たちは大阪へ帰りたいといつも云っていましたから、本人も、気になって、ぶらっと来たんじゃないですか、子供達、皆、吉信に懐いていましたから」
「車の運転、とか、どうだったんです、荒っぽいとか、普段」
「余り、吉信のこと、知りません、ので」
 青木は別の質問をした、
「さっき、上村吉信さんにお聴きしたんですが、ご本人さん、包帯でミイラみたいにぐるぐる巻きで外見では分からなかったので、山代先生に怪我の状況、訊きました、体中、骨折、擦過傷だらけですが、火傷の痕はなかった、との話でした、事故車も現物、見て来たんですが、丸焦げに焼けて、残っているのは車体の枠だけ、それも火事場で焼け落ちたトタン板みたいになっていました、
 よくあんな状況から火傷一つせず逃げられたな、と、余程運が良かったんでしょうか、ご本人にお聴きすると、事故の直前、直後の状況、今一つ記憶がはっきりしないようで、仕方ないんですけど、あれだけの事故の後、ですから」
 自分には保険会社への報告の為だと云ったが、その報告に関係が有るのか無いのか分からないような事を青木は訊き、また鹿木が聞きもしない話をする、鹿木は、青木の質問の真意が何処に在るのか判らず、警戒を強める、
「上村吉信さん、事故直前、癲癇気味の軽い発作が出たと仰っていたようなので、山代先生にその辺り訊きました、当日、本人は朝から風邪気味で、運転中に急に熱が出たのかして、気分が悪くなり、吐き気に襲われて、運転を誤ったんじゃないかと、
 担ぎ込まれた時、上村吉信さんの口の縁に泡のようなものが付いていて、胃液も採って調べてみたが睡眠薬とか他の薬物などの反応は検出されなかった、またこの事故直前に、癲癇の発作があったかどうかは判断出来ない、口角に残っていた泡も、通常の胃液の成分で、衝突の激しい衝撃で、胃が突き動かされたためかもしれない、と云う先生の説明でした、
 実は、大阪府警に上村吉信さんについて問い合わせたんですが、上村さんに過去に覚醒剤使用の疑いがありましたので、それが事故に関係あったかどうか山代先生に訊くと、覚醒剤使用の影響があったかどうかはもっと詳しく調べてみないと分からない、ただ今回の事故直後にはその兆候は何もなかったと云うことでした、
 ま、診断書を添えて報告書送れば、保険会社も納得して保険金の支払いに支障はないかと思います」
 保険金支払いに問題があろうがなかろうが、受取人でも何でもない鹿木には何の関係もないことだ、何んのつもりでそんなこと、訊くのか?
           
 青木と別れた後、鹿木、暫く歩いていて、ふと気付いた、
(そうか、あの警官、あいつ、俺も、今度のことに一枚噛んでると疑っている…?俺も一丁噛んで、保険金のこと、気にしている、とでも思ったのか?)
 そう考えると、青木が何か訊き、鹿木が答える度に、また鹿木には何の関りも無い話をしながら、一々反応を確めるように鹿木の顔を観ていたようにも思える、しかし何だか鹿木から観れば、マニュアル通りに質問しているだけの、薄っぺらな感じがしないでもない、
 青木は吉信の覚醒剤使用が事故原因ではないかと疑うようにも云ったが、農薬についてはひとことも云わなかったことが、逆に鹿木は気に成った、
 青木は山代医師の診断について、
(口辺に泡状のものの痕があったので、胃液も採って調べたが、睡眠薬とか他の薬物などの反応は無かった)
 吉信の胃液に他の薬物の反応は無かったと山代医師は証言したと云う、
 ここまで聞くと、あの大事故が何故起きたのかと、普通に疑問に思ってしまう、単に、スピードの出し過ぎ、運転の誤操作が原因だったと結論するつもり、に聞こえる、
 あの事故直前の暴走、そして車が宙に跳ね上がった瞬間、そして車体が真っ逆さまに墜落して爆発する寸前、運転していた吉信が車から飛び出し、車は真っ赤な炎に包まれた光景を鹿木は目撃した、他に目撃者がいたとも聞いていない、
 もし鹿木が、吉信の、何か意図的な荒っぽい運転、そして脱出、その一部始終を見ていましたと訴えて出れば、吉信は即刻有罪となり、自身も受取人になっている保険金目当てに事故を偽装して二人の女の子の命を奪ったとして逮捕されよう、
 だが、残念なことに、鹿木にはそれが出来ないし、する気も無い、そんなことすれば、何処からそれを見ていたのか、しかもそんな遠い所からどうやって、で、どうして?と訊かれれば飛んでもないことになってしまう、藪に潜む蝮の頭を棒でつっつくようなもの、
 それに、吉信が生き延びた以上、例え吉信を犯罪者に仕立て上げたところで、鹿木には一銭の金も手に入らない、由美子一人が、少なくとも佳代、佳子の二人の娘の保険金を手にする、だけ、吉信が生き残っている以上、鹿木は今回の計画は完全に失敗したと認めざるを得ない、

 鹿木は、ふと疑問に思った、吉信が背負っていた、あの紐付きの水筒は今、何処にある?
 事故車は磯の岩場から釣り上げられて警察署の駐車場に保管されていた、警察署は吉信の入院する診療所のすぐ近く、鹿木が見舞いの行き帰りに、車の前半分圧し潰され、焼け焦げた車体がどうしても目に入る、
 しかし鑑識は、事故現場の周辺は勿論、車のなか、隅々まで調べただろうに、車内にあの水筒があったのかどうか、それがどんな状態で発見されたのか、もし中に水分が残っていたりすれば、偽装事故の可能性、また薬物の影響を疑う鑑識は、当然ながら水筒の中の水に覚醒剤等の薬物が混入していなかったかどうか調べただろうに、何処からも薬物についての話は聞こえてこない、
 また、不思議なことに、吉信も、急に苦しくなった、急に吐き気を催したとか、持病の癲癇の発作で息苦しくなった、ようなことは云っているが、水筒の水を飲んでその直後、気分が悪くなった、とはひとことも云っていない、ようだ、
 吉信が農薬の中毒症状を癲癇の発作と勘違いしているだけなのか…?
 それとも、飲んだ量が少なかったのか、水筒に入れた牛乳瓶一本分の農薬、喉を潤す程度の量では致死量には足りなかったのか…?
 しかし、あの看護師は云った、吉信の口縁に出ていた泡も、定信の口から溢れていた泡も同じ匂い、だった、と…、それに、定信が飲まされたのは精々、小さな湯呑み椀一杯分でしかない、
 衝突と墜落の衝撃で、水筒は、何かの弾みで車から飛び出して、磯の岩場の間に落ちてしまったのだろうか、今頃、岩の間で寄せて打ち砕ける汐に漂っているのかも知れない、


           23、
 数日後、診療所に見舞いに来た鹿木、入口周辺に青木刑事か誰か見知らぬ人の影が無いか、目を走らせて様子を窺った、誰も居ない、
 病棟に入り、吉信の病室に向かって廊下を歩くと、男と女の、下衆い笑い声が廊下にまで聞こえていた、吉信の病室からだった、
 今日も島を出る時、姉二人を失って以来、殆ど口をきかなくなった富子に、
「一緒に、吉信おっちゃん、見舞いに行くか」
 と声を掛けたが、富子は拗ねたように黙り込んで返事をしなかった、あれほど、よしのぶおっちゃんと呼び、仔猫のようにじゃれついて離れるのを嫌がっていた富子、突然、姉二人を喪って、生きる気力さえも失ったようだ、
 そんな富子に、何一つ気に掛けてやる様子の無い二人の所へ無理に連れて来て、二人の高笑いを聞く富子の幼い心を想うと、連れてこなくて良かった、と鹿木は思った、

 担ぎ込まれて数日は、顔は包帯に巻かれ、唇は真っ赤に腫れ、とても喋べることなど出来ず、包帯でぐるぐる巻きの腕も自由に動かせず、看護婦の世話で漸く粥飯を口にしていた吉信、だが日が経つにつれ、症状も軽減されてくると、以来泊まり込みで、夫婦気取りで付き添う由美子と、周囲構わず、誰かの噂話で盛り上がって大声で笑っていたりする、
 吉信には事故を起こした反省も、幼い娘二人の命を自分の無謀な運転で奪ったことを悔いる様子もまるでなかった、それに、幾ら大怪我しているとは言え、佳代と佳子の葬儀には顔を見せず、その後も、無理すれば可能な筈の墓参りにも一度も行っていない、
 鹿木が、義理にでも見舞いに顔を出したときには、由美子と吉信は、それまでの馬鹿話を止めてよそよそしく振る舞う、
 或る日、鹿木は足音を忍ばせて病室に近づき、気付かれぬよう病室の入り口近くで、何か用事を思い出したふうに立ち止まって、中の声に耳を澄ました、
 話の内容は、二人の娘に掛けていた生命保険の受け取り手続きの進捗具合、その額が幾らになるか、自分の車に掛けていた自動車傷害保険の受取額も予想して、
「これだけあったら、暫くは左団扇や」
 と喜ぶ声が丸聞こえに聞こえてきた、
 その時、ふと鹿木は思った、吉信は、元から、あの日、娘三人を事故に見せかけて殺しその生命保険金、それに加えて自らの自動車保険金も詐取するつもりではなかったのか?
 そう疑えば、色々と不審な事実が浮かんでくる、何故、突然に吉信は、此処へ来た?何の為に?
 その目的を、伴野からの借金未払い分の取立に来たと鹿木は警戒していた、吉信に責められる前に、鹿木は自分から先に、目途は立っている、大金ではないが利子分ぐらいにはなる、と嘘をついてあった、 
 だが、それ以降、一度も、吉信から借金云々、金返せ、あの話はどうなったのかと責められたことはない、
 今も仲睦まじい夫婦のような高笑いが聞こえる、鹿木は勘繰った、一応は警察による事故調べも、単に風邪熱による突然の意識混沌、結果運転操作を誤ったものと結論される見込みであり、死んだ二人の娘に掛けられていた保険金についても、特に厳しく追及されることなく、このまますんなり保険金全額が受け取れそうな見込みも立ってきて、二人の、抑えても止まらぬ高笑いになっているのでは、と鹿木は疑った、
 吉信が大阪から何の予告も無く鹿木島に現れて、吉信の顔を見て、飛びつき、じゃれついて離れない子供らに、吉信は真っ先にこう云った、
「ほな、おっちゃんと、ドライブ行こか、スカイライン、やで、まっキンキンの、やで、覚えてるか?」
         
 青木刑事の、鹿木への質問、その口ぶりから、当初は鹿木の関与も疑われているのかと不安になっていたが、振り返ってその一々の質問内容を、その時々の青木の表情を思い出しながら判定した結果、その一連の質問に何も一筋にまとまったもの、一貫性が無く、ただの思い付きで喋っていた程度だったのではと確信するようになった、要するに、権と圧を笠に着ただけの、頭の悪い男だと評価していた、
 大阪で闇金融の取立屋として働き、何度か悶着起こして警察慣れした吉信にしても、捜査官としての青木の力量をとっくに見抜いているとしてもおかしくはない、
 鹿木の脳裏に、あの日、夕暮れて、山に沈む夕日の残照を帯び、朱く染まった遥か水平線に向かって飛び出した金色のスカイライン、宙に一瞬間浮かんで停まったその時、双眼鏡の丸い視野の中に、宙に浮いた車から飛び降りる、黒い人影が蘇った…
 吉信の、風邪が、とか、持病の癲癇の発作がとか、事故発生時の説明は全て、事前に用意した台詞を、声を震わせながら話しただけ…ではなかった、のか、
 でなければ、猛スピードで、急カーブでコンクリートブロックを突き破り、一瞬間、宙に浮かんで停まった車から、普通なら、種突の衝撃で目をつぶり、ハンドルにしがみつく運転手が、映画のスタントマンが如きに、全くの瞬時に、車から飛び出せる筈がない、そしてその瞬間は、絶対誰にも見られる筈はない…
 あれだけの大事故を起こし、そして炎に包まれた車から、人が生還できることなど有り得ない…警察は調べれば調べる程、あの事故から、ひとの生還は不可能と判断するしかなかった筈、頭から磯の岩場に突っ込んで岩に挟まれ、炎に包まれた車から脱けて出ることなど絶対に不可能、更にあの崖の高さ、下は磯の岩場、どう見ても、故意に出来る技、では有り得ない、警察は、事故は操作の誤り、であり、吉信の生還は、奇跡だった、と判断したに違いない、
 だが、鹿木は見ていた、一部始終をまるで映画でも見るように全て見ていた、そして宙に浮いた車から、車が正に真っ逆さまに墜落するその直前、黒い人影が飛び出した瞬間も鹿木ははっきりと見た、あの影は決して車の破片なんか、ではない、
 考えれば考える程、あの事故は、元々から吉信が決死の覚悟で仕組んだもの、ではなかったのか?、
 それにしても、と鹿木は思う、あの水筒に入れたお茶、吉信は結局、飲んだのか飲まなかったのか?
 吉信は癲癇の軽い発作が出たようにも云っている、医者も口周辺に泡が付着していたと認めている、しかしそれは激しい衝突の衝撃で噴き出した胃液であり、その胃液に薬物、毒物の成分は検出されなかった、と証言している、
 だが、あの看護婦は、吉信の口の周辺に付いた泡から、定信の口についていたものと同じ匂いがした、と云っていた、
 吉信は間違いなく、水筒のお茶を飲んだのだ…だが、量が少なかった、のか?吉信は、あの農薬パラチオンの異様な、卵の腐ったような匂いに、飲んですぐに気付いたのかも知れない、一口でも飲んで、農薬に舌を焼かれて一気に吐き出したのかも知れない、だが、吉信はそのことを、一言も云っていない、し、それにそんなこと、あの吉信が黙っている筈はない…
 病室から、高笑いが響いた、鹿木は、病室に入るのを止めた、


          24、
 数日後、鹿木は吉信を見舞ったが、吉信の不機嫌丸出しの顔、そして汚い虫でも見るような由美子の嫌悪に満ちた視線に曝されて、居辛くなって鹿木は病室を出た、
 廊下を通って帰る鹿木、足早で追ってくる足音が聞こえて、鹿木は振り返った、あの若い看護婦、だった、吉信の病室で、鹿木が病室を出るまで、包帯を解いて吉信の体に薬を塗ったり、新しい包帯に換えてやっていた、  
 その顔は何か文句言いたげに膨らんでいる、鹿木の袖を引っ張り廊下の陰に連れ込み、声を潜めて訴えた、
「あの二人、夜中、それも毎晩、私ら、定時の巡回で病室回るんだけど、上村さんの病室入ると、ベッドの上で、腰の包帯取って仰向けた上村さんのあそこに、スカート捲り上げて、あの由美子さんが跨って、それが、殆ど毎晩、皆なあの部屋入るの嫌がって、だから入る前に、出来るだけ物音出して…」
 由美子は、以来、吉信の病室に入り浸っている、娘の、実の娘ではないにしろ、幼い富子を、その存在さえ忘れたように一切面倒を見ようとしないし、鹿木に富子の様子を訊きもしない、血も涙もない、とは正にこのことを云う、

 財産分与、贈与の詳細を書いた遺言書の控えを、鹿木は定信から貰っていた、鹿木は読み直した、
 佳子、佳代、そして富子への分与は、全財産の2分の1、これらは今も手付かずに残っている、手付かず、と云うより、処分出来ない仕組みになっている、2分の1を3人で均等に、定信の死と同時に分けるのではなく、一括で、3人の娘に渡されることになっており、その処分は、三人同時に受け取るか、もしくは死別の場合は、最後の一人が一括して受け取ることになっている、
 その2分の1の財産の中身は、主には土地、または現金含む金融資産、吉信と由美子は遺書の朗読を聞いて吠えに吠えたが、どうにもならないと解ってその後、このことで弁護士との間で揉めているとは聞いていない、
 どうせ自分達の取り分が多少でも増える可能性が全くないことを知った二人は、生命保険金と車の保険金詐取へと方針を変えたのか、その保険金が下りて来る日を楽しみに待っている様子が丸見える、
 娘3人に遺された遺産横取りを二人は保険金だけで諦めた?そんな筈は絶対無い、あの事故は生命保険金搾取が目的ではない、吉信が、由美子に説得され決死の覚悟で、3人の子供を殺そうとした可能性が高い、と鹿木は思っている、
 だが末の富子は生き残った、そして富子一人に3人分の遺産が集中する事態となった、
 、
 義理とは云え、娘二人を失い、葬儀場でひとの目にも大げさに、二人の名前を叫んで泣き叫んだ由美子、またあれだけ懐いていた姪二人を自分の責任で、自分が起こした事故でその命を絶っても平然としている吉信、二人は毎夜病室のベッドで、他人の目、耳、憚らず縺れ合っている、
 深くはないが多少でも法律の知識を鹿木は持つ、その知識に照らしてみると、由美子は戸籍上定信の妻でもなく、まして三人の娘たちとは一滴も血は繋がらず、娘3人が死んだ時、娘たちが持つ定信からの遺産について何か口の一つでも挟める資格はない、由美子は全くの赤の他人、
 吉信は、どうか?吉信は、定信の父、元信の妾の子、異母兄弟、血の濃さからすれば、富子が死ねば全て吉信の手に渡る、
 しかし、吉信がこの立場を絶対とし、権利を有効活用し、その全財産を手にするには、富子の死を待つか、最短でも遺言の条項からも民法上も富子が二十歳の成人となるまで、しかしその時処分しようにも、どうするかは全て成人した富子の意向次第、吉信にはどうにもしようがない、
 ふと見ればひょっとこ面のように、口を横向けた吉信の顔を思い出しながら、鹿木は吉信の立場に立って考えてみた、
 吉信は大怪我を負ったが車に掛けていた保険金、姪2人に掛けていた生命保険金を受け取ることになりそうだ、
 今度のように不慮の事故と成れば全てがうまく行くと思ったに違いない、いや元々、吉信は、事故と見せかけて、姪3人を一気に殺すつもりだった、  
 鹿木の脳裏に、宙に浮いた車から飛び出した人の影が映し出される、あれは事故ではない、また鹿木が用意した農薬入りのお茶を飲んだがための事故でもない、と鹿木は思う、  
 毒を飲んだ人間が、その量がどうであれ、墜落寸前の車から飛び出せる訳がない、
 癲癇の発作、だとも云ったらしいが、医者は否定している、吉信は、事故の原因を問われれば、癲癇の発作が、と逃げるつもりだったのだろうが、この際、医者の判定に従った方が得策だと考えたに違いない、
 姪を一人生かしてしまったのは吉信には想定外だった、三人一緒に殺す計画は失敗した、保険金以外、吉信と由美子の二人は何も手に出来ない、
 この失敗に懲りて、この先、富子が病気か事故で死ぬ、殆ど可能性のないその日を、もしくは気の遠くなるような長い年月を、あの二人が待つはずは無い、
 ふと、鹿木の頭に、鬼のように目を吊り上げて、娘三人を睨んでいた由美子の顔が浮かんだ、そして閃いた、もしかして、今度のこと、全て由美子が仕組んだのでは…?
 由美子は、定信の遺産分与、またその処分について、戸籍上も、血縁上も、全くの赤の他人、何か一言でも口を挟める立場になく、その権利は一切ない、
 由美子は、定信から遺言状の内容を事前に聞かされたか、もしくは何かの方法で知ったに違いない、由美子は定信の遺書の内容を知って定信が由美子に何を云おうとしたのか、どんな気持ちでいたのかを思い知らされた、
 由美子は、あんなに尽くしてきたのにと一人合点に定信を恨んだに違いない、ならば、全部うちが、一銭残らず奪い取ってやる、と由美子は決意した、
 そして定信が遺書を書く前にと、定信に農薬を飲ませて殺した、だが遺言書はそれ以前に仕上がり、弁護士の手に預けられていた、
 由美子は、吉信の立場、血縁的権利に目を付けた、三人の娘に与えられた遺産を横取りするには、吉信の立場、血縁的権利を利用するしかないと判ったのだ、そして吉信を色仕掛けで釣って唆した、吉信は単純にその旨い話に乗っかった、
 だが、折角の計画も、吉信の決死の作戦実行も、その朝、突然熱を出した富子が生き残ったことで、由美子の計画は失敗、した、
 由美子がこれで諦める筈はない、必ず富子の命を狙う、しかも、それはそんな先の話ではない…


           25,
 鹿木は、病室を見舞った時の、吉信と由美子の顔を思い出す、鹿木は、事業失敗で多くの人に迷惑を掛けた、その人たちに直接会って頭を下げて謝罪した、その誰もが、鹿木を恨みと怒りに満ちた目で睨みつけた、そして悲鳴のような罵声も浴びせた、
 だが、吉信と由美子が鹿木を見る目は、それらとは全く別の、心の奥底を刺す、敵意と侮蔑、憎悪に満ちたものだった、

 鹿木は、吉信と由美子の二人は、相当以前から、定信が急死する以前から関係を持っていたのでは、と思う、
 鹿木は、定信と二人っきりで話をした時のことを思い出す…
 病で、頬の削げ落ちた定信は海を見ながら、自嘲するような笑いを浮かべて云った、
「もう一つ、お前に云うとかなあかん、ワシの嫁、由美子、な、何や最近、変な動きしとるんや、それも、吉信とつるんで、何か企んでるふうなんや、あいつらが企む云うたら、ワシの財産、ワシ死んだらそのまま二人で持ち逃げしようと考えてるんやろ思う、
 由美子は元は新地の女、実を云うと、由美子、まだ籍に入れてない、一時はワシも若気の至り、熱うなって見境いつかんで、正式に嫁にしようとしたが、親父が絶対許さへんかった、当時は恨んだが、今となっては感謝しとる、
 今の由美子はワシには目もくれん、佳代、佳子も、末の富子も皆な死んだ益美の子や、この3人は未だに由美子をおばちゃんと呼んで懐こうとせん、娘らを見る由美子の目は鬼婆みたいや、由美子と吉信がワシの財産狙うてることは間違いない」
 思い出せば、定信は、あの時はっきり云っていたのだ、吉信と由美子の仲を、そして二人の魂胆を定信はとっくに見抜き、それで、あんな遺言書を遺したのだ、
 鹿木は、定信の云ったことを何度も反芻する、その一言一言の意味を探った、そして見えて来た…
 診療所の看護婦が云った、定信が急死した日、由美子が病室に入って来た、気を利かして退出する看護婦を由美子は睨みつけた、そして由美子が病室を出た途端、病室からナースセンターに緊急通報が鳴り、駆け付けた時には定信は口から泡を吹いて息絶えていた、
 看護婦は更に云った、病室を掃除していて、ベッドの下に湯飲み椀を見つけた、転がって倒れていたけど、湯飲みの底に白い粉薬みたいなのが固まって残っていた、その湯飲みの底に溜まっていたものの匂いを嗅いでみると、とても嫌な臭い、何て云っていいか、そう、何か、腐った卵のような匂い、吐きそうになった…
 この腐った卵のような匂いは、鹿木が、吉信に飲ませようと柚子農家の納屋から盗み出したものと同じ匂い…
 鹿木は、由美子にこのことを云った、由美子は、何を云ってるの、痛い目に合わせるよと逆に脅してきた、だが、そのすぐ後、由美子はあの豊満な体で鹿木に擦り寄って来た、 
 あの時、鹿木は由美子の金が、喉から手が出る程に、いや命に代えてでも欲しかった、そして由美子は金を出すと云った、あの時、鹿木には、定信の死因について詮索する気は更々なかった、由美子を責めるつもりもなかった、それどころか、もしかしてあの看護婦が、定信の死因に異議ありと訴えて出れば、由美子からの金の融通が絶たれて鹿木は明日には破産する羽目に落ちてしまうところだった、そのことを恐れて、騒ぎ立てない方がいいと、看護婦に助言したのだった、
             

 吉信と由美子は、自分達二人に分与された定信の遺産の内8分の1は、伴野から鹿木に資金を融通する過程で、遺言状の条項通り、鹿木に捺印させて取り合えずは8分の1は確保した、次に鹿木が事業失敗を重ねて僅かでも残った定信からの遺産も、伴野に担保として提出させ、借金返済出来なかった時点で、担保を処分して金に換えさせた、
 定信を毒殺し、3人の娘の内2人を偽装事故まで図って命を奪った吉信と由美子の二人が狙うのは、生き残った富子の持つ、定信の遺産の半分であることは間違いない、
 鹿木の脳裏に、鬼のような形相の由美子の顔が浮かぶ、その由美子が、吉信に次の手立てを教え込む、吉信が横に逸れた唇を閉じて、由美子の話に聞き入る姿が目に見える…
 鹿木は、由美子に恐ろしい執念を感じる、何故にこれ程に執念を燃やすのか、定信への憎悪か、恨みか、銭への強い執着か?
 鹿木は、では自分はどうなんだ、と問う、学生時代、だったか、友が鹿木を評して云った言葉を思い出す、
「所詮はお殿様、なんだよ、お前は」
 正にその通り、だった、人を見る目も、商売する才も、政治家としての能力も、すること成すこと、俺は全てが殿様商売、自分がやっていることが損なのか得しているのかも分からない、甘ちゃん、だった、のだ、
 鹿木は、思う、俺だって、あの二人と同じ穴の貉、子鼠追う、泥に塗れた狸に成り下がっている、だが、自分には、あの二人に比べれば、少しは知恵も有る、
 鹿木は今更に思う、何をするにも、大して考えもせず、しかも自分の手で、自分の力を過信していたことが、失敗の原因ではなかったか、
 鹿木は、由美子が、次に何んな手を企むか考えた、由美子の究極の目標は娘三人に一括に付与され、未だに手付かずのまま残されている遺産を奪い取ること、その為には、一人生き残り、三人分の権利をもつ末娘の富子を殺して、その遺産を吉信の名義に換えること、
 決して先の話ではない、定信殺しも、今回の偽装事故のことも、警察は何一つ疑いもしなかった、
 二人の娘には死亡保険が掛けられていた、受取人である由美子と吉信に、保険会社から依頼を受けて、警察は形だけ動いたに過ぎない、あの青木刑事との質疑応答で、吉信はその辺りを確信しただろうし、その底の浅さを見抜いたに違いない、これなら次の一手も、警察に見破られる心配はない、と思っているに違いない、
 鹿木は、待つことにした、二人は間もなく動き出す、自分の手を汚す必要はない、あの二人は無い知恵を絞って必ず富子の命を狙ってくる、
 富子の死を待って、その時点で、鹿木は、警察にかくかくしかじか、と二人の犯行を、定信が毒殺されたこと、幼い女の子二人の死は偽装事故によるものだと訴えて出ればいいだけのこと、自分が何かする必要は全くない、待つだけでいい、
 此処まで考えて、鹿木は、何だか体中に雁字搦めに張り詰めた緊張の糸が緩やかに解れていく心地よさを味わった、
 富子も、吉信、由美子も地上から消えていなくなれば、定信の遺産は遠縁ながら、唯一の親族となる鹿木が満額受け取ることになる、
 由美子の強い執着心に恐ろしささえも覚える鹿木、改めて我が身を振り返る、鹿木は子供の頃から金を欲しいと思ったことがない、金はいつでも不自由なく有った、父親が破産しても、定信の援助もあって、左程にひもじい思いをした実感もない、また、何かをどうしても欲しい、何としてでも手に入れたいと思ったことも、自分で何かやってみたいと思ったこともない、流れのままに生きてきたし、与えられるもので十分だった、
 しかし定信の事業を破綻させた頃から鹿木は金が欲しいと思うようなった、欲しい、のではなく必要に迫られた、今無ければ明日には命は無い、喉から手が出る程に追い込まれた、
 だが、今は、金が手に入れば、先ずは残った借金を清算し、この毎日の、誰かに追い詰められているような強迫観念に圧し潰されそうな心臓を、心を解放してやりたい、
 そして残った金をどう使うのか、何に使いたいのか、と漸くそんなことものびのびと考えることも出来て、自然と、何だか楽しい気分にもなってくる、
 そうだ、もう一度、議員になってもいい、別にいきなり県会議員に復帰しなくてもいい、町会議員から始めればいい、町会議員になら、組織と関わらなくても自分一人の力で成れる、
 まだまだ若い、焦ることはない、早まることもない、行く末、思い切って、県会議員を飛び越えて、国会議員選挙に打って出てもいい…まだ老け込む齢でもない…
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