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「ひょっとこさんが死んだ」No.3
しおりを挟む第三部
「罠に嵌った兔」
26,
「ゆみおばちゃんのこと、こわい」
由美子に殆ど世話をして貰えず、日に々に痩せ細り、そして次第と富子の顔から生気が消えて行く、
姉二人を喪う、ほんの数十日前まで、定信の面影を何処かに遺して、二人の姉に金魚の糞のようにくっついて、地元民の好奇と奇異の目に曝されながらも、突然に変わった環境の中で、何んとか慣れようとしている様子が見えていた、
だが、その姉二人を喪ってからの富子は、悪い病気にでも罹ったように、顔から、子供らしい、生命の輝きのようなものが消えていた、
鹿木は、この娘ら三人が、父親定信を亡くしてからも、また止むなくこの島に引っ越して来てからも、出来るだけ関わりたくなかったし、関わろうともしなかった、この子らの面倒を見、世話を焼くのは、義理とは云え、由美子が母親役を務めるべきだと思っていた、
だが、由美子には全くその気が無く、日がな一日中、町の診療所に入り浸り、表向き付き添い、しながら、夜な夜な、吉信の下の世話を焼いている、
仕方なく、また鹿木自身に今、何かしなければならないことが有る訳も無く、時に、動こうとしない富子を無理に連れ出すようにして、島から出て、町で菓子や飲み物を買って与えたり、こうして、磯に降りて、潮遊びをさせてみたりするようになった、
初めの頃は、何を与えても、それが余程気に入らないのか、それとも他に欲しい物があったのか、全てを富子は首を振って拒否した、
それでも、何度かこうして外に出るようになり、富子が、興味無さそうに指さす菓子や飲み物を買い与えて、砂浜の、小さな岩に腰掛けて食べていると、その顔に僅かながらにでも、子供らしい可愛い笑みをふと見せたりした、
その富子が、波打ち際で、小さな蟹を小さな指で摘まみ上げて、そんなことをぼそりと云った、
「ゆみおばちゃんのこと、こわい」
鹿木は、自分の腹の内を見透かされたようで、一瞬、冷やりとした、
鹿木は、自分は、結果はどうであれ、この三姉妹を殺そうとし、既に二人の姉の命を奪った張本人だった、今猶、生き残った富子を殺害して、富子に集中した定信の遺産を横取りしようと虎視眈々狙っている大悪人、好い人の面を被った、狼だった、
「おばちゃん、ね、とみこ、みるとき、いつもこわいかおしてる、こわくて、とみこ、なきたくなる…」
富子の訴える由美子の、あの鬼のような形相、鹿木自身も何度も目にしている、あんな顔を幼い女の子が見れば、それこそ、絵本に出て来る鬼より恐ろしいに違いない、
富子は解っているのだ、自分達を囲む大人たちは皆な、自分達を殺して食べようとしている狼ばかりだと知っているのだ、富子が恐ろしいのは、由美子一人だけではない、富子は、自分も、いつかお姉ちゃんたちと同じように、真っ黒に焼けて死んでしまうことを予感している、富子の小さな胸は、その恐ろしさで張り裂けそうになっているに違いない、誰かにしがみついて泣き叫びたくてたまらないのだ、
だが富子はぼそっと、
「ゆみおばちゃん、こわい」
とだけ云った、助けて、と本当は訴えたかったのに違いない、だが、鹿木のことも、そこまで甘えられるひとかどうか富子には分からない、だから富子は、ぼそっと、云って、鹿木の反応を窺った、のだ、鹿木のおっちゃんは、とみこの敵か味方か…
鹿木は、不意に胸が震えて止まらなくなった、俺はいったい、何を考えている…
こんな幼い、自分に救いを求めるこんな小さな女の子に、この俺は、何をしようとしているのだ…?
俺は、ひとの子か?血も涙もない、ただの、バカの、銭の亡者のおっさんか?
鹿木は、波打ち際で、寄せる波で足を濡らし、掴まえた小さな蟹を放して、その行方を見守っている富子を抱きしめた、そして、鹿木は止めどなく泣いた、
「ごめんな、とみこ、おっちゃん、な、わるいおっちゃん、やった、とみこのこと、ほうったらかしにしてた、な、ごめん、な、これからは、な、とみこがちゃんとおとなになるまで、おっちゃん、ずっととみこのみかたになるからな、せやから、なにもこわがることないんやで、な…」
両脇に松葉杖を挟み、脚や腕、至る所、包帯巻きの、これでゲートルでも巻いておれば、ついこの間まで街の繁華街には必ず居た傷痍軍人の姿で、吉信が小舟に乗って鹿木島に、退院してきた、実際には退院ではなく、入院治療費が払えず診療所から退去させられたように聞く、
鹿木島の邸で、由美子と吉信が同居することになった、邸は広く、部屋は衾だけで幾つもに仕切られているが、何人でも住める、しかし通院するには石段、坂道だらけの島内では身動きも成らない、何れ便利な町内に空き家を借り、そこで由美子と暮らすと吉信は云う、
入院費が払えず診療所から追い出された二人はそれでも楽観的だった、
「飯代や泊り賃、保険下りたら嫌云う程払うたる」
と嘯くが、どうやら雲行きは怪しい、ようだ、事故から早や何か月、早ければひと月も経たぬうちに払い込まれる、筈、だが、その事故原因について、保険屋が偽装を疑っている、のではとの町のひとの間にもそんな噂が広まっている、
誰かが聞いたふう、見たふうに云うところによると、密告、通報があった、と云う、
子供ら3人への生命保険に、吉信が受け取り人に名を連ねたのはつい去年の話、また車の任意保険加入も、ほぼ同じ時期、それまでは無保険で走り回っていた、らしいと町の人の間に、虚実入り混じった尾鰭がついて話が広まっている、
時に吉信は由美子に付き添って貰って大阪へと向かう、大阪の保険屋に談判に行くようだ、だが二人とも険悪な顔して帰ってくる、そして大荒れに荒れ、一日中、二人は罵り合っている、
鹿木が、富子を町の幼稚園へ小舟に載せて送って行き、買い物して島に戻ると、見掛けぬボートが一隻、桟橋に横付けされていた、
操舵室から老漁師が顔を出して会釈する、どこかで見掛けた顔だが誰だか知らない、怪訝に思い、邸へと登ると、途中で、麓の磯の岩場辺りから人の、しかも数人の罵声、怒声、そして女の悲鳴が聞こえてくる、女の声は、由美子…?
松林の隙間から見下ろすと、勤め人のそれではない背広姿の男達が、包帯姿、松葉杖をついた吉信を囲み、その胸倉を掴んで罵っている、
「どないなっとんじゃ、ええ、吉っしゃんよ、音沙汰無い、て社長が怒ってんのや、こないなとこ隠れてたら、そりゃ判らんわ、ほんで、どないなっとんじゃ、金は、金は、何処に在んねや、耳揃えて返さんかい」
「兄貴、せやから云うてますや、あと、ほんま、何日か待ったら、保険金、下りてくるよって、それ払い込まれたらすぐ社長とこへ振り込むて」
「あんな、吉っしゃん、それ、ひと月前にも、二月前にも同じ台詞、聞かされて、大人しいこないして待ってたんや、せやけど未だに一銭も振り込まれてない、
お前な、何やらせてもドジってばっかりや、この鹿木のとこの話だけやない、今永のとこも、三協のとこも、皆な夜逃げして行方判れへん、何ぼになってる思うね、お前の絡んだ仕事で損こいたんは…」
「せやから、兄貴、あと、ほんま、あと何日か待ってくれ」
グシャッと、キャベツを叩き潰すような鈍い音が、小石を洗い転がす波の音に混じって聞こえてきた、
杖を両脇に抱えたまま吉信は仰向けに倒れた、口から噴き出す血で、包帯が真っ赤に塗れた、大きな岩に圧しつけられた由美子が悲鳴を上げ、顔を背けた、男がその声に振り向いて、
「姉さん、ええ齢こいて、エライ可愛らしい声、出してくれるやんけ、あんたも、こないしたる」
由美子の頬を平手打ちし、蹲った由美子を抱え起こし、その上着を剥ぎ取って上半身丸裸にし、スカートをめくり上げて、仰向けに倒し、暴れる脚を二人の腕で押し広げて、男はその上に覆いかぶさった、由美子の、暴れる白い太腿が日に曝される…
小石の上に仰向けた吉信に、男はズボンを履き直しながら吠えた、
「次、近い内に、また来る、金、用意しときや、今度来て、また待ってくれていうたら、今度は命、無い、思うときや、それに姉さん、あんたも良かった、で、最後にはあんたの方から、ワシの腰にあんたの腰、押し付けて来とった、また頼むわ、それと、今度、吉っしゃん、金用意してなかったら、あんた連れて帰って、どっかのパンパン宿にでも売り飛ばすからな、今やったら、まだ、何ぼかでも値が付くやろ、今の腰の動きやったら」
嘲笑う声が潮風に乗って響いてきた、
27
町の人の噂は本当のようだ、保険金は未だ降りていないのだ、保険屋が未だ偽装を疑っているのに違いない、青木刑事は、何か疑っているような口振りも見せてはいたが、実際には何も調べていない、調べてもどこか的外れで何もそんな疑念に応えるような調査はしているとは思えなかった、なのに保険屋は何を疑う?
通報があったのか?しかし誰が?何を?どんな証拠があって?しかも保険屋が保険金支払いを躊躇するようなそんな重大な情報を誰が持つ?
派手な事故、2人の幼い女の子が焼死した、町の人に大きな衝撃を与えた、しかも事故を起こしたのは、この土地には直接には全くの無縁の人物、しかし全くの通りすがりの事故でもない、そこに何か疚しい事情を勘繰って面白おかしく云うのは田舎者の常、
そんな田舎者程度の噂で保険屋が保険金支払いを渋る筈が無い、誰かが、何か確たる証拠を握っている?どんな証拠を?だが鹿木には幾ら考えても思い付かない、元からそんな疑惑の証拠、吉信には有り得ない、のだ、
ふと、鹿木は、若い看護婦の姿を思い出した、え、まさか、あの子?
定信が急死した時、あの看護婦は、定信のベッドの下から湯飲みを見つけ、底に残った液体がすごい嫌な匂い、卵の腐ったような匂いがしたと鹿木に告げた、だが医師はそんな疑わしい物は何も検出されなかったと否定した、とも云っていた、
また、吉信が、事故直後、診療所に担ぎ込まれて来た時にも、吉信の口辺に泡の跡があり、定信の時と同じ、あの、卵の腐った匂いがした、と鹿木に教えた、しかしそのことも医者は否定したとも云っていた、
まさか、根拠もなく、まして医者が否定するようなことを、しかもわざわざ保険屋に告げる筈はない、そんなことすれば自身が大騒動に巻き込まれるだろうことは幾ら何でも予想出来る筈、
他に、なにか?やはり事故の大きさ、異常性が、保険屋に躊躇させるものがあるのかも知れない、
しかし保険金が下りようが下りまいが、鹿木にはどうでもよいこと、気にする必要は何もない、ふと忘れようとする鹿木の心の隅を針先で刺すような、小さな不安が湧いて出た、
あの、水筒、のこと、だった、農薬を入れた、旧軍人用のあの昭五式の丸い、紐付きの水筒、まだ見つかっていない?何処に在る?蓋はどうなっている?水筒は衝突の衝撃で潰れて割れ、中からお茶が流れ出た?それとも無傷のまま、あの磯の岩の間で、寄せる波に浮かんでいる?それとも沖に流され、海原で漂っている?それを誰かが見つけた?
あの事故現場、事故から数日して、鹿木も気に成って見に行った、崖上の道路には数人の野次馬が下を覗いていた、崖下の礒辺では警官数人が、砂浜を、磯の岩の間を練り歩きながら、飛散した車の部品を拾い集めていた、
鹿木は、どんなものを拾っているのか、大きなカゴを道の上から覗いてみた、
殆どが大型部品の破片が詰め込まれていた、砂浜には収集されずに小さな部品が散乱しているのが判る、だが、その横を警官の靴は素通りする、そんな小さな部品を特に重要視していないようだ、
警官達が、何か見つけてはしゃぐような様子も無さそうだった、事故現場で、もし水筒など、車の部品以外に何か見つかれば、一つ々つ調べられたと想像出来る、現場検証は警察の本分である、そんな“異”なものを見つけて決して疎かに扱う筈が無い、
鹿木は、その後も何気無しを装って二、三度ここ、カーブの先端を訪れた、だが何れも警官の姿はなかった、
二人がやくざ者に暴行された日以来、二人は一日中いがみ合い罵り合うようになった、その声が広い邸でも響く、富子はその罵り合いを聞く度、耳を塞いで蹲る、
二人の蜜月は終わった、その分、二人の、特に、以来化粧っ気もない由美子の、唇の端に男達に殴られて裂けた痕が生々しく残った顔で、何かの折りに擦れ違う富子を睨む目は既にひとの目ではない、
由美子も、こんなところから抜け出してとっとと大阪へ戻りたいのだろうが、十分な金を持ち合わせないのに違いない、いや、今、ここを離れて、富子に遺された金が、自分の知らない間に、どうにかされてしまうことを怖れて、居続けているのかも知れない、
吉信の、鹿木への金の督促もうるさく成ってきた、
吉信に暴行した男の捨て台詞、
(金、用意しときや、今度来て、また待ってくれていうたら、命、無い、思うときや)
決して脅しではない、ことを吉信が一番よく知っている、鹿木に借金支払いを督促する吉信の声は、時に哀願調になる、
夜明け前、鹿木の寝る部屋に吉信が血相変えて駆け込んで来た、
「由美子が、泡吹いて死んでんのや」
鹿木は、寝間着のまま部屋から走り出た、
由美子の部屋、部屋の真ん中に敷いた布団の上で、やや厚手の浴衣を、胸の両の乳房も丸出しに、そして脚の腿を開け広げて由美子は掛けた布団からはみ出して仰向けていた、目を見開き、その口の周りに、春先のたんぼの畔の蛙のように真っ白な泡を溜めていた、
「ギエーって云う声が響いて、寝言でも叫んだんかと覗いてみたら、これや」
鹿木からの通報を受けて、駐在所の警察官二人と、町の診療所の山代医師、それに看護師が一人、小舟で島に渡って来た、
看護師は、いつも鹿木に何かと愚痴る看護師、だった、鹿木に軽く会釈して、山代医師の横に座り、由美子の顔を覗き込んだ、そして看護師は、由美子の口元に残った泡に鼻先を近付け、泡の匂いを嗅ぐとすぐ、吐き気で我慢ならないように顔をそむけた、
吉信は警察官二人から死体発見時の状況を聴かれている、鹿木も立ち会っているが鹿木は、名前を初めに聞かれただけで後は何も訊かれない、
遅れて消防署員が担架を運んで来て、そこに由美子の死体を載せて邸から運び出して行った、
山代医師が、警官に答えた、
「心不全、ですかね、急に発作が、心臓が痙攣した時に、だいたいこんな症状に、胃液が泡に成って出る時がある、ま、一応、胃液や、血液も調べてからでないと、はっきりしたことは云えんですが…」
由美子の突然死は、山代医師の現場での診立て通り、心不全、が原因だったと、山代医師の診立通り警察はそう判断した、由美子の死後2,3日だけ、警官が島に巡回に来たぐらいでその後は一度も姿を見せていない、
由美子の死体は、島の墓地に、町の人の協力で土葬された、
28,
鹿木島の対岸に見える港は、隆起と侵食によって複雑に入り組んだ海岸線に沿って作られて、港には人の首程の高さに防潮堤が築かれ、その防潮堤に沿って狭い国道が走る、その国道に面して小さな駐在所が在る、
その駐在所の前に、サイレンを鳴らして町並を駆け抜けて来た数台のパトカーが停まって、町の人達を驚かせた、何事かと、人々が駐在所の前に集まって一帯は交通渋滞も発生して大混雑した、
無線器でやりとりする警察官、パトカーと駐在所の間を頻りと行き来する警察官、そしてその警官達を指揮する私服刑事らとの緊迫したやりとりを、町民たちは、まるでテレビの刑事ドラマでも観るように、警官達の動きを何一つも見逃すまいと見入っている、
そこへ一台の救急車が、人びとの群れを押し退けて到着した、誰かが訳の分らん病気にでも罹ったのかと恐怖の色を浮かべた人々の目に、救急車の後ろ扉から屈強な体格の機動隊員数名が、担架一つ運び出し、その上に棺桶のような長い木箱を載せ、そして手に鍬やショベルを持って一斉に降りて来た、人びとは我先にと群れから逃げ散った、
港内から防潮堤越しに警察サイレンが鳴り響いた、防潮堤の上に立った人たちの眼に、白黒のツートンカラーのモーターボートが一隻、桟橋に横付けしているのが見えた、そして駐在署前に集結していた警官や私服刑事、機動隊員らが、長い木箱と担架、手にショベルなどを持ってそのボートに乗り込んだ、ボートは一気に後進し、そして波を跳ね上げて急停止し、オートバイが前輪上げて走るように前部を上げ、波を切って港を出て行った、
ボートは鹿木島の桟橋に横付けし、警官達は浜を走り抜け、山を登り、驚いて出迎えた鹿木や吉信に案内させて、由美子の遺体を埋めたばかりの墓地へと向かった、
鹿木は一団の中に、青木刑事を見つけて訊いた、
「いったい、何事ですか?」
問われて青木刑事、上着の内ポケットから封筒を出して、令状を二人に見せた、
「匿名で通報があったんです、清水由美子さん、先日、心不全で亡くなった清水由美子さん、毒殺されたと云う通報が区検にあって、その通報で、遺体を掘り出して急遽司法解剖することになったんです、埋葬したのは、どこ、ですか?」
鹿木が一つの真新しい土饅頭を指さすと、待ち構えていた警官達が笹垣を踏み越えて一斉に墓地に入り、土を掘り返す作業に取り掛かった、その一連の流れを見ていた青木刑事、吉信の方を振り向いて、
「上村吉信さん、清水由美子さん殺害の参考人として、同行願えますか?」
吉信は一瞬、身を退いたが、既に四方、警官に囲まれていると判り、
「何で、俺が、由美子を殺さなあかんねや、ボケ、証拠、有んのやろな、有って俺を連行すんのやろな」
と、青木刑事の顔の真ん前に口を突き出して咆えた、しかし忽ちに警官達にその腕を掴まえられた、それでも、
「何や、何すんね、ぼけ、これの何処が任意同行や、え?ええや、何処なと行ったるわ、その代り覚えとけ、くそ餓鬼共、後で、証拠有りませんでしたて抜かしてみい、裁判所に不当逮捕や云うて訴えてやるからな」
泥土に塗れたまま、霊安室の死体検案用ベッドに載せられた由美子の遺体を、警察医は白衣に袖を通しながら、その死体概容を眺めていた、
泥を被っているが、未だ死後日数が短いせいか、その泥を払い退ければ、全裸の女がベッドで息すやすやと、脚を広げて仰向けに良く眠っているように観える、
ただ、注意して観ると、仰向けた口端や、頬、腕や太腿、その他の箇所に、皮膚が裂けたか擦過したかして出来た傷が無数にあり、その傷から流れた血が黒く変色して皮膚にこびりついているのが判った、
それが決して、岩から滑り落ちて出来た傷ではないことは一目瞭然だった、医者でなくても普通の男なら、この女の容貌、また死んでもこれだけの色気の漂う女が、生前、それ故にこれ程の暴行を受ける曰くを持って生きていただろうことも容易に想像できる、
警察医は、メスを手にする前に、遺体に添えられていた、事件発生地の医師が書き留めた診断書を手に取り、その記事に目を通した、
「え…?」
と軽く声が出た、診断書にこれらの傷についての記録が一切無かったのだ、
警察医は、少し開いた遺体の口辺りから、嫌な、何か、卵か何かの腐ったような匂いが漏れているのに気づいた、
鼻先を近付けて嗅いで、その強烈な匂いに蒸せ、そして胃の腑を抉るような吐き気に、思わずマスクの上から口を押さえた、
添えられた診断書には、死因を、急性心不全、と記録してある、急性心不全、とは町医者には極めて便利な用語で、焼死、非残な事故死以外、布団やベッドの上で死んだ患者には、それがどんな状態であれ、また原因が何であれ、目の前で息を引き取った患者に、俗名から一文字取って坊主が戒名にして貧乏人から大金を毟り取るように、その死因を「急性心不全」と書いて役所に提出する悪癖がある、
家族に見守られ幸せにあの世に旅立った死者にならそれでいいのだが、こと事件性を疑われる死体には、責めて何かそれらしい死因を付記してくれていれば、どれほど警察医の手間が省けるか、と願うのだが、そこまで町医者の誰もそんな思いを汲んでは診てはくれない、
遺体の口から洩れ出るこの腐臭は、この警察医には馴染みの物で、その匂いの元がなんであるか知っている、詳しく調べるまでもなかった、警察医はこの遺体の死因を、パラチオン剤、有機燐酸パラチオンによる急性中毒死だと断定した、
総じてパラチオン剤は害虫に対して優れた殺虫効果を示すため、果樹園などで重宝多用されるが、一方で人に対する急性毒性も強いことから、果樹園で働く人が誤飲したり、誤用したり、不注意に溝に流したりして鮒や鯉が池や川に浮かび、それを食べてひとの中毒事故が発生する、その危険性は訴えられて久しいが、お役所の人間は、自分が飲んで酷い目に遭わない限り、ひとから注意されることには無関心、却って反抗的になる、そんな習性、いや遺伝子を持つ、らしく、敢えて農家の人々に注意を喚起したりしない、
警察医は、死体検案書に、このパラチオン剤による中毒死の疑いが顕著である、と書き、そして無数に着いた傷や擦り傷、それに女陰部の傷から、しつこく暴行されたために出来たものと断定できる、と書き添えて、仕事を終えた、
白衣を脱ぎながら、警察医は、ふと呟いた、
(体中にあれだけの数の傷がついて、口からはとてもじゃないが我慢できない腐敗臭が撒き散らされていて、診た医者が医者なら、見た警官も警官、そりゃ俺が幾ら無能でも、こんな死体見せられたら、尋常に死んだとは、思われへんけどな…)
29,
警察医からの検視報告書を受けて県警は管轄署に捜査本部を設置し、青木刑事も、当事件発生時に担当していた因縁から捜査班の一員として加えられた、
青木は、女が、たかが心不全で口から泡を吹いて死んだぐらいで、事がここ迄重大化するとは思いもしなかった、
一回目の捜査会議が開かれて、県警本部から派遣され、臨席する凶悪事件専門の捜査員達の、事の顛末を読み上げる自分に向けられる目に青木はすっかり委縮してしまい、何度か、自分が今何処を読んでいたのか分からなくなってしまう失態まで犯した、
更に、青木が朗読した後、捜査班長務める刑事課長から、遺体を掘り起こすなど、今回県警の恥とも云える大騒動に至った諸悪の根源は、本件発生時に事件性を全く疑わなかった初動捜査に全て起因するといきなり糾弾されて、青木は増々蒼褪めた、
普段、刑事ものをテレビで見る妻や娘らに、こんな、ひとの顔を見て、足許に転がって来た何かを見て、簡単に、犯人はこいつだ、あいつだと名指しするスーパーマンみたいな刑事は現実には存在しない、警察の仕事というものは地道に、しかし着実に、一つ一つ証拠を拾い集め、それを吟味推理して犯人を捜し、追い詰めていく、そんなもんなんやと、ビールを注ぎながら、講釈垂れる自分の姿を思い出し、呪い殺したい程の己のバカさ加減、無能を知って激しく羞恥した、
青木にはしかし不満もある、諸悪の根源云々を云われるのは筋違いだとも一方では反感する、諸悪の根源、初動の誤りを糾弾するなら、その向けるべき矛先は俺ではなく、あの、ヤブの大ヤブの山代を責めるべきではないのか、
あいつの、死因を「心不全」と一言で括った診断書が、青木の思考を一切停止させたからではないか、医者が「心不全」だと宣言するのに、この俺が、何を以って、いや違う、これは毒殺、薬殺の重大殺人事件だと云って反論出来ると云うんや?
捜査会議はしかし着々と、青木の羞恥など無視して進行し、今後の捜査方針、指針が、熟練職人の手慣れた作業のように次々と細部にまで亘って決められていく、
会議室末席で青木は明日の我が身の哀れな姿を慮って深い鬱状態に落ち込んでいく、しかし、その恐ろしい予想を抹消せんと何か我が心を奮起させてくれるものはないかと必死に模索する、
ふと、何やら光明らしきものが浮かんで青木、暫しそのアイデアをどうしたものかと、息を停めて考えてみた、
県域の大部分を山、山、山に占有され、人口も下から数えて、あの雪国で有名な県をさえ越えられず全国数番目に少ない県であり、更に、県下でも時の流れに捨て置かれたようなほぼ未開のこの町、しかしながら、ここは青木が生まれ育った土地である、こいつらが幾ら凶悪事件捜査のプロだと云っても、この土地のことなら、いや極端な話、道端に転がって乾いた犬の糞でも一目で、それがどこの誰の飼い犬の糞かまで俺には判別出来る程の地域的優位性を持ち合わせている、
そこに何か、今回の事件初動捜査で犯した大失態、大恥を、挽回出来る何かが有る筈だと思い巡らせていた青木、ふと見上げた黒板に大書きされた、
「農薬パラチオン剤、有機燐酸パラチオン」
を見て、はっきりと何をすべきか漸く閃いた、
この農薬を、誰か盗まれた者がいないか調査すればいいのではと思い当った、しかも今、捜査班長から、この農薬は一般には果樹園の害虫駆除に使われるとの説明を聞いた青木の頭の中に、海岸の山沿いに並ぶ果樹園の全景が思い浮かんで見えたのだ、
あの辺りでは柚子の木ばかりが植えられていて、また、その奥に向かって谷川沿いに歩けば、ミカン農園が数軒ある、この辺りの誰かの納屋からこの何とか農薬を盗んだ誰かが居て、盗まれた誰かが居る筈…
初回の捜査会議は、明日早朝から、各班毎に、各班に課せられた行動指針に沿って起動することを期して終了した、
私服に着替えた青木は署を出て、その足で町外れの、国道沿いの柚子農園を、散歩を装って歩いてみた、
西の山並に沈み始めた夕日が、東の水平線を真っ赤に染めて、その夕映えの照り返しを受けて山沿いの柚子農園一帯が同じ色で塗ったように赤く染まっている、
青木は柚子の木の枝の下に屈んで何やら作業をしている農夫を見つけた、竹中茂、歳の差もあって、話したことはなかったが、互いに地元民、まんざら見知らぬ訳ではない、
竹中茂は、果樹園に入ってきた青木に初めは警戒したげな物言いをしていたが、不意に、何か、意を決したかのように話し始めた、
「定信さんの嫁さん、農薬で殺されたんやないか、みたいなこと皆云うとるが、それ聞いた時、あんた見掛けたら云うたらなあかん思うてたんや、
いやな、その嫁さんがいつ殺されたんかその日にち、よう知らんので、その後のことか先のことか、どっちなんかわからんし、云うてええのんか悪いのんか、悩んでたとこへあんたがこないして来てくれたんで、一遍、云うてみよ、と今、思うたとこや、
いや、それもな、いつのことで、どれぐらい盗まれたのかはっきりわからんで、そこんとこは、了解して聞いてほしいんじゃ、
ほれ、あそこに小屋、見えるじゃろ、そや、ついでや、あそこで説明した方が判り易い」
青木は竹中老人の後を、低木の柚子の枝下を、きつい酸味の匂いに包まれて、腰を屈めて従いて行く、
板張りの粗末な入口戸の、汐風で錆び切った、戸口にぶら下げた錠前を取り外すと、中に農機具類が乱雑に押し込まれているのが見えた、
青木は手持ちの懐中電灯で中を照らすと、赤いラベルを貼った20L缶が数缶そこに積み上げてある、照明で照らすと、赤いラベルに
「有機燐酸パラチオン」
と読めた、青木は我が推理が的中した喜びを大声を出して表現したかったが、その衝動を何とか抑えた、
老農夫は積み上げた20L缶一つを抱えて降ろし、アルミで出来たような、しかし熱で溶けた飴のようにぐにゃっと曲った蓋を手に取って青木に見せた、
途端に、卵の腐ったような匂いが溢れ出て青木の鼻を包みこみ、青木は思わず嘔吐しそうになって口を押さえた、その匂いに蒸せながら、青木は、この匂い、どこかで、嗅いだ記憶が蘇った、
これは、正しく、あの女の口辺に溜まった白い泡、これをあの山代の大ヤブは口に溢れて出た胃液、だと抜かしやがった、お陰で、俺は今日、皆の前で、一生うだつの上がらない程の大恥をかかされた、呪い殺してやりたい程腹が立って来た青木、何んとか抑えて、老農夫の話を待った、
「見てみ、この缶の蓋、バールがドライバーでこじ開けられてぐにゃっと曲がって、中から、1Lぐらい盗まれとった、盗まれたんは間違いないんや、このパラチオンは、春先にしか使わへんし、去年の分使い切って新しいの買うて、ここにあるんは、これ全部、新品や、こないして保管しといたんや、
それに、な、この缶、二回も開けられてたんや、1回目に、蓋開けられて、せやけど、何ぼも中身、盗まれてなかった、開けた拍子に零れた程度の量や、しかしワシには開けた覚えもない、しよう無いんで、ビニールの切れ端で蓋塞いでこの曲った蓋で押さえとったんやが、この前、見たら、蓋しとったビニールが無うなって、この蓋がその辺りに捨てられとった」
「1回目と2回目、それがいつか、判りませんか?」
「それ、無理やで、朝飯、食うたんか、何食うたんかさえ思い出されへんねんで」
ふと青木、思い出して、
「あの納屋の鍵、いつもどうしてます?さっき、鍵、初めっから開いてたように見えてましたけど?」
「せや、あれ、鍵、錆で利かんなって、長い間、鍵掛けたことない」
青木は、老農夫から借りた縄と竹杭で現場保全のために、納屋を囲んで今後一切の立ち入り禁止を命じた、
30,
町内に一軒だけの旅館に、捜査本部員たちは宿泊している、青木は、スキップでも踏んで跳ねたい気分で、旅館を訪ね、食事中の、既に顔を赤らめている捜査班長村山に報告した、
私が、柚子農園で見つけたものは、警察医が鑑定した、有機燐酸パラチオンであり、その匂いは、清水由美子の遺体の口辺に付着していた泡と、全く同じ匂いのものでした、
更に青木は、私は、現場保全の為に、納屋の保管場所を杭と縄で周囲を囲い、小屋には自前の鍵を掛けて、立ち入り禁止にしました、
と報告した、
報告を聞いた村山は立ち上がり、同じ部屋で食事する捜査員たちに向かい、明日の予定を変更し、一同、一旦署に集合し、全員で竹中茂の農園へ行くと告げた、
青木は、村山班長の膳の前に、別の膳を用意して貰い、酒を振舞われた、村山班長は、何度も繰り返し同じことを云った、
「幸先がええ、こんなこと、我が長い犯罪捜査歴に於いてこれだけ幸先の良いスタート切った記憶がない、青木君、良くやってくれた、仕事終わって猶、犯人への手掛かり求めて行動するなど、我々捜査官の模範とするに足るものだ、いや良くやってくれた」
重要参考人として事情を聴かれていた上村吉信は、別件容疑、薬物不法所持、また常習的使用の疑いで身柄をそのまま拘留された、
その間、捜査員は幾手にも分かれ、竹中茂の果樹園を主軸に、付近一帯の農園の、農薬管理状況を調べ、その盗難などの有無を聞き出しに出動した、
しかしどの果樹園も、その管理状態は似たり寄ったり、その管理は、磯や浜に流れ着いた板を拾って来て貼り付けたような小屋に、殆どが鍵など掛けてなく、精々が、入口戸が強風で飛ばされないよう、小さな蝶番を付けている程度で、その気に成ればどこからでも幾らでも、そしていつでも要り用の物を簡単に盗み出せる状況にあった、
加えて、農園主、果樹園主の誰一人として、その使用量など書き残した者は居ないし、それどころか使ったかどうか、使ったとしてそれがいつだったか記憶している者さえいないことを知って、保管場所を見た時から予感はしたが、捜査員たちは落胆した、
それでも農園周辺で、不審な人物を見掛けたことはないかと問えば、隣の農園主がうちの納屋から鍬や鋤など農具を盗んで困っているなどの話は出て来るものの、肝心の、ひとを殺す程の恐ろしい人相の、頬かぶりした怪しげな人を見た者は一人もいなかった、
唯一手掛かりの有りそうな竹中茂の果樹園に、捜査班長村山は捜査員を集めて、足跡の収集や何か物的な物を探せと命じたが、落ちた葉で一面覆われ、農園主の雨靴で踏み潰されて何も異なもの、有力なものに巡り会えなかった、
村山班長は、拘留中の上村吉信を頻繁に呼び出して尋問するが、上村吉信は、ひよっとこ面のように横に逸れた口を尖らせて、吠えるように犯行を否定し、事件には一切無関係だと主張し、そしてこの2,3日は、同じ質問、同じ返答を繰り返されることに飽きたか、何を聞いても返事をしなくなり、鼻糞をほじったりして不貞腐れた態度を見せていた、
どの班からも大した情報が持ち込まれず、愈々手詰まり感迫る中、村山班長は打開策を摸索した、
ふと思いつき、県警本部の一課課長に電話を入れた、区検に、今回事件を毒殺事件だと通報してきた時の、応答などの詳細を確認したい、出来れば通報を受けた本人から直接に訊ければと依頼した、
通報を受けた区検担当官から折り返し村山に電話があった、
「清水由美子死亡の3日後の午後3時頃、二十歳から三十歳位の、女の声で、名前を訊いても云いませんでしたが、何んとなく、電話口での息遣いが興奮したように荒いので、すぐテープを回して録音しました、今から、受話器の前で、そのテープ回します」
ガチャガチャと器具をいじる音が聞こえ、そしてテープが古いのか、ザーザーと雑音混じりに女の声が聞こえてきた、
『先日、~町で、急死した清水由美子さんのことで、警察はちゃんと調べたんですか?何も調べもせず、ただの急性心不全として処理されたようですが、私は、毒殺されたのではないかと疑っています、はっきり云えませんが、何かの毒薬か農薬みたいなものではないかと思っています』
『清水由美子さんのご親戚の方、それともご友人とかの方でしょうか?』
『いいえ、全然、もし、友人とか親戚とかで無ければ、電話しては駄目、なんですか?』
『いえ、そうじゃない、ですけど、何故地元の警察に訴えないんですか?』
『ちゃんと調べもしない、はっきり云って無能の警察に何を今更訴えるんですか?』
『判りました、当方で、お聞きしましょう、ですが、いずれにしても、調査は地元の警察が行いますので、こちらでお話をお伺いし、私共で、それが再調査必要かどうか判断した上で、地元所轄署に再調査を命じます、必要とあれば県警本部からも応援を派遣します、
で、どうして、その清水由美子さんが毒殺されたと思われるのか、何か根拠、有るんでしょうか?それとも、何か決定的な証拠をお持ちとか、現場を目撃されたとか』
『そこまで云われると、ちょっと自信無いですけど、一番に、この清水由美子さんの周囲で変な事件が連続しているのに、何んか、聞けば、急性心不全だったとか、ただのスピード出し過ぎの交通事故だったとかで処理されているようですけど』
『ただの急性心不全とか、ただの交通事故だとか、仰るそれぞれ、出来れば具体的に、誰が、何処で、とか教えて頂ければ、当方としても具体的にそれぞれについて迅速に再調査することが出来るのですが』
『その辺りの事、死んだ清水由美子さんの周囲で起きたこと、調べて貰えれば判ると思います、それに、この清水由美子さんのご主人の、上村定信さんが急死したことまで遡って調べて貰えれば、色々と出て来ると思います』
『色々とお詳しい、ようですが、何故、死因が急性心不全であることが疑問に思われるんですか?』
『毎日、普通に元気に生きてるひとが、その時になって、急に、泡吹いて死んだりしますか?それも二人も』
『二人も、とは、誰の事、ですか?…』
『清水由美子さんとご主人の上村定信さん…あんまり喋り過ぎると、そちらで録音してるでしょうから、今日は、この辺でやめときます』
電話が一方的に切れる音、そして雑音だけが未練がましく聞こえてくる、
「このテープ、複製して村山さんに送りますが、どうです、この通報、何か、感じられますか?」
「かなり身近に居た人物のように思えますね、いや、ありがとうございました」
31,
テープを聞いた村山は、通報してきた女は犯人、被害者双方に身近な女だと強く確信した、
通報者は、清水由美子の死因、その夫の死因を「心不全」と診断した医師を非難するような口調であり、通報者が云う、交通事故云々は、ここ地元でつい最近起こった、幼い女の子二人が焼死した事件を指しており、この交通事故原因をも疑うような口振りだった、
初回の捜査本部会議で、青木の初動捜査の不手際を厳しく糾弾したが、この電話の女の話を聞くと、初動の過ちは全てこの医師の、確か山代とか云う名前だったが、この医者の診断の出鱈目に起因すると思えて来た、実際、検死検案書を受け取る時、県警本部から派遣された警察医はぼそぼそと、
「むちゃくちゃ、です、酷い、ですな、この診断書」
と云ったひとことを思い出す、
しかし今更、誰かの失態を責めても埒が明かない、村山班長は、今後の捜査方針を次のように決めた、
先ずは、竹中果樹園から押収した有機リン酸パラチオンの入った20L缶、既に県警監察課に送ってあるが、その成分鑑定結果を待つ、
これが清水由美子の遺体の口辺、胃液から採取されたものと同一であると鑑定されれば、清水由美子は、竹中果樹園もしくはその近在の果樹園農家の倉庫から盗まれたパラチオン剤で、決して誤飲ではなく、無理にか騙されたかして農薬を飲んで死んだものと断定出来る、
次に、通報者がその名を出した、清水由美子の元内縁の夫、上村定信の死因も調査しなくてはならない、
村山はこの人物がいつ、どこで、どのように死んだのかまだ何も調べていないが、上村定信の遺体がこの地域で埋葬されたのなら、有難いことに、この辺りはまだまだ土葬の習慣が残っており、清水由美子の墓を掘り起こした同じ墓地にこの人物の遺体も埋葬されている可能性は高い、
遺体の腐敗の程度によるが、時間的に、胃液、血液、その他細胞組織など採取して検査出来る可能性があれば、遺体の掘り起こしも手配しなければならない、
第三に、この上村定信の遺体からも、パラチオン剤が検出されれば、清水由美子、そして上村定信の死因が決して「心不全」による自然死ではなかったことになる、そしてこの元内縁の夫婦の死因が、決して誤飲などではなかったことになる、
第四に、この通報者は、具体的にその詳細は云わないが、多分、拘留中の上村吉信が起こした交通事故のことを指すような口振りで「ただの」交通事故ではない、別の原因による事故のような云い方をしている、この云い方に従えば、この事故の場合、上村吉信が仕掛けた事故ではなく、上村吉信が殺されかけた側の人間となってくる、
もし、誰かが、上村吉信を事故に見せかけて殺そうとしたのなら、その誰かは、清水由美子、上村定信、そして吉信の三人の命を狙った、ことになる、
となると、幼い娘二人の命を奪った事故は、上村吉信本人が事故を偽装して起こしたものか、それとも他の誰かが吉信に農薬を飲ませて、吉信もろとも三人の命を奪おうと事故に見せかけた、のではないか、とこの通報者は、そのどちらの可能性も訴えているようにも聞こえなくもない、
次に、清水由美子の死体検案書に記された、顔、腕、内太腿、そして外陰部の裂傷、擦過傷など、その傷の深さや数が、どう見ても素人の喧嘩沙汰の結果ではなく、この残忍さは暴力団員、しかも複数の仕打ちであることは間違いない、上村吉信の顔にも同じような殴打された痕跡、その腫れや傷が今も無数に残っている、
この男達が何者か上村吉信に確かめる必要もある、大阪府警からの資料によれば、上村吉信は暴力団が経営する町金融、闇金融関係の事務所に出入りし、荒っぽい貸金取立や、逃げた債権者を探して痛めつける仕事をしている、と記されている、組織と何か揉め事を起こし、上村吉信はこの町に夫婦同然だった清水由美子と逃げてきて、その居所を知られて、殴る蹴る、清水由美子も暴行される程のひどい仕打ちを受けた、とも考えられる、
ほんの数分だけの、区検への通報者の話、しかしそのひとことひとことを掘り下げて考えてみると、多くの情報が含まれ、そして何かの疑惑、可能性を示唆している、と判ってきた、
この、二十歳から三十歳の女、色々と、清水由美子の死因への不審から、周囲の人物、出来事を挙げて、何れも不であると訴えながら、それが誰か、特定の人物の名前を決して口にしていないことに村山は気が付いた、要するに、この通報者は、少なくとも、清水由美子の死は決して自然ではなく、誰かに、毒をもって殺されたと確信しており、その誰かも知っている、と村山は確信した、
この通報者が、関係者のすぐ傍にいて、全てを見ていた人物であることは間違いない、今後の捜査方針を思い付くままメモしていた村山だが、これら全てをうっちゃって、この通報者を見つけることに全力を注いだ方が、余程確実であり、手っ取り早いのではないかと思えてくる、
通報者が誰か、を知るには、通報者が何処から、どの電話を使って区検に電話したかを電話局で調べれば凡そ判る、しかしそれには令状が必要であり、時間も掛かる、またそれなりの有力な申請理由が求められる、なんでもかんでも警察の思い通り、ごり押しが効かないご時世になっている、
いざとなれば、区検担当者に通報者が掛けてきた電話番号を調べてくれるよう頼んでもよい、検察の方が何かと圧しが効く、
今はとにかく、当初決めた手順に沿って動いてみるしかない、動いている間に、何処かで、この通報者に巡り会えるかもしれない、それに、そこで通報者から、その「誰か」が誰であるか教えて貰っても、証拠主義の戦後民主警察に於いては、やはり出来る限り多くの証拠を集めておかなくては起訴出来ないご時世である、
ごり押しに有罪に持ち込めば「冤罪」だと叩かれ、凶暴な真犯人、自ら進んで俺がやったと自供した犯人をさえ、証拠不十分だと文句言われて野に放つことに成る、そんな事例は新刑事訴訟法施行からこの一〇年の間、無数にある、電話番号調べるだけで、何日も掛かる、証拠集めするのに何日も掛かる、その間に犯人は、証拠隠滅、口裏合わせ等、何でも出来る、
一人、港内で係留した小舟で網の繕いをしていた漁師が、捜査員に訊かれて、その日時ははっきり覚えていないが、誰が見てもやくざと判る数人の男を鹿木島に送り迎えしたと教えた、
往きに、男達は、大阪へ行けば街にごろごろするちんぴら風で、大阪のやくざ者が使う言葉で喋り、頻りと、よっしゃんが、と誰かの名前を憎ったらしげに呼び捨てし、あのガキ、と何度も罵るのを聞いた、と云う、
帰りには、中の一人が、兄やん、どやった、あの女、ワイにもやらせてほしかったな、せやけど、ええ体、しとったな、ワイも見てたけど、あの女、ええ声出して、兄やんの体を、腰で迎えに行ってたな、今度来て、よっしゃん、金、出さへんかったら、今度はワイに先にやらせてほしいわ、ほんで、ほんまにあの女、連れて帰ってどこか売ってまおや、その方がよっぽど銭になる、
そんな話をしていた、のを聞いた、と云った、
これを聞いて村山は、清水由美子の体に着いた無数の傷や擦り傷の原因は、男達から暴行を受けたためと判り、そしてよっしゃんこと、上村吉信を指すのだろうが、上村と清水由美子は、金銭絡みのトラブルを起こして大阪から逃げて来ていたと云う背景も見えてきた、
清水由美子と上村吉信の二人が、暴行され、命を取られる程に金に窮し追い込まれていたことも判ってきた、
32,
村山は上村吉信が事故の後、入院していた診療所を訪ねた、山代医師に、この吉信の入院中の様子を訊くつもりだったが、遠くへ往診に行って帰りは遅いと聞いて、廊下ですれ違った、五十歳過ぎぐらいの、看護婦を呼び停めて、入院中の上村吉信の様子を訊ねた、
その看護婦はガラガラ声で云う、
あのお二人さん、仲が良過ぎて、昼間でも、体中包帯に巻かれていても、上村さんのあそこだけ包帯から出して、ベッドの上で、女の方がスカート捲り上げてその上に馬乗りに跨って、あれして、皆、本当に、あの部屋、行くの嫌がってました、
と我が秘事を明かすように顔を赤らめて云った、そして、
だけど、あのひと、担当は、私じゃなく、梅ちゃん、梅原さんが担当してたんで、梅ちゃんに聞いた方がええんちゃうかな、ま、誰に聞いても一緒やと思うけど、梅ちゃん、よく云ってた、あの二人、いつも、生命保険のこと、女の子二人に掛けていた保険金と、車の保険がいつ下りてくるのか、そんな話ばっかりして、その金額が幾らになるか計算して、喜んでばかりしてたって、
その梅原さんて幾つぐらい?
と、或る期待を込めて村山は訊いてみた、
この前、梅ちゃんの誕生会してたな、ええと、確か、三一になったか、三二になったかみたいな、こと云って、ああ、いやだいやだ、って云ってたな、ええ子よ、せやけど、
今、ここに居る?
さっき、先生の往診に一緒に行った、帰り、遅いと思うよ、そこ、ずっと山の奥、
上村吉信と清水由美子の関係について村山は考えてみる、録音テープで区検への通報者はこう云っていた、
『二人も、とは、誰の事、ですか?…』
と区検の担当者の問いに、通報者は
『…清水由美子さんとご主人の上村定信さん……』
と、はっきりと
「ご主人の上村定信さん」
と、云っていた、上村定信と清水由美子は内縁の仲、だった、そしてその上村定信が急死した後、清水由美子は上村吉信と大阪で夫婦同然に暮らしていた、ことも判っている、
この辺り一帯、同じ上村の苗字を持つ者が多い、捜査員の一人が云っていた、
遠くは紀貫之の「土佐日記」に出て来る海賊の頭領だった家系であり、本家は鹿木家、分家が上村家、分家の分家が増えて、上村姓が多い、分家と云っても上村定信の祖父の時代に、大阪での商売に成功し、多大の財力を持ち、定信の時代には本家分家の立場が逆転していたようです、
その捜査員が云った、
上村吉信は定信の父親、元信の妾腹、です、
通報者は上村定信の死因にも納得がいかないような口振りだった、
上村定信と清水由美子は内縁の仲、上村定信の死について、通報者は、清水由美子が飲まされた毒と同じ農薬で急死した、と疑っているようである、
清水由美子と上村吉信は肉体関係に在った、清水由美子を巡って上村定信と吉信が争い、吉信が、もしくは由美子が、定信を毒殺した、とも考えられる、
しかし、吉信は、通報者ははっきり口にしていないが、誰かに農薬を飲まされた影響で運転を誤り、危うく死にかけた、と云っているように聞こえる、
だが、生き延びた吉信は、毒を飲まされたことに気が付いていないのか、梅原とか云う看護婦が云っていた話では、吉信と由美子は保険金の話ばかりして、その金がいつ下りてくるか待ち望んでいた様子だった、と云う、
頭の中が混乱してくるが、上村吉信の入院中は人目も憚ぬ程に二人は仲が良かったと云うのは事実、
ここまでの考えを整理してみて、村山は気付いた、上村吉信が、由美子に毒を飲ませて殺す理由が何も見えてこない、のだ、村山は首を傾げた、
初動捜査時、青木がこの上村吉信を由美子毒殺事件の参考人として、任意同行して引っ立ててきた理由を初回の捜査会議の時に説明したが、村山はその内容を今一度振り返ってみた、青木は、その理由を次のように陳べた、
(由美子と上村吉信は一つ部屋に住み、由美子死亡時は二人はその部屋で寝ていた、
あの小さな鹿木島内で、しかも夜には鼻を抓まれてもそれが誰だか分からない程の真っ暗闇の中で、灯りを点ければすぐに気づかれる、そんなところに赤の他人が忍び込んで来て、しかも由美子一人だけに毒を飲ませて殺すことは考えにくい、
物盗りによる犯行なら、気付かれて吉信と争った筈だが、吉信からそんな供述は無い、
同じ島内、同じ邸内に住む鹿木正男が、吉信連行翌日の聴取に対し、何が原因か分らぬが、最近二人は激しく憎み合い、激しく罵り合っていたと話していた)
今思い返せば、青木の話は、
「と考えられる」、
「とは考えにくい」、
で構成されていて、何も具体的な、物証も、動機に繋がるような逸話も何一つ盛り込まれていないことを知って、村山は次第と蒼褪めて来た、
村山自身も、初めから舐めてかかっていた節があったと心当たりする、青木の、幼稚園児が誰かに虐められてそれを誰かに訴えるような話に、何だか間の抜けたようなものを感じながら青木の話を聞いていたが、こんなど田舎の、ただの痴情縺れが原因で刺した刺されたの話なんぞ、一日で片付けられると舐め切っていた自分を村山は今になって後悔する、
しかし、調査が進むにつれ、上村吉信に清水由美子を殺す理由が見えてこなくなってきた…村山は、野壺に堕ちたように、身震いする、そして、
(あの、青木のクソが)
と罵った、
33,
村山は、保険会社に電話して、上村吉信の暴走運転で死んだ二人の女の子の保険金の支払いについて訊ねた、担当者は答えた、
「保留しています」
「何か、理由があるんですか?差支え無ければ、教えて頂ければ」
「令状とか、お持ちですか?無ければ、お答え出来ません」
保険金支払いが実行されていないことが判れば十分だったが、
「お宅の方で疑い持たれていることと、今、我々が調査していることと目指すところは同じだと思います、何もお宅の証言で何かしようとするのではなくて、我々の捜査を、特に動機の部分をより確実にするために、一つ二つ、教えて頂ければ、却ってお宅の調査の手間も時間も省けると思うんですが…ご協力頂けませんか…」
暫く間があって、
「何をお知りになりたいんですか?」
「ちょっと古いんですが、上村定信と云う人の、保険金の受取人が誰だったか教えて頂けませんか?」
「少々お待ちください」
電話口を押さえて誰かと話す声、そして応答があった、
「受取人は、上村吉信さんと清水由美子さん、の二人です」
予想はしていたが、やはり村山は少し動揺した、
「そうですか、いや、ありがとうございます、大いに参考になりました、お礼は結果で」
礼を云って、電話を切ろうとすると、担当者が呼びかけた、
「先日、上村佳代、佳子お二人の保険金受取人、清水由美子さんが、心不全で亡くなられて、保険金請求書が弊社に届いております」
吉信と由美子の二人が、元夫・定信、そして幼い子供二人に生命保険を掛け、二人ともその受取人なっていたことが確認出来たが、その清水由美子にも生命保険が掛けられていたと云う、
「その請求書は、誰から、ですか?」
「上村吉信さん、からです、上村吉信さんと清水由美子さんはお互いに保険を掛け合い、それぞれが保険金受取人になっています」
「請求書の日付はいつですか?」
「~月~日、です、清水由美子さん死亡の2日後、ですね、実を云いますと、この上村吉信さんには弊社も殆ど手を焼いておりまして、うちの事務所に何度も押し掛けて来られまして、いつもは清水由美子さんと、時には人相の悪い連中伴れて来て、保険金、さっさと払え、お前ら詐欺師か、ペテン師か、と大声で、会社のロビー、玄関前の通りに出て大声で叫んで、一度か二度、警官を呼んだこともあります」
薄っすらと見当付けていた「動機」の部分が、愈々色濃く見えてきた、上村吉信、清水由美子の周辺で起きた事故、急死は全て保険金目的であったことがはっきりしてきた、
だが、未だ物的証拠に巡り会えていない、上村吉信の犯行だと決め付ける材料が全くない状況に、青木の
「と考えられる」、
「とは考えにくい」、
で創り上げた論理を、クソと罵った村山だが、結局行き着く先はこれしかないと判って愕然とした、
手詰まり状態の中、村山はそれでも決めた手順通りに黙々と仕事をこなした、村山は、鹿木島の、鹿木家代々の墓地、先日、清水由美子の遺体を掘り起こしたすぐ横の、鹿木正男の案内に従って、上村定信の墓の掘り起こしに掛かった、
朽ちた棺の板の欠片に混じって、白い骨片が見え始めた時、一人、そして二人と、作業中の警官が、穴から這い出して来て、地面に俯せて激しく嘔吐した、
何事か、と村山ら走り寄り、警官を抱き起した、途端に村山も、人肉の腐ったような匂いに胃が突き上げられるような吐き気に口を押えた、穴の底には人の形に骨が土に塗れて掘り出されている、
掘り出した人骨を県警監察課に持ち込んだ、警察医は、骨片から溢れる匂いを嗅ぐなり、もっと試料が必要だと村山に命じた、村山は電話で、もっと土を掘り出して持って来いと部下に命じた、
二日後、警察医は、土中から見つけた塩のような白い粒を村山に見せ、検査の結果、有機燐酸パラチオンの結晶であると告げた、
村山はこの結果を聞いてすぐ診療所に山代医師を訪ね、警察医の鑑定結果を伝えた、山代は、上村定信の死因が農薬による中毒死だったと聞かされても、あれは、誰が診ても心筋梗塞、心臓麻痺、による急死、だと突っぱねた、
山村は上村定信が急死した時の状況を訊ねた、山代医師は、看護婦から上村定信の容態急変を告げられ、すぐ病室に駆け付けたが、上村定信は口辺に白い泡を溜め、既に息絶えていた、と話した、
山村は、ふと思い当たることがあり、
「その時の看護婦さんは誰でした?」
「確か、あ、梅ちゃん、梅原君、だった…な」
「今、その梅原さん、ここに居ますか?」
「さっき見かけた、呼びますか?」
梅原看護婦と入れ替わりに山代医師は巡回するからと部屋を出て、山村と梅原は机を挟んで二人きりになった、
警官と対面すれば誰でも多少は緊張するが、それにしても梅原にどこか、それとは違う別な落ち着きの無さが見える、
「古い話なんですが、上村定信さんがこの診療所で急死した時の状況、先生に聞きましたら、あなたから患者の容態急変で呼び出された、先に駆け付けていた梅原さんに聞いて下さいと、お忙しいところ恐縮ですが、2、3質問させてください」
前に、別の看護婦が、31か32歳になったばかりだと云っていたが、その割には、梅原看護婦は頬っぺがふっくらと丸く、見た目、24,5歳ぐらい、どっちかと云えば幼な顔、その梅原看護婦は俯いて、同意を示すように首をこくりと頷いた、
「梅原さんが、上村定信さんの病室に駆け付けた時、病室に他に誰か居ましたか?」
梅原看護婦は、顔を上げ、天上を見上げて何か思い出そうとしていたが、申し訳なさそうに首を振った、
「緊急通報が鳴ったと云うことですが、上村さんが、その緊急通報、自分で鳴らしたんですか?」
梅原看護師は、すぐ傍に在った、小さな押釦を見せて、
「上村さん、右手にこの釦を握って、私が駆け付けた時にも固く握ったままで、看護婦控室でもずっと鳴りっ放しでした、私はそのまま、先生を呼びに病室を出ました」
「その直前、上村さんの病室に誰か訪ねて来ていませんでしたか?」
「あの時は、奥さんがちょっと前に来られていたんですが、でもすぐ帰られました」
清水由美子が、上村定信変死の直前に病室に来ていた?もしやとおもってはいたが、そのもしやの人物の登場に村山は却って動揺した、
「帰って行く奥さん、見ましたか?」
「看護婦詰所の前を通って、すぐ横の玄関から出て行かれました」
「どんな様子、でした?慌てていたり、とか、いつもと何処か違う、とか?」
「いえ、普通に、いつも通り、だったと思います、何も気づきませんでした」
「緊急通報はいつ鳴りました?奥さんが帰られて、すぐ、でしたか?」
「奥さんが出て、暫くしてから、でした、4,5分してから、だったと思います」
「梅原さんが駆け付けた時、病室の、床や何処かに、何か変わったもの、普段そこに在るべきものが無かった、とか、普段そこに無い物が有った、とか?」
梅原看護師は天井を見上げて暫く考えていたが、
「気が付きません、でした、私も、慌てていた、みたいで」
「そうですか、では最後に一つ、上村定信さん、その以前、入院されてから容態が急変するようなことは有りましたか?」
「私の知る限り有りませんでした、直腸辺りに大きな腫物があると先生から聞いていましたが、先生も、そんなに急に容態が悪化して、どうにかなるようなものじゃないんで、と聞いていました」
「本当に最後に、もう一つだけ、ここだけの話、先生には絶対に云わないで欲しい、が」
と村山、念を押して、
「あなたが上村定信さんの病室に駆け付けた時、上村さん、口から泡を吹いていた?」
「え?ええ…」
「先日、清水由美子さんがこちらに救急で運ばれて来た時、梅原さんは、先生に付いて処置されていました?」
「ええ、当直でしたので、私一人ではなく、他にも3,4人、夜勤明けの人にも戻って来て貰って処置しました」
「上村定信さんの口に泡が付いていて、清水由美子さんも口から泡吹いていて、先生は心不全、心臓麻痺と診断されていますが、何かおかしいと思いませんでしたか?例えば、凄い嫌な、吐きそうな匂いがした、とか」
梅原看護婦にも村山が云わんとしているところを察したか、驚いたように目を丸くしたが、首を振っただけで、何も云わなかった、
「上村さんの遺体も、清水由美子さんの遺体も、掘り起こされたのはお聞きですね?」
梅原は頷いた、顔から血の気が引いている、
「司法解剖の結果、二人とも、死因は、有機リン酸パラチオンによる中毒死、と鑑定されました」
「パラチオン、て、農薬に使う、あれ、ですか?私の父も使っていますが、あれ、ですか?」
「そうです、警察医は、匂い嗅げばすぐ分かる筈だと」
「いえ、私、いえ私、だけじゃなく、他の誰も気付いていなかったみたいで、誰も何も、ばたばたしていたからかも知れません」
村山は、書き留めていた手帳を仕舞いながら、ちらちらと看護婦の様子を窺う、梅原看護師の手が僅かにだが震えている、
「今回の、上村定信さん、清水由美子さんの遺体の掘り起こしは、実は、ですね、区検、検察の方に、通報があったのが切っ掛け、なんですよ、死んだの、心不全が原因だなんて、なんだかおかしいんじゃないですかと、私もその録音テープ、何度も聞いたんですが、若い女の方の声で、よく、この、上村定信さん、清水由美子さんの二人の周辺のことに詳しい方からの通報のようでした…」
梅原看護婦は手の甲を口に押し当て、目を丸くして村山の顔を見る、
「で、結果、決して二人とも先生の云うような心不全とかじゃなくて、農薬中毒死、即ち殺人事件だと認定されたんです、そのまま放っとけば、洒落じゃないですが、死人に口無し、で終わってしまうところでした、この通報者には大変感謝しています、
私は、殺人事件、凶悪事件担当して長いんですが、事件解決の決め手は、初動捜査、事件発生直後から捜査開始出来ればまず百パー解決されますが、初動に失敗しますと、永久に迷宮入りしてしまいます、今回は、この通報が無ければ何も判らず、人の記憶から消えて行くところ、でした、
ただね、この通報者は、被害者加害者の両方に身近な方のようなんで、出来れば、冗談みたいですが、犯人捕まえるより、この通報者にお会いしてお話聴かせて頂いた方が手っ取り早い、と正直、そう思っています、梅原さんに、誰か心当たりあれば、教えて頂ければ、有難い、ですけど」
看護婦は目を丸くして、驚いた表情を見せるが、特に動揺するふうには見えなかった、当てが外れたようだと村山は失望した、
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18歳以下の子供が通う病院、
診療科はたくさんあります。
内科、外科、耳鼻科、歯科、皮膚科etc…
ただただ医者目線で色々な病気を治療していくだけの小説です。
恋愛要素などは一切ありません。
密着病院24時!的な感じです。
人物像などは表記していない為、読者様のご想像にお任せします。
※泣く表現、痛い表現など嫌いな方は読むのをお控えください。
歯科以外の医療知識はそこまで詳しくないのですみませんがご了承ください。
触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜
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ライト文芸
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