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「ひょっとこさんが死んだ」No.4
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「得罪以曖昧」
34,
村山は情報をまとめた、幼い子供二人が死んだ交通事故に対する、上村吉信と清水由美子の二人の悪意ははっきり見えてきた、
そして上村定信の急死は農薬パラチオン剤による中毒死であり、看護婦の話から直前に病室を出た清水由美子の犯行が疑われる、だが、その清水由美子も、同じ農薬で、殺された、
これら3件の事件事故に絡んだ人物の中で生き残っているのは、上村吉信、唯一人、
唯一生き残る吉信に全ての疑惑が集中し、全ては吉信中心に舞台が回っているとしか思えない、
吉信が舞台の主役であるのは疑いようもない、何故、吉信は由美子を殺した、殺さねばならなかったのか、保険金の不払いで二人の間に深い亀裂が生じ、二人はいがみ合い、修復不可能となって吉信は由美子毒殺を決意した、
吉信には捕まらない自信があった、過去の定信毒殺も、二人の幼い娘を事故を装って殺害したことも、警察からは何一つお咎めは無く、疑いの目さえ向けられなかった、そしてトドのつまり、由美子は吉信の目の前で犯され、由美子への気持ちは一遍に冷え切った、
二人は顔を合わせば罵り合う程に憎み合うようになった、将来を考えれば、由美子は不要であり、邪魔になっていた、まして二人は、共犯の関係に在る、このまま憎み合ったまま生かして置けば、いつ何を云い出すか知れたものではない、吉信は決意しそして、決行した、
上村吉信こそが諸悪の根源であることは愈々明白となってきた、だが、と村山は、頭を抱え込む、証拠がない、何もない、のだ、
吉信を拘束した青木刑事が
「と考えられる」、
「とは考えにくい」、
と、その、複数の死の理由を陳べたように、事件性を証明するものは、無い…
毎朝、捜査本部で開く定時の会議も、ほぼ発言者もなく、あっても目新しい物も、ましてや目覚めの目を覚ますような材料はなく、ただただ重い空気が、たばこのヤニ煙で濁った空気と混じり合って会議室に充満するだけ、だった、
明日には上村吉信の身柄拘留期限が切れる、このままでは無罪放免となる、村山は、歩き疲れて鉛のように重い足を引き摺って会議室の扉を開けた、
黒板の前に教卓のような机、その上に、何やら新聞紙でくしゃくしゃに包んだ物が、二つ三つ載せてある、
青木が、その横に新人の吉田が、額が泥と汗に塗れてその机を挟んで立っている、その服も、靴も、髪の毛も泥土に塗れている、
青木が、新聞紙の包みを解く、一つは女ものの黄緑色の雨靴、これも泥に塗れ、特に靴底はべったりと土が付いている、
そしてもう一つの包みは、牛乳瓶のような角い瓶、口はナイロン袋で密封してあり、瓶の底に、飲み残した牛乳のように白い液が…
いったい、どうした?何だ、これは?
そう目で問いかける村山の顔を見ながら、青木が説明する、
「鹿木島の、先日、遺体を掘り起こしました清水由美子の墓の後ろに狭い空き地があり、そこが猪が掘り起こしたように土が盛り上がっていることに気付いていたのですが、この付近一帯の山で猪出没の話なんか聞いたことがなく、不思議に思いまして、勝手にですが、どうしてもそのことが頭から離れず、昨夜、吉田君と二人で島に渡り、そこを掘ってみたんです、
するとここに在ります、女ものの雨靴一足、この牛乳瓶一本、が埋まっていました、牛乳瓶はこっちのこのナイロン袋に入れて埋まっていたんですが、袋を開けるなり、胃がむかつくような匂いが出て来まして、この匂いは清水由美子が救急に運ばれて来た時、口に付いていました泡と同じ匂いであることに気付き…」
まるで、花咲じいさんの、ここ掘れわんわん、のような、取って付けたような話に、村山はどう反応して良いか当惑しながら聞いていた、
「夜明けを待って、鹿木正男さんを起こし、この靴と、牛乳瓶を見せて何か心当たりがないか訊ねましたら、靴は、清水由美子がこの島で住むようになって買って来たものに似ている、牛乳瓶は、誰かが町から買って来たものだろうが、特に覚えはない、邸には誰も牛乳は飲まないので、一本も空き瓶はない筈だ、と答えました、
邸からあの墓地迄少し離れていますが、清水由美子の遺体を埋葬する前後に、誰か、あの付近で見たか尋ねると、誰も、と、
いったん、そう返事したんですが、何か思い出したのか、ふと、ただそれがいつだったか記憶がはっきりしないですが、墓地の辺りで、夜中、何か、掘るような、小石にショベルが当たるような音が、一、二度聞こえた、ような気がして目が覚めたことがあった、だが、それもどこから聞こえてきていたのか、起きて確めたわけではないので何も分からない、と答えました」
これもまた、取って付けたような話に、村山は、青木の作為を疑った、その見え透いた下心に腹が立ってきた、
罵りの言葉を噛み殺して我慢する村山の顔色に気付いたか、青木はいま一つの小さな包みを解き、中から、ナイロン袋を一つ取り出した、
中に、通常病院で見るものより小さくて細い注射器、しかも数本、先に針の付いたままのものもある、
村山は直感した、麻薬、覚醒剤中毒者が常用する注射器だった、そして同時に、口を歪めた男の顔が村山の頭の中にはっきりと思い浮んだ、
「これが、一緒に埋まっていました」
村山の苦しい胸の内を読んで脚本したような話の展開に、しかし、村山は大いに感動させられた、
「青木、君、すぐそれを鑑識に持って行け、俺からも電話入れとく、その結果をすぐ電話で知らせてくれ」
村山は吠えた、
35、
夕方になって、苛々と、檻の中の熊のように、部屋の中を行ったり来たりして待ちかねた、県警鑑識課の野田から電話が入った、
「数本の注射器に、僅かずつ溶液が残留していまして、それを集めて鑑定した結果、覚醒剤を溶かしたものだと判りました、
注射器全てから指紋が検出されました、全て同じ人物の指紋、かつ雨靴、牛乳瓶からも、注射器に付着していたものと同じ指紋が検出されて、青木さんが持ってきていた大阪府警の資料と照合して、上村吉信のものと完全に一致しました、
牛乳瓶に残っていた白い液は、有機リン酸パラチオン、それに雨靴の靴底に粘土質の土がついていましたが、この土と、青木さんが参考にと持って来ていた畑の土と、含まれる菌類の種類や土質成分が全て一致…」
後の説明は村山の耳に殆ど入っていなかった、これだけ聞けば充分、だった、最後に青木と電話を代わり、労をねぎらってやった、
上村吉信の拘留は延長された、
取調室、
上村吉信は、椅子を斜めに引き、片足を机の上に載せ、対面の村山に視線を合わそうともしない、不貞腐れた態度に、腹を立てた青木が、机の上の吉信の足を払い除けた、椅子から転げ落ちそうになった吉信の首を掴み上げ、
「舐めんな、上村」
と吉信の鼻先で吠えて突き放した、立ち上がり、座りなおして猶、不貞腐れた態度を続ける吉信の顔を見ていた村山、
「もう、何ぼ、突っ張ってもアカンのや上村、お前の容疑は完全に固まった」
「ワイが由美子を殺したって未だ抜かしてんのか、何遍云うたったらワカんね、オレは無実、無罪、潔白の真っ白け、や、
証拠有るんやったら見せてみいや、嘘八百並べたって、このご時世、裁判始まったら、赤っ恥掻くんはあんたらやで、いっそのこと、あんたらが作った調書、ここへ持ってきたらええがな、全部、ハンコ押したんが、ワシ、やりました、て、せやけど、この後、眠らせてくれるて条件付きや、
せやけど、それ、裁判始まったら、どこぞの事件みたいに、新聞記者の前で、冤罪や、冤罪や、拷問されて、ハンコ無理に押さされてん、て叫んだるさかい」
「舐めんな、この餓鬼」
青木が吉信の胸倉掴み上げて、その頬に拳固を撃ち込んだ、床に崩れ落ちた吉信は、椅子に凭れ乍ら立ち上がり、
「ようやってくれるや、青木さん、どうせアンタに出来るん、ひと殴るだけや、ちったあ頭使えるようになりや、せやけど、別にええで、何ぼでも好きなだけ殴ってくれたら、その方がワイも手間が省ける、顔に赤たん、青痣つけて裁判出たら、ワイ、何も云わんでも拷問されたん一目でわかる、ワイの顔見た途端、裁判官が「無罪」て宣言してくれる、わな」
「おい、上村、よう云うた、お前の望み通り、これから毎日朝から晩まで、その顔、殴ったる、ただな、一言云うといたる、お前、勘違いしたらアカンぜ、裁判出て、どうのこうのてお前、云うてるが、誰でも彼でも裁判に出られる思うてんか?ここで、何人か、裁判所に行く前に、棺桶に入れられてそのまま焼き場へ連れて行かれたん、何人もおるんやで、お前も、その口、やな」
青木を制して、村山が、宥め口調で吉信に話し掛ける、
「清水由美子殺しの動機は今更改めて云わんでもええやろ、保険金が目的や、お前は清水由美子を唆して上村定信に農薬パラチオン飲ませて殺し、掛けとった保険金、二人で分けた、次に定信の娘三人に保険掛けて、事故に見せかけて二人の娘を殺した、
ところが、こっからあんたと由美子、二人の予定が狂うた、保険会社が保険金詐欺を疑うて保険金が払われへん、お前ら二人、お前の会社の、伴野社長に借りた金、返せんで、追い込み掛けられた、
伴野の会社からややこしいのがお前を訪ねてきて、散々痛めつけた、由美子は暴行された、あんたら二人の歯車が全然噛み合わんようなった、顔合わせたらいがみ合うなった、お前は、由美子を殺したい程憎むようになった、由美子を殺せば、お互いに掛け合うた保険金も下りて来る、今度はそれを狙うた、お前はパラチオンを柚子農園の倉庫から盗んで来て、それを由美子に飲ませた」
「有ること無いこと寄せ集めてそんな作文作ったんや、せやけど、何処にも証拠無いんちゃいます?」
村山は目配せして青木に新聞紙の包みを持ってこさせた、青木が、机の上に載せた包みを一つずつ解きながら、
「これな、全部、鹿木島の墓地に埋まってたんを掘り起こして持ってきたんや、まずは、この雨靴や、見覚え、あるやろ?お前が果樹園にパラチオンを盗みに行った時、履いて行った雨靴、お前の指紋がべったり付いとった、
それに、靴底に、その果樹園の土がこびりついて、お前がそこに来とったことを証明してくれとる、
この牛乳瓶にも、お前の指紋があった、墓地から掘り出した時、この瓶の底にパラチオンが残っとった、パラチオンをこれに入れて持って帰り、それを由美子の口に流し込んだ、
それに、この注射器、全部見覚え有る思うねんけど、これで、覚醒剤、注射してたんやな、これにはどれもお前の指紋しか付いてなかった、ここへ押し込められてから、そんなに禁断症状、出てないようやけど、まだ、そないにまで中毒になってなかった、かも知れんな、
この雨靴、靴底の土、牛乳瓶、牛乳瓶の底のパラチオン、それに名刺代わりに注射器迄一緒に、このナイロン袋の中にまとめて入っとった、
どや、これだけ証拠揃えたったら、何ぼアホなお前でも、もう十分やろ、え、どや観念、したか?」
「ほんま、お前らこそ、アホ、やろ、何やこれ、どっから持って来たんや?
知らんがな、その雨靴も、牛瓶瓶も、見たこと、ないわ、その注射器だけは認める、全部、ワイが使うとったもんや、せやけど、ワイ、そんなとこへ埋めた覚え、無いで、
指紋の鑑定書?そんなもん、作ろ思うたら、何ぼでも作れまんがな、何ぼ、誤魔化して、ワイを堕とそう思うても無駄や、全部、あんたらの作り話や、ほな、もう行こや、裁判所へ、その方が早い、それとも、棺桶でも持ってくるか、このクソボケが」
36,
上村吉信は強情に否定し続けた、その上村吉信の顔が日に日に腫れぼったくなっていく、村山は、青木が毎夜、上村吉信を地下の留置場から連れ出し、夜明け近くまで、執拗に取り調べていることを承知していた、
上村の顔を見る限り、顔に痣や殴られて唇が切れたり、内出血の痕は観られない、だが机を挟んで対面する時、上村はほぼ意識朦朧とし、沈黙がほんの数秒も続けば、座ったまま眠りに落ちた、後ろに控える青木に耳元で怒やしつけられ、椅子を蹴とばされて漸く、目を開ける、
青木は、警察の違法取り調べを糾弾する最近の世論に配慮して、殴る蹴るなど表面的な暴力を使わない、痕跡が残らぬよう指を捩じ曲げたり、指や脚の関節を逆にひねったり、気絶する直前まで首をじわーっと絞めて、上村吉信の体を痛め付け、自供を迫った、だが、上村吉信は頑なに犯行を認めない、
身柄を送検しなければならず、その期日が愈々迫る、だが、上村は犯行を否定する、上村の指を切り落とし、その指先に朱肉を付けて、供述書に捺しつけたい衝動に駆られるが、これだけ強情な上村を送検すれば、世論の非難を掻き立てるような物騒な物、持ち込んで来やがってと、却って村山が検察から非難を浴びかねない、
拷問は瞬時的には効果がある、とくに一般人にはその効果は大きい、だが常に殴る蹴るの世界に生きてきた男にその効果はない、しかし、戦前から日本の警察は、自供を得るために、伝統的な、優れた拷問術を持つ、中でも、眠らせない、ことが最大に効果を発揮する、落としの名人と呼ばれる警官は、殆どがこの手の名人である、そして、この落としの妙手は、上村吉信の様子にその効果ははっきりと表れて来ている、
村山は青木に助言した、
「一睡もさせるな」
その朝、定時の取り調べに、警官二人に抱えあげられて取調室に連れて来られた上村吉信は、村山と机を挟んで座らされるなり、首が折れたかのように頭をがくっと机に打ち付け、そのままうつ伏せて、大鼾をかき始めた、青木が上村吉信の片方の耳を掴んで捩じ上げ、その耳元で、青木は
「起きろ」
と怒鳴りつけた、
漸く重い瞼を開けた上村、村山の顔を見て、にやりと、横に逸れた口を開けて微笑んだ、ように見えた、いつもよりその口が横に引き攣っているように村山には見えた、そのまま吉村は、こんにゃくのようにぐにゃりと机から床に崩れ落ちた、大鼾をかき、止まない、
青木が、胸倉を掴んで起こそうとした時、上村の体がてんかん症状のように痙攣し、遂に硬直して動かなくなった、仰向けた顔は、横に逸れた口が更に耳元まで引き攣り、目は白目をむいて、上村は意識を失っていた、
村山は、床に仰向けた上村吉信の顔を見下ろしながら思った、いっそのこと、このまま死んでくれた方が村山には余程好都合だった、
村山が未だ新人の頃、戦中、戦後の十数年間、取り調べの最中に、村山の目の前で、いきなりに心臓発作を起こしてそのまま息を引き取った容疑者、被疑者は何人もいる、何れも先輩刑事達から連日連夜、激しい拷問を受け、強情にも決して犯行を認めようとしない男達程この症状に襲われた、男達は、心臓発作、脳出血で廃人となるか、棺桶に入って送り出された、
その男達の死体には、男達の最後の様子が記録された文書が添付されていた、被疑者は、愈々否定出来ない真実を、そしてそれを証する決定的な証拠を突きつけられ、遂に精魂尽き果てて観念し、自供書に自ら拇印を捺して、全ての犯行を認めた、と、
戦後、時代は変わった、法律が変わった、だがこの拷問は、取り調べ警官の伝統的常套手段として全国津々浦々、何処の警察署でも未だに重宝されている、
被疑者の急死の理由など何とでもつけられる、遺体に添付された供述書が、新刑訴法施行以降でも、余程世間の注目を浴びた事件以外で、裁判所から突き返された例はただの一度もない、
ただし、これは全て被疑者の死亡が医師の診断により確実となった場合でのみ、このやり方は有効である、
上村吉信は、床に倒れたまま、ピクリとも動かない、意識も無い、だが脈はまだ微かにあった、
青木は村山の顔を見た、村山は顔を背けた、青木は、にやりと笑い、上村吉信を床に寝かせたまま放置して二人は取調室に外から鍵を掛けた、
1時間後、2時間後、二人は様子を窺いに来た、微かにだが上村吉信の呼吸音は聞こえる、気のせいか、顔に血の気が戻ってきたように少し赤味さえ帯びている、
村山は、やはり新刑訴法を畏れていた、昔なら、被疑者が死ぬまで、横で一杯飲みながら待つことも出来た、
だが新刑訴法は、被疑者への暴行を厳しく禁じており、それでも昔気質の刑事達は好き放題、やりたい放題に被疑者を痛め付けて自供を得る、
或る例がある、拷問に晒されて遂に自供した被疑者、だがその容疑は濃く、証拠もあった、だが、被疑者は強情にも否定し続けた、 拷問は仕方なかった、
被疑者は付き添いの弁護士に唆されて、公判開始早々裁判長に向かって、自供は激しい暴力を受けて無理やり供述させられたものだと泣いて訴え、その涙声に新聞記者が飛びつき、担当官は「冤罪」だと、それこそペンの暴力に晒され、本人は勿論、無垢の家族全員、世間から白い目に晒されて遂にはどこかへ逃げて行く、そんなニュースも聞いた、
こんなご時勢に、村山には元から全身全霊で抗う勇気はない、全て我が身の保全、家族の安全、そして我が将来の出世確保が最優先である、
留置所に収監した被疑者の健康保持は、警察の責務であると新法は厳しく規定し、被収監者の医療、健康保持に警察は責任を負うべしと新法は定めてもいる、
村山は夜中になって苦渋の決断した、救急車を呼んだ、青木が、机の上の朱肉を取り、村山に向かい指を押し付ける真似をして見せた、村山は暫く考えたが、苦虫噛んだような顔をして首を振った、
上村吉信は救急車で町の診療所に担ぎ込まれ、山代医師の診断を受けて、上村吉信はそのまま入院することになった、裁判所は上村吉信に対する拘留執行の停止を決定した、
37,
上村吉信はしぶとく生き残った、だが体は板に貼り付けられたように、腕も脚も、指先さえも木に括りつけられたように、曲げることも延ばすことも成らなかった、また顔は引き攣って突っ張ったように、瞬きすら出来ず、看護婦が差し出すスプーンの汁を口に流し入れて貰っても、飲み込むことも出来ず、その殆どが口から溢れ出た、
だが、上村吉信の意識は醒めていた、廊下を歩くスリッパの擦れる音も、看護婦らの欠伸も丸々聞こえていた、
事実、吉信は由美子を殺していなかった、由美子との仲は、最悪だった、その顔を見るさえ我慢出来なくなっていた、由美子の口から罵声を浴びれば、その首絞めて殺したい衝動に駆られた、
だが実際にはその口を平手で打って黙らせれば激情は収まった、ただの、巷に普通に見る、借金取立に押し掛けた家で、吉信の目の前で、忽ち始まる夫婦喧嘩の見本のようなもの、だった、
ただ、上村吉信は追い込まれていた、伴野からの自身の借金に加え、鹿木が借りた金の保証人にもなって、その額は大きく膨れ上がっていた、伴野は容赦なく取り立て屋を送り込んできた、伴野の金への執着を上村吉信は身に染みて知っている、
ふと吉信は思い当たった、由美子とお互いが受取人になって保険を掛け合った、その保険金があれば、と思いついた、その金、持って何処か遠くへ逃げる?
吉信の心は動いた、そして後悔した、何でこんな単純なこと、今の今まで思い付かなかったのか?
吉信と由美子は、特に何も考えず鹿木島に逃げて来た、鹿木島、伴野から金を借りた鹿木正男の経歴調べれば、二人がここに逃げて行くことは誰にも予想できた、あの時点で、どこか別のところへ逃げていれば、事態は変わった筈…
だが、何れにしても、吉信は由美子殺しを実行しなかった、いや、未だ何も、生来の怠け癖か、愚図って何も決めていなかった、
吉信が仕掛ける前に、由美子は自分から毒を飲んで死ぬ、自殺するような柔な女ではない、
誰かに毒を飲まされて死んだ、吉信には、誰が殺ったか、そんなことはどうでも良かった、自分が手を下さずとも由美子は何れ、自分とどっちが先か分らないが、殺される、
吉信は、大阪の保険会社を訪ね、姪二人の生命保険金、自動車の保険金、請求した時と同じ担当者を指名して面会した、
さっさと金払わんかい、と担当者に噛みついた、煮え切らない態度に癇癪を起して吉信は保険会社のビルのロビー、玄関前の通りでも、不払いを難詰って吠えまくった、
だが、金は一銭も振り込まれなかった、伴野は、使いの者を送って、いついつまでに金を払え、さもないと命はない、と期限を切って来た、伴野の、金を返さぬ者への残酷な仕打ちは、吉信は身近に居て誰よりもよく知っている、決して脅しではない、
吉信は切羽詰まっていた、
だが、警察に、由美子殺しの容疑者として逮捕、拘留されて、吉信は、不法逮捕、誤認逮捕に激しく抗議しながら、吉信は自分の心は逆に安らいでいることに気が付いた、留置場に閉じ込められて過す一日がなんとも心の芯から安らいだ、
何故か?ここは伴野には絶対手出しの出来ない場所だった、それを知って以来、吉信は、青木から指を逆さに折り曲げられようが、首を気を失うまで絞められようが、耳元で鼓膜が裂けんばかりに怒鳴られようが、何んとも思わなくなっていた、却って心が安らいだ、
体は、石のように固く、僅かにも動かない、だが、久しぶりに、ここ数日、たっぷりと眠れるせいか、心は穏やかであり、脳だけは活発に動いてくれた、
俺は、由美子を殺していない、なら、誰が由美子を殺した?しかも、それこそ、鼻を抓まれてもそれが誰だか判らないあの真っ暗闇の中、しかも横に自分が寝ている状況で、誰が…
病室の天井を見上げたまま、頬の筋肉、寸分も動かせない吉信、しかし頭は醒える、そして一つ一つ、吉信の、その冴えた頭の中に浮かんで見えるものがある、
雨靴?あの草色の、女ものの雨靴、青木はこの雨靴にお前の指紋がべったりと付いていた、と嬉しそうに云った、あの雨靴は、由美子が鹿木島に住み始めて、畑仕事の真似事でもして花の一本でも植えたい、と云って買って来たもの、だった、酒と金と男にしか興味の無い由美子が初めて見せた、女らしい一面、それを聞いた時、吉信は鼻で笑った、
実際、由美子がそれらしい真似事の一つでもしているのを見たことが無い、
その時のことを吉信は思い出した、そうや、町の祭りが近い、住民には旧領主家、鹿木島の神社で祭礼を催すと云って、町の男たち数人がその準備に島に上陸してきた、
その時由美子に云われた、あんたも手伝うたったらどないやの、あんたかて、痩せても枯れても、ご領主様の、分家の、分家の、更に妾の子、なんやから、と皮肉られ、面白半分、由美子が買ったまま殆ど履かずに置いてあった雨靴を出して来て、男達と汗を流した、ことがある、
だが、その日以後、あの雨靴に触ったことはない、確か、砂や泥で汚れたまま、住んでいた部屋の入口の棚か下駄箱に放置したまま、の筈、それ以上にも、それ以下にも、あの雨靴の記憶は無い、
その雨靴に、果樹園の倉庫に保管してあった農薬をお前が盗み出した時に、お前が履いていた雨靴、その靴底に、畑の土が付いていた、と手柄顔で青木は云った、知らんがな、そんな畑、どこに在るのか知らんがな、
で、何やて、この牛乳瓶は、その農薬をお前が盗んできた時に、入れて持って来た牛乳瓶や、て?
そうや、思い出した、あの牛乳瓶も、祭礼の準備に来た男が、喉が渇いた、と氷を詰めた箱で冷やしたビールやジュース、そこから牛乳瓶一本だけ残っている、飲むか?とその男が吉信にくれた、牛乳は余り好きではなかったが、折角なんで、受け取って飲んだ、そうや、あの牛乳瓶や、青木が見せたんはあの牛乳瓶や、飲んだ後、空き瓶どうした?そんなこと、一々覚えてる筈も無い、
だが青木は、あの牛乳瓶の底に、由美子に飲ませた農薬が残っていた、と鼻を膨らませて云った、この俺が、そんな厄介な物、盗んできた?知らんがな、そんな農薬、何処に在るのかさえも、第一、何回聞いても、その農薬の名前、云われへん、
注射器、あれは、間違いなし、オレが使うてた注射器、それだけは間違いない、
せやけど、誰が、アホやあるまいし、指紋べったりの雨靴や、牛乳瓶と一緒に、しかも、掘り返されたら、これが誰のものかすぐ分かるそんなものと一緒に入れて埋める訳がない…
そや、俺は使うた注射器、汚れたら、鹿木の住んでる母屋の台所で洗い流して使うた、古くなったり汚れたりしたら、そのまま、台所の洗い場の下に棄てていた、由美子のことで調べに来た警官の誰かが見つけて、青木に、こんなもの見つけた、と見せて、あの青木が牛乳瓶や雨靴と一緒にビニール袋に入れて、見つけやすいところに埋めた?
意識の醒えた吉信に、更に別の疑問が浮かんだ、俺は、もしかして嵌められたんやないか…?
吉信にはその理由が解らない、しかし考えれば考える程、そうとしか思えない、なら、誰が、俺を嵌める?あの青木と村山か?俺をどうしても由美子殺しの犯人に仕立てようと、こんな細工した?
あの二人になら、見つけた雨靴に畑の土を擦り付け、どこかでに転がっていた牛乳瓶に何とかチオンと云う農薬を入れ、そこに俺が捨てた注射器を一緒に袋に入れて、それも、由美子の遺体を埋めた墓場で埋めることなど簡単に出来る、そんな汚いやり口は警察の常套手段、
38,
あいつらなら、そんなことやりかねん、
吉信は怒りで腸が煮え繰り返ってくる、どう仕返ししたものかと考えている内、吉信の脳裏に、青木がアホの一つ覚えに何度も繰り返した台詞をふと思い出した、
「鼻を抓まれても誰か判らないあの真っ暗闇の中で…」
この言葉が、或る一人の男の顔を思い出させた、実際、あの真っ暗闇な中で、しかも横に吉信が寝ている部屋で、誰にも気付かれず、あの部屋に侵入し、寝ている由美子の口に、農薬を入れることが出来る者が一人、確実に居た…
あの夜、そうや、俺は酒を飲んだ、普段は先ず飲まない、訳が有った、子供の頃、軽いてんかん症状が出て、その時医者に云われた、大人になっても酒は飲むな、と厳しく云われた、ましてこの薬を飲んだ時は絶対飲むな、副作用でひどい眠気に襲われ、体がふらついて立っていられなくなる、と警告されたことを子供心に身に染みて覚えている、
だが、あの夜は、てんかんの発症を抑える薬を、偶々服んだ、その日、鹿木が、宵の口に珍しく二人の部屋に訪ねて来た、土産物で貰った地酒がある、一口でも寝酒に飲みや、と置いていった、
それを由美子が寝る前に一口飲んだ、当時、二人には殆ど会話はなかった、物云えば互いを雌犬、売女、畜生め、と罵り合った、だが、酒の酔いがあってか、由美子が思いがけないことを云った、
「ごめん、な、あんた、うち、いつもあんたに文句ばっか、云うてる、自分でもほんま、嫌になってんね」
と、しおらしいことを云った、その言葉にほだされて、吉信も一口、飲んだ、一気に心地よく酔った、そのまま眠りに落ちた、
鶏が喉を絞められたような、ギエーと云う声で目が覚めた、漆黒の闇、辺りを見回した吉信は、強烈な、卵の腐ったような匂いに激しく咳込んだ、立ち上がって真上にぶら下がった電灯のスイッチを捻った、
布団の上で、由美子が、やや厚手の浴衣から胸の両の乳房を丸出しに、脚の腿を、掛けた布団からはみ出して仰向けていた、目は大きく見開き、起きているのかと顔を覗き込むと、目は白目をむき、口の周りの、蟷螂の卵のような、真っ白な泡を溜めていた、
口の周りの泡から鶏卵の腐ったような匂い、あの時、吉信はふと、これと同じ匂い、何処かで…確かに、何処かで…
だが、吉信は気が動転し、事態は急を要した、こんな女、死ぬんなら勝手に死ねばいい、と思ったが、眠りにつく前の、由美子の云った一言が思い出された、
「ごめん、な、あんた、うち、いつもあんたに…自分でもほんま、嫌になってんね」
吉信は鹿木の部屋へ駈け込んで急を告げた、
そうや、あの匂い、思い出した、
吉信は愛車スカイラインの後ろに佳代と佳子二人を乗せ、海岸線に沿って国道を、左手に遠く、夕陽に染まった水平線を見ながら、唸りを上げて高速度で飛ばしていた、
喉が渇いた、助手席に、出掛けに鹿木が渡してくれた、旧日本軍の兵隊用の古めかしい丸い水筒を置いてある、速度そのまま、手を伸ばし、付いた紐を引き寄せて水筒を掴み、両肘でハンドルを押さえ、水筒の栓を回し、飲み口を口に咥えた瞬間、腐った卵を撒き散らしたような強烈な匂いに顔を包まれ、一瞬、吐き気で気を失い、次の瞬間、気が付けば車は宙を飛び、車は頭から磯の岩場に突っ込む寸前、だった…
事故の衝撃で、そのこと全てを忘れてしまっていた、いや、自分は、あの時、子供の頃から偶に発症するてんかんの発作に襲われたものと思い込んでしまっていたのだ、
今、はっきりと吉信は思い出した、あの古めかしい水筒の水、口に入れた瞬間、気を失う程の悪臭に塗れたが、その時のあの匂いは、由美子の口に溢れた泡の匂いと同じ、ものだった、鹿木があの水筒に同じ農薬を入れ、それを俺に飲ませようとした…
あの、紐の付いた水筒、あの後、どうなった?そうや、思い出した、俺は宙に浮いた車から、道端のコンクリートブロックにぶつかった衝撃でドアが壊れて開き、俺は車から放り出された、
俺は、岩の間の潮だまりに落ちた、その上に、俺の頭の真上に車が落ちて来た、だが車は岩と岩に挟まれ、俺の頭にぶつかる寸でのところで止まった、
俺は岩の間から這い出した、ふと汐に、水筒が浮かんで漂っているのを見た、古めかしい水筒、俺は何気に、その水筒の紐を掴んで、岩の凹みに押し込んだ、何故あんな状態の時に、そんなことしたのか判らない、
ここまで考えて、結論が見えてきた、あの鹿木、事故に見せかけて俺や、末の富子は偶々体の具合が悪くなって命拾いをしたが、定信の娘三人を殺そうとした、それに由美子に毒を飲ませて殺し、由美子殺しを俺の仕業のように見せかけて俺を犯人に仕立てようと仕組んだ…?
そうや、あの水筒見つければ、鹿木が俺を殺そうとしたことが証明出来る、いや、この俺だけではない、由美子にも、同じ毒飲ませて殺したんはあの鹿木やと証明出来る、
吉信は更に思い出した、由美子が毒飲まされて死んだ前の日、鹿木は何を思ったか、誰かの貰いものだと云って酒を持って来た、あんなこと初めてのことだった、あの酒は、酒に弱い俺を眠らせて、俺が気が失ったように眠る間に由美子に農薬を飲ませる為に持って来た…今になって、こんなことに気が付いた、吉信は、動かぬ体を無理に跳ねようと暴れたが、体は何の反応も見せなかった、
青木が並べて、これが証拠や、観念せえ、と見せた証拠品、雨靴も、牛乳瓶も、それに鹿木なら、俺が注射器を何処に棄てていたのか知っている筈、その証拠品をわざわざ、由美子の墓のすぐ近くに穴掘って埋めて、誰にも見つけやすいように細工したんや、
一事が万事、全てが鹿木の仕業に繋がって来る…
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