百年のしずく

永田英晃

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一 水上の祈り

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の都は、朝もやに煙っていた。

「——天津神国津神八百萬神等に、恐み恐みも白す……」

十五歳の汐音は、瑠璃色の儀式服に身を包み、水上神殿の最前列にひざまずいていた。
声は若竹のようにはっきりと、しかしどこか虚ろに、延々と続く祝詞を誦した。

頭上では、無数のドローンが香炉を携え、沈香の煙を螺旋状に撒き散らしている。その煙が、人工的に制御された微風に乗り、大理石の柱の間をゆっくりと漂っていく。

百年の時を経た東京——今は「東京蓮」と呼ばれるこの水上都市は、関東平野の大半が水没した後、人類が最後の足場として築いた祈りの場所だった。
汐音の目に入るのは、無数の橋で連結された浮島状の区画、そしてその間を静かに行き交う自動航行の舟々。全てが完璧に設計され、計算され、制御されていた。

地上にあった頃の喧騒も雑踏も、ここにはない。代わりに流れるのは、絶え間ない誦経の声と、電子鈴の涼やかな響きだけだ。

「よく誦じた、汐音」

儀式が終わり、神殿を後にする汐音に、神主ロボットが声をかけた。その表面は漆黒の漆塗りのようで、表情はないが、声には人間らしい温もりがプログラムされていた。

「高尾山への大規模神事への参加が決定いたしました。あなたは若年層代表として、祭文を奉納する役を仰せつかります」

「……はい」

汐音は低く答えた。心の中には、得体の知れない隙間風が吹き抜けていた。この水上都市で生まれ育った彼女にとって、「山」とはデータベースの中の映像でしかない。
隆起した緑の塊。岩石と土。そこには制御されない「何か」が息づいているという。

「どうかされたか?」

「いえ……山に行けることを、楽しみにしています」

それは嘘ではなかった。けれど、なぜ楽しみなのか、彼女自身もよくわからなかった。

帰路、水上住居へ向かう連絡船の中で、汐音は窓の外をぼんやりと眺めた。
透き通った水の下には、かつての超高層ビルの影が、巨大な沈殿物のように横たわっている。太陽の光が水底まで届き、コンクリートの骸に幽かな輝きを与えていた。美しい、と汐音は思った。整然とした、秩序だった美しさ。けれど、それがなぜか胸を締めつける。

「おかえりなさい、汐音さん」

住居のドアが滑り、家事用ロボットが迎えた。室内は最適な湿度と温度に保たれ、夕食の準備が整っていた。栄養バランスは完璧で、見た目も芸術的だ。

「おばあさまの容体は、本日も変化ありません」

汐音は頷き、奥の部屋へ向かった。ベッドには、痩せた老女が静かに横たわっている。彼女の育ての親であり、この世界で彼女が「家族」と呼べる唯一の存在だ。
人工子宮で生まれ、AIが初期設定された汐音にとって、血の繋がりはない。それでも、この老女が彼女に語り継いだ古い歌や、手渡した一枚のハンカチは、彼女の内側で大切なものとして息づいていた。

「おばあちゃん、私、高尾山に行くことになったの」

汐音はベッドの傍らに座り、老女の手を握った。その手は、紙のように薄く、冷たかった。

「山……か……」

老女の目が、かすかに揺れた。その曇った瞳の奥に、何かがよぎるようだった。

「あの祠……覚えている……」

「祠?」

「うう……もう、はっきりとは……」

老女は微かに首を振り、また静かな眠りに落ちていった。汐音はため息をつき、自室に戻った。
机の上には、明日の祭文の予習用タブレットが置いてある。彼女はそれを開かず、代わりに引き出しを開けて一枚のハンカチを取り出した。
少し色あせた白い麻布で、端には細い糸で丁寧に刺された、一輪の小さな花があった。何の花か、汐音にはわからない。おばあちゃんが若い頃、自分で刺したものだと言っていた。

このハンカチを見ていると、むずむずとした感覚が胸の奥から湧き上がってくる。プログラムされた感情ではない、もっと原初的で、混沌とした何か。

窓の外では、夕べの鐘が鳴り響いた。全ての活動が停止し、瞑想の時間となる合図だ。汐音はハンカチを胸に当て、目を閉じた。

制御された水の流れ。計算された祈り。完璧に管理された生命。

そのすべてが、彼女の内側にぽっかりと空いた穴を、埋めることはなかった。

(山に行けば……あの制御されていない「何か」に触れれば……この胸の空どうが埋まるのだろうか)

そんな漠然とした期待を抱きながら、汐音は高尾山への日を待った。

水上都市は静かに夜の帳りに包まれ、無数の燈火が水鏡に映って、まるで逆さまの星空のように輝いていた。
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