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二 邂逅
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高尾山への神事は、東京蓮の年度最大の行事であった。
数百人の神職と参列者が、一列になってケーブルカーに乗り込む。汐音はその先頭近くに位置し、深緑の正装をまとっていた。
窓の外を流れる景色は、水上都市の整然とした幾何学模様から、次第に鬱蒼と茂る緑へと変貌していった。
(これが……「自然」)
データベースの映像では決して伝わらない、生きた緑の圧倒的な量感。枝葉が風にざわめく音。土の匂い。湿った空気が肌にまとわりつく感覚。
全てが初めてで、全てがあまりにも強烈だった。彼女の胸の空洞が、一瞬、緑の奔流で満たされるかのような錯覚を覚えた。
「整列せよ」
神主ロボットの声が、無機質に響く。山頂の広場では、巨大な仮設神殿が設えられていた。ドローンが奉納物を運び、電子巫女たちが舞を始める。
その様子は、水上神殿での儀式と何ら変わらない。ただ背景が、人工の建造物から、生きた山へと変わっただけだ。
汐音は定められた位置にひざまずき、祭文を捧げ始めた。声は朗々と響いたが、彼女の意識は次第に周囲の「何か」へと引かれていった。
(この風……ドローンの制御下にはない)
(この木々のざわめき……プログラムされていない)
祈りの合間、彼女はそっと目を開けた。儀式に没頭する人々の隙を縫い、彼女の視線は森の奥深くへと向かった。
そこには、陽光が木漏れ日となって降り注ぎ、苔むした岩肌を柔らかく照らしている。何かが、呼んでいるような気がした。
儀式が終わり、人々がケーブルカーへと戻り始めた時、汐音は一瞬、躊躇った。
「汐音、速やかに帰還の途につくように」
神主ロボットが声をかける。
「はい、少し……息が詰まりましたので、新鮮な空気を吸わせてください。すぐに戻ります」
それは言い訳だった。彼女自身、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。ロボットは一瞬、汐音を解析するように見つめたが、やがて頷いた。
「十分に注意せよ。自然環境は予測不能である」
人々の気配が遠ざかると同時に、汐音はそっと人目のつかない小道へと足を踏み入れた。
一歩、また一歩。
足元の落ち葉がざくざくと音を立てる。その感触が妙に心地いい。頭上では鳥の声がする。おそらくスズメか何かだろう。映像でしか見たことのない生き物が、実際に鳴いている。
(自由……)
その言葉が、脳裏をよぎった。
水上都市には、あらゆる行動に目的と規則があった。祈りには時が定められ、移動には経路が設定され、交わりには形式が存在した。
しかしここには、ただ「在る」こと以外の規則はないように思えた。
歩き続けるうちに、小道は次第に細くなり、やがてほとんど道とわからない獣道のようなものになった。木々の間から差し込む光が次第に弱まり、周囲は薄暗くなっていく。
我に返った汐音は、少し不安を覚えた。
(戻らなくては……)
振り返ろうとしたその時、視界の隅に、ひときわ濃い緑の塊が見えた。それは岩肌に寄り添うように建つ、小さな祠。
屋根には分厚い苔がむし、鳥居の朱色はほとんど剥がれ落ち、木の部分は黒ずんでいた。百年どころか、もっと長い時を、この場所で佇み続けているように見えた。
汐音は足を引きずるように近づいた。胸の鼓動が、なぜか速くなっている。
祠の前には、一対の石の狐像が置かれていた。片方は首が欠け、もう片方は風化で表情がほとんど判別できない。それでも、何かを守り続けているような佇まいだった。
彼女は鳥居をくぐった。
境内と呼べるほどの広さはなく、すぐに本殿らしき小さな建物があった。扉は半ば朽ちており、隙間から内部が見える。
中は薄暗かったが、わずかな光が差し込んで、中央の台の上に置かれた一つの物体を浮かび上がらせていた。
それは、一冊の書物だった。
背表紙は剥がれ、ページは膨らんでいた。明らかに長い年月、この湿気の中で放置されていたに違いない。しかし、なぜかそれは、この廃墟のような場所にふさわしくないほど、清らかな印象を与えた。
汐音はためらった。未知のものに触れることは、規則では禁じられていなかったか?
しかし、その禁止事項自体が、彼女の心をかき立てた。
彼女は細い腕を伸ばし、指先が古びた表紙に触れた。
その瞬間――
書物が、微かに温かく、そして柔らかな光を放った。
「!」
汐音は驚いて手を引っ込めようとしたが、すでに遅かった。光は彼女の指から腕へ、そして全身へと流れ込むように広がった。視界がゆがみ、周囲の森の景色が溶けていく。
耳に、聞き慣れない音が飛び込んできた。
ざあ―――
雨の音だ。
しかも、ケーブルカー内の環境音とは全く異なる、激しく、不規則で、生きているような雨音。
薄暗い祠の内部が、別の景色に置き換わっていく。木の壁が、ガラス窓に。苔の匂いが、紙とインクの匂いに変わる。
彼女は今、自分が跪いていることすら忘れ、眼前に広がる「幻影」に釘付けになっていた。
そこには、彼女の知らない時代の、小さな店の内部が映し出されていた。
そして、彼女自身によく似た、しかしどこか違う――もっと生き生きとした、人間らしい表情をした少女が、その店のドアを開けて入ってくる姿が見えた。
外は、土砂降りの雨である。
数百人の神職と参列者が、一列になってケーブルカーに乗り込む。汐音はその先頭近くに位置し、深緑の正装をまとっていた。
窓の外を流れる景色は、水上都市の整然とした幾何学模様から、次第に鬱蒼と茂る緑へと変貌していった。
(これが……「自然」)
データベースの映像では決して伝わらない、生きた緑の圧倒的な量感。枝葉が風にざわめく音。土の匂い。湿った空気が肌にまとわりつく感覚。
全てが初めてで、全てがあまりにも強烈だった。彼女の胸の空洞が、一瞬、緑の奔流で満たされるかのような錯覚を覚えた。
「整列せよ」
神主ロボットの声が、無機質に響く。山頂の広場では、巨大な仮設神殿が設えられていた。ドローンが奉納物を運び、電子巫女たちが舞を始める。
その様子は、水上神殿での儀式と何ら変わらない。ただ背景が、人工の建造物から、生きた山へと変わっただけだ。
汐音は定められた位置にひざまずき、祭文を捧げ始めた。声は朗々と響いたが、彼女の意識は次第に周囲の「何か」へと引かれていった。
(この風……ドローンの制御下にはない)
(この木々のざわめき……プログラムされていない)
祈りの合間、彼女はそっと目を開けた。儀式に没頭する人々の隙を縫い、彼女の視線は森の奥深くへと向かった。
そこには、陽光が木漏れ日となって降り注ぎ、苔むした岩肌を柔らかく照らしている。何かが、呼んでいるような気がした。
儀式が終わり、人々がケーブルカーへと戻り始めた時、汐音は一瞬、躊躇った。
「汐音、速やかに帰還の途につくように」
神主ロボットが声をかける。
「はい、少し……息が詰まりましたので、新鮮な空気を吸わせてください。すぐに戻ります」
それは言い訳だった。彼女自身、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。ロボットは一瞬、汐音を解析するように見つめたが、やがて頷いた。
「十分に注意せよ。自然環境は予測不能である」
人々の気配が遠ざかると同時に、汐音はそっと人目のつかない小道へと足を踏み入れた。
一歩、また一歩。
足元の落ち葉がざくざくと音を立てる。その感触が妙に心地いい。頭上では鳥の声がする。おそらくスズメか何かだろう。映像でしか見たことのない生き物が、実際に鳴いている。
(自由……)
その言葉が、脳裏をよぎった。
水上都市には、あらゆる行動に目的と規則があった。祈りには時が定められ、移動には経路が設定され、交わりには形式が存在した。
しかしここには、ただ「在る」こと以外の規則はないように思えた。
歩き続けるうちに、小道は次第に細くなり、やがてほとんど道とわからない獣道のようなものになった。木々の間から差し込む光が次第に弱まり、周囲は薄暗くなっていく。
我に返った汐音は、少し不安を覚えた。
(戻らなくては……)
振り返ろうとしたその時、視界の隅に、ひときわ濃い緑の塊が見えた。それは岩肌に寄り添うように建つ、小さな祠。
屋根には分厚い苔がむし、鳥居の朱色はほとんど剥がれ落ち、木の部分は黒ずんでいた。百年どころか、もっと長い時を、この場所で佇み続けているように見えた。
汐音は足を引きずるように近づいた。胸の鼓動が、なぜか速くなっている。
祠の前には、一対の石の狐像が置かれていた。片方は首が欠け、もう片方は風化で表情がほとんど判別できない。それでも、何かを守り続けているような佇まいだった。
彼女は鳥居をくぐった。
境内と呼べるほどの広さはなく、すぐに本殿らしき小さな建物があった。扉は半ば朽ちており、隙間から内部が見える。
中は薄暗かったが、わずかな光が差し込んで、中央の台の上に置かれた一つの物体を浮かび上がらせていた。
それは、一冊の書物だった。
背表紙は剥がれ、ページは膨らんでいた。明らかに長い年月、この湿気の中で放置されていたに違いない。しかし、なぜかそれは、この廃墟のような場所にふさわしくないほど、清らかな印象を与えた。
汐音はためらった。未知のものに触れることは、規則では禁じられていなかったか?
しかし、その禁止事項自体が、彼女の心をかき立てた。
彼女は細い腕を伸ばし、指先が古びた表紙に触れた。
その瞬間――
書物が、微かに温かく、そして柔らかな光を放った。
「!」
汐音は驚いて手を引っ込めようとしたが、すでに遅かった。光は彼女の指から腕へ、そして全身へと流れ込むように広がった。視界がゆがみ、周囲の森の景色が溶けていく。
耳に、聞き慣れない音が飛び込んできた。
ざあ―――
雨の音だ。
しかも、ケーブルカー内の環境音とは全く異なる、激しく、不規則で、生きているような雨音。
薄暗い祠の内部が、別の景色に置き換わっていく。木の壁が、ガラス窓に。苔の匂いが、紙とインクの匂いに変わる。
彼女は今、自分が跪いていることすら忘れ、眼前に広がる「幻影」に釘付けになっていた。
そこには、彼女の知らない時代の、小さな店の内部が映し出されていた。
そして、彼女自身によく似た、しかしどこか違う――もっと生き生きとした、人間らしい表情をした少女が、その店のドアを開けて入ってくる姿が見えた。
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