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三 雨音
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汐音は、自分が跪いたまま、その光景のただ中に浮かんでいるような感覚に襲われた。しかし体は動かせない。
最初に目に飛び込んだのは、無数の背表紙だった。
木製の棚に隙間なく並べられた本。
色とりどりで、大きさも厚さもまちまちだ。いくつかの背表紙は金文字でタイトルが刻まれ、他のものは手書きのラベルが貼られていた。その膨大な量と多様さに、汐音は息をのんだ。東京蓮の中央記録庫には、全ての情報がデータ化され、整然と保存されている。
しかしこの「物」の持つ、一つ一つが異なる形と質感、手に取った時の重さや匂いさえ想像できるような存在感は、データとは全く異なるものだった。
(これが……「本屋」)
彼女の脳裏に、おばあちゃんがかすかに呟いた言葉がよみがえる。
「楡堂という店があったな……」
店の内部は、薄暗かった。
天井からぶら下がった電球一つが、温かな橙黄色の光を放ち、雨に叩かれる窓ガラスを仄かに照らしている。雨音が、店内に静かなリズムを刻んでいた。
カウンターの向こうに、一人の老人がいた。背中は少し曲がり、銀縁の眼鏡をかけている。
彼は手にした一冊の本をそっと棚に戻すと、深いため息をついた。
(この人が……店主)
老人の視線が、店のあちこちをゆっくりと巡る。一つ一つの棚、積まれた本の山、古びたカウンター。その視線は、別れを告げるように優しく、そして寂しげだった。
その時、ドアの上の鈴が、かんと乾いた音を立てた。
同時に、外から勢いよくドアが押し開けられ、一人の少女が飛び込んできた。
汐音は、はっと思った。
(私……?)
いや、違う。
よく見れば、顔立ちは確かに似ている。同じように切れ長の目、小さな鼻、そしてやや血色の薄い唇。しかし、その少女の目には、汐音の内に常にある虚ろさではなく、雨に濡れたことによるいらだちや、ほっとした安堵といった、瞬間瞬間の感情がきらきらと輝いていた。
髪も、汐音の整えられた儀式用の結い上げとは違い、肩にかかった黒髪が雨粒でところどころ光っていた。
少女は、傘を勢いよく振り払った。
「あ、しまった!」
その声が、幻影の中で、驚くほどはっきりと汐音の耳に届いた。生きている人間の声。プログラムされた合成音声とは全く違う、息づかいを含んだ温もりがあった。
振り払った傘の先から飛び散った無数のしずくが、カウンターに向かって歩き出していたもう一人の人物——眼鏡をかけた少年の顔に、ばしゃりと跳ねた。
「わっ!」
少年は驚いて後ずさりし、眼鏡のレンズがしずくで曇った。上着の肩もみるみる濡れていく。
「ご、ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
少女は慌ててカバンの中を探り、白いハンカチを取り出した。何かが端に刺繍されているようだが、汐音の位置からはよく見えない。
「大丈夫です、気にしないでください」
少年は照れくさそうに手を振りながらも、顔は濡れ、眼鏡は曇り、どうしようもないありさまだった。
「だめだめ、ちゃんと拭かなくちゃ!」
少女は躊躇わずに近づき、手にしたハンカチで少年の頬や眼鏡のフレームを拭い始めた。
その動作は慌ただしく、決して上手ではなかったが、無邪気で真剣だった。
あまりの突然のことに、少年は固まってしまった。近すぎる距離。見知らぬ少女の手が自分の顔に触れる。
彼の耳がみるみる赤くなっていくのが、幻影を見つめる汐音にもわかった。
「あ、あの……もう、本当に大丈夫ですから……」
少年はようやく言葉を絞り出し、無意識にそのハンカチを——まだ少女が握っている——自分の方へ引いた。
「え?」
一瞬、二人の手が一枚の布の上で触れ合う。
その瞬間、少年はまるで火でも触れたかのように手を離し、代わりにハンカチだけをぎゅっと握りしめた。
そして、訳のわからない言い訳めいた声をあげると、ドアへ向かって走り出した。
「あ、傘――!」
少女の声もむなしく、少年は雨の中へ飛び出していった。ドアは勢いよく閉まり、鈴が再び悲しげに鳴った。
店内には、呆然と立ち尽くす少女と、何事もなかったように本を整理し続ける老店主だけが残された。
「……変な人」
しかし、その口元には、ほんの少しだけ、笑うような形ができていた。
その笑みを見たとき、汐音の胸に、鋭い痛みのようなものが走った。
(これは……何?)
悲しみでもない、寂しさでもない。彼女の言葉にはない感情が、幻影の中の少女を通して、自分自身に注入されていくようだった。
老店主がゆっくりと近づき、温かい声をかけた。
「濡れちゃったね。ゆっくりしていきなよ。この雨、しばらくやみそうにないから」
「……ありがとうございます」
少女はうつむき、先程まで少年がいた場所を見つめた。床には、彼が慌てた際に落としたらしい、小さなネックレスのようなものが光っていた。
幻影はそこで、ゆらりと揺らぎ始めた。
まるで映画のフィルムが溶けるように、本棚の輪郭がぼやけ、雨音が遠ざかっていく。
老店主の姿、少女の後ろ姿、全てが光の粒子へと分解され、吸い込まれていく。
「待って――」
汐音は思わず声を上げようとした。彼女はまだ見ていたい。あの温かな光の中で、あの生き生きとした表情をもっと見ていたい。
しかし、幻影は容赦なく消え去り、代わりに薄暗い祠の内部が戻ってきた。
彼女はまだ、古びた書物に触れたままの姿勢でいた。指先からは、微かな温もりが残っているだけだった。
外では、百年後の高尾山の、静かな夕風が木々を渡っていた。
汐音はゆっくりと手を引き、自分の掌を見つめた。そこには何もない。しかし、彼女の内側には、確かに何かが残っていた。
あの雨音。
あの温もり。
あの、見知らぬ少年の赤くなった耳。
そして、少女の、少し笑った口元。
「あれは……百年前?」
彼女は呟いた。声は、自分の耳にさえ、ひどく小さく、幼く聞こえた。
最初に目に飛び込んだのは、無数の背表紙だった。
木製の棚に隙間なく並べられた本。
色とりどりで、大きさも厚さもまちまちだ。いくつかの背表紙は金文字でタイトルが刻まれ、他のものは手書きのラベルが貼られていた。その膨大な量と多様さに、汐音は息をのんだ。東京蓮の中央記録庫には、全ての情報がデータ化され、整然と保存されている。
しかしこの「物」の持つ、一つ一つが異なる形と質感、手に取った時の重さや匂いさえ想像できるような存在感は、データとは全く異なるものだった。
(これが……「本屋」)
彼女の脳裏に、おばあちゃんがかすかに呟いた言葉がよみがえる。
「楡堂という店があったな……」
店の内部は、薄暗かった。
天井からぶら下がった電球一つが、温かな橙黄色の光を放ち、雨に叩かれる窓ガラスを仄かに照らしている。雨音が、店内に静かなリズムを刻んでいた。
カウンターの向こうに、一人の老人がいた。背中は少し曲がり、銀縁の眼鏡をかけている。
彼は手にした一冊の本をそっと棚に戻すと、深いため息をついた。
(この人が……店主)
老人の視線が、店のあちこちをゆっくりと巡る。一つ一つの棚、積まれた本の山、古びたカウンター。その視線は、別れを告げるように優しく、そして寂しげだった。
その時、ドアの上の鈴が、かんと乾いた音を立てた。
同時に、外から勢いよくドアが押し開けられ、一人の少女が飛び込んできた。
汐音は、はっと思った。
(私……?)
いや、違う。
よく見れば、顔立ちは確かに似ている。同じように切れ長の目、小さな鼻、そしてやや血色の薄い唇。しかし、その少女の目には、汐音の内に常にある虚ろさではなく、雨に濡れたことによるいらだちや、ほっとした安堵といった、瞬間瞬間の感情がきらきらと輝いていた。
髪も、汐音の整えられた儀式用の結い上げとは違い、肩にかかった黒髪が雨粒でところどころ光っていた。
少女は、傘を勢いよく振り払った。
「あ、しまった!」
その声が、幻影の中で、驚くほどはっきりと汐音の耳に届いた。生きている人間の声。プログラムされた合成音声とは全く違う、息づかいを含んだ温もりがあった。
振り払った傘の先から飛び散った無数のしずくが、カウンターに向かって歩き出していたもう一人の人物——眼鏡をかけた少年の顔に、ばしゃりと跳ねた。
「わっ!」
少年は驚いて後ずさりし、眼鏡のレンズがしずくで曇った。上着の肩もみるみる濡れていく。
「ご、ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
少女は慌ててカバンの中を探り、白いハンカチを取り出した。何かが端に刺繍されているようだが、汐音の位置からはよく見えない。
「大丈夫です、気にしないでください」
少年は照れくさそうに手を振りながらも、顔は濡れ、眼鏡は曇り、どうしようもないありさまだった。
「だめだめ、ちゃんと拭かなくちゃ!」
少女は躊躇わずに近づき、手にしたハンカチで少年の頬や眼鏡のフレームを拭い始めた。
その動作は慌ただしく、決して上手ではなかったが、無邪気で真剣だった。
あまりの突然のことに、少年は固まってしまった。近すぎる距離。見知らぬ少女の手が自分の顔に触れる。
彼の耳がみるみる赤くなっていくのが、幻影を見つめる汐音にもわかった。
「あ、あの……もう、本当に大丈夫ですから……」
少年はようやく言葉を絞り出し、無意識にそのハンカチを——まだ少女が握っている——自分の方へ引いた。
「え?」
一瞬、二人の手が一枚の布の上で触れ合う。
その瞬間、少年はまるで火でも触れたかのように手を離し、代わりにハンカチだけをぎゅっと握りしめた。
そして、訳のわからない言い訳めいた声をあげると、ドアへ向かって走り出した。
「あ、傘――!」
少女の声もむなしく、少年は雨の中へ飛び出していった。ドアは勢いよく閉まり、鈴が再び悲しげに鳴った。
店内には、呆然と立ち尽くす少女と、何事もなかったように本を整理し続ける老店主だけが残された。
「……変な人」
しかし、その口元には、ほんの少しだけ、笑うような形ができていた。
その笑みを見たとき、汐音の胸に、鋭い痛みのようなものが走った。
(これは……何?)
悲しみでもない、寂しさでもない。彼女の言葉にはない感情が、幻影の中の少女を通して、自分自身に注入されていくようだった。
老店主がゆっくりと近づき、温かい声をかけた。
「濡れちゃったね。ゆっくりしていきなよ。この雨、しばらくやみそうにないから」
「……ありがとうございます」
少女はうつむき、先程まで少年がいた場所を見つめた。床には、彼が慌てた際に落としたらしい、小さなネックレスのようなものが光っていた。
幻影はそこで、ゆらりと揺らぎ始めた。
まるで映画のフィルムが溶けるように、本棚の輪郭がぼやけ、雨音が遠ざかっていく。
老店主の姿、少女の後ろ姿、全てが光の粒子へと分解され、吸い込まれていく。
「待って――」
汐音は思わず声を上げようとした。彼女はまだ見ていたい。あの温かな光の中で、あの生き生きとした表情をもっと見ていたい。
しかし、幻影は容赦なく消え去り、代わりに薄暗い祠の内部が戻ってきた。
彼女はまだ、古びた書物に触れたままの姿勢でいた。指先からは、微かな温もりが残っているだけだった。
外では、百年後の高尾山の、静かな夕風が木々を渡っていた。
汐音はゆっくりと手を引き、自分の掌を見つめた。そこには何もない。しかし、彼女の内側には、確かに何かが残っていた。
あの雨音。
あの温もり。
あの、見知らぬ少年の赤くなった耳。
そして、少女の、少し笑った口元。
「あれは……百年前?」
彼女は呟いた。声は、自分の耳にさえ、ひどく小さく、幼く聞こえた。
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