百年のしずく

永田英晃

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七 運命

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幻影は、一転して鮮烈な色彩と動きに満ちていた。
百年前の高野山は、今日の高尾山とはまた異なる、深遠な霊気に包まれている。鬱蒼とした杉木立が空を覆い、石畳の参道は苔むし、所々に積もった落ち葉が湿った土の匂いを放つ。

二つのグループが、別々のルートから、同じ聖域へと向かっていた。

一つは、小学生たちの遠足の一行。
美百合は、他の教師たちと共に、子どもたちの列の後ろを見守りながら歩いている。子どもたちははしゃぎ、歓声を上げ、歴史ある建造物を指さす。
彼女はその無邪気なエネルギーに微笑みを浮かべつつも、目は常に児童の数を確認している。

「先生! このお寺、すごく古いね!」
「そうだね。千年以上も前から、ここにあるんだよ」
彼女の説明は優しく、子どもたちは興味深そうに耳を傾ける。

一方、少し離れた別の参道では、会社の慰安旅行のグループが、ややだらけた足取りで登っていた。
スーツ姿からカジュアルな服装に変わった大人たちは、仕事からの解放感に浮かれている。春馬はその集団の最後尾を、少し距離を置いて歩いていた。同僚たちの冗談に適当に相槌を打ちながらも、彼の視線は、木々の間から覗く天空や、遠くに聳える伽藍へと向かっている。
ここに来るのは初めてではないが、いつも同じだ。景色は目に入っても、心には何も響いてこない。

(何か、足りない……)

彼は胸ポケットに手をやる。
ハンカチの硬い感触。それはもう、単なる布切れではなく、彼の無意識の習慣、心のよりどころになっていた。

時は流れ、一行は奥之院近くの広場で休憩を取ることになった。子どもたちはおやつを広げ、教師たちは目を光らせる。

「みんな、ここから先はとても神聖な場所だから、静かにね。絶対にはぐれないで」
美百合が声を張り上げる。子どもたちは「はーい」と元気に返事する。

ほぼ同時刻、春馬のグループも近くの茶店で休んでいた。
同僚が「せっかくだからもっと奥まで行こうよ」と提案し、皆が賛成する。春馬は少し面倒くさそうだったが、流れに従ってうなずく。

空模様が、少しずつ怪しくなってきた。
さっきまで差し込んでいた陽光が、厚い雲に遮られる。山の天気は変わりやすい。

美百合は空を見上げ、わずかに眉をひそめる。
「天気予報では午後から曇りだけど……」
最新の気象情報を確認しようとするが、山の中、電波は不安定だ。

予感は的中した。

最初はぱらり、と一滴。それが杉の葉を伝って美百合の頬に落ちた。
次の瞬間、ざあっと、天が裂けたような雨が一気に降り注いだ。

「わあっ!」
「雨だ!」
子どもたちが騒ぎ出す。

「落ち着いて! カッパを着て、先生のところに集まって!」
教師たちの指示が飛ぶ。美百合も大急ぎでカッパを羽織り、児童たちの人数を数え始める。

一方、春馬のグループも大慌てだ。
「やべえ! 傘、持ってきてない!」
「茶店で雨宿りしよう!」
しかし、既に茶店は他の登山客でいっぱいだ。

「ここじゃ混むから、あの先のあずまやまで走ろう!」

誰かの提案で、グループは雨の中を駆け出す。春馬も渋々ついていく。
しかし、人ごみの中で、ふと躓いた同僚を助けているうちに、はぐれてしまった。

「おい、春馬!」
「先に行くぞ!」

同僚の声は雨音にかき消される。
振り返ると、もう誰の姿も見えない。ただ、白い雨のカーテンが立ち込めているだけだ。

(……しまった)

彼はため息をつき、周囲を見回す。もはや、来た道も行く道もわからない。
大きな杉の木の下に一時避難することにした。

同じ頃、美百合は血の気が引く思いをしていた。

一人の児童の姿が見えない。
「たかしくん? たかしくん!」
彼女の声は必死だ。

他の教師が「こっちで探すから、あなたは子どもたちを連れて先にある避難所に行って!」と叫ぶ。
「でも!」
「早く!」

美百合は苦渋の決断を迫られる。不安で胸が張り裂けそうだが、残りの子どもたちを危険にさらすわけにはいかない。子どもたちを連れ、指示された方向へ歩き始める。

雨はますます激しくなる。視界は数メートル先も見えない。石段は水で滑りやすくなり、子どもたちはおびえている。

何とか小さな堂宇らしき建物にたどり着く。どうやら休憩所のようだ。他のグループらしき登山客も数人いる。
「ここで待っていてね、先生が戻ってくるから」
美百合は子どもたちを他の教師に託すと、一人でまた雨の中へ飛び出した。
たかしを探さなければ。

雨と闇。方向感覚は完全に失われた。
叫んでも、返事はない。雷鳴が遠くで轟く。

(どこ……? たかし……!)

彼女は転びそうになりながら、獣道のような細い道に入り込んでいく。
足元は泥だらけ、髪も服もずぶ濡れだ。恐怖がじわじわと心を締めつける。

そして、彼女は見た。

雨煙の向こうに、ぼんやりと、小さな祠の輪郭が浮かび上がっている。

一方、春馬も杉の木の下だけでは限界を感じ、雨宿りできる場所を探して同じ方向へと歩いていた。
彼もまた、同じ祠を見つける。

二人は、ほぼ同時に、その朽ちかけているが、屋根だけはかろうじて雨をしのげそうな祠の、狭い縁側に飛び込んだ。

息を切らし、ずぶ濡れで、互いの存在に一瞬気づかず、ただ雨から逃れられた安堵に胸を撫で下ろす。

暫くして、激しい呼吸が少し落ち着いた時、彼らは初めて、すぐ傍に別の人間がいることに気づいた。

顔を上げ、目が合う。

轟く雨音。
冷たい風。
しかし、その一瞬、二人の間には、何かしら深い静寂が流れた。

初対面のはずなのに。

なぜか、胸の奥が、微かに疼いた。
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