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八 蘇る記憶
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雨は祠の屋根を打ち続け、その音が、かろうじて二人の間に流れる沈黙を埋めていた。
美百合は、まだ探さねばならない児童のことが頭を離れず、焦りと不安で胸がいっぱいだった。しかし、目の前の見知らぬ男性——彼もまたずぶ濡れで、少しうつむき加減に立っている——が、なぜか妙に落ち着いた雰囲気を漂わせている。
「あの……すみません」
美百合が、とりあえず口を開いた。
「ここ、しばらく借りさせてもらいますね」
男性——春馬は、ゆっくりと顔を上げた。雨で曇った眼鏡の奥の目が、美百合を一瞥する。
「ええ、どうぞ。僕も避難させてもらっていますから」
彼の声は、低く、少し乾いている。
どこか聞き覚えがあるような……。
美百合はそう思いながらも、まずは電話を取り出そうとしたが、当然のように圏外だった。
彼女はため息をつき、濡れた前髪をかき上げた。その仕草が、春馬の視界の隅に映る。
(どこかで……)
彼は眉をひそめた。
雨でぼんやりした思考を必死に働かせる。この女性、確かに見たことがある。しかし、いつ、どこで?
「あなたも、旅行で?」
美百合が、沈黙を破ろうと話しかける。彼女も、この男性から何か懐かしい、落ち着くものを感じていた。
「はい、会社の慰安旅行ではぐれてしまいまして」
「私は……小学校の遠足で。一人の子とはぐれてしまって、今、探しているんです」
彼女の声に詰まるような焦りが混じる。春馬は自然に、「大丈夫ですか?」と尋ねた。彼にしては珍しい、他人を気遣う口調だった。
「ううん……他の先生も探しているはずだから、きっと……」
その言葉を遮るように、遠くで雷鳴がゴロリと響いた。美百合は思わず小さく声を上げ、身を縮めた。
「すみません、雷がどうも苦手で」
「……こちらこそ、失礼しました」
春馬はなぜか謝り、祠の奥の方へ少し移動し、彼女により多くのスペースを空けた。その気遣いに、美百合はほっとした。
「この雨、しばらくやみそうにないですね」
「そうですね……山の天気は変わりやすいと聞いていましたが」
会話は、当たり障りのないものから始まった。天気のこと、高野山の印象、それぞれの職業。
春馬がエンジニアだと知り、美百合は「すごいですね」と率直に感心した。
彼女が小学校の教師だと知り、春馬は「大変な仕事でしょう」と労った。
雨音をバックに、言葉が少しずつ紡がれていく。最初のぎこちなさは、次第にほぐれていった。
不思議なことに、初めて会った者同士という緊張感はほとんどなく、むしろ長いこと会っていなかった旧知の間柄のような、自然な空気が流れ始める。
「子どもの頃、本屋でよく傘を忘れて怒られたんですよ」
美百合が、ふと思い出したように笑いながら言った。
「雨の日は特に。母に、『あなたは傘と縁がないね』って言われて」
その言葉が、春馬の頭の中で、あるスイッチを押した。
傘。
雨の日。
本屋。
「……本屋?」
彼の声が、少し震えた。
「ええ、駅前の、古い本屋さん。『楡堂』っていうお店」
ガチャン、と頭の中で、何かがはまった。
春馬はゆっくりと美百合を見つめた。
濡れた黒髪。切れ長の目。少し血色の薄い唇。
そして、今、不安そうに、しかしどこか優しく微笑んでいる口元。
記憶の霧が、一気に晴れていく。
十数年前。雨の降る午後。閉店間際の本屋。入ってきた少女。
振り払った傘のしずく。びしょ濡れになった自分。
慌てて近づき、白いハンカチで顔を拭ってくれた手の温もり。
そして、自分が恥ずかしさのあまり、そのハンカチを握りしめて逃げ出したこと。
全てが、走馬灯のように駆け巡る。
「あの……?」
美百合は、彼が突然固まり、真っ青な顔で自分を見つめるのに気づき、不安そうに声をかけた。
春馬は喉が渇いた。言葉が出てこない。
鼓動が耳元で鳴り響く。
「その……その時……」
彼はかすれた声で、ようやく絞り出す。
「そのハンカチ……青い花が……刺繍してあった……」
美百合の目が、見開かれた。
彼女の記憶も、一気に蘇る。
雨の本屋。眼鏡の少年。
自分のハンカチで拭いたのに、それを奪うように持っていかれたこと。
そして、少し笑ってしまった、あの変な人。
「まさか……」
彼女の声もかすれる。
「あなた……あの時の……」
二人は、言葉を失い、ただ見つめ合った。
外の雨音も、雷鳴も、すべてが遠のいていく。
この狭い祠の中に、十数年の時を超えて、一つの点と点が、一本の線で結ばれた。
美百合の目に、涙が浮かんだ。それは、驚きや懐かしさだけではない。
長い間、心の片隅に忘れていた、小さな一片の記憶が、突然鮮やかな色彩を取り戻した感動だった。
「信じられない……こんなところで……」
春馬も、胸が熱くなっていた。
無意識に胸ポケットに手をやった。そこにあるハンカチが、今、急に重く、熱く感じられる。
「僕も……ずっと……」
言葉は続かない。
運命というものがあるなら、これはまさにそれだろう。
一度すれ違った糸が、長い歳月を経て、まったく別の場所で、再び絡み合おうとしている。
雷がまた光った。
その閃光が、一瞬、二人の顔を浮かび上がらせた。
美百合の頬を伝う涙。
春馬の、震えるような眼差し。
雨はまだやまない。
美百合は、まだ探さねばならない児童のことが頭を離れず、焦りと不安で胸がいっぱいだった。しかし、目の前の見知らぬ男性——彼もまたずぶ濡れで、少しうつむき加減に立っている——が、なぜか妙に落ち着いた雰囲気を漂わせている。
「あの……すみません」
美百合が、とりあえず口を開いた。
「ここ、しばらく借りさせてもらいますね」
男性——春馬は、ゆっくりと顔を上げた。雨で曇った眼鏡の奥の目が、美百合を一瞥する。
「ええ、どうぞ。僕も避難させてもらっていますから」
彼の声は、低く、少し乾いている。
どこか聞き覚えがあるような……。
美百合はそう思いながらも、まずは電話を取り出そうとしたが、当然のように圏外だった。
彼女はため息をつき、濡れた前髪をかき上げた。その仕草が、春馬の視界の隅に映る。
(どこかで……)
彼は眉をひそめた。
雨でぼんやりした思考を必死に働かせる。この女性、確かに見たことがある。しかし、いつ、どこで?
「あなたも、旅行で?」
美百合が、沈黙を破ろうと話しかける。彼女も、この男性から何か懐かしい、落ち着くものを感じていた。
「はい、会社の慰安旅行ではぐれてしまいまして」
「私は……小学校の遠足で。一人の子とはぐれてしまって、今、探しているんです」
彼女の声に詰まるような焦りが混じる。春馬は自然に、「大丈夫ですか?」と尋ねた。彼にしては珍しい、他人を気遣う口調だった。
「ううん……他の先生も探しているはずだから、きっと……」
その言葉を遮るように、遠くで雷鳴がゴロリと響いた。美百合は思わず小さく声を上げ、身を縮めた。
「すみません、雷がどうも苦手で」
「……こちらこそ、失礼しました」
春馬はなぜか謝り、祠の奥の方へ少し移動し、彼女により多くのスペースを空けた。その気遣いに、美百合はほっとした。
「この雨、しばらくやみそうにないですね」
「そうですね……山の天気は変わりやすいと聞いていましたが」
会話は、当たり障りのないものから始まった。天気のこと、高野山の印象、それぞれの職業。
春馬がエンジニアだと知り、美百合は「すごいですね」と率直に感心した。
彼女が小学校の教師だと知り、春馬は「大変な仕事でしょう」と労った。
雨音をバックに、言葉が少しずつ紡がれていく。最初のぎこちなさは、次第にほぐれていった。
不思議なことに、初めて会った者同士という緊張感はほとんどなく、むしろ長いこと会っていなかった旧知の間柄のような、自然な空気が流れ始める。
「子どもの頃、本屋でよく傘を忘れて怒られたんですよ」
美百合が、ふと思い出したように笑いながら言った。
「雨の日は特に。母に、『あなたは傘と縁がないね』って言われて」
その言葉が、春馬の頭の中で、あるスイッチを押した。
傘。
雨の日。
本屋。
「……本屋?」
彼の声が、少し震えた。
「ええ、駅前の、古い本屋さん。『楡堂』っていうお店」
ガチャン、と頭の中で、何かがはまった。
春馬はゆっくりと美百合を見つめた。
濡れた黒髪。切れ長の目。少し血色の薄い唇。
そして、今、不安そうに、しかしどこか優しく微笑んでいる口元。
記憶の霧が、一気に晴れていく。
十数年前。雨の降る午後。閉店間際の本屋。入ってきた少女。
振り払った傘のしずく。びしょ濡れになった自分。
慌てて近づき、白いハンカチで顔を拭ってくれた手の温もり。
そして、自分が恥ずかしさのあまり、そのハンカチを握りしめて逃げ出したこと。
全てが、走馬灯のように駆け巡る。
「あの……?」
美百合は、彼が突然固まり、真っ青な顔で自分を見つめるのに気づき、不安そうに声をかけた。
春馬は喉が渇いた。言葉が出てこない。
鼓動が耳元で鳴り響く。
「その……その時……」
彼はかすれた声で、ようやく絞り出す。
「そのハンカチ……青い花が……刺繍してあった……」
美百合の目が、見開かれた。
彼女の記憶も、一気に蘇る。
雨の本屋。眼鏡の少年。
自分のハンカチで拭いたのに、それを奪うように持っていかれたこと。
そして、少し笑ってしまった、あの変な人。
「まさか……」
彼女の声もかすれる。
「あなた……あの時の……」
二人は、言葉を失い、ただ見つめ合った。
外の雨音も、雷鳴も、すべてが遠のいていく。
この狭い祠の中に、十数年の時を超えて、一つの点と点が、一本の線で結ばれた。
美百合の目に、涙が浮かんだ。それは、驚きや懐かしさだけではない。
長い間、心の片隅に忘れていた、小さな一片の記憶が、突然鮮やかな色彩を取り戻した感動だった。
「信じられない……こんなところで……」
春馬も、胸が熱くなっていた。
無意識に胸ポケットに手をやった。そこにあるハンカチが、今、急に重く、熱く感じられる。
「僕も……ずっと……」
言葉は続かない。
運命というものがあるなら、これはまさにそれだろう。
一度すれ違った糸が、長い歳月を経て、まったく別の場所で、再び絡み合おうとしている。
雷がまた光った。
その閃光が、一瞬、二人の顔を浮かび上がらせた。
美百合の頬を伝う涙。
春馬の、震えるような眼差し。
雨はまだやまない。
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