百年のしずく

永田英晃

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一〇 永遠の約束

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夜明け前の闇が、最も深い時。雨は、かすかな霧雨へと変わり、杉木立の葉先から滴り落ちる音だけが、静かなリズムを刻んでいた。祠の中は、二人の息づかいと、かすかな外気で満ちていた。

美百合は、ゆっくりと眠りから覚めた。
最初に感じたのは、背中に伝わる温もりと、彼女を包む腕の重さだった。彼女は目を開けず、その感覚に浸っていた。
夢ではない。確かに、彼——春馬がここにいる。

ふと、記憶が蘇る。雷鳴。彼の胸に飛び込んだこと。そして、結ばれたこと。
顔が熱くなるが、後悔は微塵もない。むしろ、長い間探していた答えが、ようやく見つかったような、深い安堵があった。

彼女が微かに動いたのを感じてか、春馬もまた目を覚ました。
腕がそっと締まる。
「……目が覚めたか」

その声は、眠気を含んだ低い響きで、美百合の耳元に届いた。
彼女はうなずき、ようやく目を開けた。薄明かりの中、彼の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。

「おはよう」
彼女が小声で言う。
「おはよう」

暫く、二人はそのままの姿勢で、外の世界が目覚めていくのを待った。
鳥のさえずりが遠くから聞こえ始め、空の色が少しずつ変わり始める。

やがて、春馬が深く息を吐き、腕を解いた。
「少し、動くよ」

彼が立ち上がると、冷たい空気が美百合の体を包んだ。彼女もゆっくりと起き上がり、乱れた髪を整えようとする。
濡れた服は、夜の間にいくらか乾いていたが、まだひんやりとしていた。

春馬は祠の縁に座り、外の景色を見つめていた。霧雨の中、杉木立のシルエットがぼんやりと浮かび上がる。
何かを考えているようだ。美百合は彼の後ろ姿を見つめ、胸が一杯になった。

「あの時」
彼女が、静かに話し始めた。
「本屋であなたの顔を拭いた時、母に『女の子が男の子の顔を拭くものじゃない』って、少し叱られたの」

春馬がゆっくりと振り返った。
「……そうか」

「でも」美百合は続けた。
「私は、拭いてよかったって思った。だって、あなたがすごく困っているように見えたから」

春馬はかすかに笑った。それは、彼女が初めて見る、心からくつろいだような笑顔だった。
「あの時は、本当に慌てて……君がどんな顔をしているか、よく見られなかった」

その言葉に、彼女も微笑んだ。
「今なら、ちゃんと見られる?」

彼は真剣に顔を見つめ、頷いた。
「ああ」

心臓が、高鳴った。
春馬は再び外を見た。そして、何かを決心したように胸ポケットに手をやる。
あの色あせたハンカチを取り出した。じっと見つめ、それから額に当てた。
夜明けの冷気の中、彼の額にはかすかな汗が浮いていた。

その動作を見た美百合の息が止まった。

額を拭うそのハンカチ——そこにある刺繍は、間違いなく彼女のものだ。
立ち上がり、彼の傍らに座った。
「それ……」
声が震える。
「ずっと、使っていたの?」

春馬は目を閉じ、深く頷いた。
「特別な時だけ。今日も……君に会えたから」

彼女の目に涙が滲んだ。彼は、この一枚の布を、十数年間、大切に扱い続けてきた。
彼女の存在を、形のないまま、心に留め続けてきたのだ。

「春馬くん」
声を詰まらせながら言った。
「あの時は、逃げられちゃったけど……」
そっと彼の手に触れ、ハンカチをそっと取り上げた。
「今日は、ちゃんと拭かせて」

彼女は、そのハンカチで、額を、こめかみを、優しく拭いていった。
十数年前と同じように。しかし今は、逃げられる心配はない。
彼は目を閉じ、その感触に身を任せていた。

拭い終え、手を引こうとした時、彼が手首をそっと掴んだ。
「美百合」

目は、真っ直ぐに彼女を見つめている。
眼鏡を外したその瞳は、少年の頃の面影を残しつつ、大人の男の深みを湛えていた。
「僕は、これからも、君を探し続けていたと思う。たとえ今日、出会えなかったとしても」

「私も」
彼女の声は、確信に満ちていた。
「どこかで、ずっと」

二人の距離が、自然に縮まる。呼吸が混ざり合う。外の世界の音はすべて遠ざかり、彼らだけの宇宙が、この祠の中に広がった。

彼女がそっと目を閉じた。
彼の唇が、ゆっくりと、確かに彼女の唇に触れた。

前夜の慌ただしい衝動とは違い、このキスはゆったりと、深く、永遠を誓うかのような重みを持っていた。
過去への決別であり、未来への契約であった。

百年後の祠で、汐音は、幻影に映る祖母——若き日の美百合の、幸福に満ちた表情を見つめ、涙をこらえきれなかった。
自分の胸に手を当てた。そこには、同じ刺繍のハンカチが、今も温もりを保っていた。

(おばあちゃん……)

幻影の中、二人は唇を離し、額を寄せ合った。
互いの呼吸を感じながら。

「もう、離れない」
春馬が呟く。
「うん、離れない」
美百合が答える。

朝の光が、ついに霧を貫き、祠の内部に一条の光を差し込ませた。
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