10 / 12
一〇 永遠の約束
しおりを挟む
夜明け前の闇が、最も深い時。雨は、かすかな霧雨へと変わり、杉木立の葉先から滴り落ちる音だけが、静かなリズムを刻んでいた。祠の中は、二人の息づかいと、かすかな外気で満ちていた。
美百合は、ゆっくりと眠りから覚めた。
最初に感じたのは、背中に伝わる温もりと、彼女を包む腕の重さだった。彼女は目を開けず、その感覚に浸っていた。
夢ではない。確かに、彼——春馬がここにいる。
ふと、記憶が蘇る。雷鳴。彼の胸に飛び込んだこと。そして、結ばれたこと。
顔が熱くなるが、後悔は微塵もない。むしろ、長い間探していた答えが、ようやく見つかったような、深い安堵があった。
彼女が微かに動いたのを感じてか、春馬もまた目を覚ました。
腕がそっと締まる。
「……目が覚めたか」
その声は、眠気を含んだ低い響きで、美百合の耳元に届いた。
彼女はうなずき、ようやく目を開けた。薄明かりの中、彼の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
「おはよう」
彼女が小声で言う。
「おはよう」
暫く、二人はそのままの姿勢で、外の世界が目覚めていくのを待った。
鳥のさえずりが遠くから聞こえ始め、空の色が少しずつ変わり始める。
やがて、春馬が深く息を吐き、腕を解いた。
「少し、動くよ」
彼が立ち上がると、冷たい空気が美百合の体を包んだ。彼女もゆっくりと起き上がり、乱れた髪を整えようとする。
濡れた服は、夜の間にいくらか乾いていたが、まだひんやりとしていた。
春馬は祠の縁に座り、外の景色を見つめていた。霧雨の中、杉木立のシルエットがぼんやりと浮かび上がる。
何かを考えているようだ。美百合は彼の後ろ姿を見つめ、胸が一杯になった。
「あの時」
彼女が、静かに話し始めた。
「本屋であなたの顔を拭いた時、母に『女の子が男の子の顔を拭くものじゃない』って、少し叱られたの」
春馬がゆっくりと振り返った。
「……そうか」
「でも」美百合は続けた。
「私は、拭いてよかったって思った。だって、あなたがすごく困っているように見えたから」
春馬はかすかに笑った。それは、彼女が初めて見る、心からくつろいだような笑顔だった。
「あの時は、本当に慌てて……君がどんな顔をしているか、よく見られなかった」
その言葉に、彼女も微笑んだ。
「今なら、ちゃんと見られる?」
彼は真剣に顔を見つめ、頷いた。
「ああ」
心臓が、高鳴った。
春馬は再び外を見た。そして、何かを決心したように胸ポケットに手をやる。
あの色あせたハンカチを取り出した。じっと見つめ、それから額に当てた。
夜明けの冷気の中、彼の額にはかすかな汗が浮いていた。
その動作を見た美百合の息が止まった。
額を拭うそのハンカチ——そこにある刺繍は、間違いなく彼女のものだ。
立ち上がり、彼の傍らに座った。
「それ……」
声が震える。
「ずっと、使っていたの?」
春馬は目を閉じ、深く頷いた。
「特別な時だけ。今日も……君に会えたから」
彼女の目に涙が滲んだ。彼は、この一枚の布を、十数年間、大切に扱い続けてきた。
彼女の存在を、形のないまま、心に留め続けてきたのだ。
「春馬くん」
声を詰まらせながら言った。
「あの時は、逃げられちゃったけど……」
そっと彼の手に触れ、ハンカチをそっと取り上げた。
「今日は、ちゃんと拭かせて」
彼女は、そのハンカチで、額を、こめかみを、優しく拭いていった。
十数年前と同じように。しかし今は、逃げられる心配はない。
彼は目を閉じ、その感触に身を任せていた。
拭い終え、手を引こうとした時、彼が手首をそっと掴んだ。
「美百合」
目は、真っ直ぐに彼女を見つめている。
眼鏡を外したその瞳は、少年の頃の面影を残しつつ、大人の男の深みを湛えていた。
「僕は、これからも、君を探し続けていたと思う。たとえ今日、出会えなかったとしても」
「私も」
彼女の声は、確信に満ちていた。
「どこかで、ずっと」
二人の距離が、自然に縮まる。呼吸が混ざり合う。外の世界の音はすべて遠ざかり、彼らだけの宇宙が、この祠の中に広がった。
彼女がそっと目を閉じた。
彼の唇が、ゆっくりと、確かに彼女の唇に触れた。
前夜の慌ただしい衝動とは違い、このキスはゆったりと、深く、永遠を誓うかのような重みを持っていた。
過去への決別であり、未来への契約であった。
百年後の祠で、汐音は、幻影に映る祖母——若き日の美百合の、幸福に満ちた表情を見つめ、涙をこらえきれなかった。
自分の胸に手を当てた。そこには、同じ刺繍のハンカチが、今も温もりを保っていた。
(おばあちゃん……)
幻影の中、二人は唇を離し、額を寄せ合った。
互いの呼吸を感じながら。
「もう、離れない」
春馬が呟く。
「うん、離れない」
美百合が答える。
朝の光が、ついに霧を貫き、祠の内部に一条の光を差し込ませた。
美百合は、ゆっくりと眠りから覚めた。
最初に感じたのは、背中に伝わる温もりと、彼女を包む腕の重さだった。彼女は目を開けず、その感覚に浸っていた。
夢ではない。確かに、彼——春馬がここにいる。
ふと、記憶が蘇る。雷鳴。彼の胸に飛び込んだこと。そして、結ばれたこと。
顔が熱くなるが、後悔は微塵もない。むしろ、長い間探していた答えが、ようやく見つかったような、深い安堵があった。
彼女が微かに動いたのを感じてか、春馬もまた目を覚ました。
腕がそっと締まる。
「……目が覚めたか」
その声は、眠気を含んだ低い響きで、美百合の耳元に届いた。
彼女はうなずき、ようやく目を開けた。薄明かりの中、彼の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
「おはよう」
彼女が小声で言う。
「おはよう」
暫く、二人はそのままの姿勢で、外の世界が目覚めていくのを待った。
鳥のさえずりが遠くから聞こえ始め、空の色が少しずつ変わり始める。
やがて、春馬が深く息を吐き、腕を解いた。
「少し、動くよ」
彼が立ち上がると、冷たい空気が美百合の体を包んだ。彼女もゆっくりと起き上がり、乱れた髪を整えようとする。
濡れた服は、夜の間にいくらか乾いていたが、まだひんやりとしていた。
春馬は祠の縁に座り、外の景色を見つめていた。霧雨の中、杉木立のシルエットがぼんやりと浮かび上がる。
何かを考えているようだ。美百合は彼の後ろ姿を見つめ、胸が一杯になった。
「あの時」
彼女が、静かに話し始めた。
「本屋であなたの顔を拭いた時、母に『女の子が男の子の顔を拭くものじゃない』って、少し叱られたの」
春馬がゆっくりと振り返った。
「……そうか」
「でも」美百合は続けた。
「私は、拭いてよかったって思った。だって、あなたがすごく困っているように見えたから」
春馬はかすかに笑った。それは、彼女が初めて見る、心からくつろいだような笑顔だった。
「あの時は、本当に慌てて……君がどんな顔をしているか、よく見られなかった」
その言葉に、彼女も微笑んだ。
「今なら、ちゃんと見られる?」
彼は真剣に顔を見つめ、頷いた。
「ああ」
心臓が、高鳴った。
春馬は再び外を見た。そして、何かを決心したように胸ポケットに手をやる。
あの色あせたハンカチを取り出した。じっと見つめ、それから額に当てた。
夜明けの冷気の中、彼の額にはかすかな汗が浮いていた。
その動作を見た美百合の息が止まった。
額を拭うそのハンカチ——そこにある刺繍は、間違いなく彼女のものだ。
立ち上がり、彼の傍らに座った。
「それ……」
声が震える。
「ずっと、使っていたの?」
春馬は目を閉じ、深く頷いた。
「特別な時だけ。今日も……君に会えたから」
彼女の目に涙が滲んだ。彼は、この一枚の布を、十数年間、大切に扱い続けてきた。
彼女の存在を、形のないまま、心に留め続けてきたのだ。
「春馬くん」
声を詰まらせながら言った。
「あの時は、逃げられちゃったけど……」
そっと彼の手に触れ、ハンカチをそっと取り上げた。
「今日は、ちゃんと拭かせて」
彼女は、そのハンカチで、額を、こめかみを、優しく拭いていった。
十数年前と同じように。しかし今は、逃げられる心配はない。
彼は目を閉じ、その感触に身を任せていた。
拭い終え、手を引こうとした時、彼が手首をそっと掴んだ。
「美百合」
目は、真っ直ぐに彼女を見つめている。
眼鏡を外したその瞳は、少年の頃の面影を残しつつ、大人の男の深みを湛えていた。
「僕は、これからも、君を探し続けていたと思う。たとえ今日、出会えなかったとしても」
「私も」
彼女の声は、確信に満ちていた。
「どこかで、ずっと」
二人の距離が、自然に縮まる。呼吸が混ざり合う。外の世界の音はすべて遠ざかり、彼らだけの宇宙が、この祠の中に広がった。
彼女がそっと目を閉じた。
彼の唇が、ゆっくりと、確かに彼女の唇に触れた。
前夜の慌ただしい衝動とは違い、このキスはゆったりと、深く、永遠を誓うかのような重みを持っていた。
過去への決別であり、未来への契約であった。
百年後の祠で、汐音は、幻影に映る祖母——若き日の美百合の、幸福に満ちた表情を見つめ、涙をこらえきれなかった。
自分の胸に手を当てた。そこには、同じ刺繍のハンカチが、今も温もりを保っていた。
(おばあちゃん……)
幻影の中、二人は唇を離し、額を寄せ合った。
互いの呼吸を感じながら。
「もう、離れない」
春馬が呟く。
「うん、離れない」
美百合が答える。
朝の光が、ついに霧を貫き、祠の内部に一条の光を差し込ませた。
0
あなたにおすすめの小説
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
✿ 私は夫のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい
設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀
結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。
結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。
それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて
しなかった。
呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。
それなのに、私と別れたくないなんて信じられない
世迷言を言ってくる夫。
だめだめ、信用できないからね~。
さようなら。
*******.✿..✿.*******
◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才 会社員
◇ 日比野ひまり 32才
◇ 石田唯 29才 滉星の同僚
◇新堂冬也 25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社)
2025.4.11 完結 25649字
遺産は一円も渡さない 〜強欲な夫と義実家に捨てられた私、真の相続人と手を組み全てを奪い返す~ (全10話)
スカッと文庫
恋愛
「お前の価値なんて、その遺産くらいしかないんだよ」
唯一の肉親だった祖父を亡くした夜、夫の健一と義母から放たれたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。
四十九日も待たず、祖父が遺した1億2000万円の遺産をアテに贅沢三昧を目論む夫。だが、彼には隠し通している「裏切り」があった――。
絶望の淵に立たされた由美の前に現れたのは、亡き祖父が差し向けた若き凄腕弁護士・蓮。
「おじい様は、すべてお見通しでしたよ」
明かされる衝撃の遺言内容。そして、強欲な夫たちを地獄へ叩き落とすための「相続条件」とは?
虐げられてきた妻による、一発逆転の遺産争奪&復讐劇がいま幕を開ける!
後宮の偽花妃 国を追われた巫女見習いは宦官になる
gari@七柚カリン
キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く
☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。
そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。
心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。
峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。
仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる