紫のゆかり、君に逢いたく

永田英晃

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一 紅葉散る校庭

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校庭の銀杏が黄金の扇を揺らす季節であった。

私立桜華学園高等学校二年の綾瀬紫織は、放課後の図書室の窓から、その輝きをぼんやり眺めていた。スマートフォンの画面には、友人たちとの無数のメッセージが渦巻き、未来への漠然とした不安と期待が交錯する――いわば、どこにでもいる現代女子高生の、ありふれた午後であった。

「紫織、まだ帰らないの?」

友人・優花が背中をポンと叩いた。紫織ははっと我に返り、鞄をまとめ始めた。

「うん、もう帰る。明日の古文の小テスト、ヤバそうだよね」

「まったくね、平安時代の人がどう恋文を書き交わしたか知って、何の役に立つんだか」

二人は苦笑いを交わしながら廊下を歩いた。夕陽が長い影を描く校舎は、静かな時間に包まれている。紫織はなぜか、その静けさの中に、遠い記憶の欠片のようなものが漂っているような気がして、ふと足を止めた。

「どうしたの?」

「……なんでもない」

次の日、古文の授業が始まった。

教壇に立つ老教師・大森は、情感たっぷりに『源氏物語』の一節を朗読する。

「『月のおもしろう出でたるに、かねて思ひやり給ひし…』」

紫織は窓の外を見ていた。校庭の紅葉が一枚、また一枚と舞い落ちる。その軌跡が、なぜか胸を締めつける。大森先生の声が、次第に遠のいていくようだった。

「ここで、光源氏が朧月夜の君に思いを寄せる場面ですが、現代の皆さんにも、こうした心情は理解できますかね?」

教室のあちこちから失笑が漏れた。紫織だけは、首をかしげたままだった。理解できない――のではない。むしろ、あまりに理解しすぎて、胸が痛むのだ。こんな感情、彼女がこれまで経験したことがあるはずはないのに。

「綾瀬さん」

「……はい!」

「あなた、ずっと外を見ていますが、何か見つめているものが?」

「す、すみません。紅葉がきれいで」

「なるほど。平安の貴族も、紅葉を愛でつつ、恋心を募らせたのでしょうな」

授業が終わり、紫織は妙に居心地の悪さを感じていた。頭がぼんやりし、心臓の鼓動が、何か大事なことを思い出そうとしているかのように高鳴る。優花が話しかけてきても、上の空だった。

「紫織、大丈夫?顔色悪いよ」

「うん……ちょっと頭が」

放課後、彼女はまた図書室へ向かった。理由はわからない。ただ、行かずにはいられない衝動に駆られた。

図書室は人影まばら。紫織は古文籍コーナーへ足を向けた。革装丁の古い本が並ぶ棚の前で、彼女は無作為に一冊の本に手を伸ばした。

『平安異聞記 ―― 抄録』

表紙は紫紺の布張りで、金文字がかすかに光る。出版年は記されていない。学校の備品というには、あまりに古風な装丁だ。

「こんな本、あったっけ……」

ぱらりとページをめくった。

その瞬間、図書室の空気が変わった。

窓から差し込む夕陽の光が急に強くなり、書架の影が長く伸びる。遠くで聞こえていた校庭の騒ぎ声が、水中にいるようにぼんやりと歪む。

『異界のものがたり、これを閲する者に告ぐ』

ページにそう記された次の行から、紫織の目に飛び込んできたのは、自分が知るはずのない情景だった。

――紅葉散る御所の庭。十二単の衣擦れの音。闇から蠢く影。

「あ……!」

本から微かな光が漏れ始めた。紫織は本を閉じようとするが、手がつかない。ページがひとりでにめくれ、ある一節で止まる。

『都に怪しき気満ち、人の心に影落とす。されど、西のよりて来たる姫、その影を払う力を宿すという』

「西のよりて来たる……姫?」

その言葉を口にしたとき、図書室の灯りが一瞬、ぱっと消えた。

そしてまたついた。

しかし、周りの景色は一変していた。

机も椅子も、現代的な書架もすべて消えている。代わりに、彼女が立っているのは、板張りの広い部屋の中だった。香しい薫香が漂い、几帳の影がゆらめいている。自分の着ているのは、桜華学園のセーラー服ではない。十二単らしい重たげな衣装だ。

「姫君、お目覚めでございますか」

振り返れば、小袿姿の若い女房が、恭しく頭を下げている。

「あ……あなたは?」

「わたしは、姫君にお仕えする女房の縁と申します。長い旅の疲れ、いかがで?」

紫織は自分の手を見つめた。白く繊細な、しかし自分自身の手だ。頭が混乱する。夢か?あまりに鮮明すぎる夢か?

「ここは……どこ?」

「まあ、まだおぼろげでございますか。ここは平安の都、左大臣・藤原惟房様のお邸でございます。姫君は、西国より都へおいでになったばかり。些かお疲れのご様子」

平安の都。左大臣。西国より。

紫織の脳裏に、さっき読んだ一節がよみがえる。

『西のよりて来たる姫』

「違う……私はただの高校生だ。綾瀬紫織だ」

「まあ、お姫様、そんなことおっしゃらずに」

縁という女房は、優しくしかし確固として紫織を支え、縁側へと導いた。

「ご覧くださいませ。都のたたずまいを」

紫織が目にしたのは、夢にも見たことのない景色だった。

広大な庭園の向こうに、藁葺きの屋根が連なり、遠くには大極殿の雄大な屋根が夕日に輝いている。空気の匂いが違う。木の香り、土の湿り気、焚かれる煙の匂い。すべてがあまりにリアルで、夢だと言い張ることさえ困難だった。

「どうして……どうして、私が……」

そのとき、庭を渡る廊下を、数人の男たちが歩いてくるのが見えた。中心にいるのは、威厳ある年配の貴族。その傍らに、若い将がいる。

紫紺の直衣に身を包んだその青年は、眉目秀麗で、しかし目に鋭い光を宿していた。紫織と目が合った瞬間、彼はわずかに歩みを止めた。

「姫君、あちらは惟房様と、お側にお仕えする彰紋様でございます」

彰紋。

その名を聞いたとき、紫織の胸に激しい痛みが走った。

まるで、長い間忘れていたものを、突然思い出したような――そんな疼きが、心臓の奥底から湧き上がってきた。

彰紋は紫織を見つめたまま、ゆっくりと一礼した。その動作の中に、何か言いようのない懐かしさが込められていた。

「お会いできて、光栄に存じます」

声は低く、澄んでいる。

紫織は言葉を失った。この状況も、この場所も、この人も、すべて未知のはずなのに。なぜか、涙がこみ上げてくるのを抑えられなかった。

「姫君?どうなさいました?」

縁が心配そうに声をかける。

紫織は袖で顔を覆い、必死に涙をこらえた。訳がわからない。でも、一つだけ確かなことがあった。

――ここは夢ではない。

そして、この名を聞くだけで胸が痛む青年・彰紋が、彼女のこれからの運命に、深く関わることになるのだという、確かな予感だけが、紅葉散る平安の庭に、確かに降り積もっていったのである。
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