紫のゆかり、君に逢いたく

永田英晃

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二 いにしえの都

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庭の遣水の音が、瑠璃のような響きを立てて流れる。紫織――今は「西より来たりし姫」と呼ばれるこの身は、几帳の陰に坐り、ただ呆然と時が過ぎるのを見守っていた。

三日が経った。

現実だと認めるにはあまりに非現実的なこの世界で、彼女はようやく少しずつ、状況を受け入れ始めていた。自分が平安時代、おそらく十一世紀初頭の京にいること。藤原惟房という左大臣の庇護を受け、その養女同然の扱いを受けていること。そして、この身分が「西国(九州)から上京してきた地方貴族の娘」という設定であること。

「姫君、今日はお出かけなさいますか?」

縁が、桜襲ねの袿を捧げ持って尋ねた。

「出かけ……どこへ?」

「惟房様が、北の方にお供するようおっしゃっておりました。今日は賀茂の社へ参られるご予定と」

紫織は内心でため息をついた。現代の高校生である彼女にとって、十二単の重みはまさに苦行だった。動くだけで汗ばみ、歩けば衣擦れの音が周囲に知れ渡る。プライバシーなどないに等しいこの世界の生活は、息が詰まる思いだった。

「わかりました。支度をお願いします」

身支度を整え、鏡台の前に坐ると、縁が丹念に化粧を施し、髪を結い上げる。白粉、紅、眉墨――鏡に映る顔は、確かに自分の顔でありながら、どこか別人のような気がした。

「姫君は、本当にお美しゅうございます」

縁が感慨深げに呟く。

紫織は無言で頷いただけだった。美しさなど、今の彼女にはどうでもよかった。どうやってこの世界から抜け出すか。どうやって現代に戻るか。それだけが頭を占めていた。

牛車に揺られること一時間あまり。

賀茂の社に到着したとき、紫織は初めて、平安京の壮大さに息を呑んだ。

参道の両側には老松が鬱蒼と茂り、その向こうに朱塗りの楼門が聳え立つ。貴族たちの華やかな装いが、秋の陽を受けきらめく。香煙がゆらめき、読経の声が低く響く。

「まあ、見事なご造営で」

惟房の正室・北の方が扇を開き、感嘆の声を上げた。

紫織は牛車から降りる手助けを待ちながら、周囲を見渡した。そして、ある人物の姿を認めて、心臓が高鳴るのを感じた。

彰紋だった。

彼は惟房の身辺警護のためか、数人の武士を率いて少し離れた場所に立っている。深緑の水干に太刀を帯びた姿は、この雅やかな貴族社会の中にあって、異質な緊張感を放っていた。

参拝が始まり、紫織も形式に従って拝礼した。しかし、彼女の意識は彰紋へと向かっていた。あの日、初めて目を合わせたときの胸の痛み。あの懐かしさは何だったのか。

「――姫君」

突然、背後から呼びかける声がした。

振り返れば、彰紋が適度な距離を保って立っていた。目はやや伏せ気味で、礼儀をわきまえた態度だ。

「御身のご安否、気にかけておりました。異郷の地、お慣れになりますまい」

「……ありがとうございます」

紫織は言葉を選んだ。平安時代の言葉遣いはまだ不慣れだった。

「西国は、いかなる土地でございますか」

その質問に、紫織はたじろいだ。西国など知るはずがない。

「それは……海に近く、山の多い土地で」

曖昧に答えると、彰紋の目に一瞬、探るような光が走った。

「さようで。ならば、京の都はさぞかしお騒がしくお感じでしょう」

「ええ……少し」

「ならば、よろしければ」

彰紋が一歩近づき、声を潜めて言った。

「この者、都の案内役をお引き受けいたしましょう。御身のような高貴な方には、都の暗き面も知っておかれるのがよろしいかと」

「暗き面?」

「はい。近ごろ、夜な夜な怪しきものの出没するとの噂が絶えません」

彰紋の表情が厳しくなる。

「人目につかぬよう、細工を凝らした手配も可能にございます。御身のご安全のためにも」

紫織は考えた。これはチャンスかもしれない。この世界のことを知るには、貴族の姫として籠っているより、実際に外を見たほうがいい。そして何より――

彼女は彰紋の目をまっすぐ見た。

「お願いします」

その返答に、彰紋の口元がわずかに緩んだ。

「では、明日の夕暮れ時に。東三条の邸の北門にて」

その約束から二日後、紫織は縁を言いくるめ、小袖一枚に男装を纏ってこっそりと邸を抜け出した。

彰紋は約束通り、一人で馬を引いて待っていた。紫織の変装姿を見て、目を少し見開いたが、すぐに平静を装った。

「お待ちしておりました」

「すみません、準備に手間取って」

「いえ、よくおいでくださいました」

彰紋は紫織に手を差し伸べ、馬に乗せるのを助けた。彼の手のひらは硬かったが、その動作は驚くほど優しかった。

二人は静かに町へと向かった。

夕闇が迫る京の町は、紫織の想像以上に活気に満ちていた。商人の掛け声、子どもの笑い声、鍛冶屋の槌の音。貴族の邸宅の雅やかさとはまた違う、生き生きとしたエネルギーが街を満たしていた。

「見てください」

彰紋が指さした先に、小さな市が立っていた。農民たちが野菜や布を並べ、物々交換をしている。

「これが、都の底を支える人々の暮らしです」

「あなたは、よくここへ来るのですか?」

「はい。主君のご用務もあり、また……このような場所が、都の真の姿を知るにはふさわしいと考えます」

彼の言葉に、紫織はあることを思い出した。

「あの日、あなたは私が『西より来たりし姫』ではない、とお考えでしたか?」

彰紋は馬を止め、ゆっくりと紫織を見た。

「……お察しの通りです」

「なぜ?」

「御身の目です」

彰紋はためらいながら言葉を続けた。

「この都の者ではない。いや、この『世』の者ではないような……遠い、遠いところを見つめる目をなさっている」

紫織は息を呑んだ。彼は気づいていた。すべてではないにせよ、彼女がここに属さない者だと。

「怖くはないですか?私が何者かわからないのに」

「恐れるべきは、見知らぬ者よりも、知りながら害をなす者です」

彰紋は再び馬を歩かせ始めた。

「そして、御身の目には、害意は感じられません。ただ……深い悲しみと、途方に暮れたような孤独が宿っている」

その言葉に、紫織の目から涙がこぼれそうになった。彼はわかってくれている。この孤独を。

突然、馬が嘶き、足を止めた。

「どうしたのですか?」

彰紋の表情が鋭くなる。手は自然に刀の柄に触れた。

「何かが近づいています」

紫織も気配を感じた。冷たい、湿ったような空気が周囲に漂い始めた。町の喧騒が、一瞬で遠のいていくような錯覚。

「戻りましょう」

彰紋が馬首を返そうとしたその時、路地の影から「何か」が這い出てきた。

人間の形をしているが、明らかに人間ではない。皮膚は腐敗したように黒ずみ、目には光がなく、口からはよだれのようなものが垂れている。

「物の怪……!」

彰紋が刀を抜く。

その怪物は、ぎぎぎぎ、と骨の軋むような音を立てて、紫織の方へ向き直った。

そして、耳をつんざくような叫声を上げた。
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