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9.魔法
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その日は朝から小雨が降っていた。
僕たちは魔法の舞台に、日曜日の昼12時、とある高層ビルを指定した。
日時については人が集まりやすいであろう時間帯、場所については多少遠くからでも見える場所を選択した。
花火を効果的に使うために夜にすべきか、弓月さんと悩み抜いた末、花火より人集めを優先した結果こうなった。
僕と綾は高層ビルの屋上に、予定の30分前に到着した。
黒い雨雲と雨に濡れた高層ビルに囲まれ、小雨のせいで煙ってはいるが、屋上からは昼の街並みを見下ろすことができた。地上には水たまりを掻き分ける車と、傘をさす人たちが見えた。
屋上はコンクリートむき出しの、10メートルほどの正方形の場所で、僕たちの左後ろに貯水タンクがあるだけの、何もない殺風景な場所だった。
僕達が屋上に着いた時には、屋上の床に白いペンキで魔法陣が書かれていた。
和喜魔具社員の1人が書いたのだそうだ。最初に目にした時は、あまりに精緻で美しかったので声を上げそうになった。
むしろ芸術家として食べていけるんじゃないかと思えたほどだ。これは誰もが書けるものではない。綾が暗記を断念した理由がはっきりわかった。
綾も目を大きくしたあと、満足したらしく魔法陣の前で腰に手を当て仁王立ちになった。僕は慌てて綾が雨に濡れないように傘を広げる。
ゆっくりと水が滴り落ちるビニール傘の下で、綾の黒いゴスロリ調の服は濡れて輝いているように見えた。
綾の足下にはペットケージが置かれ、中ではみたらしが辺りを見回してきょろきょろしていた。母ネコは今だに病院から帰ってこない。動物病院の話しぶりからすると、あきらめるしかない様子だ。
すまない。おかしなことに巻き込んでしまって。こんなことしてる場合じゃないよな。
「さて、あと10分ね」
綾は緊張することなく、自信満々の様子だ。自信の根拠は定かではないが、言うまでもなく根拠なんかないのであろう。
ニャァとミケが鳴く声がするぐらいで、後は何の物音もしなかった。
「用意はいいのか?と言っても何を用意するのかよくわからんが」
僕たちのほうは準備万端だった。ビルに登る直前に弓月さんに電話をして様子は確かめている。花火の方は雨の心配はいらないそうだ。
弓月さん達は、この近くの高層ビルに陣取っている。花火はそこから打ち上げる予定だ。
僕たちのいるビルから打ち上げないのは、万が一にも花火を打ち上げるところを誰かに見られないためである。
指定した場所で綾が呪文を唱え、少し離れた場所から見えないように花火を打ち上げる。
弓月さんが隠れて行動することを考えると、このくらいの雨は姿が隠れてむしろ幸運なのかもしれない。
「私の方は準備万端ね」
綾が足元のペットケージに目をやると、ミケが分かっているとでもいうように、ニャァと鳴いた。
「みたらしも準備万端!」
「こいつは何に使うんだ?」
「みたらしは私の使い魔よ。心の支えってやつね」
ネコに支えてもらうだけでどうにかなる心理状態なら、きっと何の問題もないのだろう。
「僕はどうする?傘持ったままここにいた方がいいのか?」
「あんたは後ろに下がってなさい。私とみたらしで呪文を唱えるから」
「それは構わないんだが、濡れるぞ」
「覚悟の上よ。と言っても大した雨じゃないし」
魔法陣の上にはいくつか水溜まりができていた。水溜まりの上には小雨のせいで小さな波紋がいくつも浮かび上がっては消えていく。
波紋が魔力を放っているように見えて、幻想的な雰囲気が増していた。
この程度の雨なら、濡れても後でバスタオルで拭けばなんとかなるだろう。
「あと3分だな」
綾は屈伸し始めた。屈伸すると魔法ができるようになるのかどうかはもちろん知らない。
「綾、魔法の呪文って、唱えるのにどれくらい時間がかかるんだ?」
「そうね、せいぜい1分ってところ」
長いのか短いのか分からないが、たったの1分間で決着がついてしまうのか。
だんだん、綾の表情が少しずつ険しくなってきたように感じた。そろそろ決着の時間だ。
「あと1分」
「そろそろ下がって。魔法のほうに集中するから」
「わかった。後は頼む」
魔方陣の方を向いたまま、ゆっくりと後ろに下がる。雨は綾に降りかかり、長い髪を容赦なく濡らしていく。綾は雨に濡れたまま、その顔を空に向けて眼を閉じた。
長いようで短い1分間が終わりをつげる。
「綾、いくぞ!10、9、8、……」
僕のカウントダウンに合わせて、綾は左ひざを地面につけ、右手を魔法人の端にそっと置いた。
「古き契約に寄りて、我願い奉る。我が願いは、汝の僕、魔術協会の安寧と……」
綾が呪文を唱え始める。その声は涼やかで伸びやかで、聞いている僕の心に染み渡っていった。呪文というより心を込めた歌声をきいているようだった。
これで任務終了だ。今から1分後に花火は打ちあがる。後は綾の掛け声に合わせて花火に火を付けるだけだ。
僕の見ている前で儀式は進んでいく。詠唱時間はたったの1分間。朗々と響く詠唱はすぐに終わりを迎えた。
綾は一瞬息を止める。静寂が舞い戻り、辺りには雨が降りしきる音だけが聞こえた。
綾は深く息を吸い込み、一瞬置いて最後の声をあげた。
「天使召喚!」
綾の声が狭い屋上に響き渡る。僕は弓月さんがいるはずの方角に目をやった。その瞬間、花火は……、上がらなかった!
綾は片膝ついたまま動かなかった。静かに雨は降り続き綾の体を濡らし、みたらしが何事も無かったように、ニャァと鳴いた。
その時だった。僕のスマホに着信が来た。音を切っていたので綾は気がついていない。電話の主は弓月さんだ。
後ろを振り向き、綾に聞かれないように小声で話しを始める。
「赤羽です。どうしたんですか?」
「トラブル発生だ」
弓月さんの声から、かなり焦っているのが分かる。とてつもなく嫌な予感がした。
そいつに構うな!花火が先だ!
電話の向こうで、誰かの叫び声と、何かが割れる音がした。
「え?弓月さん?」
一体何が起きているんだ?何の音だ?
「いいか赤羽君。時間を稼ぐ必要がある。綾にもう一度最初から呪文を唱えるように言うんだ。こっちはもう少し時間がかかる」
そして電話は唐突に切れた。
僕は傘を投げ捨てた。何かが起きている。想定外の何かが。
僕は綾に駆け寄り、その傍らに両膝をつく。
「綾!落ち着け!弓月さんから伝言だ!もう一度呪文を……」
「大丈夫。分かってる。これが今の私の実力だから」
「何言って、」
綾は表情も変えず、魔法陣に右手をついたまま言った。
「だから天使召喚を唱えたかったの。私の力が足りないのは分かっていたから。私ひとりで呪文を唱えたんじゃ、魔法は発動しないけど、この呪文なら天使に力を借りられるから」
綾はそっと眼を閉じた。
「ここからは天使へのお願い。私に力を貸して」
綾は左手でペットゲージを引き寄せた。
「きっと魔法協会なんかに興味ないよね。でもこの子は違うの、この子を助けてあげてほしい。
この子の母親は今生きるか死ぬのかの境目にいるの」
そうか。綾はこのネコのために天使召喚を使いたかったのか。そうだった。綾はそんな奴だった。魔法に憧れて、魔法を人のために使いたがって……。
「お願い。この子のために力を貸して」
一瞬風が強く吹いた。その風は魔法陣の水溜りの上に、小さく細かい波紋を無数に浮かべた。波紋と波紋がぶつかりあい、大きな波紋へと変化していく。
波紋は水の上に羽のような模様を描き、その羽が跳ねまわるようにあちこちに浮かびあがった。
雨が小さく渦巻き、重なり合うように収束していく。
収束した雨はさらに収束しあい、いくつもの線となっていく。やがて無数の雨の線は一つの点となった。
そして雨の収束点が弾けたように見えた瞬間、突然雨が止んだ。
綾の周りに光が差す。続くように次々と光は降り注いでいく。綾のいるビルの天井を照らし、高層ビルを照らし、地上を照らしていく。
光は天からいくつも降り注ぎ、小さな光の柱はすぐに大きくなり、他の光と重なってさらに大きな光の柱をつくっていく。
拡散していく光の柱は大きな光の道筋をいくつも作り、天と地を繋いでいくように見えた。
これは……、
誰かが天から降りてくるように、高層ビルから見下ろす街へと、光が放射状に拡散している。
天使の梯子だ……。
雲が裂け、太陽が顔を出す。
街は目を覚ましたように晴れわたっていく。
「ありがとう」
綾は顔を空に向けた。その顔には天使から祝福されているように陽が舞い降りていた。
「この子のお母さんをお願い。守ってあげて。そして、願わくば、その姿を一瞬だけ見せて欲しい」
綾は魔方陣から手を離して立ち上がり、両手を空に広げた。
「天使召喚!癒しの天使ラファエル!」
綾の声が、空高く響き渡る。
そしてその声に応えるかのように……
僕たちは魔法の舞台に、日曜日の昼12時、とある高層ビルを指定した。
日時については人が集まりやすいであろう時間帯、場所については多少遠くからでも見える場所を選択した。
花火を効果的に使うために夜にすべきか、弓月さんと悩み抜いた末、花火より人集めを優先した結果こうなった。
僕と綾は高層ビルの屋上に、予定の30分前に到着した。
黒い雨雲と雨に濡れた高層ビルに囲まれ、小雨のせいで煙ってはいるが、屋上からは昼の街並みを見下ろすことができた。地上には水たまりを掻き分ける車と、傘をさす人たちが見えた。
屋上はコンクリートむき出しの、10メートルほどの正方形の場所で、僕たちの左後ろに貯水タンクがあるだけの、何もない殺風景な場所だった。
僕達が屋上に着いた時には、屋上の床に白いペンキで魔法陣が書かれていた。
和喜魔具社員の1人が書いたのだそうだ。最初に目にした時は、あまりに精緻で美しかったので声を上げそうになった。
むしろ芸術家として食べていけるんじゃないかと思えたほどだ。これは誰もが書けるものではない。綾が暗記を断念した理由がはっきりわかった。
綾も目を大きくしたあと、満足したらしく魔法陣の前で腰に手を当て仁王立ちになった。僕は慌てて綾が雨に濡れないように傘を広げる。
ゆっくりと水が滴り落ちるビニール傘の下で、綾の黒いゴスロリ調の服は濡れて輝いているように見えた。
綾の足下にはペットケージが置かれ、中ではみたらしが辺りを見回してきょろきょろしていた。母ネコは今だに病院から帰ってこない。動物病院の話しぶりからすると、あきらめるしかない様子だ。
すまない。おかしなことに巻き込んでしまって。こんなことしてる場合じゃないよな。
「さて、あと10分ね」
綾は緊張することなく、自信満々の様子だ。自信の根拠は定かではないが、言うまでもなく根拠なんかないのであろう。
ニャァとミケが鳴く声がするぐらいで、後は何の物音もしなかった。
「用意はいいのか?と言っても何を用意するのかよくわからんが」
僕たちのほうは準備万端だった。ビルに登る直前に弓月さんに電話をして様子は確かめている。花火の方は雨の心配はいらないそうだ。
弓月さん達は、この近くの高層ビルに陣取っている。花火はそこから打ち上げる予定だ。
僕たちのいるビルから打ち上げないのは、万が一にも花火を打ち上げるところを誰かに見られないためである。
指定した場所で綾が呪文を唱え、少し離れた場所から見えないように花火を打ち上げる。
弓月さんが隠れて行動することを考えると、このくらいの雨は姿が隠れてむしろ幸運なのかもしれない。
「私の方は準備万端ね」
綾が足元のペットケージに目をやると、ミケが分かっているとでもいうように、ニャァと鳴いた。
「みたらしも準備万端!」
「こいつは何に使うんだ?」
「みたらしは私の使い魔よ。心の支えってやつね」
ネコに支えてもらうだけでどうにかなる心理状態なら、きっと何の問題もないのだろう。
「僕はどうする?傘持ったままここにいた方がいいのか?」
「あんたは後ろに下がってなさい。私とみたらしで呪文を唱えるから」
「それは構わないんだが、濡れるぞ」
「覚悟の上よ。と言っても大した雨じゃないし」
魔法陣の上にはいくつか水溜まりができていた。水溜まりの上には小雨のせいで小さな波紋がいくつも浮かび上がっては消えていく。
波紋が魔力を放っているように見えて、幻想的な雰囲気が増していた。
この程度の雨なら、濡れても後でバスタオルで拭けばなんとかなるだろう。
「あと3分だな」
綾は屈伸し始めた。屈伸すると魔法ができるようになるのかどうかはもちろん知らない。
「綾、魔法の呪文って、唱えるのにどれくらい時間がかかるんだ?」
「そうね、せいぜい1分ってところ」
長いのか短いのか分からないが、たったの1分間で決着がついてしまうのか。
だんだん、綾の表情が少しずつ険しくなってきたように感じた。そろそろ決着の時間だ。
「あと1分」
「そろそろ下がって。魔法のほうに集中するから」
「わかった。後は頼む」
魔方陣の方を向いたまま、ゆっくりと後ろに下がる。雨は綾に降りかかり、長い髪を容赦なく濡らしていく。綾は雨に濡れたまま、その顔を空に向けて眼を閉じた。
長いようで短い1分間が終わりをつげる。
「綾、いくぞ!10、9、8、……」
僕のカウントダウンに合わせて、綾は左ひざを地面につけ、右手を魔法人の端にそっと置いた。
「古き契約に寄りて、我願い奉る。我が願いは、汝の僕、魔術協会の安寧と……」
綾が呪文を唱え始める。その声は涼やかで伸びやかで、聞いている僕の心に染み渡っていった。呪文というより心を込めた歌声をきいているようだった。
これで任務終了だ。今から1分後に花火は打ちあがる。後は綾の掛け声に合わせて花火に火を付けるだけだ。
僕の見ている前で儀式は進んでいく。詠唱時間はたったの1分間。朗々と響く詠唱はすぐに終わりを迎えた。
綾は一瞬息を止める。静寂が舞い戻り、辺りには雨が降りしきる音だけが聞こえた。
綾は深く息を吸い込み、一瞬置いて最後の声をあげた。
「天使召喚!」
綾の声が狭い屋上に響き渡る。僕は弓月さんがいるはずの方角に目をやった。その瞬間、花火は……、上がらなかった!
綾は片膝ついたまま動かなかった。静かに雨は降り続き綾の体を濡らし、みたらしが何事も無かったように、ニャァと鳴いた。
その時だった。僕のスマホに着信が来た。音を切っていたので綾は気がついていない。電話の主は弓月さんだ。
後ろを振り向き、綾に聞かれないように小声で話しを始める。
「赤羽です。どうしたんですか?」
「トラブル発生だ」
弓月さんの声から、かなり焦っているのが分かる。とてつもなく嫌な予感がした。
そいつに構うな!花火が先だ!
電話の向こうで、誰かの叫び声と、何かが割れる音がした。
「え?弓月さん?」
一体何が起きているんだ?何の音だ?
「いいか赤羽君。時間を稼ぐ必要がある。綾にもう一度最初から呪文を唱えるように言うんだ。こっちはもう少し時間がかかる」
そして電話は唐突に切れた。
僕は傘を投げ捨てた。何かが起きている。想定外の何かが。
僕は綾に駆け寄り、その傍らに両膝をつく。
「綾!落ち着け!弓月さんから伝言だ!もう一度呪文を……」
「大丈夫。分かってる。これが今の私の実力だから」
「何言って、」
綾は表情も変えず、魔法陣に右手をついたまま言った。
「だから天使召喚を唱えたかったの。私の力が足りないのは分かっていたから。私ひとりで呪文を唱えたんじゃ、魔法は発動しないけど、この呪文なら天使に力を借りられるから」
綾はそっと眼を閉じた。
「ここからは天使へのお願い。私に力を貸して」
綾は左手でペットゲージを引き寄せた。
「きっと魔法協会なんかに興味ないよね。でもこの子は違うの、この子を助けてあげてほしい。
この子の母親は今生きるか死ぬのかの境目にいるの」
そうか。綾はこのネコのために天使召喚を使いたかったのか。そうだった。綾はそんな奴だった。魔法に憧れて、魔法を人のために使いたがって……。
「お願い。この子のために力を貸して」
一瞬風が強く吹いた。その風は魔法陣の水溜りの上に、小さく細かい波紋を無数に浮かべた。波紋と波紋がぶつかりあい、大きな波紋へと変化していく。
波紋は水の上に羽のような模様を描き、その羽が跳ねまわるようにあちこちに浮かびあがった。
雨が小さく渦巻き、重なり合うように収束していく。
収束した雨はさらに収束しあい、いくつもの線となっていく。やがて無数の雨の線は一つの点となった。
そして雨の収束点が弾けたように見えた瞬間、突然雨が止んだ。
綾の周りに光が差す。続くように次々と光は降り注いでいく。綾のいるビルの天井を照らし、高層ビルを照らし、地上を照らしていく。
光は天からいくつも降り注ぎ、小さな光の柱はすぐに大きくなり、他の光と重なってさらに大きな光の柱をつくっていく。
拡散していく光の柱は大きな光の道筋をいくつも作り、天と地を繋いでいくように見えた。
これは……、
誰かが天から降りてくるように、高層ビルから見下ろす街へと、光が放射状に拡散している。
天使の梯子だ……。
雲が裂け、太陽が顔を出す。
街は目を覚ましたように晴れわたっていく。
「ありがとう」
綾は顔を空に向けた。その顔には天使から祝福されているように陽が舞い降りていた。
「この子のお母さんをお願い。守ってあげて。そして、願わくば、その姿を一瞬だけ見せて欲しい」
綾は魔方陣から手を離して立ち上がり、両手を空に広げた。
「天使召喚!癒しの天使ラファエル!」
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