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第二章
第十九夜 【自明の掟】
しおりを挟む座敷内の様子は前回とさして変わらず、遣手の代わりに網代が口上を述べた。
朱理が上座へ着き、下座に篁が座す。上座側には網代と辰巳が並び、朱理の背後に新造二人が控えると宴席が始まった。
裏では初回より距離が近くなり、酒の酌み交わし程度は出来るが、未だ真面な会話をするには至らない。
朱理は篁に差し出された徳利を受け、此方からも注ぎ返す。すっと盃を上げる仕草をして口を付けた。ここ数日、一滴も酒を飲んでいなかった事を、その味の懐かしさで思い出す。
杯を交わし終えた所で早速、篁が切り出した。
「楼主殿自らお越しとは、恐れ入ります。柏原、念書をお渡ししろ」
「は」
柏原と呼ばれた男が、スーツの懐から取り出した白い封筒を網代へ手渡す。
「有り難うございます。拝見させて頂きます」
網代は険しい顔で隅々までそれに目を通し、隣の辰巳へ手渡した。二人が念書を確認する間、朱理は黙々と盃を呷り続けていた。篁も同様で、時折、目配せながら互いに返盞を繰り返す。
何度目か分からぬ酌をしようと提子へ左手を伸ばした時、ほぼ同時に手を出していた篁の右手とぶつかった。
朱理の指輪と篁の指輪が当たって小さく音を立てる。反射的に指輪を庇って手を引く朱理に、篁は短く詫びた。
「失礼」
「……いえ」
朱理は内心、咄嗟にそんな行動を取った自分に嫌気がさしていた。いい加減、あの人にしがみ付くのは辞めなければと思う。
網代も言っていたではないか、子離れしろと。自分も親離れせねばならない。
あんな危うい関係が、いつまでも穏やかに続く訳が無い事くらい、最初から分かっていた筈だ。ただ少し長く、幸せな夢を見ていただけなのだ。
朱理がふっと小さく息を吐いた時、辰巳が網代へ念書を返しながら静かに口を開いた。
「確かに、篁様個人の行動ゆえ、組織と見世は一切無関係。互いに無干渉と明記されています。直筆の署名、捺印に加え拇印も御座いますので、念書としては問題ありません」
「では控えを取って割印させて頂きます。原本はこちらで管理致しますが、宜しいですね」
「結構です」
「それから……」
網代は懐からもう一枚、書面を取り出した。
「当店の誓約書です。双方の個人情報保護の為、ご登楼なさるお客様には遵守して頂いております。お気に召さない場合、この話は無かった事にして頂いて構いません」
「拝見しましょう」
網代から柏原へと書面が手渡され、篁の元へ運ばれる。さっと目を通した篁は胸元から取り出した万年筆であっさり署名をし、柏原から朱肉を受け取って捺印と拇印をした。
あまりの呆気なさに網代は訝しげな顔をしたが、書面を返されるとそれを辰巳に預け、小さく息を吐きながら言った。
「……問題無かった様ですな。こちらも後程、控えをお渡し致します」
「分かりました」
辰巳が誓約書を確認して頷いたのを見届けると、網代は朱理と篁の間に正座し、深々と頭を下げた。
「これにてお手続きは完了致しました。数々の御手煩い、お許し頂きたく存じます」
「此方こそ」
篁も網代へ身体を向けて姿勢を正し、一礼する。
良い大人が頭を下げ合っている姿を、朱理は盃を干しながら横目に見ていた。なんて下らない事に必死になっているのやら、と笑いが込み上げそうになるのを堪える。
網代は未だしも、この篁という男が分からない。吉原を仕切る組織の会長ともあろう者が、一介の男娼風情にここまでする必要は無い筈だ。余程、万華郷が物珍しかったのか、はたまた女性に飽きてしまったのか知らないが、何にせよ、これでいよいよ篁は馴染みとなる。
座敷の雰囲気はにわかに和み、篁の合図で芸妓らが動き出した。前回とはまた違った曲目が披露され、朱理は再びそれに魅了される。
左右の網代と篁へ、酌をしたりされたりしながら瞬く間に1時間が過ぎ、座敷を下がる頃には徳利何本どころか、提子を幾つ空けたかも分からなくなっていた。
網代が締めの口上を述べて宴席は終了となり、迎えの車で置屋へ戻る。車内で網代が気遣う様に朱理へ声を掛けた。
「随分と飲んでいたが、大丈夫か?」
「平気だよ。煙草吸って良い?」
「ああ、良いよ。俺も一服しよう」
少し窓を開いて火を点ける。今夜は前方に朱理と妹尾、後部座席に網代と辰巳が乗り、吉良は助手席だ。
網代にはそう言ったものの、朱理は少し飲み過ぎた事を自覚していた。後ろでは念書について二人が何やら話しているのが聞こえるが、内容は全く頭に入ってこなかった。
見世へ到着して大玄関を潜った頃、時刻は午前3時になろうとしていた。
「皆さん、お疲れ様でした」
「お帰りなさい」
いつもの様に番頭台の東雲と、見廻りを終えた槐が出迎える。
「お疲れさん。変わり無かったか?」
「はい」
「寝屋も滞りなく回っております」
「そうか。こっちも何とかなりそうだ」
「それは安心致しました」
いつも通りだ、と朱理は他人事の様にその遣り取りを眺めていた。きっと明日も、そのまた明日も変わらない。変わってはいけないのだ。
「俺は少し辰巳君と話してくる。今夜は少し遅くなったが、皆もしっかり休めよ」
ふと、朱理は己の体調の変化に気づいた。皆が笑顔を見せながら労い合う姿がぼやけ、耳に水が入った時の様に周囲の声がぼわりぼわりと反響する。
あ、と言う暇も無く、朱理は板間へ崩れ落ちた。網代と吉良が駆けつけて抱き起こされる。
「大丈夫か!? どうした!?」
「朱理さん!」
網代の腕に縋り、何とか身体を起こそうとするが、指先にすら力が入らない。朱理の顔を覗き込みながら、東雲は冷静に状況把握に努めている。
「意識はありますね……。何か変わった事がありましたか?」
「いえ、俺たちが付いた時はいつも通りでしたけど、それ以前の事は……」
「車の中でも普通に見えたんだが……。やはり飲み過ぎたのかもしれんな」
泣きそうな妹尾や心配そうな東雲達の顔を見て、朱理は微かに笑みを浮かべた。
「……大丈夫だよ、少し、立ち眩みしただけだから」
「取り敢えず、部屋で横になろうな。念の為、不寝番を付けよう」
「それなら私が……」
進み出る槐を、朱理は小さく手を上げて制した。
「いいよ、槐さん……。寝れば良くなる……」
「しかし……」
「本当に大丈夫だから……皆、休んで」
付き添いを固辞する朱理に根負けし、不穏な空気だけが漂う。ややあって、網代が諦めた様に声を上げた。
「……分かった。朱理は俺が部屋まで運ぶから、皆は休んでくれ」
「吉良と妹尾は下がって結構です。申し訳ありませんが、辰巳先生は執務室でお待ち頂けますか?」
「私の事は構いませんから、早く太夫を休ませてあげて下さい」
東雲の指示に、妹尾らは渋々ながら頷き、辰巳は穏やかな笑みで応えた。
朱理は網代に抱えられ、二階まで付き添った妹尾達に弱々しく手を振って別れた。
三階の階段を上がりながら、網代は朱理の顔を覗き込む。そこにもう笑顔は無く、苦しそうに顰められていた。
「オーナー……ごめん、手間かけさせて……」
「馬鹿。こんな事くらい何でもないさ。随分、無理してたんだな。気付けなくてすまなかった」
「はは……俺、顔に出難いらしいから……」
抱える朱理の背が、汗でじっとりと湿っているのが分かる。
「部屋へ戻ったら着替えないとな。俺が厭なら、東雲に頼むが……」
「いい……いらない……。皆、未だ仕事あるでしょ……」
「駄目だ。身体が冷える」
「……いいんだよ、もう。ほっといてくれ……」
「どうした? 折角、太夫になったばかりだというのに、何をそんなに投槍になる事がある」
何をだと? 笑わせるな、と朱理は思った。自分からは最愛の人を、黒蔓からは誠意を奪って踏み躙った張本人の癖に。
「……何もかもだよ……。全部、どうでもいい……」
「疲れて少し弱気になっているだけだ。お前は大丈夫だよ」
部屋へ着き、そっと寝具へ横たえられる。
「着替え、手伝っても良いんだな?」
「……任せる」
打掛を脱がされ、帯を解かれる。その手付きは淀みなく慣れている癖に、気不味そうに視線を逸らせる様が妙に可笑しかった。
襦袢へ辿り着くと、僅かに躊躇う気配がした。気を遣うくらいならさっさとやってくれ、と思いながら見上げると、おずおずと腰紐に手が掛けられる。
「解くぞ」
「ん……ア、はァ……っ」
臓腑を締め付けていた物が無くなった開放感に、思わず吐息が漏れた。
一気に身体が楽になったのを感じ、原因は腰紐だったのかと呑気に考えていると、突然、部屋の襖が派手な音を立てて開いた。
驚いて戸口を振り向いた朱理達の視線の先には、修羅の形相で殺気を立ち上らせる陸奥が立っていた。
「……何やってんだ、お前ら……」
地の底から響く様な陸奥の低い声に、網代は慌てて寝具から降り、朱理から距離を取る。
「ち、違うぞ、陸奥! これには訳があって……」
「へーえ? ベッドの上で服脱がせて、色っぽい声出させて? 一体、どんな訳があるってんですかねぇ、楼主」
口角を歪に上げて眼光を鋭くする陸奥に、朱理はやれやれと半身を起こした。
「あー……本当に違うんだよ。下で気分悪くなったからオーナーが運んでくれて、着替えさせてくれてたの」
「なら、さっきの声はなに?」
「腰紐が苦しくてさ、解かれたらすっげぇ楽になったから、思わず出ちゃった」
「出ちゃったって……お前……」
「もー、五月蝿いなぁ……。納得するまで話してやるから、取り敢えずオーナー行かせてあげてよ。弁護士さんが待ってるんだから」
「ふうん……本当かなぁ?」
「本当だから安心しろって! じ、じゃあ後は任せるぞ! 朱理は具合悪いんだから、無理させないでくれよ!」
「むう……」
不服そうにしながらも陸奥が道を開け、網代はそそくさと退散して行った。
不機嫌そうに入って来る陸奥に、思わず苦笑が漏れる。面倒な夜になりそうだ、と朱理はひっそり嘆息したのだった。
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