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第二章
第二十一夜 【天地の硲】
しおりを挟む珈琲を啜りながら暫し沈黙した後、ふと陸奥が問いかけてきた。
「もう身体は平気?」
「うん。酒も抜けたし、元通り」
「じゃあ一緒に風呂入んない? なんだかんだ、いつも邪魔が入ってた気がするんだよね」
「良いよ。俺も入りたいと思ってたし」
「やった! 背中、お流ししますよ」
「まじ? 頼むわぁ」
そうして朱理と陸奥は、初めて二人きりで入浴する事になった。
脱衣所で着物を脱ぎ、だだっ広い浴室で隣り合って髪を洗う。逐一、ちょっかいをかけてくるかと思われた陸奥だが、そんな事も無く。
「髪、洗い終わった?」
「んー、もう終わる」
「じゃ、約束通り背中流すね」
「ありがと」
丁寧に背を洗われ、朱理は目を閉じて身を任せていた。
「相変わらず白いね。綺麗な肌だ」
「下手はみんな白いよ。そう在るべきって叩き込まれてるから」
「こんな仕事してりゃ、そうなるか。でも、確かに色っぽくて良いね」
「色白七難隠す、って大昔から言われてるしな」
「そうだね。まぁ、白くなくたって、朱理には一難も無いけどね。はい、終わったよ」
「ん、さんきゅー」
「浸かりに行こうか」
「おう」
水の滴る音と、時折、互いの立てる水音しかしない静かな浴槽で、一日の疲れを癒す。二人は隣り合って縁へ頭を乗せていた。
見上げると、湯気に霞む美しい天井画が目に入る。ぼんやりそれを眺めながら、朱理が呟いた。
「……あの絵、有名だよな。誰のだっけ」
「ミケランジェロ。アダムの創造だよ」
「嗚呼……システィーナ礼拝堂のやつか……」
「朱理ってやっぱり博識だよなぁ」
「なにそれ、嫌味? ミケランジェロも出てこなかったんだぜ」
「そりゃ単なるド忘れでしょ。普通は礼拝堂の名前なんて知らないよ」
「そうかぁ? 天井画とか壁画って、彼処のが有名なの多いだろ」
「まぁね。……しかし、いつ見てもあの絵はこの見世を象徴している様で、なんとも落ち着かない気分にさせられる」
「此処にはアダムしか居ないもんな。でも、やってる事はソドムそのものだ。……どのみち、天国には程遠い処だよ」
「客に天国見せるって意味じゃ、此処は一番近い場所じゃないか」
「ふふ……馬鹿だな。俺達にとって、さ」
陸奥は朱理の言葉に答えようと口を開きかけて辞めた。
ぼう、と天井を見上げる横顔は哀しげで、寂しげで、何かを求めている様で、それでいて何もかも諦めている様で。誰の声も、どんな言葉も届かない気がしたからだ。
「……そろそろ上がろうか」
「んー」
脱衣場で部屋着に着替え、髪を乾かして二人は浴場を後にした。
浴場から出て左に行くと、直ぐに朱理の自室がある。其処から右へ真っ直ぐ行き、突き当たりを更に右に曲がった先が、陸奥の自室だ。太夫の中でも御職を張る陸奥の自室は、並びに誰も居ない、最も静かな位置に置かれている。
二階も三階も、年季明けや格上げの入れ替わりの為に、必ず幾つか空き部屋を作っているのだ。
二人は何を話すでもなく、床暖房の効いた温かい廊下を、並んでゆっくりと歩いた。
万華郷は一見、昔ながらの木造妓楼を完璧に再現しているが、その実、内部は並々ならぬ機械化が成されている。
空調は全塔一括管理で、季節ごとの最適温度に保たれ、全ての廊下には床暖房が設置されている。
大玄関、廊下、座敷、寝屋の全てに監視カメラが配置され、番頭台の下には緊急通報用の隠しボタンがある。映像は見張り方と呼ばれる警備員の部屋でモニタリングされ、異変を察知した場合、最も近くにいる妓夫のインカムに連絡が入る仕組みだ。
議員や芸能人などが多く登楼する為、録画映像は見世によって厳重に管理され、外部へ漏れる事は絶対に無い。
顧客には誓約書にて守秘義務が課せられ、見世で見た物や聞いた事、娼妓の容姿や見世内部の装飾に至るまで、全ての情報を口外させない徹底ぶりだ。これを破ると膨大な違約金が発生し、万華郷のみならず、吉原への出入りが一切、禁止となる。
監視カメラが設置されていないのは厠と風呂場、最上階の三階のみである。カメラが無い代わりに、三階へ上がる階段下には常時、見張り方の妓夫が立っており、出入りする者の身元確認がなされる。
さながら政府の極秘施設並みの厳重な警備体制により、客の個人情報や娼妓の安全が守られている訳である。
軈て部屋の前に着き、陸奥は大きな掌で優しく朱理の頭を撫でた。
「風呂、一緒してくれて有難う。ゆっくり休んでね」
「……ああ、うん。陸奥も珍しくオフなんだし、早く寝なよ」
「おう。じゃ、お休み」
自室へ向かって行く陸奥の背を見ながら、朱理は何となく肩すかしを食らった様な気分になっていた。てっきりまた部屋へ居座ると思っていたものが、あっさり別れたからだ。
まさか自分は、陸奥に何かを期待していたのかと思うと、酷く厭な心持ちになった。彼処が駄目なら次は此方、などと都合の良い事を、僅かでも考えていたらしい自分に腹が立つ。
最愛の人が自分の為に心身を犠牲にしたというのに、なんと脆弱で薄情な事か。
「……情けねぇなぁ……」
激しい自責の念に苛まれつつ歯を磨き、半ばやけくそに寝具へ潜り込んだのだった。
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