万華の咲く郷【完結】

四葩

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第五章

第六十一夜 【夢幻旅行】

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 止めるは無かった。スローモーションに見えると言うが、それは本当だった。
 偶然の不運だったのか、必然のことわりだったのか。
 よく聞く話だと、きっと周りは言うのだろう。群衆の退屈をまぎらわせる戯曲となり、あっさり忘れ去られるのだろう。
 それでも今、この手を濡らす真っ赤な哀しみだけが本物で、騒がしい周囲の声さえ遠く感じた。

 〝嘘だ〟〝救急車を〟〝誰か〟〝厭だ〟〝助けて〟〝早く〟

 皆が口々にわめく中、ただ、その細い身体を強く抱いていた。



 大玄関で客を見送っていた朱理しゅりは、たまたま冠次かんじの見送りと重なった。本当に偶然だった。
 更に偶然にも、客の女は冠次に本気で惚れていたらしく、名を間違えられた事のある朱理に、深い怨恨えんこんいだいていた。
 もしまた間違えたら其奴そいつを殺してやる、と冠次に言っていたと言う。
 その言葉は嘘では無かった。
 常に持ち歩いていたらしい折畳み式のナイフをふところから取り出し、まるでうっかりぶつかったかのごとく、朱理の腹部にそれを刺し入れた。
 女はぐに取り押さえられたが、深く突き刺さったやいばは、どう見ても急所を貫いていた。
 板間にくずおれたお前に駆け寄ったのは、ほとんど反射の様な物で。
 抱きかかえた身体から、温かい命のもとが滲み出している。まるでお前に包まれていく様だと、妙な事を頭の片隅で思った。
 駆け付けた東雲しののめ網代あじろえんじゅ棕櫚しゅろ鶴城つるぎ和泉いずみ、客たち。
 いろんな奴のいろんな怒号どごうや悲鳴が、大玄関にこだましている。
 眉をひそめて苦しそうにしていたお前は、俺を見ると少し微笑わらった。俺もお前を見て微笑った。

 厭だねぇ、俺たちにはやたらと刃物が付いて回る、と俺は言った。お前が笑みをこぼすと、その身体からも温かい物が零れた。
 こんな因果までがせるつもりじゃなかったと呟くと、宿痾しゅくあだよ、とお前は言った。

 そうしていると、陸奥むつほのかな笑みを浮かべて近づいて来て、お前の頬を優しく撫でた。
 そして、お前に突き刺さった異物を、すっと抜き取る。
 どっと傷口から温かい物があふれて、俺は其方そちらにばかり気がいって。
 お前が腕を差し伸べる方に目を向けた時には、もうことは終わっていた。
 朱理を刺した女が陸奥の足元に転がり、血塗ちまみれでぴくりとも動かなくなっていた。陸奥の手にはさっきのナイフが握られていて、嗚呼ああ、そう言う事かと理解した。
 あれほど朱理に執心している彼奴あいつが、こんな事態をただ見ているだけのはずがない。

 やめて、と小さくお前が呟く。何をと問い返す間も無く、辺りは再び悲鳴に満ちた。
 五月蝿うるさいなと思いながら目を遣ると、此方こちらを向いてわらう陸奥が、その首から鮮血を吹き出していた。
 女を殺したナイフで、自分の頸動脈けいどうみゃくを切り裂いたらしい。
 まったく、やれやれ、どうしたものか、と溜息が出た。これじゃあまるで、地獄絵図じゃないか。
 血飛沫の舞う阿鼻叫喚の中、厭に冷静な自分は、とっくにおかしくなっていたのかも知れない。

 陸奥の身体が重い音を立てて倒れるのを見届け、また俺はお前を見た。
 あの馬鹿は死んでも治りゃしないね、とお前が呆れた様に呟いて、それがなんとも愉快だった。
 浅い呼吸を繰り返すお前と見つめ合うと、やっぱり穏やかな気持ちになった。

 大丈夫だよ、とお前が言う。嗚呼、そうだな、と俺は言う。

 握り合った手は確かに此処ここにあって、抱き締める身体も確かに此処にあるのだ。
 ただ少し、軽くなっていくだけだ。ただ少し、冷たくなっていくだけだ。

 愛してる、とお前が言う。愛してる、と俺は言う。

 こんな幸せは無い、こんなよろこびは無い、とお前は言う。貴方の腕の中に居られるなら、他に何も望まない、と。

 そうだな、お前はずっとそうだった。何も要らないと、無欲なお前は口癖みたいに言っていた。
 でも実のところ、俺はお前に出逢ってから、随分と欲張りになったんだ。
 いつもお前を笑わせて、不安のひと欠片かけらも無くしてやりたい。
 お前を傷付ける物は何であろうと、どんな手を使ってでも擺脱はいだつしてやりたい。
 俺達の行く先を邪魔する物は、全て消除しょうじょしてやりたい。
 そうしてお前と沢山たくさん話をして、色んな所へ行って、楽しい事ばかりしていたい。
 だから、お前に置いて行かれる未来など欲しく無い。共に過ごせる明日が来ないなら、生きていたいとも思わない。
 皮肉なもので、お前が居なくなった時に初めて、俺は無欲になれるのだ。

 ふう、と小さくお前が息を吐く。少し疲れたと言うから、眠って良いぞと俺は答えた。
 目を閉じたお前は微笑わらいながら、今度は一緒に海を見よう、と言った。

 夏になったら海に行こう。花火を見て、お祭りに行って、ぶどう飴を食べよう。
 そのまま二人で、何処か遠くへ行こう。

 俺はそうしよう、と言った。
 荷物を作ろう、鞄いっぱいに詰め込もう。どちらの荷物が大きいか、比べながら電車に乗ろう。

 そう言うと、お前は楽しそうに笑った。
 きっと貴方の方が大きいよ、とお前は言う。いいや、お前の方だ、と俺が言う。

 片道切符を買ったら、行ける所まで行ってみよう。北の果てから南の端まで共に行こう。
 だからそれまで休んでいるよ、とお前は言った。時間になったら起こしてやるよ、と俺は答えた。

 心配無い、とお前は言った。分かってる、と俺が答えた。

 嗚呼、皆にさよならしなくちゃね、とお前は言う。お別れの挨拶をしよう、とお前は言う。

 今はやめておこう、と俺が言う。目が覚めてからゆっくりすれば良い、と俺が言う。

 握り合った手がわずかに揺れて、お前の閉じた目から涙がひと筋、流れた。

 真っ赤な嘘に目が眩み、二度と明けない夜になる。

































 そんな夢を見た。
 お前に包まれていく様だと思った身体は汗に塗れ、頬の冷たさで自分が泣いている事に気が付いた。
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