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第五章
第六十一夜 【夢幻旅行】
しおりを挟む止める間は無かった。スローモーションに見えると言うが、それは本当だった。
偶然の不運だったのか、必然の理だったのか。
よく聞く話だと、きっと周りは言うのだろう。群衆の退屈を紛らわせる戯曲となり、あっさり忘れ去られるのだろう。
それでも今、この手を濡らす真っ赤な哀しみだけが本物で、騒がしい周囲の声さえ遠く感じた。
〝嘘だ〟〝救急車を〟〝誰か〟〝厭だ〟〝助けて〟〝早く〟
皆が口々に喚く中、ただ、その細い身体を強く抱いていた。
◇
大玄関で客を見送っていた朱理は、たまたま冠次の見送りと重なった。本当に偶然だった。
更に偶然にも、客の女は冠次に本気で惚れていたらしく、名を間違えられた事のある朱理に、深い怨恨を抱いていた。
もしまた間違えたら其奴を殺してやる、と冠次に言っていたと言う。
その言葉は嘘では無かった。
常に持ち歩いていたらしい折畳み式のナイフを懐から取り出し、まるでうっかりぶつかったかの如く、朱理の腹部にそれを刺し入れた。
女は直ぐに取り押さえられたが、深く突き刺さった刃は、どう見ても急所を貫いていた。
板間に頽れたお前に駆け寄ったのは、殆ど反射の様な物で。
抱きかかえた身体から、温かい命の素が滲み出している。まるでお前に包まれていく様だと、妙な事を頭の片隅で思った。
駆け付けた東雲や網代、槐、棕櫚、鶴城、和泉、客たち。
いろんな奴のいろんな怒号や悲鳴が、大玄関にこだましている。
眉を顰めて苦しそうにしていたお前は、俺を見ると少し微笑った。俺もお前を見て微笑った。
厭だねぇ、俺たちにはやたらと刃物が付いて回る、と俺は言った。お前が笑みを零すと、その身体からも温かい物が零れた。
こんな因果まで継がせるつもりじゃなかったと呟くと、宿痾だよ、とお前は言った。
そうしていると、陸奥が仄かな笑みを浮かべて近づいて来て、お前の頬を優しく撫でた。
そして、お前に突き刺さった異物を、すっと抜き取る。
どっと傷口から温かい物が溢れて、俺は其方にばかり気がいって。
お前が腕を差し伸べる方に目を向けた時には、もう事は終わっていた。
朱理を刺した女が陸奥の足元に転がり、血塗れでぴくりとも動かなくなっていた。陸奥の手には先のナイフが握られていて、嗚呼、そう言う事かと理解した。
あれほど朱理に執心している彼奴が、こんな事態をただ見ているだけの筈がない。
やめて、と小さくお前が呟く。何をと問い返す間も無く、辺りは再び悲鳴に満ちた。
五月蝿いなと思いながら目を遣ると、此方を向いて嗤う陸奥が、その首から鮮血を吹き出していた。
女を殺したナイフで、自分の頸動脈を切り裂いたらしい。
まったく、やれやれ、どうしたものか、と溜息が出た。これじゃあまるで、地獄絵図じゃないか。
血飛沫の舞う阿鼻叫喚の中、厭に冷静な自分は、とっくにおかしくなっていたのかも知れない。
陸奥の身体が重い音を立てて倒れるのを見届け、また俺はお前を見た。
あの馬鹿は死んでも治りゃしないね、とお前が呆れた様に呟いて、それがなんとも愉快だった。
浅い呼吸を繰り返すお前と見つめ合うと、やっぱり穏やかな気持ちになった。
大丈夫だよ、とお前が言う。嗚呼、そうだな、と俺は言う。
握り合った手は確かに此処にあって、抱き締める身体も確かに此処にあるのだ。
ただ少し、軽くなっていくだけだ。ただ少し、冷たくなっていくだけだ。
愛してる、とお前が言う。愛してる、と俺は言う。
こんな幸せは無い、こんな悦びは無い、とお前は言う。貴方の腕の中に居られるなら、他に何も望まない、と。
そうだな、お前はずっとそうだった。何も要らないと、無欲なお前は口癖みたいに言っていた。
でも実のところ、俺はお前に出逢ってから、随分と欲張りになったんだ。
いつもお前を笑わせて、不安のひと欠片も無くしてやりたい。
お前を傷付ける物は何であろうと、どんな手を使ってでも擺脱してやりたい。
俺達の行く先を邪魔する物は、全て消除してやりたい。
そうしてお前と沢山話をして、色んな所へ行って、楽しい事ばかりしていたい。
だから、お前に置いて行かれる未来など欲しく無い。共に過ごせる明日が来ないなら、生きていたいとも思わない。
皮肉なもので、お前が居なくなった時に初めて、俺は無欲になれるのだ。
ふう、と小さくお前が息を吐く。少し疲れたと言うから、眠って良いぞと俺は答えた。
目を閉じたお前は微笑いながら、今度は一緒に海を見よう、と言った。
夏になったら海に行こう。花火を見て、お祭りに行って、ぶどう飴を食べよう。
そのまま二人で、何処か遠くへ行こう。
俺はそうしよう、と言った。
荷物を作ろう、鞄いっぱいに詰め込もう。どちらの荷物が大きいか、比べながら電車に乗ろう。
そう言うと、お前は楽しそうに笑った。
きっと貴方の方が大きいよ、とお前は言う。いいや、お前の方だ、と俺が言う。
片道切符を買ったら、行ける所まで行ってみよう。北の果てから南の端まで共に行こう。
だからそれまで休んでいるよ、とお前は言った。時間になったら起こしてやるよ、と俺は答えた。
心配無い、とお前は言った。分かってる、と俺が答えた。
嗚呼、皆にさよならしなくちゃね、とお前は言う。お別れの挨拶をしよう、とお前は言う。
今はやめておこう、と俺が言う。目が覚めてからゆっくりすれば良い、と俺が言う。
握り合った手が僅かに揺れて、お前の閉じた目から涙がひと筋、流れた。
真っ赤な嘘に目が眩み、二度と明けない夜になる。
そんな夢を見た。
お前に包まれていく様だと思った身体は汗に塗れ、頬の冷たさで自分が泣いている事に気が付いた。
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