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第七章
第七十七夜 【水狂言】
しおりを挟む太夫たちが雑談しつつ寛いでいると、荒々しい足音を立て、不機嫌を隠す気も無い陸奥が入って来た。滅多に怒りを表に出さない陸奥の様子に、娼妓らは呆気に取られている。
煙草を咥えながらソファへ赴き、朱理の隣へどかりと腰を下ろすと、衝撃で朱理の体が一瞬、浮く。
余りの気迫に、しばらく誰も声を掛けられずにいたが、朱理が間延びした声音で口火を切った。
「珍しー。どうしたの、そんなに怒って」
「別に、怒ってないよ」
「ふうん。なら苛々してんの?」
「してないよ」
陸奥は間髪入れずに否定したものの、朱理がじっと見つめると、少し口を尖らせて「嘘……苛々してる」と認めた。「なんで」と聞くと、完璧な形の唇から堰を切ったように愚痴が零れ出した。
「ひとつき前から今日、この時間に売りに出す予定で進めて来たヤマが、台無しになったから」
「おっと、違法上等なぶっちゃけ話。でも、なんで今頃キレてんの。パソコン使えないって、朝から分かってたろ?」
「当然、予備バッテリー使ってたさ。それがついさっき、このクソ暑さのせいで本体がイカれたんだよ。おかげで今日の取引は全部、ご破算だ。まったく、なんでこう間の悪いことばっかり続くかなー。あ゙ー、くそ、腹立つわまじで」
「なるほど。そりゃいくら陸奥でも怒るわな。まぁ落ち着けよ。お前がそんなんじゃ、皆がそわそわしちまう」
終始、不機嫌そうに紫煙を吐く陸奥を、朱理が持っていた木製の扇子で扇いでやる。
「はぁー……お前が居なかったら、とっくに爆発してたわ。抱き着いていい?」
「あちーからそれは勘弁して」
「じゃあ膝枕」
「人の話し聞いてる? 暑いっつってんだろ、厭だよ」
「お前の手足、夏でも冷たいじゃん」
「それとこれとは別」
身を引く仕草を見せながらも扇ぐ手を止めない朱理の健気さに、陸奥の憤怒はみるみる引っ込んでいく。
「あー、朱理に扇いでもらうとか初めての経験。幸せ。ブレーカー壊れて良かった。夏万歳」
「単純だな。ホントお前は瞬間沸騰、瞬間冷却なんだから」
安堵半分、呆れ半分の表情でいると、陸奥がすんすん、と扇子に鼻を寄せて問うた。
「すごく良い匂いだ。その扇子、本物の白檀でできてる?」
「そうだよ。涼むための物じゃないけど、これしか持ってないから我慢しろ」
「我慢どころか最高です。愛してる」
「はいはい」
当初の怒気が嘘のように、にこにこと上機嫌で軽口を宣う陸奥に、和泉が眉をひそめる。
「朱理が居なかったら今頃、見世の備品が幾つ破壊されてたことやら。考えたくもないな」
「いやいや、俺は物には当たらないよ。目に付いたやつに当たるから」
「それは物より厄介なので辞めて下さい……」
鶴城らが顔を引きつらせつつも、ようやく平穏が戻った控え所に、一同はほっと胸を撫で下ろした。
しかし時刻は正午を過ぎ、日中、最も気温が高くなる頃合いである。
益々、温度の上がった室内で、上手はほとんど上半身裸、下手は肩まで襦袢を落とし、扇子や団扇でぱたぱたと風を送っている。
「みんな、ちゃんと水分摂ってやぁ。脱水症になってまうさかい」
「水がさぁ……温いっていうか、ほんのりあったかい気がするんだよ……。飲む気がしない……」
「もう机とか床まで熱いもんな……」
けい菲が注意を促すが、棕櫚と荘紫はうんざりと卓上の茶碗を見るにとどまる。そこへ、「うわ!」と伊まりの悲鳴が響いた。
「なんやこれ! 目薬あっつ! 目ぇ焼けるかと思た……。もう最悪や……」
「液体という液体が温められてる……。最近の温暖化、半端ないな……」
「あー、もう無理だぜ。ここに居るより、茶店かどっか行ったほうがマシだろ」
とうとう、伊まり、鶴城、冠次が限界を訴える。
「駄目だ。休業とは言え、この非常事態が外部に漏れないよう、外出禁止なんだ。俺たちが挙って出掛けたら、厭でも目立つだろう。事情を聞かれでもしたら、どうするんだ」
「ここのセキュリティがまったく機能していない以上、良からぬことを企む輩が、居ないとも限らないしな」
真面目な景虎とつゆ李が窘めていると、香づきが少し明るい声で提案した。
「ねぇ、ちょっと考えたんだけど、浴槽に水張って涼むのはどーお? 電気は駄目でも、水は出るでしょ?」
「おー、それええな」
「こんな状況だし、遣手もそれくらい許可してくれるだろう」
「でしょ、でしょ! 早速、言いに……って、朱理様は? 行かないのぉ?」
「いや……動きたくない……。俺が行かなくても大丈夫だろうし、いってらっしゃーい……」
「そぉ? ざんねーん」
ひらひらと手を振って答える朱理は、さながら溶けかけの氷菓子の様相でソファに寝転がったまま、嬉々として出ていく香づき達を見送った。
やがて許可が降りたらしく、下手も上手も区別なく大浴場にて涼んで良いと、香づきがはしゃぎながら戻って来た。
「景虎、早く行こぉ! 一緒にお風呂なんて、こんな時でもなきゃ、できないじゃない!」
「分かったよ。とは言え、水浴びなんだから、風呂とは言えないと思うが……」
「細かいことは良いから、ほらぁ、早く早くー!」
「はいはい」
浮き足立つ香づきに引きずられて行く景虎を見て、荘紫も腰を上げた。
「じゃあ俺も行く。やっと少しは涼めるなー。一茶も行こうぜ」
「そうだね。水まで止まってたら、この暑さを乗り切るのは厳しかったかも。棕櫚はどうする?」
「うーん、どうしようかな……」
一茶に誘われた棕櫚は少し悩んだ後、ソファに寝転がったままの朱理に目をとめて問う。
「ところで、朱理はなんで行かないの? 真っ先に飛び出して行きそうなのに」
「えー、だって……厭な予感しかしないもん。なぁ? 陸奥」
「そうだね。わざわざ疲れに行くことも無いからな。まぁ俺は、朱理が行くなら行くけど」
楽しそうに出て行く娼妓らを横目に、朱理は苦笑して答えた。さっきとは逆に、朱理に扇子の風を送ってやっている陸奥も同じく、微笑をたたえたまま動こうとしない。別のソファに寝ている冠次も興味が無いらしく、無反応だ。何かを察した鶴城も、上げかけた腰を下ろす。
「え、厭な予感ってなに? 水浴びしたら拙いことでもあるのか?」
「冷水浴すると、アンチエイジングにもなるって聞くけど……」
「そりゃそうなんだけどさ……。正しい冷水浴の方法って知ってる?」
朱理に問われた鶴城と棕櫚は、揃って首を横に振る。
「ゆっくり1分ぐらいかけて、つま先から浸かってって、10分そこそこで出るのが理想。このくそ暑い時に、そんな労力使いたくないじゃん。そもそも、継続しなきゃ意味無いし」
「それなら、ざばっと掛水すれば良いじゃない。ちょっと涼むだけなんだからさ」
「駄目だぞ、棕櫚。この気温の中でそんなことしたら、ヒートショックになる。出た後が地獄だ」
「なんですか、それ」
陸奥の言葉に、棕櫚が首をかしげた。
「子どもの頃とかに、プールの後で上気せたみたいになった経験、ないか?」
「そう言われると、あるかも。あれがヒートショックですか?」
「ざっくり言えば、その一種だな。急激に冷やされることで血管が収縮して、血液が中心に集まる。で、また暑さで血管が拡がり、集まった血液が一気に全身に回る」
「あの怠さったら……1回涼んでるぶん、余計に辛いんだよなー……」
陸奥の説明に、朱理が心底、嫌そうに同調する。
「なるほど……。あの面子でちゃんと冷水浴しそうなのって、和泉くらいだもんなぁ」
「伊まりに至っては、いきなり水風呂に突き落とされそうだし……。それ聞くと怖くて行けないわ……」
「だろ? だから行かない。ずっと風呂場に居る訳にもいかないし、出たらどうせまた暑くなるし」
「おとなしく夜を待つのが妥当だな」
朱理と陸奥の助言により、水浴びを諦めた鶴城たちは、再びぐったりしながら嘆息した。
「はぁ……まさかこんな原始的な生活を強いられる日が来ようとは、昨日までの俺は知る由も無かったよ……」
「日が落ちても直らなかったら、蝋燭で灯りとるんだよね? まぁ、良く言えば風情あるってもんだけど」
すると、棕櫚の発した蝋燭という単語に、やおら朱理は明るい声を上げた。
「そうだ! もしそうなったら、皆で百物語やらない? どうせ暇だし、夜は寝るまで全員、1箇所に固まってたほうが、節約になって良いだろ」
「朱理らしいなぁ。確かに、暇つぶしにはちょうど良いかもね」
「確かに。怪談話とか、夏ならではって感じだぜ」
「今月は吉原稲荷の夏祭りもあるし、正に盛夏だな」
陸奥の台詞に、朱理は毎年、吉原稲荷で行われている夏祭りに思いを馳せた。
「あー、祭り行きてー。露店って大好き。イカ焼きとぶどう飴は、絶対に外せないんだよなぁ。久し振りに綿飴も食いたいし、絶対に余るベビーカステラも欲しい」
「ぶどう飴? そんなのあるの?」
「ある所にはあるんだよ。見た目は真っ赤な団子みたいで、ぶどうが3つ串に刺さってるの」
「へぇ、美味そうだな。見かけたら食べてみるよ」
「りんご飴でもあんず飴でもないところが、朱理だよねー」
ゆるりとそんな話をしながら、遠くに蝉の声を聞く昼下がりは過ぎて行くのだった。
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