万華の咲く郷【完結】

最終章

最終夜 【それから】

　朱理しゅりが太夫に格上げされてから、十年の月日が経った。

「朱理様ー！　どちらにいらっしゃるんですかー？　どうしよう、どこにも居ない……。困ったなぁ……」
「そんなに慌ててどうしたんですか、明石あかし」
「東雲しののめさん、お疲れ様です！　もう夜見世よみせの支度にかからないといけないのに、朱理様が見当たらなくって……」
「やれやれ、またですか。私が探してきますから、貴方は衣装の準備をしておいて下さい」
「分かりました。お手数お掛けして、申し訳ございません」
「構いませんよ。彼の気まぐれには、慣れています」

　頭を下げて元気よく階段を駆け上っていくのは、去年、入楼した下手しもて新造の明石あかしだ。その背を微笑ましく眺める東雲の横から、ひょっこり鶴城つるぎが顔を出した。

「どうした？　トラブルか？」
「いいえ。また〝ねこ〟の散歩ですよ」
「相変わらずだな、あいつは。俺も探そうか？」
「見当はついていますので、大丈夫です。楼主は、どんと構えていてください」
「さすがは万華郷の遣手。できる旦那さんを持って、俺は果報者だよ」
「私も、素敵な旦那様で幸せです」
「煜ひかるは本当に可愛いな。愛してるよ」

　頬に口付けられた東雲は顔を赤らめ、鶴城はそれを愛しそうに見つめている。
　一昨年、網代あじろと黒蔓くろづるが引退し、東雲が遣手に就任した。陸奥むつも同時期に年季明けを迎えたが、楼主を辞退したため、鶴城が明けを1年繰り上げて網代の跡を継いだ。
　そして去年、朱理以外の太夫と格子太夫が年季を終え、引退していった。
　東雲と鶴城は、紆余曲折を経てようやく心を通わせ、めでたく結婚した。
　年季明け後、陸奥は大手企業を相手に、マルチコンサルタントとして世界を飛び回っている。
　和泉いずみは、腐りきった政治家たちを見てきた反動とでも言うように、培つちかってきた人脈を活用して政界入りを果たし、組織改革のために暗中飛躍あんちゅうひやくしているらしい。
　棕櫚しゅろは、日本人離れしたスタイルと、抜群のセンスの良さから、トップブランドのモデル兼デザイナーに抜擢ばってきされ、世界に名を轟かせている。
　伊まりは、持ち前の小狡こずるさとギャンブル好きを活かし、シンガポールへ渡ると、瞬く間にカジノ王へ成り上がった。
　香づきと景虎かげとらは、年季明け直後に破局し、それぞれ別の道を歩んでいるという。
　つゆ李は無事に借金を完済し、現在は千萱ちがやの法律事務所で、パラリーガルとして勤務している。
　けい菲は故郷へ戻り、島原で新造や舞妓まいこ、芸妓げいぎを相手に、舞や琴の講師を務めている。
　荘紫そうしと冠次かんじは、共同経営者としてIT企業を立ち上げ、東証一部上場の大企業となった。ちなみに、冠次は年季明けした後、朱理にしつこく身請けを迫ったあげく、元職場から登楼拒否を食らうという珍事件を起こし、吉原を賑わせた。
　一茶いっさは、端正な容姿に加えて演技力が高く評価され、俳優になった。現在はハリウッドに渡り、映画やドラマで活躍している。
　各太夫付きだった新造らは格上げされ、今や立派に太夫、格子太夫を務め、新造の教育に励はげんでいた。
　唯一、妹尾せおだけは、その美貌と借金の膨大さも手伝い、早々に身請けされて、吉原を出て行った。本人も納得してのことだったため、もっとも吉原らしく、しかし幸せと言える結果だろう。
　そして朱理はというと、相変わらず中庭の桜の木の下で、悠然と煙草を燻くゆらせていた。昔と違うのは、一人ではなく、仲睦まじく寄り添う人物が居ることだ。

「朱理太夫、やっぱりここでしたか」
「お疲れ、煜さん」
「よう、東雲」
「よう、じゃありませんよ、黒蔓さん。いい加減、太夫を私物化するのは、辞めて頂きたい。いくら恋人と言えど、目を瞑るのも限界ですよ」
「ほーお、すっかり遣手姿も板に着いたな。立派に育ってくれて、嬉しいぞ」

　膝枕に頭を乗せて寝転ぶ朱理と、その頭を優しく撫でている黒蔓の姿は、今や見慣れた光景となっている。黒蔓は引退後、すぐに朱理の顧客となり、二人が恋人であることを、万華郷の関係者にだけ公言した。
　黒蔓は東雲を見上げ、笑みを消した真剣な声音を上げた。

「今日は遊びに来たんじゃねぇよ。大事な話がある。鶴城は居るか？」
「ええ。内所ないしょに居ると思います」
「よし。じゃあ行くか、朱理」
「うん」

　そうして三人は内所へ赴おもむき、鶴城を混じえて机を囲んだ。居住まいを正すと、黒蔓がよく通る声で切り出した。

「俺は明日、朱理太夫を身請けする」
「あ、明日ですか!?」

　いつかこんな日が来るとは予想していたが、あまりに急な日取りに、鶴城は頓狂とんきょうな声を上げる。

「ちょっと待って下さいよ、黒蔓さん！　いくらなんでも、唐突すぎますって！」
「うるせぇな、今更だろ。それに、明日は朱理が太夫になって、ちょうど十年だ。年季明けにも、いい節目ふしめじゃねぇか。新しい新造らも、馴染んできた頃だしな」
「まぁ、そりゃそうなんですけど……。もう少し早めに言ってくれたら、宴うたげの準備も余裕を持ってできたのに……」

　すっかり弱り顔の鶴城の隣で、東雲がころころと嬉しそうに笑った。

「必要無い、ということでしょう。朱理太夫の宴嫌いは、昔からじゃありませんか。それに、出立が明日なのであれば、内々でのお見送りはできますしね」
「さすが、俺の愛弟子だな。察しが良くて助かるぜ。せいぜい尻に敷かれてろよ、楼主」

　にやりと口角を上げる黒蔓に、鶴城は額を押さえながら、苦笑混じりの溜め息をついた。

「まったく、最後まで貴方たちらしいな……。分かりました。では、今夜は身内だけでお祝いさせて頂きましょう」
「有難う鶴城、煜さん。今までお世話になりました」
「長年、お疲れ様で御座いました」
「お前と働けて良かったよ、朱理。お疲れ様」

　温かく受け入れてくれた二人に、深々と頭を下げながら、朱理の脳裏にたくさんの思い出がよぎり、じわりと目頭が熱くなった。
　娼妓になってから今までの二十余念、本当に色々あった。知らずに済んでいた吉原地獄。最愛の人と幾度も引き離され、何度も心が折れたこと。晋和会しんわかい会長や、稲本いなもと楼主の登楼。見世の経営危機。そして旧友の死。
　こんなことなら、太夫になどなりたくなかった。なにもかも放り出して、逃げてしまいたい。そう思ったことは数知れない、苦難の日々だった。
　それでも足掻あがき続けて乗り越え、今がある。穏やかに微笑んでくれる人が隣に居て、最高の形でこの吉原を出ていける日が、ようやく訪れたのだ。長かった。遠かった。だが、待ち続けた甲斐なら充分あった。
　朱理は、隣に座る黒蔓の手を握る。握り返される絹手袋の冷たさが、すぐ温かくなるのは、今も昔も変わらない。このうえない幸せを笑みに変え、二人は満足そうに見つめ合うのだった。
　その夜、見世は鶴城の計はからいで臨時休業とし、内々の送別会が行われた。急ごしらえで、中庭の桜の下に緋毛氈ひもうせんが敷かれただけの簡素な舞台だったが、朱理も黒蔓も、それで充分だった。
　朱理は十年前と同じ、漆黒の生地に紅緋べにひの曼珠沙華が咲き誇る打ち掛け、髪には陸奥から贈られた真朱まそほの簪かんざしを挿さしている。
　中央の舞台で舞を披露し、最後に桟敷さじきの全員へ向けて深く頭こうべを垂れて、感謝の意を示した。
　楼主、遣手、娼妓たち、妓夫ぎゆうら全員から拍手と喝采、祝いの言葉が飛び交い、穏やかに見送りの宴は締めくくられた。
　万華郷で過ごす最後の座敷で、黒蔓と床とこを共にし、太夫としての生活は幕を閉じたのだった。

◇

　翌朝。清々しい朝陽が降りそそぐ小春日和。迎えの車の前に、全従業員が顔を揃えて、出立を見守っている。
　そんな中、朱理は新造の一人へ歩み寄った。昨日、朱理を探し回っていた明石だ。朱理によく懐なつき、進んで世話を買って出ていた新造だ。
　ぼろぼろと涙を零し、しゃくり上げる明石の頭を優しく撫でる。朱理は懐ふところから簪を取り出すと、明石に差し出した。

「これは、俺が太夫になった時に貰った物なんだ。良いことばかりじゃないけれど、いろんな思い出が詰まってる。きっと、お前を導いてくれるよ」
「有難うございます……っ！　朱理様……短い間でしたが、とても尊敬しておりました！　どうかお幸せに……！」
「有難う、明石。皆も、今までお世話になりました。これからも頑張ってね」
「お疲れ様でした！」
「お元気で！」
「たまには遊びにいらして下さいね！」
「俺は揚代あげだいいりませんから、是非、ご指名を！」
「辞めろよ、吉良きら。折角の雰囲気を台無しにするんじゃない」
「なんだよー、玖珂くがだって来て欲しいと思ってるくせにー」
「う、五月蝿いな！」
「こら、静かになさい。出発されますよ」

　そうして温かく送られ、黒いセダンは静かに吉原大門を出ていく。車が完全に見えなくなるまで、誰もその場を動かなかった。

「愛してるよ、志紀しきさん」
「俺も愛してる」

　後部座席で寄り添う朱理と黒蔓は、固く手を繋いで口付け合う。二十余年の長く困難な道のりを経て、朱理は確信した。この道行みちゆきは、間違いなく穏やかで明るく、なにより愛しいものになるのだと。


終