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5章
46【空言哀歌】
しおりを挟む「おかえり、璃津。遅かったな」
「……ただいま。ちょっと疲れて、ソファで寝てた」
1人きりの孤独感に耐えられず、すっかり眠気も覚めてしまった丹生は、結局、更科のマンションへ帰って来た。いつもと変わらない更科の穏やかな表情に、罪悪感が胸を刺す。
「飯は?」
「あー……今日はいらないや。バイトで結構飲んだから、お腹空いてない」
「そうか。なんか顔色悪いな、早く休め」
「うん」
重い足を引きずって寝室へ行こうとした丹生の腕を、更科が掴んだ。
「何かあったな?」
「……なにも無いよ」
相変わらず敏い更科に苦笑が漏れるが、事実、何も無かったのだから嘘ではない。嘘ではないが、何も無かった事こそが〝何か〟なのである。
「顔に『ツライ』って書いてあるぞ」
「えー、本当に? まあ、週末の混みようが予想以上につらかったかな」
「お前、顔に出てる自覚あるくせに、誤魔化すのが下手すぎるんだよ」
「ごもっともです……」
プライベートでは感情がすぐ顔に出ることも、誤魔化すのが下手なことも分かっている。掴まれた腕から更科の体温が移ってきて、郡司の熱を思い出した。
抱きしめられたいな、と思った瞬間、優しく引き寄せられた。嗅ぎ慣れた更科の香水とタバコの匂いに、違和感と胸騒ぎがする。
「……誰だ」
「なに?」
「この匂いは知らない」
更科の鼻の良さにも驚くが、香りが移るくらい触れ合っていたのかと思うと、切なさを通り越していっそ笑えた。
「……オフィスで寝てた時、誰か来た気がする。でも眠かったし暗かったし、誰かは分からなかった」
「何かされたのか?」
「いや、なにも。頭撫でられたような感じがしたくらい」
「誰だか分かんねぇ相手に、されるがままになってんじゃねぇよ。危ないだろうが」
「大丈夫だよ。俺に変な気起こす奴なんて、たかが知れてるし」
更科は皮肉っぽく「はっ」と息を吐いた。
「たかが知れてる、ねぇ。朝夷を筆頭に棗、阿久里、それに総務省の……風真、だったか。やけに仲良しみたいだが?」
「風真は違うよ、本当に。アイツにはベタ惚れしてる恋人が居るからね。むしろ俺は2人の協力者だよ」
後頭部に回されていた手のひらが、優しく頭を撫でた。
「まぁいい。ここんとこ色々あったからな。精神負荷も大きかっただろ」
「大丈夫だよ、更科さんがこうして守ってくれてるから」
「俺にできることなんて知れてる。お前の心までは守れない」
「そんなの誰にもできないよ。自分の心は、自分で守るしかないんだからさ」
「……それを言うのか、よりによってお前が……」
言葉を切った更科は、10年前のあの雨の日を思い出していた。
長年、築いてきたはずの友情が呆気なく崩れ、親友だと思っていた男は訳も告げずに特別局を去り、これからどうすれば良いのか分からなくなった。たまらない不安と孤独を抱え、自分の信念を疑い、辞職することさえ考えていた。そんな時、「心配ないよ」と言って寄り添ってくれた丹生が居たから、今の自分があるのだ。
傷付き、暗く闇に沈んだ更科の心を、明るい場所まで優しく掬い上げてくれたのは、他ならぬ丹生だというのに。慰めてくれたのと同じ口で、自分のこととなるとそんなふうに言うのか、と虚しくなる。
俯いて黙り込んだ更科を、丹生は訝しげに覗き込んだ。
「どうしたの?」
「……俺じゃ、お前の心の隙間を埋められないのか?」
「え……」
「お前が俺との関係に不安を感じているのは分かっていた。だから態度で示して安心させようと、あえて何も言わなかった。だが、それが間違いだったのかもな」
丹生はこれから更科が何を言おうとしているのか、すぐに分かった。鳩尾の辺りが、やけに騒つく。何も変わらないようでいて、揺蕩うような今までの関係とは、大きく変わろうとしている。何度も体を重ねながら、目覚めれば何も無かったかのようだったこれまでとは、180度違ってしまう。
「璃津、俺と──」
更科が口を開いた瞬間、丹生は反射的にその唇を自分のそれで塞いでいた。込み上げる激情のままに、という風でいて、その実、はっきりと言葉にされるのを拒んだのだ。それに応えることが出来ないと、分かったからだ。
丹生にとって、言葉や体の関係など些事である。彼が真剣な相手に対して重んじるのは、嘘をつかないことだ。
何度も角度を変えながら口付ける。しばらく互いの口腔を暴きあった後、丹生は更科を見つめながら言った。
「好きだよ、更科さん」
ああ、やっぱり言えてしまった、と丹生は残念に思った。つい数時間前、寝言のフリで郡司に言った物とはまったく違う。自分でも吐き気がするほど軽薄で、空虚な台詞だった。そんな胸中などつゆ知らず、更科は微笑みながら答えてきた。
「俺もだ。ずっとお前が欲しかった、お前以外は欲しくない」
「嬉しいよ」
阿久里にも棗にも、平然と嘘の愛を囁いた。更科にも出来てしまった事実が何を示すのかを自覚して、涙が滲みそうになる。やはり更科でも駄目なのだと思い知り、失望した。
(分かってたくせに、勝手に期待して勝手に失望してる。最低だな、俺。きっとろくな死に方しないわ……)
そんなことを思いながらも、表情はしっかり歓喜に瞳を潤ませる初心を演じる。
冷静に考えれば、恋人になったからといって何が変わるわけでもない。何故ならこの関係は、絶対に公表されるものではないからだ。
なにもかも呑み込んで嘘にする丹生の切り替えは、ほとんど無意識になされる。更科との間に淡く起こりかけていた恋の微温火も、この関係が続くほどに小さく、やがて消えていくだろう。
照れ笑いを演じ、小首をかしげて言った。
「恋人かぁ。そういうの久し振りすぎて、何だかまだピンとこないな。天下の特別局の部長様と付き合うなんて、まるでフィクションだよ」
「俺だってお前以上に久し振りだわ。まあ、この俺と付き合うからには、先に死ぬのだけは絶対に許さないからな」
「そっくりそのままお返ししまーす」
「いや、順当に行けば俺が先だろうが」
軽口を叩き、互いに笑みをかわしながら、丹生はやはり何も変わらないと安堵する。ただ、郡司の熱と匂いだけが脳裏を離れず、一刻も早く上書きしてしまわねばと、そればかり考えていた。
恋人として初めて合わせた更科の肌は、いつもより昂ぶっていて熱く、行為は激しく、譫言のように告白を繰り返された。
「愛してるぞ、璃津」
囁かれた言葉に、丹生の中を虚無感が駆け抜けて涙が溢れた。それを拭うように、更科の舌が舐めとっていく。
「……俺も……愛してるよ……」
空々しくて無意味な言葉が自分の口から発せられるのを、まるで他人事のように聞いていた。
事後。いつもより乱れたシーツに身を横たえて向かい合っていると、不意に問われる。
「お前、指輪どこのが良い?」
「ゆび……なんて?」
「指輪だよ、揃いのな。好きなブランドがあれば任せる」
丹生は一瞬、ぽかんとした後、驚きに目を見開いた。
「それはつまり、ペアリングってこと……?」
「なんだ、嫌なのか?」
「い、嫌じゃないよ! ただ、更科さんがそんなこと言うと思わなくて……なんというか、度肝を抜かれました」
「俺は普段つけられねぇけど、ちゃんと持っとく。お前のは中指辺りのサイズにして、ファッションの一環にすれば良いだろ」
「うん、そうだね」
「そういやこの前、新聞にブシュロンの新作が載ってたな。お前に似合いそうだと思ってたんだわ。それで良いか?」
丹生は(なにそれ、指輪の種類? それともブランド? どっちにしろ聞いたことないんだけど)と思いながら、にっこり笑って答えた。
「俺、あんまり詳しくないから任せるよ」
「分かった。本当は一緒に買いに行きたいんだけどな」
「そうだね。でも仕方ないよ、明日から出張でしょ?」
「ああ。間が悪いぜ、まったく。お前は明日と明後日、休みだろ?」
「 いや、明日はバイト入れてる」
「はあ? 働きすぎだ。ちっとは緩急ってもんを付けろ。ぶっ倒れるぞ」
「いやぁ、スケジュール管理って苦手でさぁ。どうせ更科さん居ないし、暇するのもアレだなって。日曜はちゃんと休むから大丈夫」
「やれやれ、妙なとこまで俺に似やがって。あんま無理すんなよ」
「はぁい。更科さんもね」
更科は「分かったよ」と緩く笑って口付け、抱き合ったまま眠りについた。
◇
週明け。プレゼントされた指輪を中指に嵌め、丹生はいつも通り出勤した。オフィスラウンジでコーヒーをいれていると、阿久里が驚いたように声を掛けてきた。
「璃津、その指輪どうしたの?」
「んー? 貰った」
「貰ったって……誰に? 朝夷さん?」
「違うよ。バイト先のお客から」
眉根を寄せる阿久里の反応に、丹生は怪訝な顔をする。
「え、なに。なんかおかしい?」
「いや、だって……それブシュロンの新作でしょ?」
「あー、確かそんなこと言ってた気がする。有名なとこのなの?」
「有名もなにも、グランサンクのハイジュエラーだよ。しかもそのデザインならグレードは最高ランク。かなり良いお値段するからさ」
「グランサンクってなに?」
「パリの五大宝飾店。それくれた相手、かなり本気っぽいけど大丈夫なのか?」
「まぁ大丈夫でしょ、多分。ファッションの一環にしてって言ってたし」
「ファッションって……。一体どんなブルジョア相手にしてるんだよ……」
呆れた声を上げる阿久里をよそに、そんな高級品とは思いもしていなかった丹生は、手汗が噴き出ていた。
「そのー……因みにおいくらぐらいか聞くのって、やっぱ野暮かな?」
「流石にそれは……。プレゼントなんだったら、俺からは言えないな」
「そ、そうだよねー……。無くさないようにしよう……」
怖々と指輪を眺める丹生に、少しばかり嫉妬心を煽られつつ、もう指輪はあげられないなと溜め息をつく阿久里なのであった。
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