九段の郭公【完結】

四葩

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6章

64【インスティンクト・ナイト】

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 この家はどこもかしこも、暗くて寒い。物理的な意味ではなく、漂う雰囲気だ。丹生たんしょうは、ようやく落ち着いてきた朝夷あさひなの頭を撫でながらそう思った。
 ここへ来るのは12年ぶりだ。以前はまだ関係も浅く、事情も何も知らなかったため、この家の異様さに気が付かなかった。
 朝夷の家はタワーマンションのペントハウスで、広さや見晴らしの良さ、照明や家具、食器のひとつに至るまで最上級だ。モノトーンで統一されており、シックで洗練されている。しかし、圧倒的に生活感が無い。およそ人が住んでいるとは思えない寒々しさだ。
 更科さらしなのマンションもさして変わらぬ豪華さだが、清潔感はあっても生活感が無いわけではない。
 ここはまるで忘れ去られた廃墟のような、仄暗い侘しさで満ちていた。朝夷の心の中そのもののようで、堪らなくなる。ぎゅっと強く抱きしめると、朝夷は微かに体を震わせた。

「……璃津りつ
「なに?」
「……なんで俺だったの……?」
「謝りたかったから。それと、もう独りにしないって伝えたかったから」
「そう……。じゃあ、そろそろ送ろうか……。今ならまだ間に合うよ……」
「帰って欲しいのか?」
「ちがっ……違う、けど……。でも……お前には、その……あれが……」

 朝夷はそこで言葉を濁し、丹生は小さく笑う。

(恋人が居るだろう、って? 濁すくらいなら言わなきゃ良いのに。長門ながとはいつもそうだ。嫌なことも辛いことも丸ごと呑み込んで、我慢して、ひたすら耐えてばかり。痛々しいほど強くて、悲しいほど優しい。でも、俺はそんな姿を見るのが好きなんだ)

 丹生は言葉の代わりに朝夷の頬を両手で包み、冷たい床から立ち上がらせた。優しく口付け、そのままベッドへ誘導する。背中からマットレスへ沈んだ丹生を見下ろす朝夷の瞳は、また涙で潤んでいて、やがて丹生の頬へぱたぱたとぬるい雫が落ちた。

「……いやだよ……璃津……。こんなの、怖すぎる……。無理だ……」
「どうして?」
「終わりみたいで……。この幸せを受け入れたら……ぜんぶ消えて無くなりそうだから……」
「お前は筋金入りの幸せ恐怖症だもんな。俺もだけど」
「だから辛い……。お前の存在だけで充分なんだ、俺は……。失いたくないんだよ、お前だけは……」
「そうだな。俺たちの望みは明るい未来じゃない。俺たちが願うのは……」

 明けない夜、始まらない朝、開かない扉、どこにも繋がらない道、生きながらに死んでいる世界。不幸にする愛と、汚し堕とす愛。2人は正反対であり、区別不能でもあった。

「……本当に好きなんだ、璃津……。お前以外、なにも要らないから……こんな温もりも、優しさも要らないから……。だからどうか……終わらせないで……」
「終わるわけないだろ。俺たちはとっくに手遅れなんだよ。だって、出逢った時から終わってるんだから」

 朝夷から、呻きのような吐息のような声が漏れる。丹生は慈愛に満ちた笑みを向け、優しい声音で言った。

「大丈夫だよ。俺は絶対、お前を幸せにしない。お前のものにはならない。甘い言葉は言ってやらない。独りにもしないし、消えたりもしないんだ」

 それを聞くと、朝夷ははらはらと涙を流して、心の底から幸せそうに笑った。



 その頃。特別局では、オフィスラウンジに羽咲うさきが顔を出していた。ソファで携帯片手にコーヒーを飲んでいた神前かんざきに問う。

「なー、りっちゃんって帰ってきた? さっきオフィス覗いたんだけど、鞄もジャケットも無かったからさ」
「いや、見てないな。内調から直帰したんじゃないか。戻ったばかりで疲れてるだろうし」
「やっぱりかぁー。久し振りに会えたし、帰還祝いにメシ行きたかったんだけどなー。あ、じゃあ俺らで行く?」

 神前はわずかに躊躇した後、苦笑を浮かべて立ち上がった。

「……悪い、これから私用があってな。また今度」
「そっか、りょーかい。お疲れー」
「ああ、お疲れ」

 羽咲はラウンジを出て行く神前の背を見送り、首の後ろに手を当てて口角を上げた。

「無事だと分かった途端に男か。案外、分かりやすいヤツなんだな、神前も」

 そこへ、羽咲の私用携帯が鳴る。着信はなつめだ。

【お前、今どこだ】
「オフィスラウンジ」
【用がないなら、ちょっと付き合え】
「良いけど、お前こそどこだよ」
【地下駐。車で待ってる】
「りょーかい」

 通話を終え、荷物を取りに自分のオフィスへ向かいながら、羽咲は自嘲する。

「俺も人のこと言えねぇか……。ま、人間なんて、みんなこんなモンだよな」

 大きな独り言を言いながら阿久里あぐりのオフィス前を通りかかると、ドアの隙間からデスクに座る阿久里の姿が見えた。羽咲は首をかしげる。

「なにやってんだ、アイツ。まだ仕事か? こんな目出度めでたい日にまでご苦労だなー、班長サマは」
「よ、羽咲。なにブツブツ言ってるの?」

 背後から声をかけてきたのは郡司ぐんじだ。羽咲はまたしても首をかしげた。

「あれ? お前、帰ったんじゃないのかよ」
「いや、これからだよ。阿久里とご飯行こうと思って、誘いに来たんだけど……」

 羽咲と共にオフィスを覗き込んだ郡司は、「ありゃー」と苦笑を浮かべた。

「まだ仕事中かぁ、残念。羽咲は上がり? ご飯行く?」
「あー……先約あるんだわ、悪いな。また誘ってくれ」
「分かった。じゃ、お疲れ様」

 羽咲は、先ほどの神前とまるで同じ返答をしていることに、やっぱり俺も同じだな、と思った。
 しかし、てっきり神前の相手は郡司だと思っていたのだが、どうなっているんだと混乱する。
 すると、今度は向かいから更科さらしなが歩いてきた。羽咲は「げっ」と顔を歪めたが、避けるわけにもいかず、さっさと通り過ぎようと歩を速めた。

「お、お疲れ様でーす……」
「おい」

 通り過ぎざまに呼び止められ、びくりと体を竦ませる。ぎくしゃくと首だけで振り返り、引きつった笑みを浮かべる。

「な、なんすか……? 俺、もう帰るとこで……」
「璃津は?」
「へっ?」

 局員すべての所在を把握していてもおかしくない更科からの質問に、羽咲は間の抜けた声を上げる。更科は苦々しく煙草を噛みながら繰り返した。

「璃津だよ。知らねぇか?」
「いやぁー、知らないです。帰ったんじゃないすかね、多分……」
「あっそ」

 更科は不機嫌そうに踵を返し、来た方向へ戻って行った。

「……なんだ? いつにも増して変だな、今日……ってやべ! あんまり待たすとキレるからな、アイツ。俺も早く出よ」

 特別局、というより、アグリ班に流れる軋んだ空気を怪訝に思いつつ、羽咲はエレベーターに乗ると、地下駐車場のボタンを押すのだった。



「単純ですよね、俺……」
「そうかな。案外、今頃どこも似たような状況かもしれないよ」

 ベッドへうつ伏せになり、紫煙を吐きながら、神前は皮肉っぽく言う。

「まぁ、彼らは間違いなくそうでしょう。ようやく恋人になった途端に引き離されたんだから。明日はアイツ、出勤できないかも」

 隣でロックグラスを傾ける城戸きどは、僅かに眉をひそめてなんとも言えない表情だ。
 神前は湿ったシーツに指を這わせ、睦み合う更科と丹生を想像する。以前、オフィスで抱き合っていた所を見たせいか、案外あっさり情景が浮かび、そんな自分に嫌気がさした。

(自分たちが、ついさっきしたのと同じことを、あの2人で思い浮かべるなんて、我ながら趣味が悪すぎる……。でも、彼らはもっと幸せそうなんだろう。俺の見たこともないような顔で、聞いたことのない声を上げているんだろう……)

 城戸を見上げると、優しい笑みを向けられる。その表情に酷く安堵して、余計な思考を追いやり、神前も薄く微笑んだ。
 かつて自分が利用し、失脚させた男は、偶然、再会した時にも、今と変わらぬ笑顔を浮かべ、「元気そうで嬉しい」と言った。
 11年前。城戸は更科の気を引こうと躍起になっていた神前に目をかけ、引き立ててくれた。健気に努力している部下を、善意で応援してくれたのだ。
 しかし、いくら頑張っても思うようにならない苛立ちがつのり、悪心がどんどん凝り固まったあげく、神前は城戸を誘惑した。
 城戸にバディが居ないのをいいことに、さも好意があるように思わせ、積極的に2人きりで過ごし、籠絡ろうらくしたのだ。そうして既成事実を作り、更科の前では被害者のように振舞った。
 言い訳の余地もなく、はなはだ卑劣で愚かな行為だったにも関わらず、城戸はすべて理解したうえで黙秘を選んだ。
 最初は戸惑った。恨まれ、罵られても当然だったからだ。次に、幸運だと思った。己の悪事が暴かれずに済んで、ほっとしたのだ。
 だが、すぐに後悔した。事態は想定より大きくなり、恩人である城戸を左遷に追いやり、更科を深く傷付け、それを丹生に見抜かれたからだ。

「俺、あの人のこと大嫌いだったんだよ。追い払ってくれて有難うね、ナナちゃん」

 城戸の入管行きが決まった時、無邪気な笑顔でそう言われ、腹の底からぞっとした。なぜ丹生が知っていたかは分からない。更科が話したのではないだろう。恐らく、彼の観察と推理だ。どうりで敵わないわけだと納得した。
 結局、今に至るまで丹生を越えられず、一瞬でも更科の視線を勝ち取ることはできなかった。
 最も醜悪な部分を知る城戸だけが、今も昔も優しく見つめてくれていて、神前はようやく、その想いの深さに気付いたのだ。

「愛しているよ、那々緒ななお。初めてお前を見た時から、ずっと好きだった。知れば知るほど、何もかも愛おしい」

 温かい声で、たくましい腕で、大きな懐で包まれ、泣きたくなるほどの歓喜が込み上げる。よじれた愛で壊したものが、愛される喜びを教えてくれた。

「俺もです、秀成しゅうせいさん……。貴方にもう一度会えて、本当に良かった……」

 最も歪に始まった2人の関係が、この夜、最も真っ当に幸福であることを、彼が思い描き、羨望する2人の夜がまったく違うものとなっていることを、神前は知るよしもないのだった。
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