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第六十九話 小谷初望・龍立、局に入る
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山道は、やがて開けてきた。
淡い金色の午後の光が、雲の切れ目からこぼれ、遠くの谷筋を幾重にも照らし出す。
最後の急な坂を登りきったとき、視界が一気に開けた。
広い谷が平らに広がり、両側を山が抱き込むように囲んでいる。真ん中の平地には家々が連なり、そこかしこから煙が細く立ちのぼっていた。さらに目を凝らせば、山腹には城壁が波打ち、その上に木の櫓がいくつも並んでいる。いちばん高い尾根の上には、険しい峰にちょこんと腰を据えた小さな平山城があった。
浅井・小谷城。
三巴の家紋を染め抜いた旗が風にはためく。その色は、尾張の金の木瓜の大旗ほど派手ではないが、どこか沈んだ粘り強さを宿している。
「良い壺口だ。」
柳澈涵は低くつぶやいた。
「壺口?」
弥助が首を傾げる。
「山が壺を囲むようになっている。」
柳澈涵は顎で示した。
「中の水を外へ流そうと思えば、この細い口を通るしかない。口を守る者が慌てなければ、どれだけ外から波が押し寄せても、中までは入り込めない。」
彼の視線は、ゆっくりと城から城下町へと下りていく。
城下の川沿いには水車が回り、その近くには穀倉や兵舎が並んでいる。町場は、そのあいだに挟み込まれるように配置されていた。暮らしには便利だが、常に武家の視線に晒されている場所でもある。
関所の小隊長は隊を連れて城下に入り、まず兵舎へ戻って報告を済ませた。
その報告の中には、「医者」「古傷を針で治した」「山道で不審な伏兵を破った」といういくつもの言葉が混ざっていた。屯所の頭は、一瞬だけ複雑な顔を見せた。
日が暮れかけたころ、一人の武士が、彼らが泊まっている安宿を訪ねてきた。
その身なりは普通の足軽とは一線を画し、鎧も刀もよく手入れされている。年は三十そこそこ、目元は鋭いが、むやみに威圧するような色はない。
「浅井家臣、遠藤直経。」
彼は名乗り、柳澈涵に軽く一礼した。
「行脚の身の上、そこまでして迎えを受けるほどの者ではありません。」
柳澈涵も礼を返した。
「澄原殿ほどの腕が、小谷城下の兵舎に腰を据えてくださるなら、浅井としても相応の礼は尽くしましょう。」
そこで、ふと声色を変える。
「ただ――尾張のほうは、近頃いかがで?」
軽く放ったような問いだったが、その奥には明らかな探りがあった。
柳澈涵の視線が、一瞬だけ揺れる。
「尾張は良いところです。」
静かに口を開く。
「人が多く、地はさほど広くない。道は四方へ通じている。」
「戦になるときは、誰もが地面が足りないと言い、田を耕すときは、この石だらけの畑を疎ましく思う。」
遠藤直経は、その言葉の中に、「どこにも軽々しく肩入れはしない」という気配を読みとり、口元にごく薄い笑みを浮かべた。
「なるほど。」
彼は言う。
「浅井の土地は、尾張よりさらに狭く、石も少なくはござらん。だが、山が少し多く、川も少し多い。そのぶん、生き延びる道も、ほんの少しは多くございます。」
そう言ってから、改めて姿勢を正した。
「澄原殿さえ構わぬなら、まずは兵舎でしばし行医していただきたい。」
「弟兄たちの傷が軽くなったとわかってから、主のもとへお通ししても遅くはあるまい。」
柳澈涵も、真っ直ぐに礼を返す。
「医を行う者は、相手が誰の家紋を頂いていようと、見るのは傷と病のみ。」
「人が少しでも長く生き延びる手助けになるなら、それだけで十分、路の縁というもの。」
遠藤直経は帰り際、弥助の抱えている古びた木箱に目をやり、少しばかり好奇の光を覗かせた。
彼の背中が路地の向こうに消えてから、ようやく弥助は大きく息を吐いた。
「先生……ばれたりしませんか。先生が本当は……。」
「この谷で、『柳澈涵』という名を知っている者は、お前が思うほど多くない。」
柳澈涵は、笑いながら肩に手を置いた。
「今、彼らが必要としているのは、兵が少しでも長く走れるようにする医者だけだ。」
山の上の小谷城に、ひとつふたつと灯りがともりはじめる。
弥助は宿の木窓に身を乗り出し、山の灯と城下の雪を見下ろした。心のどこかで、薄々と分かっていた。
――先生は、遊山に出たわけではない。
他人の陣の中へ、自分から歩み込んでいるのだ、と。
柳澈涵は、油灯の下で手帳を広げる。
最初のページの隅に、いくつかの行を書きつけた。
「近江・浅井。小谷、一壺にして守るべし。
辺境の兵弱しといえど、心はなお揺らがず。
山道に乱兵の試みあり、正規の軍にあらず。」
筆先を止め、一行を付け加える。
「澄原龍立、この名を仮りて、しばし此の局を観る。」
書き終えると手帳を閉じ、油灯の火を吹き消した。
窓の外を撫でる風には、湖と雪の匂いが混ざっている。その風が、借り宿の壁を静かに叩く。
小谷の城の灯りは、山谷の闇の中でじっと燃えていた。
まるで、谷底に身を丸めている獣が、まだ完全には目を覚ましていないかのように。
淡い金色の午後の光が、雲の切れ目からこぼれ、遠くの谷筋を幾重にも照らし出す。
最後の急な坂を登りきったとき、視界が一気に開けた。
広い谷が平らに広がり、両側を山が抱き込むように囲んでいる。真ん中の平地には家々が連なり、そこかしこから煙が細く立ちのぼっていた。さらに目を凝らせば、山腹には城壁が波打ち、その上に木の櫓がいくつも並んでいる。いちばん高い尾根の上には、険しい峰にちょこんと腰を据えた小さな平山城があった。
浅井・小谷城。
三巴の家紋を染め抜いた旗が風にはためく。その色は、尾張の金の木瓜の大旗ほど派手ではないが、どこか沈んだ粘り強さを宿している。
「良い壺口だ。」
柳澈涵は低くつぶやいた。
「壺口?」
弥助が首を傾げる。
「山が壺を囲むようになっている。」
柳澈涵は顎で示した。
「中の水を外へ流そうと思えば、この細い口を通るしかない。口を守る者が慌てなければ、どれだけ外から波が押し寄せても、中までは入り込めない。」
彼の視線は、ゆっくりと城から城下町へと下りていく。
城下の川沿いには水車が回り、その近くには穀倉や兵舎が並んでいる。町場は、そのあいだに挟み込まれるように配置されていた。暮らしには便利だが、常に武家の視線に晒されている場所でもある。
関所の小隊長は隊を連れて城下に入り、まず兵舎へ戻って報告を済ませた。
その報告の中には、「医者」「古傷を針で治した」「山道で不審な伏兵を破った」といういくつもの言葉が混ざっていた。屯所の頭は、一瞬だけ複雑な顔を見せた。
日が暮れかけたころ、一人の武士が、彼らが泊まっている安宿を訪ねてきた。
その身なりは普通の足軽とは一線を画し、鎧も刀もよく手入れされている。年は三十そこそこ、目元は鋭いが、むやみに威圧するような色はない。
「浅井家臣、遠藤直経。」
彼は名乗り、柳澈涵に軽く一礼した。
「行脚の身の上、そこまでして迎えを受けるほどの者ではありません。」
柳澈涵も礼を返した。
「澄原殿ほどの腕が、小谷城下の兵舎に腰を据えてくださるなら、浅井としても相応の礼は尽くしましょう。」
そこで、ふと声色を変える。
「ただ――尾張のほうは、近頃いかがで?」
軽く放ったような問いだったが、その奥には明らかな探りがあった。
柳澈涵の視線が、一瞬だけ揺れる。
「尾張は良いところです。」
静かに口を開く。
「人が多く、地はさほど広くない。道は四方へ通じている。」
「戦になるときは、誰もが地面が足りないと言い、田を耕すときは、この石だらけの畑を疎ましく思う。」
遠藤直経は、その言葉の中に、「どこにも軽々しく肩入れはしない」という気配を読みとり、口元にごく薄い笑みを浮かべた。
「なるほど。」
彼は言う。
「浅井の土地は、尾張よりさらに狭く、石も少なくはござらん。だが、山が少し多く、川も少し多い。そのぶん、生き延びる道も、ほんの少しは多くございます。」
そう言ってから、改めて姿勢を正した。
「澄原殿さえ構わぬなら、まずは兵舎でしばし行医していただきたい。」
「弟兄たちの傷が軽くなったとわかってから、主のもとへお通ししても遅くはあるまい。」
柳澈涵も、真っ直ぐに礼を返す。
「医を行う者は、相手が誰の家紋を頂いていようと、見るのは傷と病のみ。」
「人が少しでも長く生き延びる手助けになるなら、それだけで十分、路の縁というもの。」
遠藤直経は帰り際、弥助の抱えている古びた木箱に目をやり、少しばかり好奇の光を覗かせた。
彼の背中が路地の向こうに消えてから、ようやく弥助は大きく息を吐いた。
「先生……ばれたりしませんか。先生が本当は……。」
「この谷で、『柳澈涵』という名を知っている者は、お前が思うほど多くない。」
柳澈涵は、笑いながら肩に手を置いた。
「今、彼らが必要としているのは、兵が少しでも長く走れるようにする医者だけだ。」
山の上の小谷城に、ひとつふたつと灯りがともりはじめる。
弥助は宿の木窓に身を乗り出し、山の灯と城下の雪を見下ろした。心のどこかで、薄々と分かっていた。
――先生は、遊山に出たわけではない。
他人の陣の中へ、自分から歩み込んでいるのだ、と。
柳澈涵は、油灯の下で手帳を広げる。
最初のページの隅に、いくつかの行を書きつけた。
「近江・浅井。小谷、一壺にして守るべし。
辺境の兵弱しといえど、心はなお揺らがず。
山道に乱兵の試みあり、正規の軍にあらず。」
筆先を止め、一行を付け加える。
「澄原龍立、この名を仮りて、しばし此の局を観る。」
書き終えると手帳を閉じ、油灯の火を吹き消した。
窓の外を撫でる風には、湖と雪の匂いが混ざっている。その風が、借り宿の壁を静かに叩く。
小谷の城の灯りは、山谷の闇の中でじっと燃えていた。
まるで、谷底に身を丸めている獣が、まだ完全には目を覚ましていないかのように。
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