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第七十八話 六角への使者・山路、初めての探り
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数日後、朝靄の残る頃、小谷城門がゆっくりと開いた。
門の下を、小さな一行が歩み出ていく。
先頭は城下奉行所の書役・島田。少しばかり上等の直垂を身につけ、両腕で大事そうに封印済みの文箱を抱えている。
阿閉貞征は軽装の甲冑を纏い、いつも通りの落ち着いた表情で刀を帯び、その背後に盾を担いだ足軽二人が従う。
最後尾には、薬箱を背負った柳澄原と弥助。
「先生、本当にこれで人は足りるの?」
弥助が小声で尋ねる。
「人が多いと、道が狭くなる。」
柳澄原は言う。
「この山道に刀を持ち込み過ぎれば、まず山鳥を驚かせる。」
阿閉が振り返り、ちらりと彼を見た。
「鳥が散れば、どこに人が隠れているかも分かる。」
「だからこそ、鳥の動きを読める者が必要。」
柳澄原は笑う。
隊は山道に沿ってゆっくりと登っていった。
初夏の山中には雪の影はもうなく、水気だけがまだ木々のあいだに残っている。片側は切り立った斜面、もう片方は雑木とところどころ露出した岩肌。
しばらく行くと、島田の息が上がってきた。
「日頃は机の前で筆ばかり持っておりまして。」
彼は苦笑する。
「山道を歩いてみると、自分の足がこんなにも頼りないとは。」
「足が頼りなくとも、手はしっかり。」
阿閉が言う。
「その箱だけは落とすな。」
柳澄原は島田の足運びを一瞥した。
「前に小さな庵がある。ひと息入れて、ついでにこの道の『脈』を見よう。」
「山道にも脈があるのですか。」
島田が興味深げに問う。
「ある。」
柳澄原は淡々と答える。
「踏み固められて土が堅くなった場所、いつも足が止まる石、刀傷の多い樹皮――みな、その道を行き交う者の脈。」
弥助は聞きながら、こっそり頭の中で覚え込んでいく。
昼近く、彼らは小さな村落を通りかかった。十数戸ほどの小さな村で、田は狭く、稲の伸びもあまり良くない。
村の入口では、腰を押さえてうずくまる老人がうめいていた。
「また腰が……。」
老農の妻が慌てて支える。
「山に薪を取りに行かないといけないのに。」
島田は思わず視線をそらし、通り過ぎようとした。だが柳澄原が足を止める。
「行程に差し支えぬなら、少し見ても?」
彼は阿閉に問う。
阿閉は頷いた。
「一炷の香が燃え尽きるまで。」
柳澄原はしゃがみ込み,老人に腰を曲げ伸ばしさせ、腰のあたりと踵を軽く押さえてみた。
「働き過ぎで、足裏から冷えが這い上がり、腰で根を張っている。」
柳澄原は言う。
「このまま無理を重ねれば、来年は田にも出られなくなる。」
彼は弥助に銀針を取らせ、腎兪・大腸兪・委中・足三里などの経穴に一本ずつ、静かに刺していく。さらに艾を腰の脇に据え、短く灸を施した。
立ち上る煙のうちに、老人の顔色にはうっすらと血の気が戻る。
「ここ数日は山を控えて。」
柳澄原は念を押す。
「膝から上を揉むこと。毎晩一度。酒よりよほど効く。」
その隙に弥助は、村の女房に耳打ちした。
「このところ、六角の人たちは、よく来ますか。」
「税を取りに来た者が、二度。」
女は苦い顔で言う。
「それとは別に、六角の旗を掲げた連中が何度か道で米を奪っていくけれど、本当に本家の兵かどうかなんて、誰にも分からない。」
「何を持って行かれる。」
柳澄原が問う。
「米と酒。」
女は歯を食いしばる。
「『六角様の戦用の糧』だって。」
「信じてる?」
弥助が思わず口を挟む。
「信じようが信じまいが、関係ない。」
女は低く言う。
「渡さなければ、戸を叩き壊される。」
村を離れる時、柳澄原はさりげなく振り返った。
「六角の旗は、この稲より高い。」
彼は小声で阿閉に言う。
「けれど、ここにいる者たちの記憶に残るのは、旗の下の『顔』だけ。」
「だからこそ、その顔がどこの誰なのかを見定める必要がある。」
阿閉が応じる。
午後、彼らは山腹に小さな庵を見つけた。庵はこぢんまりとしており、庵前の老槐の根元に据えられた石卓には薄い埃が積もっている。
「昔はよく参拝の方が来られました。」
庵の小僧が言う。
「ここ数年は道が荒れて、めっきり。」
阿閉は米と銭を少しばかり置き、今夜一晩泊まる部屋を借り受けた。
「今夜はここで野営。」
阿閉が告げる。
「明け方に下りて、六角側の関所へ。」
柳澄原は庵の前に立ち、庵の外の道を見渡した。
谷の底から吹き上がる風は、草木の匂いとほのかな湿りを運んでくる。
「先生。」
弥助が小声で尋ねる。
「何を見てるの?」
「夜に、この道を通る足跡があるかどうか。」
柳澄原は穏やかに答える。
「あるなら、どこを踏むか。」
弥助は思わず身震いした。
「つまり、誰かが――」
「まだ、彼らの代わりに怖がるな。」
柳澄原は彼の頭をぽんと叩く。
「まずは飯だ。」
門の下を、小さな一行が歩み出ていく。
先頭は城下奉行所の書役・島田。少しばかり上等の直垂を身につけ、両腕で大事そうに封印済みの文箱を抱えている。
阿閉貞征は軽装の甲冑を纏い、いつも通りの落ち着いた表情で刀を帯び、その背後に盾を担いだ足軽二人が従う。
最後尾には、薬箱を背負った柳澄原と弥助。
「先生、本当にこれで人は足りるの?」
弥助が小声で尋ねる。
「人が多いと、道が狭くなる。」
柳澄原は言う。
「この山道に刀を持ち込み過ぎれば、まず山鳥を驚かせる。」
阿閉が振り返り、ちらりと彼を見た。
「鳥が散れば、どこに人が隠れているかも分かる。」
「だからこそ、鳥の動きを読める者が必要。」
柳澄原は笑う。
隊は山道に沿ってゆっくりと登っていった。
初夏の山中には雪の影はもうなく、水気だけがまだ木々のあいだに残っている。片側は切り立った斜面、もう片方は雑木とところどころ露出した岩肌。
しばらく行くと、島田の息が上がってきた。
「日頃は机の前で筆ばかり持っておりまして。」
彼は苦笑する。
「山道を歩いてみると、自分の足がこんなにも頼りないとは。」
「足が頼りなくとも、手はしっかり。」
阿閉が言う。
「その箱だけは落とすな。」
柳澄原は島田の足運びを一瞥した。
「前に小さな庵がある。ひと息入れて、ついでにこの道の『脈』を見よう。」
「山道にも脈があるのですか。」
島田が興味深げに問う。
「ある。」
柳澄原は淡々と答える。
「踏み固められて土が堅くなった場所、いつも足が止まる石、刀傷の多い樹皮――みな、その道を行き交う者の脈。」
弥助は聞きながら、こっそり頭の中で覚え込んでいく。
昼近く、彼らは小さな村落を通りかかった。十数戸ほどの小さな村で、田は狭く、稲の伸びもあまり良くない。
村の入口では、腰を押さえてうずくまる老人がうめいていた。
「また腰が……。」
老農の妻が慌てて支える。
「山に薪を取りに行かないといけないのに。」
島田は思わず視線をそらし、通り過ぎようとした。だが柳澄原が足を止める。
「行程に差し支えぬなら、少し見ても?」
彼は阿閉に問う。
阿閉は頷いた。
「一炷の香が燃え尽きるまで。」
柳澄原はしゃがみ込み,老人に腰を曲げ伸ばしさせ、腰のあたりと踵を軽く押さえてみた。
「働き過ぎで、足裏から冷えが這い上がり、腰で根を張っている。」
柳澄原は言う。
「このまま無理を重ねれば、来年は田にも出られなくなる。」
彼は弥助に銀針を取らせ、腎兪・大腸兪・委中・足三里などの経穴に一本ずつ、静かに刺していく。さらに艾を腰の脇に据え、短く灸を施した。
立ち上る煙のうちに、老人の顔色にはうっすらと血の気が戻る。
「ここ数日は山を控えて。」
柳澄原は念を押す。
「膝から上を揉むこと。毎晩一度。酒よりよほど効く。」
その隙に弥助は、村の女房に耳打ちした。
「このところ、六角の人たちは、よく来ますか。」
「税を取りに来た者が、二度。」
女は苦い顔で言う。
「それとは別に、六角の旗を掲げた連中が何度か道で米を奪っていくけれど、本当に本家の兵かどうかなんて、誰にも分からない。」
「何を持って行かれる。」
柳澄原が問う。
「米と酒。」
女は歯を食いしばる。
「『六角様の戦用の糧』だって。」
「信じてる?」
弥助が思わず口を挟む。
「信じようが信じまいが、関係ない。」
女は低く言う。
「渡さなければ、戸を叩き壊される。」
村を離れる時、柳澄原はさりげなく振り返った。
「六角の旗は、この稲より高い。」
彼は小声で阿閉に言う。
「けれど、ここにいる者たちの記憶に残るのは、旗の下の『顔』だけ。」
「だからこそ、その顔がどこの誰なのかを見定める必要がある。」
阿閉が応じる。
午後、彼らは山腹に小さな庵を見つけた。庵はこぢんまりとしており、庵前の老槐の根元に据えられた石卓には薄い埃が積もっている。
「昔はよく参拝の方が来られました。」
庵の小僧が言う。
「ここ数年は道が荒れて、めっきり。」
阿閉は米と銭を少しばかり置き、今夜一晩泊まる部屋を借り受けた。
「今夜はここで野営。」
阿閉が告げる。
「明け方に下りて、六角側の関所へ。」
柳澄原は庵の前に立ち、庵の外の道を見渡した。
谷の底から吹き上がる風は、草木の匂いとほのかな湿りを運んでくる。
「先生。」
弥助が小声で尋ねる。
「何を見てるの?」
「夜に、この道を通る足跡があるかどうか。」
柳澄原は穏やかに答える。
「あるなら、どこを踏むか。」
弥助は思わず身震いした。
「つまり、誰かが――」
「まだ、彼らの代わりに怖がるな。」
柳澄原は彼の頭をぽんと叩く。
「まずは飯だ。」
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