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第七十七話 久政の憂い・雨森、胸の内
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その二日後、小谷城主楼。
雨上がりの石段には、まだ湿り気が残っている。谷口から吹き込む風は、かすかな土の匂いを運んでいた。
内陣には厚く畳が敷かれている。浅井長政は上座に端然と座し、淡い色の狩衣をまとい、腰の刀はまだ解いていない。隣の几帳の向こうには、人影が揺れていた。
雨森弥兵衛は畳に正座し、手をついて控えている。
「六角への返書は、できたか。」
長政が問う。
「は。」
雨森は一巻の文書を静かに几帳前へ押し出した。
「街口の一件について、詫び三分、詰問七分。」
長政はそれを広げ、一読すると、口の端をわずかに上げた。
「この七分、ずいぶん容赦がない。」
「本当に責を負うのが六角なら、飲み込み難い文。」
雨森は言う。
「責を負わぬつもりなら、『なぜ旗を他人の手に持たせたのか』弁明せねばなりませぬ。」
長政は頷く。
「誰を使者に立てる。」
「城下奉行所の書役・島田を正使といたします。」
雨森は答える。
「阿閉殿が武士二名を率いて護衛に付く。――それともう一人。」
そこで一拍置く。
「澄原龍立。」
几帳の陰の人影が、わずかに動いた。
長政の目が細く上がる。
「理由を聞こう。」
「六角方へ通じる山道は、我らは端を一度払っただけ。」
雨森は言う。
「その時は、あちらが我らの出方を探りに来た。今度は、我らがあちらの『脈』を測る番。」
彼は顔を上げる。
「澄原殿は路を見る。人を見る。その途上に『六角の旗を掲げる者』を見かければ、その者が本当に六角の兵か、別の勢力かも、見分けられましょう。」
長政は茶碗の縁を指先で軽く叩いた。
「お前は本当に、奴の目を借りるつもりなのか。それとも、他人の手を借りて山に置いてこようというのか。」
雨森の胸がひやりと縮む。
几帳の向こうから、少し掠れた、しかし抑えた声が響いた。
「その問い、私も聞いておきたい。」
浅井久政。
雨森は畳に額をつけて拝礼する。
「久政公。」
久政は帷の陰からゆっくりと出て、長政の傍らに座った。顔色にはわずかな蒼さがにじむが、眼差しの鋭さは衰えていない。
「最初に兵舎であの男の話をした時、お前は『危うい』と言った。」
久政は言う。
「いまになって城の外へ出すと?」
雨森は一瞬口をつぐみ、やがて低く答えた。
「たしかに一度は――山路で事が起きれば、小谷から一つ、他人に記帳される線が減る、と思いかけました。」
久政の目が冷たく細まる。
「六角に人を殺させる気か。」
「……ほんの、刹那の思いでございました。」
雨森は声を落とす。
「兵舎で鍼を打ちながら米のことを聞き、街口の次の刀がどこへ落ちるか語るのを見て――一瞬こう思ったのです。もし浅井がこういう男を留めきれぬなら、将来彼がどの側に立とうと、その側は一つ余計な『目』を得る。」
長政は静かに聞いていた。
「だから、お前は恐れている。」
彼は低く言った。
「その通りにございます。」
雨森は言い訳をせずに認める。
「いつか彼が、ここではない場所から我らを見るようになることを恐れました。」
「恐れが正しい。」
久政は言う。
「恐れるなら、早く追い出せばよい。」
「恐れだけなら、最初から城門で追い返すべきだった。」
長政がようやく口を挟んだ。
「それを、兵舎へ入れさせ、街口を見せ、山道まで歩かせておいて、『やはり危うい』と他人の手で始末しようとすれば――浅井の器が小さい。」
彼は雨森を見る。
「お前が考えねばならぬのは、『いずれどちら側に立つか』ではない。『まだこちら側に立っているうちに、どう使うか』だ。」
雨森は額を畳に押し付けたまま、喉を鳴らすように言った。
「……臣、軽率の科を、深く心得ております。」
久政は鼻を鳴らす。
「心得ているだけでは足りぬ。肝心なのは、どうするつもりか、だ。」
雨森は顔を上げた。眼差しに、珍しく揺るぎのない色が浮かぶ。
「この一度を、本当の『試み』にしたく存じます。」
彼は一字一字、噛み締めるように言った。
「六角の山路で生きて戻れたなら、あの男は、他人の軒先で言葉を操るだけの者ではなく、刀の光の中でも足を踏ん張れる者だということ。そういう者なら、浅井は一度賭ける価値がある。賭けぬ方が、かえって損。」
久政は冷ややかに笑った。
「山の途中で死んだら、それは天意か。」
「山の途中で死んだなら、それは浅井の見立て違い。」
雨森は言う。
「その時は六角を恨まず、彼自身も恨まぬべきと。」
長政がふいに笑みを漏らした。
「雨森。」
「は。」
「恐れてなお、その名を使者の列に加えた。」
長政は言う。
「それで十分だ。」
久政は眉をひそめる。
「何が十分だ。」
「お前が、刀を珠算玉にしか見ていない訳ではないと分かるには、十分だ。」
長政は静かに答える。
「小谷には今、刀が少なすぎる。そろばんを弾く者ばかりが増えた。賭けてもよいと思う者が、もっと要る。」
久政はそれ以上は言わず、長い息を吐き出した。
「好きにしろ。」
雨森は深く拝礼した。
夜更け、小谷城主楼の一隅。
雨森は灯の下に一人座り、机上に二枚の紙を広げている。
一枚は六角への礼文。すでに書き上げ、あとは印を捺すばかりだ。
もう一枚は、かつて密議の折に書いた「澄原への三つの掟」。家臣帳に載せぬこと。家紋を与えぬこと。いつか尾張と刃を交えることになれば、彼は先に小谷を去ること――。
雨森はその紙を何度も折り畳み、また開いてみせる。そして大きく息を吐き、きちんと折り直して懐へ入れた。
「今見せるものじゃない。」
独り言のように呟く。
「いつか、自分から『行く』と言い出した時に見せればいい。」
彼は使者の名簿を取り出し、筆を執って最後の一行を記す。
「澄原龍立。」
書き終えた三文字を見つめ、指先をまだ乾ききらぬ墨の上に一瞬だけ止めた。
「生きて戻れ。」
雨森は低く言う。
「でなければ、この一筆が、まことに人を殺した一筆になる。」
雨上がりの石段には、まだ湿り気が残っている。谷口から吹き込む風は、かすかな土の匂いを運んでいた。
内陣には厚く畳が敷かれている。浅井長政は上座に端然と座し、淡い色の狩衣をまとい、腰の刀はまだ解いていない。隣の几帳の向こうには、人影が揺れていた。
雨森弥兵衛は畳に正座し、手をついて控えている。
「六角への返書は、できたか。」
長政が問う。
「は。」
雨森は一巻の文書を静かに几帳前へ押し出した。
「街口の一件について、詫び三分、詰問七分。」
長政はそれを広げ、一読すると、口の端をわずかに上げた。
「この七分、ずいぶん容赦がない。」
「本当に責を負うのが六角なら、飲み込み難い文。」
雨森は言う。
「責を負わぬつもりなら、『なぜ旗を他人の手に持たせたのか』弁明せねばなりませぬ。」
長政は頷く。
「誰を使者に立てる。」
「城下奉行所の書役・島田を正使といたします。」
雨森は答える。
「阿閉殿が武士二名を率いて護衛に付く。――それともう一人。」
そこで一拍置く。
「澄原龍立。」
几帳の陰の人影が、わずかに動いた。
長政の目が細く上がる。
「理由を聞こう。」
「六角方へ通じる山道は、我らは端を一度払っただけ。」
雨森は言う。
「その時は、あちらが我らの出方を探りに来た。今度は、我らがあちらの『脈』を測る番。」
彼は顔を上げる。
「澄原殿は路を見る。人を見る。その途上に『六角の旗を掲げる者』を見かければ、その者が本当に六角の兵か、別の勢力かも、見分けられましょう。」
長政は茶碗の縁を指先で軽く叩いた。
「お前は本当に、奴の目を借りるつもりなのか。それとも、他人の手を借りて山に置いてこようというのか。」
雨森の胸がひやりと縮む。
几帳の向こうから、少し掠れた、しかし抑えた声が響いた。
「その問い、私も聞いておきたい。」
浅井久政。
雨森は畳に額をつけて拝礼する。
「久政公。」
久政は帷の陰からゆっくりと出て、長政の傍らに座った。顔色にはわずかな蒼さがにじむが、眼差しの鋭さは衰えていない。
「最初に兵舎であの男の話をした時、お前は『危うい』と言った。」
久政は言う。
「いまになって城の外へ出すと?」
雨森は一瞬口をつぐみ、やがて低く答えた。
「たしかに一度は――山路で事が起きれば、小谷から一つ、他人に記帳される線が減る、と思いかけました。」
久政の目が冷たく細まる。
「六角に人を殺させる気か。」
「……ほんの、刹那の思いでございました。」
雨森は声を落とす。
「兵舎で鍼を打ちながら米のことを聞き、街口の次の刀がどこへ落ちるか語るのを見て――一瞬こう思ったのです。もし浅井がこういう男を留めきれぬなら、将来彼がどの側に立とうと、その側は一つ余計な『目』を得る。」
長政は静かに聞いていた。
「だから、お前は恐れている。」
彼は低く言った。
「その通りにございます。」
雨森は言い訳をせずに認める。
「いつか彼が、ここではない場所から我らを見るようになることを恐れました。」
「恐れが正しい。」
久政は言う。
「恐れるなら、早く追い出せばよい。」
「恐れだけなら、最初から城門で追い返すべきだった。」
長政がようやく口を挟んだ。
「それを、兵舎へ入れさせ、街口を見せ、山道まで歩かせておいて、『やはり危うい』と他人の手で始末しようとすれば――浅井の器が小さい。」
彼は雨森を見る。
「お前が考えねばならぬのは、『いずれどちら側に立つか』ではない。『まだこちら側に立っているうちに、どう使うか』だ。」
雨森は額を畳に押し付けたまま、喉を鳴らすように言った。
「……臣、軽率の科を、深く心得ております。」
久政は鼻を鳴らす。
「心得ているだけでは足りぬ。肝心なのは、どうするつもりか、だ。」
雨森は顔を上げた。眼差しに、珍しく揺るぎのない色が浮かぶ。
「この一度を、本当の『試み』にしたく存じます。」
彼は一字一字、噛み締めるように言った。
「六角の山路で生きて戻れたなら、あの男は、他人の軒先で言葉を操るだけの者ではなく、刀の光の中でも足を踏ん張れる者だということ。そういう者なら、浅井は一度賭ける価値がある。賭けぬ方が、かえって損。」
久政は冷ややかに笑った。
「山の途中で死んだら、それは天意か。」
「山の途中で死んだなら、それは浅井の見立て違い。」
雨森は言う。
「その時は六角を恨まず、彼自身も恨まぬべきと。」
長政がふいに笑みを漏らした。
「雨森。」
「は。」
「恐れてなお、その名を使者の列に加えた。」
長政は言う。
「それで十分だ。」
久政は眉をひそめる。
「何が十分だ。」
「お前が、刀を珠算玉にしか見ていない訳ではないと分かるには、十分だ。」
長政は静かに答える。
「小谷には今、刀が少なすぎる。そろばんを弾く者ばかりが増えた。賭けてもよいと思う者が、もっと要る。」
久政はそれ以上は言わず、長い息を吐き出した。
「好きにしろ。」
雨森は深く拝礼した。
夜更け、小谷城主楼の一隅。
雨森は灯の下に一人座り、机上に二枚の紙を広げている。
一枚は六角への礼文。すでに書き上げ、あとは印を捺すばかりだ。
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独り言のように呟く。
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