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第七十六話 酒肆夜談・諸将、刀を識る
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永禄八年(西暦一五六五年)初夏、小谷城下を抜ける夜風は、うっすらと水気を含んでいた。
城下の市はほとんど店じまいを終え、兵舎に近い一筋の横丁だけが、まだ灯りをこぼしている。人気のない小さな酒肆の奥、裏庭の軒先には紙灯籠がぶら下がり、その下に素焼きの酒壺がいくつか並んでいた。
柳澄原は軒下に腰を下ろし、袖をざっくりとたくし上げている。傍らでは弥助が炭火に木炭を足していた。火勢が強まると、炭の芯が細かくはぜる音を立てた。
「それ以上くべたら焦げる。」
柳澄原は笑いながら弥助の手首を押さえた。
「この火は、酒が温まればそれでいい。」
庭の門が、きしむ音を立てて開く。
「澄原殿、お待たせし申した。」
真っ先に入ってきたのは海北綱親だった。甲冑は着けず、粗布の直垂一枚。それでもいつも通り、前へ前へと出ていく勢いをまとっている。
その後ろから赤尾清綱が続く。襟元はきちんと整えられ、歩みも急がず遅れず。最後に入ってきたのは阿閉貞征で、いつものように沈んだ顔つきでまず周囲を一巡見渡し、それから腰を下ろした。
「さすが雨森殿、よい場所をお選びで。」
海北は豪快に腰を落とす。
「主楼で飲むとどうにも肩がこるが、ここなら兵舎の続きみたいなもんだ。」
「先生の延長だよ。」
弥助が小声でぼそりと言う。
赤尾はちらりと彼を見やり、しかし目もとは笑っていた。
「この子は、物の言い方がまっすぐだ。」
紙灯籠の陰で、人影が暖簾をめくる。
「誰か、私の悪口でも言ってましたかね。」
雨森弥兵衛が酒壺を提げて入ってくる。
「皆に一所に座っていただいた本意は、『刀を見立てる』ことでしてね。私の欠点を数える席ではない。」
「刀を?」
海北が片眉を上げる。
「俺の刀なら何度も見たろう。」
「その話ではござらぬ。」
雨森は火のそばに酒壺を置き、順々に盃へ酒を注いでいく。
「澄原殿の刀のことです。」
海北はわははと笑った。
「そりゃあ飲まにゃならん。」
四人は盃を合わせ、それぞれ一口含む。
「まずは海北殿から。」
雨森が話を振る。
「山道で幾合かやり合われたそうで。どう見えましたかな。」
海北は舌打ちしてみせた。
「俺に言わせりゃ――あいつの刀は、一番たちが悪い。」
弥助は目をまん丸にする。
「たちが悪い?」
柳澄原が笑う。
「ああ。」
海北は盃を卓にどんと置いた。
「見かけは大して荒っぽくねえのに、振り下ろした先は、足だの腕だのと、まずはどこかを使い物にならなくしてくる。首を狙ってこねえ。実戦の真っ只中でああいう奴にぶつかったら、三歩飛び込んだ時点で、どの骨からやられるか悟る。」
彼は指を一本ずつ折りながら言う。
「関節を外す、筋を砕く……どれが致命傷になるかまでは言い切れねえが、どの一太刀を食らえば明日から前線に立てねえかは、はっきり分かる。」
赤尾が静かに言葉を継いだ。
「それは褒めているのか、貶しているのか。」
「褒めてる。」
海北はさっぱりと言い切る。
「小谷で死ぬ兵を減らすには、敵の脚の腱を先に切ってくれる奴が必要だ。」
赤尾は顔を向け、柳澄原を見た。
「では、私は刀の後ろにある『手』の話をしよう。」
彼は急がず、ゆっくりと口を開く。
「兵舎で鍼を打つとき、あなたが尋ねるのは『痛いかどうか』ではない。今年何度山に入ったか、だ。街口で刀を抜いた時も、浪人の膝を断ち、歩ける足は残して山へ帰らせ、『浅井の刀は甘く見られぬ』と語らせる。溜飲を下げるだけなら首を落とす方がよほど早いのに、あえて刀を入れにくいところばかりを狙う。」
「入れにくい?」
阿閉が初めて口を挟む。
「関節、腱の結び、膝の前の一線。」
赤尾が応じる。
「弱く斬れば効かず、強すぎれば命を奪う。元の道を歩けなくはさせるが、死地に追い込まない。そういう塩梅だ。」
彼は柳澄原に視線を戻した。
「そういう刀は、人の心の筋を狙っている。」
「言い方がずいぶん上品だな。」
海北が歯を見せる。
「あなたが正面から見るなら、彼は横から見ている。」
雨森が笑う。
「では阿閉殿。あなたの目にはどう映りましたかな。」
阿閉貞征はこれまであまり言葉を挟まずにいたが、ここでようやく顔を上げた。
「私は、足跡を見ている。」
彼はゆっくりと言葉を選ぶ。
「澄原殿が城に入ってから、この谷で残した足跡は多くない。兵舎、街口、山道。どれも急ぎすぎず、緩みすぎず、だが足は一つひとつの石を覚えている。いざというとき、どの道が踏み固められていて、どの道を踏めば谷底に落ちるか、教えられる。」
海北は頭をかいた。
「お前らときたら、刀を見るのにいちいち回りくどい。」
「あなたは『斬り込んだ時の痛快さ』を見る。」
柳澄原は笑みを含んで言う。
「この二人は、『斬り込んだ後で城に戻れるか』を見る。」
雨森は自分の盃を少し持ち上げた。
「だからこそ、三人に一緒に座ってもらった。ひとりは刃を見る。ひとりは刀の背を見る。ひとりは刀が残した跡を見る。」
「刀の跡?」
弥助には意味が分からない。
「刀痕がどこに残るかで、人々はどこを避けて通るようになる。」
雨森は言う。
「それもまた、小谷がこの谷間で生き延びる術の一つ。」
風がいくぶん強くなり、紙灯籠が揺れた。灯りに照らされた顔が、薄く霞んで見える。
海北がふと口を開いた。
「澄原殿。あんた自身は、自分の刀をどう見てる。」
柳澄原は少し思案してから答える。
「鍼を打つ者は、先に経絡を見てから針を刺す。刀も同じでね。この一太刀を振るった先に、明日まだここに立つ者が要るかどうかを見てから斬る。」
そこでひと息置いて、言葉を足す。
「ここに立つ者を少しでも増やせるなら、打つ前に経絡をもう一度見直す。」
海北は笑い声を上げ、盃の酒を一気にあおった。
「それはまた、ずいぶん腹の据わった言い方だ。」
赤尾は笑みを引き締める。
「だが、そういう人間は、この谷に長くいると、いずれ厄介事を呼ぶ。」
雨森が首を傾げる。
「どんな厄介事で?」
「旗の厄介事。」
赤尾は答える。
「尾張、六角、朝倉……旗が増えれば増えるほど、どの旗のもとに立つか、誰もが帳面をつけ始める。」
庭の空気が、一瞬だけ静まった。
雨森は酒壺を火のそばへ少し寄せる。
「旗といえば――六角へ送る書状が、一通。」
海北が舌打ちした。
「またあいつらと渡り合うのか。」
「礼は欠かせぬ。」
雨森は言う。
「前の街口の騒ぎ、六角は『知らぬ』と言い張る。文は送らねばならんし、言うべきことは言い切らねば。」
阿閉は雨森を一瞥した。
「どの山道を通る。」
「前と同じ筋。」
雨森は答える。
「ただ今回は――」
その視線が、柳澄原へ向く。
「澄原殿さえ、この険しい山道を厭わぬなら……浅井のため、六角方の『脈』を一度診てもらいたい。」
海北が笑う。
「また『脈』か。」
「兵舎の脈は診た。街口の脈も診た。」
雨森は言う。
「今度は、山道だ。」
柳澄原の指が盃の縁で一瞬止まり、すぐに力を抜いた。
「医者の名目で山道をひと回り見てくるだけなら――この一筋くらい、余分に歩こう。」
「よし。」
雨森は盃を掲げる。
「浅井は、そなたに一壺の酒の借りを作った。」
夜がさらに更け、酒肆のざわめきも次第に静まっていく。
席が散じた時、海北は刀を肩に担ぎ、先頭を行く。その背中は焔の塊のようだ。赤尾は相変わらずの歩調で、振り返って庭を一瞥する。阿閉はただひそかに、出立の日取りを心に刻んだ。
雨森は最後に門を出る。
「先生……。」
弥助が小声で問う。
「本当に六角の方へ行くの?」
「山をひとつ越えるだけ。」
柳澄原は薬箱をまとめながら言った。
「よそ様の谷口を一度見ておく。ついでに、自分の足元がどこまで続くかも。」
彼は小谷山の灯火をふと見上げる。谷の上に浮かぶ灯りの輪は、小さな壺口のように夜の中に開いている。静かながら、眠りきってはいなかった。
城下の市はほとんど店じまいを終え、兵舎に近い一筋の横丁だけが、まだ灯りをこぼしている。人気のない小さな酒肆の奥、裏庭の軒先には紙灯籠がぶら下がり、その下に素焼きの酒壺がいくつか並んでいた。
柳澄原は軒下に腰を下ろし、袖をざっくりとたくし上げている。傍らでは弥助が炭火に木炭を足していた。火勢が強まると、炭の芯が細かくはぜる音を立てた。
「それ以上くべたら焦げる。」
柳澄原は笑いながら弥助の手首を押さえた。
「この火は、酒が温まればそれでいい。」
庭の門が、きしむ音を立てて開く。
「澄原殿、お待たせし申した。」
真っ先に入ってきたのは海北綱親だった。甲冑は着けず、粗布の直垂一枚。それでもいつも通り、前へ前へと出ていく勢いをまとっている。
その後ろから赤尾清綱が続く。襟元はきちんと整えられ、歩みも急がず遅れず。最後に入ってきたのは阿閉貞征で、いつものように沈んだ顔つきでまず周囲を一巡見渡し、それから腰を下ろした。
「さすが雨森殿、よい場所をお選びで。」
海北は豪快に腰を落とす。
「主楼で飲むとどうにも肩がこるが、ここなら兵舎の続きみたいなもんだ。」
「先生の延長だよ。」
弥助が小声でぼそりと言う。
赤尾はちらりと彼を見やり、しかし目もとは笑っていた。
「この子は、物の言い方がまっすぐだ。」
紙灯籠の陰で、人影が暖簾をめくる。
「誰か、私の悪口でも言ってましたかね。」
雨森弥兵衛が酒壺を提げて入ってくる。
「皆に一所に座っていただいた本意は、『刀を見立てる』ことでしてね。私の欠点を数える席ではない。」
「刀を?」
海北が片眉を上げる。
「俺の刀なら何度も見たろう。」
「その話ではござらぬ。」
雨森は火のそばに酒壺を置き、順々に盃へ酒を注いでいく。
「澄原殿の刀のことです。」
海北はわははと笑った。
「そりゃあ飲まにゃならん。」
四人は盃を合わせ、それぞれ一口含む。
「まずは海北殿から。」
雨森が話を振る。
「山道で幾合かやり合われたそうで。どう見えましたかな。」
海北は舌打ちしてみせた。
「俺に言わせりゃ――あいつの刀は、一番たちが悪い。」
弥助は目をまん丸にする。
「たちが悪い?」
柳澄原が笑う。
「ああ。」
海北は盃を卓にどんと置いた。
「見かけは大して荒っぽくねえのに、振り下ろした先は、足だの腕だのと、まずはどこかを使い物にならなくしてくる。首を狙ってこねえ。実戦の真っ只中でああいう奴にぶつかったら、三歩飛び込んだ時点で、どの骨からやられるか悟る。」
彼は指を一本ずつ折りながら言う。
「関節を外す、筋を砕く……どれが致命傷になるかまでは言い切れねえが、どの一太刀を食らえば明日から前線に立てねえかは、はっきり分かる。」
赤尾が静かに言葉を継いだ。
「それは褒めているのか、貶しているのか。」
「褒めてる。」
海北はさっぱりと言い切る。
「小谷で死ぬ兵を減らすには、敵の脚の腱を先に切ってくれる奴が必要だ。」
赤尾は顔を向け、柳澄原を見た。
「では、私は刀の後ろにある『手』の話をしよう。」
彼は急がず、ゆっくりと口を開く。
「兵舎で鍼を打つとき、あなたが尋ねるのは『痛いかどうか』ではない。今年何度山に入ったか、だ。街口で刀を抜いた時も、浪人の膝を断ち、歩ける足は残して山へ帰らせ、『浅井の刀は甘く見られぬ』と語らせる。溜飲を下げるだけなら首を落とす方がよほど早いのに、あえて刀を入れにくいところばかりを狙う。」
「入れにくい?」
阿閉が初めて口を挟む。
「関節、腱の結び、膝の前の一線。」
赤尾が応じる。
「弱く斬れば効かず、強すぎれば命を奪う。元の道を歩けなくはさせるが、死地に追い込まない。そういう塩梅だ。」
彼は柳澄原に視線を戻した。
「そういう刀は、人の心の筋を狙っている。」
「言い方がずいぶん上品だな。」
海北が歯を見せる。
「あなたが正面から見るなら、彼は横から見ている。」
雨森が笑う。
「では阿閉殿。あなたの目にはどう映りましたかな。」
阿閉貞征はこれまであまり言葉を挟まずにいたが、ここでようやく顔を上げた。
「私は、足跡を見ている。」
彼はゆっくりと言葉を選ぶ。
「澄原殿が城に入ってから、この谷で残した足跡は多くない。兵舎、街口、山道。どれも急ぎすぎず、緩みすぎず、だが足は一つひとつの石を覚えている。いざというとき、どの道が踏み固められていて、どの道を踏めば谷底に落ちるか、教えられる。」
海北は頭をかいた。
「お前らときたら、刀を見るのにいちいち回りくどい。」
「あなたは『斬り込んだ時の痛快さ』を見る。」
柳澄原は笑みを含んで言う。
「この二人は、『斬り込んだ後で城に戻れるか』を見る。」
雨森は自分の盃を少し持ち上げた。
「だからこそ、三人に一緒に座ってもらった。ひとりは刃を見る。ひとりは刀の背を見る。ひとりは刀が残した跡を見る。」
「刀の跡?」
弥助には意味が分からない。
「刀痕がどこに残るかで、人々はどこを避けて通るようになる。」
雨森は言う。
「それもまた、小谷がこの谷間で生き延びる術の一つ。」
風がいくぶん強くなり、紙灯籠が揺れた。灯りに照らされた顔が、薄く霞んで見える。
海北がふと口を開いた。
「澄原殿。あんた自身は、自分の刀をどう見てる。」
柳澄原は少し思案してから答える。
「鍼を打つ者は、先に経絡を見てから針を刺す。刀も同じでね。この一太刀を振るった先に、明日まだここに立つ者が要るかどうかを見てから斬る。」
そこでひと息置いて、言葉を足す。
「ここに立つ者を少しでも増やせるなら、打つ前に経絡をもう一度見直す。」
海北は笑い声を上げ、盃の酒を一気にあおった。
「それはまた、ずいぶん腹の据わった言い方だ。」
赤尾は笑みを引き締める。
「だが、そういう人間は、この谷に長くいると、いずれ厄介事を呼ぶ。」
雨森が首を傾げる。
「どんな厄介事で?」
「旗の厄介事。」
赤尾は答える。
「尾張、六角、朝倉……旗が増えれば増えるほど、どの旗のもとに立つか、誰もが帳面をつけ始める。」
庭の空気が、一瞬だけ静まった。
雨森は酒壺を火のそばへ少し寄せる。
「旗といえば――六角へ送る書状が、一通。」
海北が舌打ちした。
「またあいつらと渡り合うのか。」
「礼は欠かせぬ。」
雨森は言う。
「前の街口の騒ぎ、六角は『知らぬ』と言い張る。文は送らねばならんし、言うべきことは言い切らねば。」
阿閉は雨森を一瞥した。
「どの山道を通る。」
「前と同じ筋。」
雨森は答える。
「ただ今回は――」
その視線が、柳澄原へ向く。
「澄原殿さえ、この険しい山道を厭わぬなら……浅井のため、六角方の『脈』を一度診てもらいたい。」
海北が笑う。
「また『脈』か。」
「兵舎の脈は診た。街口の脈も診た。」
雨森は言う。
「今度は、山道だ。」
柳澄原の指が盃の縁で一瞬止まり、すぐに力を抜いた。
「医者の名目で山道をひと回り見てくるだけなら――この一筋くらい、余分に歩こう。」
「よし。」
雨森は盃を掲げる。
「浅井は、そなたに一壺の酒の借りを作った。」
夜がさらに更け、酒肆のざわめきも次第に静まっていく。
席が散じた時、海北は刀を肩に担ぎ、先頭を行く。その背中は焔の塊のようだ。赤尾は相変わらずの歩調で、振り返って庭を一瞥する。阿閉はただひそかに、出立の日取りを心に刻んだ。
雨森は最後に門を出る。
「先生……。」
弥助が小声で問う。
「本当に六角の方へ行くの?」
「山をひとつ越えるだけ。」
柳澄原は薬箱をまとめながら言った。
「よそ様の谷口を一度見ておく。ついでに、自分の足元がどこまで続くかも。」
彼は小谷山の灯火をふと見上げる。谷の上に浮かぶ灯りの輪は、小さな壺口のように夜の中に開いている。静かながら、眠りきってはいなかった。
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