戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百話 湖東の町・香火二重の借り

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 翌朝は霧が幾分薄く、山腹を渡る風には水気が混じっていた。

 林の狭い道を抜けると、視界が一気に開ける。山裾いっぱいに水光が広がっていた。―琵琶湖の水は重く沈み、その岸線は使い古した刀の背のように山脚に沿って伸びている。

 湖畔には小さな町がへばりつくように広がり、木造の家々は低く、軒は風に剥がされぬよう押しつけるかのように低く垂れていた。

 一隊は町外れで立ち止まり、米俵の半分を山下の寺庫へ運び込み、残りは翌朝、再び山上へ担ぎ上げることにした。

 町の者たちは遠くからこっそり顔をのぞかせ、僧兵の甲冑と刀の柄を見ると、何かに打たれたように目の色を変え、慌てて戸の陰に引っ込む。

 母親に腕をぐっと引かれ、指先だけが戸口の隙間から突き出てしまった子供もいる。

 柳澈涵と弥助は寺庫の脇の小屋を仮の住まいとした。

 屋内には低い机が一つ、木の桶が一つ、隅にはカビの浮いた経巻が積まれ、さらに角には古びた薬箱が転がっていた。どうやら以前もここで誰かが鍼を打っていたらしい。

「先生、ここの連中、僧兵を見る目が……」

 弥助は声を落とす。「清洲で足軽を見た時より、よっぽど怯えてます」

「ここで彼らに借りているのは、命だけじゃない」

 柳澈涵は顔についた水を拭いながら言う。「命を借りるなら、死ねばそれで終いだ。だが香火銭と年貢を借りていれば、死んだ後も口にのぼる」

 夕暮れ、湖からの風がいっそう強くなり、寺庫のあたりには紙灯籠が二つ灯された。

 波止場には俵に詰められた稲が積まれ、僧兵はその上に腰を下ろして薄い粥をすすり、村人たちは秤の前に列を作り、名を低く報告している。

 帳付けの小僧が帳面を繰り、「田中弥七、去年の香資、一貫の借り。今年、未だ補わず」と名を読み上げる。

 人垣の中から背中の曲がった男が肩を竦めながら出てきた。胸に抱えているのは、小さな布包みだ。

「こ、これが、ここ数ヶ月の積み立てで……」

 男は布包みを両手で高く差し上げる。「まずは、これを受け取ってくだされ……秋に余りがあれば、また持って参ります」

 先頭の僧兵は一瞥しただけで顔をしかめた。

「香火の借りは、先延ばしにはできん」

 田中弥七の顔から血の気が引く。口の中で何かを呟く。「家の田んぼが今年は水にやられて、子どもも熱を出して……」

 言葉の途中で、僧兵は男の襟を掴んで秤の前に引きずり出し、膝が泥の上に崩れ落ちる。

 周りには、口を利いてやろうと小さく息を吸った者もいたが、すぐに妻に袖を引かれ、その目には「出るな」という怯えが濃く浮かぶ。

「弥助」

「はい」

「起こしてやれ」

 柳澈涵は灯籠の光から一歩踏み出し、淡々と告げる。「ただし秤の前に立つんじゃない。仏の目を遮ったと言われぬようにな」

 弥助は返事をして田中弥七を抱き起こした。

 先頭の僧兵はもともと腹に鬱憤を抱えていたところへ、口を出されたことで怒気が一層燃え上がる。木杖を大きく振りかぶり、弥助の肩めがけて横殴りに振り払おうとする。

 その一撃が入れば、肩甲骨がひと筋はひび割れるだろう。

 灯籠の火が湖風に煽られてふっと揺れ、影が地面に長く伸びた。

 僧兵の視線はその揺れる影にほんの一瞬引かれ、手首が半寸ほどそれた。木杖は勢いのまま弥助の耳の脇をかすめ、そばの杭に打ちつけられて鈍い音を立てる。

 弥助は耳元を切り裂く風を感じ、頭皮が冷たくなる。

 これは湖風の機嫌ではなく、柳澈涵が事前に灯籠の位置を計算に入れていた、と彼にはわかっていた。

 僧兵がまだ事態を把握しきれないうちに、柳澈涵はすでに距離を詰めていた。

 刀は鞘に収まったまま、鞘頭を下から軽く持ち上げ、僧兵の肘の内側をつつく。

 そこは手に力を込める要である。

 僧兵は呻き声を上げ、木杖を取り落とし、腕はまるで糸を切られたようにだらりと垂れた。

 別の僧兵が怒声を上げて突っ込んでくるが、足元の泥を読み違え、逆に勢いを増してしまう。

 柳澈涵はつま先で地を軽く突き、半身を捻りながら相手の脇を擦り抜けるように流れる。その一瞬、刀鞘は相手の太腿の外側をなぞった。

 その一撃は力任せではない。

 しかしちょうど踏み込む筋の束を横から払う角度で、僧兵は足から力が抜け、片膝を泥の上に突いた。木杖は無様に横たわる。

 周囲の村人たちは一斉に息を呑み、そのまま口を手で塞いだ。

 一瞬だけ胸の奥をかすめた溜飲の下がる感覚も、すぐさま深い恐怖に押し流される。

 先頭の僧兵は歯を噛みしめて立ち直り、胸が大きく上下していたが、怒号を放とうとしたその瞬間、胸の下に鈍い圧を感じた。

 柳澈涵はいつの間にか目の前に立っていた。鞘の先端が僧兵の胸骨の少し下の位置にそっと触れている。

 それは激しい打撃ではない。しかし、あまりに的確で、背筋が冷たくなる。

 胸腔の気はその一点でかき乱され、喉の奥まで上がってきた言葉は、そこで固くからまってしまう。

 僧兵は咳を数度噛み殺すのがやっとで、額の血管が浮き出ていた。

「師父の気の巡りが乱れている」

 柳澈涵は鞘を引き、静かに言う。「これ以上無茶をすれば、そのうち本当に私が鍼を打つ番になります」

 灯籠の後ろで帳付けの小僧は筆を握りしめ、指先が震えていた。

 ささやかな鞘の動きひとつで、この場の力の向きが変えられてしまった光景を前に、小僧は「澄原龍立」という名を、胸のさらに奥深くに書き付ける。

「貴様……」

 先頭の僧兵はようやく呼吸を整え、目の中に怒りと認めたくない畏れが入り混じる。

「澄原殿」彼は歯を噛みしめたまま言う。「そこまで腕が立つなら、山へ上がって方丈に診てもらうがいい。山から転がされるか引き留められるかは、そのあとで決まる」

 柳澈涵は薄く笑い、再び薬箱を提げる。

「ちょうど望むところだ」

 彼は田中弥七を一瞥した。「山の病を診てみなければ、何人を巻き込んで痛がることになるのか、わからんからな」

 湖面からの夜風が吹き込み、灯籠を揺らす。地面の影は細く引き伸ばされ、また絡み合う。

 弥助は柳澈涵の横に立ちながら、奇妙な感覚を覚えた。

 見えない手が一つ、この町と山と湖をまとめて掴み、少しずつどこかへ押している――そんな感じ。

 この夜から、「湖東の町に、鞘を使う医者が現れた」という噂は、人足と僧兵の口から口へと這い登り、やがて山の上まで届くことになる。
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