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第一百一十一話 御所雨前・退くか退かぬか
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入梅ののちの京の町は、いつもどこか軒先に雨気を引きずっていた。
東山の霧は山腹から這い降り、敷きかけて放り出した紙のように薄く城下を覆い、町全体を灰白の色に沈めている。
その朝、弥助が庭に降り積もった昨夜の楓葉を一か所に掃き集めたところで、門口を叩く、控えめな音がした。
「澄原先生はご在宅か」
門の外に立つ男は、きちんとした直垂を身にまとっていた。洗いざらしで色は褪せているが、一片の塵もついていない。弥助はひと目見て、ただの町人ではないと悟る。
「先生はおります。少々お待ちを」
ほどなくして、柳澄原が廊下から姿を現した。
来客は深々と頭を垂れる。
「中御門家に仕える近侍にございます。将軍家・義輝様よりの仰せを奉り、先生を二条までお迎えに上がりました」
「将軍様……?」
弥助は思わず声を上ずらせ、すぐに己の軽率さに気づいて慌てて目を伏せた。
「持病の再発にて」
近侍の声はひどく静かだ。
「殿下は剣を練りすぎ、右の手首がうずいて刀が握れぬほど。ゆうべはほとんど眠れなかったと。中御門家の側室殿が、先生の手にかかり悪夢より解き放たれたと聞きおよび、『ひとりの女子の夢を収められるなら、この腕の痛みも少しは収めてくれよう』と……」
柳澄原はただ、じっと相手を見やる。
「今の二条は出入りが厳しゅうございます。先生おひとりで入られるとなれば、此度はこの者が始終お傍につくことになります。無礼の段はどうかお許しを」
柳澄原は軽くうなずいた。
「弥助、お前は留守を頼む」
東山から二条までは、城の半ばほどの道のりだ。
往来はけっして少なくないが、いつもよりどこか静かだった。
茶屋の軒先から呼び声が消え、酒肆の前には見慣れぬ顔が何人か立っている。腰の刀の鞘は磨き上げられているが、酒の匂いはしない。
「ここのところ、城中は風の通りが悪いようだな」
道すがら、柳澄原がふと口を開く。
「殿中で兵の稽古が」
近侍は曖昧に答えた。
「三好殿、松永殿が仰せで。今は諸国が虎視眈々、まずは城内の緩みを締めねばならぬとか」
二条御所の門は、先日初めて訪れた折より、さらに重く閉ざされているように見えた。
楼門の旗はさして変わらぬが、門内の兵は半ば入れ替わり、歩みは短く、足並みは妙に揃っている。まるでつい先日まで陣中にいた者たちだ。
近侍に導かれ、幾重もの回廊を抜け、小さな静かな一間に通される。
足利義輝は畳の上に座していた。白地の紋付を羽織り、腰の佩刀は脇に横たえてある。
顔色はさほど悪くない。ただ目尻の血走りがひどく、肩から背にかけては張りつめた弓のようだった。
「湖東から参った澄原先生と聞く」
「拙者にございます」
近侍は心得て、そっと襖を閉ざして退った。
部屋にはふたりきりとなる。
柳澄原は将軍の傍らに座し、まず脈を診た。
指先に触れる鼓動は、静かな炎が奥底でくすぶるようだ。気血は枯れてはいない。だが、どこかで無理やり張りつめさせたまま、少しも解かせていない硬さがあった。
「殿下、このところ毎夜剣を振っておられるのでは」
「振らねば眠れぬ」義輝は淡々と言った。「振っても、安くは眠れぬがな」
柳澄原は言葉を聞きながら、彼の背後に回り、指で肩甲を押さえる。
その一帯は幾重にも重なる板のように固く、武人本来の強さというより、長年、何かを背負ったまま決して降ろそうとしなかった者の肩だった。
「殿下の肩に載っているのは、刀だけではございませんな」
柳澄原が言う。
義輝はふっと笑う。
「先生の見立ては?」
「殿、夜はどのような夢を?」
柳澄原は問う。「刀を抜いた者が殿中に乱入する夢か、それとも――誰ひとり門をくぐって来なくなる夢か」
義輝の目に浮かんでいた笑みが、わずかに止まった。
しばしの沈黙ののち、低く答える。
「どちらも、見たことがある」
外では、風の音がかすかに障子越しに伝わってくる。廊下を誰かが歩いているのかと錯覚するような足音だ。
柳澄原は手を引き、袖から鍼箱を取り出した。しかしすぐには蓋を開けない。
少しの間黙してから、不意に口を開く。
「殿下、ここを――一時、離れようと考えられたことは?」
義輝は、あらかじめそれを問われると知っていたようだった。驚くふうも見せず、庭の剪られすぎた樹に目を向ける。
「一時、離れる? どこへだ」
「名を巡幸と称し、山城や近江を巡られてもよい。あるいは寺院に一時身を寄せられても」
柳澄原は言う。
「城中の風は荒れ過ぎております。殿下が少しだけ矛先を外してくださるだけでも、この身ひとつを移されるだけでも、多くの刃の落ちどころを失わせられましょう」
「つまり、私に逃げろと?」
義輝の声は尖ってはいない。かすかな嘲りが混じるだけだった。
「医者が人に風を避けよと言うのは、面目を捨てよと申すのではございません」
柳澄原は静かに答える。
「生き延びることは、ときに、その場で死ぬより難しい」
義輝は長い息を吐いた。
胸の奥に溜めた何かを吐き出したいのか、それでもすべてを吐き切る気はないのか、その曖昧な長さの溜息だ。
「生き延びる、か……」
彼はひそかに呟いた。「それは、どうにも他人に向けて言う言葉のように聞こえるな」
顔をわずかに横に向けた義輝の眼には、一瞬、残酷なまでに冴えた光が宿る。
「足利家は、何年この通りに座り続けてきた?」
「室町の頃より、幾代にも」
「いずれ、『その代の足利は、真っ先に二条を捨てて逃げた』と記されるだろう」
義輝は淡々と言う。「世はそれだけを覚えておれば足りる」
柳澄原は何も言わなかった。
「誰かが、その場に倒れねばならぬのなら、それは私の役目だ」
義輝は言葉を継ぐ。「先生の仰る『生き延びる』という仕事は、他の誰かに任せよう」
その言いぶりは、まるで一席の宴の席次を決めるかのように平然としていた。
柳澄原は、ただ静かに彼を見つめる。
もはやこれ以上の言葉は、意味を持たないと知っている。
「殿下の肩に溜まったこの気は、長く放たれずにおります」
柳澄原は言う。「拙者に出来るのは、その日が来る前に、この気が途中で折れぬよう、支えを当てることだけ」
ようやく、鍼箱の蓋を開けた。
背と肩に数本の鍼を打ち込み、古い傷痕のまわりをそっと掘り起こしては、また穏やかに押し戻す。
義輝は目を閉じ、鍼に沿って緊張と痛みが流れてゆくままに任せる。それでも眉間の皺は消えない。
「先生」
施術が終わったころ、義輝が不意に口を開いた。
「は」
「その日が、もし本当に来たなら――もう一度、二条へ入ってくれるか」
柳澄原は少しだけ沈黙した。
「この城に、まだ一口でも息が残っていて、それを病と呼べるうちは、参りましょう」
そう答える。
義輝は小さく笑った。
「よろしい」
御所を辞したころには、外はすでに薄暗くなっていた。
雨はまだ落ちてこない。雲だけが低く重なって、いつ落ちてもおかしくない様子で空を覆っている。
柳澄原は外院の僧房で一夜を明かすよう言い渡された。
「空模様も怪しく、道も滑りましょう。先生には明日、山を下っていただきたい」
そういう名目だった。
だが、僧房の戸は本気で鍵を下ろされてはいない。
夜半、風が立つ。
柳澄原は寝床に横たわっていたが、耳は静まり返ることがない。
いつもの巡回の足音は、すでに頭の中で拍子として刻まれていた。
そこへ今、いくつか異なる足音が廊下へ紛れ込んでくる。
ひとつは、歩幅が短く速い。足音はほとんど立てまいとしているのに、曲がり角に来るといつも半歩だけ躊躇する。
もうひとつは、呼吸を力づくで押し殺していて、その張りつめた息遣いがかえって目立つ。
「廊下で刀を振り回す愚か者どもか」
柳澄原は心の中で呟く。
身を起こして戸を開けた。
長い回廊が闇の中に伸びている。障子が等間隔に連なり、風は灯の火をわずかに揺らしながら吹き抜ける。
角を曲がった先、黒い影が幾つか内外の廊のあいだを動いていた。侍の衣をまとってはいるが、腰にはいつもより多い短刀が見え隠れする。
そのうちのひとりが彼に気づき、わずかに身をかがめて、通りすがりに礼を装う。
その刹那――鞘のなかの刀身が、すこしだけ震えた。
冷たい刃の気配が、障子に淡い影となって映り、すぐさま鞘へと収まる。
影の男の胸元に鈍い痛みが走った。木の鞘に打たれた衝撃だった。
彼は柳澄原がどう動いたのか見ていない。
ただ、自分の刀がまだ一寸しか抜けていないうちに、その勢いを真ん中から断ち切られ、腰が痺れて刀を取り落としそうになったことだけを覚えている。
「廊下は将軍を斬る場所ではない」
柳澄原は淡々と言う。「本気で斬るつもりなら、こんなところで稽古をするな」
もうひとりは、不意に肩を小突かれて柱に叩きつけられ、その手から抜けかけた刃が障子を長く裂けた。
その裂け目の向こうが、内殿へと続く方角である。
黒い影たちは顔を見合わせた。
怒鳴りかけた者もいたが、柳澄原の目を見た途端、その言葉を飲み込んだ。
それは「余計な口を出す町医者」の目ではない。
彼らが陣中で見てきた、どの主将よりもなお冷たい光を宿した目だった。
「将軍を斬る刀なら、少なくとも本気で振り下ろせ」
柳澄原は低く言う。「斬るか斬らぬかは、お前たちの勝手だ。ただ――回廊で稽古をしている者ほど、火がついたとき真っ先に焼かれる」
それだけ言うと、踵を返して僧房へ戻った。
ほどなくして、巡回に紛れ込んでいた足音は静かに消える。
元からいた巡回の足だけが、まるで何もなかったかのように、決まった拍子で往復していた。
翌朝、ついに雨が落ちてきた。
東山へ戻ると、弥助は油紙の傘を抱えて門先に立ち、山下の霧を見下ろしていた。
主人の姿を見つけるや、顔をほころばせる。
「先生、御所の方は……?」
「雨前の軒だ」
柳澄原は一言だけ答えた。「しっとりと湿っている」
内室に戻ると、机上の風図を広げる。
二条御所を示す位置に、小さな朱の円を空摺りし、その脇に三文字書き添えた。
――「未燃の火」。
筆を止めたそのとき、指先がかすかに震えるのを、ふと自覚した。
まだ火は上がっていない。
だが、雲の下をさまようあの熱だけは、もうどこにも行き場を見つけられずにいる。
東山の霧は山腹から這い降り、敷きかけて放り出した紙のように薄く城下を覆い、町全体を灰白の色に沈めている。
その朝、弥助が庭に降り積もった昨夜の楓葉を一か所に掃き集めたところで、門口を叩く、控えめな音がした。
「澄原先生はご在宅か」
門の外に立つ男は、きちんとした直垂を身にまとっていた。洗いざらしで色は褪せているが、一片の塵もついていない。弥助はひと目見て、ただの町人ではないと悟る。
「先生はおります。少々お待ちを」
ほどなくして、柳澄原が廊下から姿を現した。
来客は深々と頭を垂れる。
「中御門家に仕える近侍にございます。将軍家・義輝様よりの仰せを奉り、先生を二条までお迎えに上がりました」
「将軍様……?」
弥助は思わず声を上ずらせ、すぐに己の軽率さに気づいて慌てて目を伏せた。
「持病の再発にて」
近侍の声はひどく静かだ。
「殿下は剣を練りすぎ、右の手首がうずいて刀が握れぬほど。ゆうべはほとんど眠れなかったと。中御門家の側室殿が、先生の手にかかり悪夢より解き放たれたと聞きおよび、『ひとりの女子の夢を収められるなら、この腕の痛みも少しは収めてくれよう』と……」
柳澄原はただ、じっと相手を見やる。
「今の二条は出入りが厳しゅうございます。先生おひとりで入られるとなれば、此度はこの者が始終お傍につくことになります。無礼の段はどうかお許しを」
柳澄原は軽くうなずいた。
「弥助、お前は留守を頼む」
東山から二条までは、城の半ばほどの道のりだ。
往来はけっして少なくないが、いつもよりどこか静かだった。
茶屋の軒先から呼び声が消え、酒肆の前には見慣れぬ顔が何人か立っている。腰の刀の鞘は磨き上げられているが、酒の匂いはしない。
「ここのところ、城中は風の通りが悪いようだな」
道すがら、柳澄原がふと口を開く。
「殿中で兵の稽古が」
近侍は曖昧に答えた。
「三好殿、松永殿が仰せで。今は諸国が虎視眈々、まずは城内の緩みを締めねばならぬとか」
二条御所の門は、先日初めて訪れた折より、さらに重く閉ざされているように見えた。
楼門の旗はさして変わらぬが、門内の兵は半ば入れ替わり、歩みは短く、足並みは妙に揃っている。まるでつい先日まで陣中にいた者たちだ。
近侍に導かれ、幾重もの回廊を抜け、小さな静かな一間に通される。
足利義輝は畳の上に座していた。白地の紋付を羽織り、腰の佩刀は脇に横たえてある。
顔色はさほど悪くない。ただ目尻の血走りがひどく、肩から背にかけては張りつめた弓のようだった。
「湖東から参った澄原先生と聞く」
「拙者にございます」
近侍は心得て、そっと襖を閉ざして退った。
部屋にはふたりきりとなる。
柳澄原は将軍の傍らに座し、まず脈を診た。
指先に触れる鼓動は、静かな炎が奥底でくすぶるようだ。気血は枯れてはいない。だが、どこかで無理やり張りつめさせたまま、少しも解かせていない硬さがあった。
「殿下、このところ毎夜剣を振っておられるのでは」
「振らねば眠れぬ」義輝は淡々と言った。「振っても、安くは眠れぬがな」
柳澄原は言葉を聞きながら、彼の背後に回り、指で肩甲を押さえる。
その一帯は幾重にも重なる板のように固く、武人本来の強さというより、長年、何かを背負ったまま決して降ろそうとしなかった者の肩だった。
「殿下の肩に載っているのは、刀だけではございませんな」
柳澄原が言う。
義輝はふっと笑う。
「先生の見立ては?」
「殿、夜はどのような夢を?」
柳澄原は問う。「刀を抜いた者が殿中に乱入する夢か、それとも――誰ひとり門をくぐって来なくなる夢か」
義輝の目に浮かんでいた笑みが、わずかに止まった。
しばしの沈黙ののち、低く答える。
「どちらも、見たことがある」
外では、風の音がかすかに障子越しに伝わってくる。廊下を誰かが歩いているのかと錯覚するような足音だ。
柳澄原は手を引き、袖から鍼箱を取り出した。しかしすぐには蓋を開けない。
少しの間黙してから、不意に口を開く。
「殿下、ここを――一時、離れようと考えられたことは?」
義輝は、あらかじめそれを問われると知っていたようだった。驚くふうも見せず、庭の剪られすぎた樹に目を向ける。
「一時、離れる? どこへだ」
「名を巡幸と称し、山城や近江を巡られてもよい。あるいは寺院に一時身を寄せられても」
柳澄原は言う。
「城中の風は荒れ過ぎております。殿下が少しだけ矛先を外してくださるだけでも、この身ひとつを移されるだけでも、多くの刃の落ちどころを失わせられましょう」
「つまり、私に逃げろと?」
義輝の声は尖ってはいない。かすかな嘲りが混じるだけだった。
「医者が人に風を避けよと言うのは、面目を捨てよと申すのではございません」
柳澄原は静かに答える。
「生き延びることは、ときに、その場で死ぬより難しい」
義輝は長い息を吐いた。
胸の奥に溜めた何かを吐き出したいのか、それでもすべてを吐き切る気はないのか、その曖昧な長さの溜息だ。
「生き延びる、か……」
彼はひそかに呟いた。「それは、どうにも他人に向けて言う言葉のように聞こえるな」
顔をわずかに横に向けた義輝の眼には、一瞬、残酷なまでに冴えた光が宿る。
「足利家は、何年この通りに座り続けてきた?」
「室町の頃より、幾代にも」
「いずれ、『その代の足利は、真っ先に二条を捨てて逃げた』と記されるだろう」
義輝は淡々と言う。「世はそれだけを覚えておれば足りる」
柳澄原は何も言わなかった。
「誰かが、その場に倒れねばならぬのなら、それは私の役目だ」
義輝は言葉を継ぐ。「先生の仰る『生き延びる』という仕事は、他の誰かに任せよう」
その言いぶりは、まるで一席の宴の席次を決めるかのように平然としていた。
柳澄原は、ただ静かに彼を見つめる。
もはやこれ以上の言葉は、意味を持たないと知っている。
「殿下の肩に溜まったこの気は、長く放たれずにおります」
柳澄原は言う。「拙者に出来るのは、その日が来る前に、この気が途中で折れぬよう、支えを当てることだけ」
ようやく、鍼箱の蓋を開けた。
背と肩に数本の鍼を打ち込み、古い傷痕のまわりをそっと掘り起こしては、また穏やかに押し戻す。
義輝は目を閉じ、鍼に沿って緊張と痛みが流れてゆくままに任せる。それでも眉間の皺は消えない。
「先生」
施術が終わったころ、義輝が不意に口を開いた。
「は」
「その日が、もし本当に来たなら――もう一度、二条へ入ってくれるか」
柳澄原は少しだけ沈黙した。
「この城に、まだ一口でも息が残っていて、それを病と呼べるうちは、参りましょう」
そう答える。
義輝は小さく笑った。
「よろしい」
御所を辞したころには、外はすでに薄暗くなっていた。
雨はまだ落ちてこない。雲だけが低く重なって、いつ落ちてもおかしくない様子で空を覆っている。
柳澄原は外院の僧房で一夜を明かすよう言い渡された。
「空模様も怪しく、道も滑りましょう。先生には明日、山を下っていただきたい」
そういう名目だった。
だが、僧房の戸は本気で鍵を下ろされてはいない。
夜半、風が立つ。
柳澄原は寝床に横たわっていたが、耳は静まり返ることがない。
いつもの巡回の足音は、すでに頭の中で拍子として刻まれていた。
そこへ今、いくつか異なる足音が廊下へ紛れ込んでくる。
ひとつは、歩幅が短く速い。足音はほとんど立てまいとしているのに、曲がり角に来るといつも半歩だけ躊躇する。
もうひとつは、呼吸を力づくで押し殺していて、その張りつめた息遣いがかえって目立つ。
「廊下で刀を振り回す愚か者どもか」
柳澄原は心の中で呟く。
身を起こして戸を開けた。
長い回廊が闇の中に伸びている。障子が等間隔に連なり、風は灯の火をわずかに揺らしながら吹き抜ける。
角を曲がった先、黒い影が幾つか内外の廊のあいだを動いていた。侍の衣をまとってはいるが、腰にはいつもより多い短刀が見え隠れする。
そのうちのひとりが彼に気づき、わずかに身をかがめて、通りすがりに礼を装う。
その刹那――鞘のなかの刀身が、すこしだけ震えた。
冷たい刃の気配が、障子に淡い影となって映り、すぐさま鞘へと収まる。
影の男の胸元に鈍い痛みが走った。木の鞘に打たれた衝撃だった。
彼は柳澄原がどう動いたのか見ていない。
ただ、自分の刀がまだ一寸しか抜けていないうちに、その勢いを真ん中から断ち切られ、腰が痺れて刀を取り落としそうになったことだけを覚えている。
「廊下は将軍を斬る場所ではない」
柳澄原は淡々と言う。「本気で斬るつもりなら、こんなところで稽古をするな」
もうひとりは、不意に肩を小突かれて柱に叩きつけられ、その手から抜けかけた刃が障子を長く裂けた。
その裂け目の向こうが、内殿へと続く方角である。
黒い影たちは顔を見合わせた。
怒鳴りかけた者もいたが、柳澄原の目を見た途端、その言葉を飲み込んだ。
それは「余計な口を出す町医者」の目ではない。
彼らが陣中で見てきた、どの主将よりもなお冷たい光を宿した目だった。
「将軍を斬る刀なら、少なくとも本気で振り下ろせ」
柳澄原は低く言う。「斬るか斬らぬかは、お前たちの勝手だ。ただ――回廊で稽古をしている者ほど、火がついたとき真っ先に焼かれる」
それだけ言うと、踵を返して僧房へ戻った。
ほどなくして、巡回に紛れ込んでいた足音は静かに消える。
元からいた巡回の足だけが、まるで何もなかったかのように、決まった拍子で往復していた。
翌朝、ついに雨が落ちてきた。
東山へ戻ると、弥助は油紙の傘を抱えて門先に立ち、山下の霧を見下ろしていた。
主人の姿を見つけるや、顔をほころばせる。
「先生、御所の方は……?」
「雨前の軒だ」
柳澄原は一言だけ答えた。「しっとりと湿っている」
内室に戻ると、机上の風図を広げる。
二条御所を示す位置に、小さな朱の円を空摺りし、その脇に三文字書き添えた。
――「未燃の火」。
筆を止めたそのとき、指先がかすかに震えるのを、ふと自覚した。
まだ火は上がっていない。
だが、雲の下をさまようあの熱だけは、もうどこにも行き場を見つけられずにいる。
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