戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百一十二話 二条烈日・永禄の変

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永禄八年五月十九日の朝、京の空は不気味なほどに晴れ渡っていた。
 
雲は風に追われて高く高く押し上げられ、陽光は容赦なく瓦屋根に突き刺さり、屋根の稜線を白く焼いていく。
 
東山残院の井戸水は、朝のうちからいつもより心持ちぬるかった。
 
弥助が水を汲みながら手を差し入れ、思わずぼやく。
 
「井戸まで熱出したみたいですねえ」
 
そこへ、門口に息せき切った小者が駆け込んでくる。
 
衣の裾には泥がはね、額には汗がびっしりだった。
 
「澄原先生! 二条の外院で侍従が馬から落ちまして、足がえらい腫れようで……用人衆が、先生さえ見てくだされば祝儀は惜しまぬと!」
 
弥助の胸がぎゅっと縮む。
 
「また御所の方ですか……」
 
柳澄原は小者の顔をひと目見た。
 
どう見てもその場限りで駆り出された使いだ。草履の泥は二条の外縁の土で、顔色は病人よりなお青ざめている。
 
「足の怪我だと?」
 
柳澄原は淡々と問う。「何時からだ」
 
「ゆ、昨夜で……夜の巡邏の折に馬が驚いて、その……今朝になって、こんな腫れに」
 
「昨夜から痛んでいて、今朝ようやく医者を思い出すとはね」
 
弥助が小声でつぶやく。「一番痛いのは足じゃないでしょうに」
 
柳澄原は鍼箱を仕舞った。
 
「行こう」
 
二条近くの通りは、数日前よりさらに冷え込んでいた。
 
いつも賑やかな茶屋は「修理中」と札を出して戸を閉ざし、角の屋台は別の場所へ追いやられている。
 
代わりに目につくのは見覚えのない顔ぶれだ。
 
少し古びてはいるがきちんとした甲冑に身を包み、腰の刀は高い位置に締められている。ひと目で、陣から上がってきた兵だと知れる。
 
彼らは大声を出さず、余計な言葉もなく、ただ街角や路地口に立っている。石のように。
 
近侍に先導され、外縁を抜けてとある僧房へ。
 
噂の「足を痛めた侍」は確かにいた。
 
若い武士で、足首は腫れ上がっているが、どうにも命に別状があるようには見えない。むしろ一夜中怯え続けた者の顔色に近い。
 
柳澄原は膝を折り、その腫れに指をあてた。
 
この怪我は命を奪わないし、本来ここまで騒ぐ必要もない――そのことはひと押しで分かった。
 
「いつ、落ちた」
 
「……三つ時」
 
若武者は口ごもりながら答える。
 
「落ちたとき、何を見た」
 
問われた瞬間、彼の瞼が小さく震えた。
 
長い沈黙ののち、か細い声で言う。
 
「……城門の影が、いつもと違って見え申した」
 
柳澄原はそれ以上問わなかった。
 
関節を整え、薬を当て、内室に運ぶよう手短に指示を出す。
 
立ち上がったとき、遠くから微かな太鼓の音が響いてきた。
 
はじめはよくある点呼の合図のようだったが、わずかな間に一つの方向から三つに、三つから四方へと増えていく。
 
東、南、西、さらに遠い北の方角からも、応じるように太鼓が鳴った。
 
廊下を渡る風は、甲冑の擦れる音と足音の震えを運んでくる。
 
柳澄原は偏院の回廊に立ち、目を閉じた。
 
「先生?」
 
弥助が声を潜める。
 
「黙っていろ」
 
呼吸を極限まで浅く抑え、耳だけを働かせる。
 
重装の兵が駆ける音と、軽装の者が走る音では、拍子が違う。
 
門を破る衝撃と、梁が燃え崩れる音もまた別種の響きだ。
 
そしてもうひとつ、刀が肉を断ち、槍が鎧を穿つ、ごく短い鈍い音がある。
 
それらが四方から押し寄せ、廊下の下でごちゃ混ぜになって網を張る。
 
「東門が先に破れた」
 
柳澄原は低く呟く。「西側にはまだしがみついている者がいる。南では火を放っている。北は……逃げ道を塞いでいるな」
 
「だ、誰を塞いで……」
 
「北から出てくる者を」
 
言い終えるやいなや、偏院の回廊が騒然となった。
 
侍たちが数人、肩や袖に血や煤をつけたまま転がり込んでくる。
 
誰かの肩には鮮血が走り、別の者は煙に咳き込み、着替える暇もなく顔だけ青ざめている。
 
「火が内庭まで来た!」
 
「三好の旗が中まで入ってきたぞ!」
 
「松永の兵も……!」
 
声が入り乱れる。
 
ひとりが柳澄原の袖を掴んだ。
 
「先生、後院には老人に童僕、それに幾人かの女御様がおられる。どちらへ逃がせば……!」
 
柳澄原は空をひと目見た。
 
まだ雲は赤くなってはいないが、屋根の向こうで火の手が揺らめいている。
 
偏院の屋根は木造で、梁には連日の乾いた空気で生じた細かな裂け目が走っている。ひとたび火が移れば、一面に崩れ落ちるだろう。
 
「東へ」
 
「東は御所じゃないか!」
 
「だからこそ、西が真っ先に焼ける」
 
柳澄原の声は低く、よく通った。「ついてこい」
 
そう言うと、そのまま偏院の奥へ進み、小さな戸を蹴り開けて裏庭へ出た。
 
裏庭はすでに阿鼻叫喚だ。
 
小僧たちは包みを抱えて走り回り、老僕は腰を抜かして座り込み、何人かの女たちは壁際で泣き崩れている。
 
さらに奥の屋根からは、もう煙が上がり始めていた。
 
「こっちだ、みんな、こっちに集まって!」
 
弥助は喉が裂けるほどの声で叫んだ。
 
その声は混乱の中で、意外なほどよく通る。
 
柳澄原は顔を上げ、五、六本の主な梁をざっと見渡した。
 
うち二本はすでに火に舐められ、赤くなりかけている。他の一本だけが、まだ煙で黒ずんでいるだけだ。
 
刀を抜いた。
 
最初の一刀は、敵には向かわなかった。
 
焼けて赤くなった梁の根元を斬り払う。
 
刃が閃き、木屑が飛び散る。かろうじて持ちこたえていた半分の廊の屋根が、ぱきり、と音を立てて崩れ落ちた。
 
ただし、人のいない側へ向かって。
 
「もうひと息遅ければ、この一帯全部が頭の上に落ちていた」
 
柳澄原は低く言う。
 
二刀目は、ちょうど火の中から掠め取るように物を盗もうと飛び込んできた雑兵の足筋を横に払った。
 
悲鳴を上げる間もなく男は崩れ落ち、灰まみれの床に膝をつく。
 
三刀目は、梁の陰から伸びてきた敵兵の手首を切り落とすように斬り払った。
 
飛んだ武器が石段に当たり、乾いた音を立てる。
 
背後では火の光が揺らめき、誰かが狂ったように火把を振っているかのようだった。
 
「皆、この廊下だ!」
 
柳澄原は、まだ火が回っていない、細く長い廊を指さす。「止まるな、振り返るな!」
 
弥助は片方の手で年老いた用人を支え、もう片方の手で震えて歩けない小童ふたりを引きずるようにして走る。
 
誰かが老女を背負ったまま足を滑らせると、弥助がその襟を掴んで引き起こし、そのまま老女を自分の背に負った。
 
「早く! ぐずぐずしてたら、先生の背中も見えなくなる!」
 
廊の外からは、三好の兵の影が迫ってきていた。
 
まさか偏院にこれほど人が残っていようとは思わなかったのだろう。
 
どうせならついでに「掃除」してしまえとばかりに、刀を振り上げる。
 
柳澄原は半歩、足をずらし、人の群れからするりと抜け出した。
 
網の目をすり抜ける魚のように。
 
敵将の一刀が振り下ろされる。柳澄原は真正面から受けはしない。
 
刀背で軽く一撃、その刃をはね上げる。
 
見た目には軽い一振りだった。
 
だが、それは敵の刀勢の「第二段階」に正確にぶつけられていた。
 
打ち込まれた力が途中で断ち切られ、刃筋は一寸ほどそれて、廊柱を叩き、木屑を飛び散らせる。
 
「断線」
 
柳澄原は心の中で呟く。
 
二刀目、三刀目が矢継ぎ早に迫る。
 
彼は半歩だけ下がり、刀身を相手の刃筋に沿わせて滑らせるように下ろし、そのままわずかに引き寄せる。
 
刃は地面へと導かれ、相手の力は空を切った。
 
彼は決して追撃に執着しない。
 
彼の一刀一刀には、ただひとつの目的しかなかった――背後の者たちに、もう一呼吸分の時間を与えることだ。
 
火の勢いは増すばかりだった。
 
屋根瓦の一枚が爆ぜ、飛び散った破片が肩に当たり、痺れる痛みが腕を走る。
 
「先生!」
 
「振り返るな!」
 
一行はようやく偏院を抜け、外縁の石道に飛び出した。
 
その道は周囲よりわずかに低く、火の手はまだ届かない。
 
風だけがそこを吹き抜け、煙を別の方角へと巻き上げている。
 
柳澄原は最後のひとりの負傷した侍を石道へ押し上げ、自分は敷居の上に立って振り返った。
 
偏院は完全な火の海と化していた。
 
さらに遠く、正殿の屋根に向けて、炎は真っ直ぐに舌を伸ばしている。
 
かすかに、火の海の中で刀の光が見えた。
 
はじめは散漫な閃きだったものが、やがて異様なほど整った円を描き始める。
 
それは兵の陣が振るう刀ではない。
 
ただひとりの男が立てる刀の線だった。
 
畳の上で血飛沫を描くように、刀が幾重にも円を描く。
 
狂気の舞いに限りなく近い、その一刀一刀。
 
やがて、黒々とした長槍の影が森のように押し寄せ、刀の光は重なり合う畳と槍先に呑み込まれた。
 
足利義輝の姿が火の中に立っていたのは、ほんの数拍の間だけだった。
 
柳澄原は、その方向へ一歩も踏み出さなかった。
 
踵を返し、石道をひた走る。
 
命を拾ったばかりの雑役や侍従や女たちを従え、城外の、少しでも空のひらけた道へ向かって。
 
若い近侍がひとり、ふらつきながら内庭へ戻ろうとする。
 
「戻って、殿をお守りしなければ!」
 
柳澄原はその肩を押さえつけた。
 
「戻ったところで、殿に聞かせる骨の折れる音が増えるだけだ」
 
「しかし――!」
 
「本当にお前を傍らで死なせるつもりなら、とっくに中へ呼び入れている」
 
柳澄原は言う。「外に残されたということは、お前に、生きて語れということだ」
 
近侍の体がびくりと震えた。
 
涙が一気に溢れ出る。
 
弥助が強引に腕を引き、彼を連れて走る。
 
火は丸一日燃え続けた。
 
夕刻には、二条の空は赤から灰黒へと色を変える。
 
焼け跡の端では、煙がまだ地を這うように立ち上っていた。
 
柳澄原は、崩れ落ちた回廊の片端で立ち止まる。
 
半ば焼け落ちた梁の下に、近侍の亡骸がひとつ、押し潰されるように横たわっていた。
 
その手には、なお何かが握られている。
 
柳澄原は膝をつき、指を一本一本開いた。
 
掌の中から現れたのは、火に炙られて光沢を失った一つの印判だった。
 
縁に刻まれた家紋は焼けて崩れかけていたが、辛うじて「足利」の文字だけは読み取れる。
 
「殿下」
 
柳澄原は心の中で静かに呼びかける。「この印では、もう何も押せませぬな」
 
印判を清らかな布に包み、袖の内に収めた。
 
夜の気配が落ちてくるころ、ようやく東山に戻る。
 
弥助は門口で待ち続けていた。その姿を見た瞬間、目に涙を溜めた。
 
「先生……」
 
「戻った」
 
庭の楓は黙って立っていた。
 
風が葉を揺らし、さやさやと音を立てる。
 
内室に戻ると、風図を広げる。
 
もと空摺りだった朱の円を、丁寧に塗りつぶした。
 
その脇に、さらに二文字添える。
 
――「已燃」。
 
朱は紙の上にじわじわと広がる。
 
二条から、城全体へと燃え移る火の色のように。
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