133 / 268
第一百三十五話 京に刻む名・三日三絶
しおりを挟む
雨はさほど強くない。だが京の瓦のうえには、誰かが薄い鉄板を一枚、隙間なく敷き詰めたようだった。
一滴ずつ落ちるたびに、雨粒は弾けも散りもせず、細く、長く、骨の内側まで響くような音だけを残す。頭蓋の内で、いつまでも鳴りやまぬ小太鼓が打たれているような音だった。
柳澈涵は廊下に立ち、その音を聞いていた。
聞きながら、自分の心がどこにも揺れないことを、静かに確かめていた。
弥助は、旅装を詰めた箱の縄を三つ目の結び目まで締めたところで、指先が真っ白になっているのに気づいた。
「なぜ今夜、京を発たないのか」
そう問いたくて仕方がなかった。
だが口にできたのは、その半分にも満たない、乾いた声だけだった。
「先生。」
弥助は喉を押さえつけるように低く言う。
「城南の交替は、もう一巡終わりました。これ以上遅らせれば、見張りの目が増えます。」
柳澈涵は振り返らない。
ただ一言だけ落とした。
「三日後だ。」
弥助は、一瞬だけ言葉を失う。
その声が、「相談」ではなく「印判」であることを、すぐに悟った。
廊の影で、衣擦れの音が、閉じかけた扇を卓にそっと置くように微かに鳴った。
八重美が闇から姿を現す。白い簪が鬢を押さえ、瞳は少しも柔らかくない。
ただ笑みだけが薄い砂糖の膜のように乗っていて、近づいてみれば、その内側に細かな針が隠れていると分かる笑みだった。
「清州に戻るのね。」
声は驚くほど軽い。
まるで、どうでもいい噂話を一つ、何気なく確かめているかのように。
弥助の背筋が、びくりと強張る。
八重美は彼を見ない。
扇の骨を軽く打ち合わせながら、さらに低く続けた。
「昨夜、門の内側の引き手を借りに来たとき――『馬印を替えて尾行を避けたい』と言ったわね。言い回しは慎重だったけれど、あなたの手首には城南の馬市の泥がついていた。京の泥には匂いがある。あたしを騙せない。」
弥助の顔が一気に赤くなる。
「お、俺はただ……道中、誰かに止められたら困ると思って……」
「あなたを止める人は、刀で止めたりしない。」
八重美は扇先で、足もとに置かれた箱をちょんと指した。
「名分で止めるの。名分のない人間が京を出るのは、この町から何かを盗んで逃げるのと同じ。京はあなたの体を追わない。京が追うのは“理屈”。理屈が追いつくとき、刀より速い。」
このときになってようやく、柳澈涵は振り返る。
視線はまっすぐに八重美の目を射抜いた。
「だから、君が俺に名分をくれる、と?」
八重美は目を上げ、掌の上で一筋の道を広げて見せるように言う。
「台を用意するわ。三日で三場。文、武、茶。
三日が終わったとき、京はあなたの名を忘れなくなる。
あなたを覚えている者は、やがてあなたを“恐れる”。
そして、恐れる者だけが、いつかあなたを“使う”。」
彼女は速く話すが、一つひとつ挙げる名は、梁に打ち込む鉄釘のように重かった。
「第一日、文の勝負。
三条西実枝が出題。三条西公国と三条実綱が左右に座る。
細川藤孝、山科言継、近衛前久、里村紹巴――皆が場を固める。
三条西家の者たちは、自分の目で見るでしょう。
あなたが単なる“才子”なのか、それとも“規矩を立てる人間”なのか。」
「第二日、武の勝負。
先日、吉剛清十郎との一戦――京の武家には広く伝わったでしょう。けれど、長くは残らない。
あれはあくまで『二人の男の喧嘩』だから。
武家は好んで聞き、町人は喜んで見物する。だが、公家や寺社にとっては一陣の風に過ぎない。
京都で名を立てるのは、風ではなく“印”。
南都・興福寺の宝蔵院。宝蔵院胤栄。その十文字槍の名は、天下に轟いている。」
柳澈涵は彼女を見つめる。
「彼は奈良にいる。」
「奈良は京都から遠くない。遠いのは“敷居”よ。」
八重美は扇の骨を一本ずつ弾きながら続けた。
「そして、その敷居を少し持ち上げる役目は、あたしがやる。」
彼女は扇先で、窓外の夜を指す。
まるで、目に見えない網を示すかのように。
「今、寺社も争っている。比叡山が見ている。南都も見ている。
あなたが京で清十郎を破ったことは、言い換えれば――
『この町の中に、ひと振りの言うことを聞かない剣が突然現れた』と告げたのと同じ。」
「寺社が一番恐れるのは剣そのものじゃない。その剣の“背後に立つ人間”よ。
宝蔵院が来るのは、あなたの名声のためじゃない。
“あなたがどちら側に立つのか”を確かめるため。」
八重美は扇をぱちりと閉じ、判決を言い渡すように言った。
「あなたがやるべきことはただ一つ。
衆人環視の中、槍で書いてみせること。
――『自分は、ここに立つに足る』という四文字を、この京都の地面に。」
「第三日、茶の勝負。
今井宗久、千宗易、松永久秀が同席。
あなたは言葉ではなく、手つきで座を守る。」
柳澈涵はしばらく黙していた。
「なぜ、そこまでして俺を助ける?」
八重美の答えは、驚くほど真っ直ぐだった。
「あたしも、この京を出たいから。」
弥助がはっと顔を上げる。
八重美の瞳に、初めて薄い疲れが宿る。
長年落ちることを拒んしてきた灰が、ようやく少しだけ沈んだような色だった。
「この京は、門が多すぎる。人も多すぎる。もう、うんざりした。
あなたがただ黙って去るなら、京はあなたを“逃げた”と見る。
あなたが先に名を立ててから去るなら、京はあなたを“いつか使える者”と見る。
あたしは、使える者について行かなきゃ、生き残れない。」
柳澈涵は頷いた。
「三日だ。」
八重美は小さく一礼する。
「三日。
座はあたしが整える。
刀を振り下ろすのは、あなた。」
雨音はなお、瓦の上で刻み続けている。
決して急がぬその音は、まるで京そのものに告げているようだった。
――この三日のあいだに、一つの名が、この町の骨の隙間に打ち込まれるのだと。
一滴ずつ落ちるたびに、雨粒は弾けも散りもせず、細く、長く、骨の内側まで響くような音だけを残す。頭蓋の内で、いつまでも鳴りやまぬ小太鼓が打たれているような音だった。
柳澈涵は廊下に立ち、その音を聞いていた。
聞きながら、自分の心がどこにも揺れないことを、静かに確かめていた。
弥助は、旅装を詰めた箱の縄を三つ目の結び目まで締めたところで、指先が真っ白になっているのに気づいた。
「なぜ今夜、京を発たないのか」
そう問いたくて仕方がなかった。
だが口にできたのは、その半分にも満たない、乾いた声だけだった。
「先生。」
弥助は喉を押さえつけるように低く言う。
「城南の交替は、もう一巡終わりました。これ以上遅らせれば、見張りの目が増えます。」
柳澈涵は振り返らない。
ただ一言だけ落とした。
「三日後だ。」
弥助は、一瞬だけ言葉を失う。
その声が、「相談」ではなく「印判」であることを、すぐに悟った。
廊の影で、衣擦れの音が、閉じかけた扇を卓にそっと置くように微かに鳴った。
八重美が闇から姿を現す。白い簪が鬢を押さえ、瞳は少しも柔らかくない。
ただ笑みだけが薄い砂糖の膜のように乗っていて、近づいてみれば、その内側に細かな針が隠れていると分かる笑みだった。
「清州に戻るのね。」
声は驚くほど軽い。
まるで、どうでもいい噂話を一つ、何気なく確かめているかのように。
弥助の背筋が、びくりと強張る。
八重美は彼を見ない。
扇の骨を軽く打ち合わせながら、さらに低く続けた。
「昨夜、門の内側の引き手を借りに来たとき――『馬印を替えて尾行を避けたい』と言ったわね。言い回しは慎重だったけれど、あなたの手首には城南の馬市の泥がついていた。京の泥には匂いがある。あたしを騙せない。」
弥助の顔が一気に赤くなる。
「お、俺はただ……道中、誰かに止められたら困ると思って……」
「あなたを止める人は、刀で止めたりしない。」
八重美は扇先で、足もとに置かれた箱をちょんと指した。
「名分で止めるの。名分のない人間が京を出るのは、この町から何かを盗んで逃げるのと同じ。京はあなたの体を追わない。京が追うのは“理屈”。理屈が追いつくとき、刀より速い。」
このときになってようやく、柳澈涵は振り返る。
視線はまっすぐに八重美の目を射抜いた。
「だから、君が俺に名分をくれる、と?」
八重美は目を上げ、掌の上で一筋の道を広げて見せるように言う。
「台を用意するわ。三日で三場。文、武、茶。
三日が終わったとき、京はあなたの名を忘れなくなる。
あなたを覚えている者は、やがてあなたを“恐れる”。
そして、恐れる者だけが、いつかあなたを“使う”。」
彼女は速く話すが、一つひとつ挙げる名は、梁に打ち込む鉄釘のように重かった。
「第一日、文の勝負。
三条西実枝が出題。三条西公国と三条実綱が左右に座る。
細川藤孝、山科言継、近衛前久、里村紹巴――皆が場を固める。
三条西家の者たちは、自分の目で見るでしょう。
あなたが単なる“才子”なのか、それとも“規矩を立てる人間”なのか。」
「第二日、武の勝負。
先日、吉剛清十郎との一戦――京の武家には広く伝わったでしょう。けれど、長くは残らない。
あれはあくまで『二人の男の喧嘩』だから。
武家は好んで聞き、町人は喜んで見物する。だが、公家や寺社にとっては一陣の風に過ぎない。
京都で名を立てるのは、風ではなく“印”。
南都・興福寺の宝蔵院。宝蔵院胤栄。その十文字槍の名は、天下に轟いている。」
柳澈涵は彼女を見つめる。
「彼は奈良にいる。」
「奈良は京都から遠くない。遠いのは“敷居”よ。」
八重美は扇の骨を一本ずつ弾きながら続けた。
「そして、その敷居を少し持ち上げる役目は、あたしがやる。」
彼女は扇先で、窓外の夜を指す。
まるで、目に見えない網を示すかのように。
「今、寺社も争っている。比叡山が見ている。南都も見ている。
あなたが京で清十郎を破ったことは、言い換えれば――
『この町の中に、ひと振りの言うことを聞かない剣が突然現れた』と告げたのと同じ。」
「寺社が一番恐れるのは剣そのものじゃない。その剣の“背後に立つ人間”よ。
宝蔵院が来るのは、あなたの名声のためじゃない。
“あなたがどちら側に立つのか”を確かめるため。」
八重美は扇をぱちりと閉じ、判決を言い渡すように言った。
「あなたがやるべきことはただ一つ。
衆人環視の中、槍で書いてみせること。
――『自分は、ここに立つに足る』という四文字を、この京都の地面に。」
「第三日、茶の勝負。
今井宗久、千宗易、松永久秀が同席。
あなたは言葉ではなく、手つきで座を守る。」
柳澈涵はしばらく黙していた。
「なぜ、そこまでして俺を助ける?」
八重美の答えは、驚くほど真っ直ぐだった。
「あたしも、この京を出たいから。」
弥助がはっと顔を上げる。
八重美の瞳に、初めて薄い疲れが宿る。
長年落ちることを拒んしてきた灰が、ようやく少しだけ沈んだような色だった。
「この京は、門が多すぎる。人も多すぎる。もう、うんざりした。
あなたがただ黙って去るなら、京はあなたを“逃げた”と見る。
あなたが先に名を立ててから去るなら、京はあなたを“いつか使える者”と見る。
あたしは、使える者について行かなきゃ、生き残れない。」
柳澈涵は頷いた。
「三日だ。」
八重美は小さく一礼する。
「三日。
座はあたしが整える。
刀を振り下ろすのは、あなた。」
雨音はなお、瓦の上で刻み続けている。
決して急がぬその音は、まるで京そのものに告げているようだった。
――この三日のあいだに、一つの名が、この町の骨の隙間に打ち込まれるのだと。
0
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる