戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百四十一話 瀬田唐橋・京後第一の風

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     京の影が背後へ退いていくとき、その重さは簡単には抜けない。火から引き上げたばかりの瓦のように、もう手のひらに載っているのに、まだ熱がじりじりと残っている。

暮れかけの空の下、琵琶湖の口にひろがる水は鈍く暗く、瀬田唐橋がその上に横たわっている。木橋の梁が風に揺られて、ぎしりと鳴った。橋の上は人が多い。荷を担ぐ者、驢馬を引く者、護衛、荷を押す者──足音はひとつの響きに溶けながら、それぞれが自分の影だけは踏み締めて離さない。まるで誰かに拾われないように。

柳澈涵は三人の真ん中を歩いていた。

外側には弥助。肩には薬箱、腕は木刀の柄に沿わせ、視線をむやみに泳がせず、橋板と人波の隙間ばかりを見ている。

内側には八重美。マントの下の衣は乱れなく収められ、歩みは早すぎもせず遅すぎもせず、生まれつき「どこで一歩譲り、どこで一歩譲らせるか」を知っているような歩き方だった。

橋のたもとの風除けの陰に、脚夫風の男たちが何人かしゃがみ込んでいた。草鞋は濡れ、裾には泥。だがその眼は、ただの脚夫よりずっと硬い。

ひとりが顔を上げ、まず弥助の背負う薬箱を見る。次に、柳澈涵の衣の裾の線に隠れた刀の形を見る。最後に、八重美の髪に挿された簪へ視線を止め、ほんの半呼吸ほど間を置いてから、作り物めいた笑みを浮かべた。

「澄原先生で?」

試すような呼び方だった。布に細い針をそっと刺して、下に骨があるか確かめるような声。

柳澈涵は足を止め、わずかに顎をくだけた。

「拙者、澄原龍立。橋を借りて通らせてもらう。」

脚夫は立ち上がり、手を合わせた。口調は丁寧だが、卑ではない。

「とんでもないことで。……ただ、このところ橋の上が少々物騒でしてな。人が多ければ、目も多い。先生がご夫人と弟子を連れて遠路を行かれるなら、人にぶつかられぬよう、お気をつけなされ。」

八重美が小さく笑った。声は高くないのに、風の中に薄く香りをひいた。

「ぶつかるかどうかは口で決めるものじゃなくて、目で決まるのよ。これだけ人がいる橋の上で、あなた方だけが真っ先にうちの夫君を見分ける──そこがもう、少し気になるわ。」

脚夫は一瞬、言葉に詰まりながらも笑みを崩さない。

「まさか。……ただ、宿場や茶店でよく噂を耳にしましてな。東山の方に、腕が確かで、針の冴えた澄原先生がいて、多くの命を救ったと。我々のように道を走り回る者は、そういう名は覚えておきとうなるんです。いつ自分が道端で倒れるやもしれませんから、そのとき骨をちゃんと戻してくれる人間の名ぐらいは。」

言葉は飾っていない。粗塩を舌に載せたときのように、しょっぱくて、妙に真実味がある。

柳澈涵は男の足元の草鞋に目をやった。底は不自然なほどきれいで、肩のあたりには擦れた跡が一本走っている。米袋でこすれたものではない。長年、堅い木箱を背負い続けた痕だ。さらに袖口。火のそばに近づけすぎたのではない、火縄の油煙が沁み込んだような暗さが、わずかについている。

「お前たちは休んでいるんじゃない。」柳澈涵は淡々と言った。「風の当たらぬ橋の陰でしゃがみ込むのが休みだ。ここに座っているのは、道を守るためだ。」

脚夫は否定も肯定もせず、言葉だけを軽い方へ流した。

「先生は目がお鋭い。我々は、ただ人がぶつかって騒ぎにならぬよう、少し見張っているだけでさ。先生が橋を渡られるなら、どうぞご自由に。」

そう言って、身体を半歩だけ横へずらした。その半歩は、ちょうど三人が通れるだけの道幅を作る。ついでに、誰かが近づこうとすると、必ず自分の目の前を通らざるを得ない幅でもあった。

弥助の指が木刀の柄をきゅっと握りしめる。関節が白く浮き上がる。

柳澈涵は刀にも、感情にも手を伸ばさない。ただ脚夫から視線をはなし、橋の木板に落ちる水光へ目を移した。水面が影を途中で断ち切っている。まるで古い道を、どこかで無理やり切られたように。

八重美は男の脇を通り過ぎるとき、まるで世間話の続きのような調子で口を開いた。

「さっき東山の話をしていたけれど、誰から聞いたの?」

脚夫は答えずにはいられない。だが、正直すぎる答えもまた怖い。

「宿場というのは口の多いところでしてな。噂というものは、いつの間にか風に乗っております。」

八重美は「そう」と小さく答え、袖口を軽く撫でつけた。

「噂が風に乗るなら、風だってどこへでも紛れ込む。あなたたちも道を“守る”なら、自分を風の中に閉じ込めすぎないことね。」

それは忠告でもあり、釘でもあった。脚夫は意味を悟り、喉仏をひくりと動かしたが、それ以上は何も言わなかった。

三人は橋へと歩み出る。橋はかすかに震え、その震えが水面を細かく砕いていく。

橋の真ん中あたりで、荷を担いだ浪人がわざと肩をぶつけてきた。荷の端がしなり、八重美の裾を泥の中へ掃き込もうとする。弥助は思わず腕を動かしかけたが、柳澈涵の二本の指がその手の甲に軽く触れ、その一息の怒りを押しとどめた。

八重美は避けない。ただ柳澈涵の横へ半歩だけ寄る。風の強い場所で自然と寄り添うような動きで。荷の端は、彼女の裾には触れない。代わりにマントの裾がわずかに当たり、浪人の足元をさらう。浪人は足を取られ、踏み外しそうになり、薄っぺらな軽口がそのまま顔から落ちた。

浪人は振り返って、どうともつかぬ汚い言葉を吐きかけた。

橋のたもとの脚夫が顔を上げ、その方を冷たく一瞥する。浪人はすぐさま言葉を飲み込んだ。のどに魚の小骨でも引っかかったように。

橋を渡り切るころには、風はさらに固くなっていた。

だが、柳澈涵は気を緩めない。京を出てからこそ、本物の手が伸びてくる。ここには御所の壁も、東山の門灯もない。ただ道と風だけがある。誰でも、その風を借りて刀を差し入れることができる。

「先生、どうしてあの人たちは“東山”のことまで知っているんでしょう。」

弥助が低く問う。

柳澈涵の答えは淡々としていた。

「名は一度、門から外へ出たら、もう自分のものではない。持ち主にできるのは、せめてその名が、あまり見苦しい歩き方をしないようにすることだけだ。」

八重美が横で静かに笑った。

「今の言い方、自分のことも薬みたいに数えてるわね。」瞳の奥に、心からの光がわずかに揺れた。「薬ってね、ちゃんと苦く呑み込めるからこそ、人を救えるのよ。あなたはその“苦さ”がきれいな人。」

柳澈涵は返事をしない。そのまま歩を進める。歩調は早くはないが、風を背の方へ押し流してしまうような、ゆるぎない歩きだった。
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