戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百四十二話 近江宿場・針下に影を識る

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             近江の宿場は賑やかだ。その賑わいの下には、いつも冷たさが潜んでいる。灯油が多ければ、灯の下の眼も多い。帳簿が厚ければ、その重みで人の背骨まで曲がる。

  彼らが宿に着いたときには、もう空はすっかり暗くなっていた。

  主人は八重美の衣装と立ち居振る舞いを一目見るなり、笑みをこれ以上はないところまで丁寧に塗り上げる。次に、柳澈涵の言葉が浮ついていないのを確かめ、「医者だという澄原先生」に、いちばん奥の静かな部屋をあっさりとあてがった。値段を釣り上げることもない。

「澄原先生、奥方様、どうぞ中へ。」

  主人は腰を深く折り、呼び方さえあっという間に整えてみせた。

  弥助は水を運び、手を洗い、そのついでに木刀を戸口の脇に立てかける。柄は室内の方へ向けて。

  それもまた、柳澈涵に教わったことだった。

  夜半、隣室から急な泣き声が聞こえてきた。女の泣き声に、子どもの苦しげな息が絡みついている。息が宙吊りになり、今にもぷつりと切れそうだ。

  主人が青ざめた顔で戸を叩く。

「澄原先生!お願いでございます、どうかお助けを!倅が急に高い熱を出し、痙攣して、唇まで青く……!」

  柳澈涵は衣を羽織り、歩みは急がず、まず炭火を遠ざけさせ、窓をひと筋開けさせる。

  子どもの顔は真紅に上気しているのに、手足は氷のように冷たい。喉の奥で細い音が鳴り、何かに首を絞められているようだ。

  彼は右へ左へと問いただすことはしない。片手で子どもの手首の脈を取り、もう一方の手で虎口を軽くつまんだ。

「熱は表に、痰は内に籠もっている。まず、その息を救う。」

  彼は素早く針を取る。

  針箱が開く音は、ごく微かなものだったが、その場にいた全員の胸に、はっきりと落ちてきた。

  最初の一刺しは内関。深くは刺さず、細く、しかし確かな捻りで乱れた心気を押さえ込む。

  次に合谷、続いて曲池。持ち上げ、落とす、そのひと動作は数息のうちに済む。手技は平正で、早急でもなく、無駄に引き延ばしもしない。

  それから人中を指で押さえ、掌の根で膻中を軽く叩いた。

  子どもの喉の奥で鳴っていた細い音が、ふっとほどける。

  張り詰めていた細い紐が、一気に外れたように。

  そして、子どもはわっと泣き出した。

  その泣き声と同時に、部屋にいた大人たち全員が、水面から一斉に顔を出したような顔をする。主人はその場に平伏し、額を床に打ちつけて礼を言った。

  柳澈涵は針を納める。目蓋ひとつ、動かさない。

「やめなさい。生姜湯は薄く煮て、温かいうちに少しずつ飲ませる。白扁豆と陳皮を煎じて、一杯。今夜半分、明日の朝半分。もしまた痙攣したら、呼びに来なさい。」

  女は子どもを抱きしめて泣き、泣きながら礼を述べた。

  柳澈涵は軽くうなずき、自室へ戻る。

  八重美はその背中を追いながら、戸口でふと足を止めた。

「お礼は薬代として受けてください。」彼女は主人に低く告げる。「あまり大金を持たせない方が良いわ。夫は医者。あなたが厚く渡せば渡すほど、かえって目立ってしまう。」

  主人は何度も「はい」と答える。眼差しには、さらに深い敬意が宿った。

  腕のある医者は多い。だが、人の心の重みまで量れる者は少ない。

  その一言で、“敬意”を再び“節度”の枠へ押し戻した。それが本当の手腕だった。

  部屋に戻ると、弥助が堪えきれずに問う。

「先生、さっきの針……あの穴の並び方、一本の線みたいに見えました。」

  柳澈涵は座り、針を拭いながら答えた。

「命を救うとき、経穴は書物の上の点ではない。“人”の中を通う路だ。学びたいなら、まず“慌てない”ことから学べ。」

  その言葉を、弥助は骨に刻むように覚えた。

  夜が更けたころ、廊下にごく軽い足音が忍び寄った。踵は柔らかく床に落ちるが、その歩幅はきちんと揃っている。こうした廊下を歩き慣れた者の足音だ。

  弥助は目を開け、手は何より先に木刀を探る。戸紙に影がわずかに映り、外で誰かが足を止めた。叩こうとはせず、指先で柱をちょんと触る。無意識を装った、あまりに意識的な触れ方。

  弥助は呼吸を無理に落ち着かせ、背を鴨居に預けて座り、木刀を膝に横たえた。手は震えているが、刀は震えない。

  戸の下辺がわずかにへこむ。押そうとして、すぐに止めた。中に罠がないか、外から探っている。

  弥助は木刀をそっと持ち上げ、鞘の先で戸の下にはめてあった楔を、軽く一突きした。

  楔が「コッ」と細い音を立てる。その瞬間、戸口の力の流れが、ぴたりと止まった。

  挑発ではない。ここに人がいて、見張っている──それだけを告げる合図。

  外の男は静まり返った。呼吸の気配までも消える。

  少し間を置いてから、その足音はすっと引き下がっていく。来たときと同じように、余計な尻尾を残さず。

  弥助の背中は汗でぐっしょり濡れ、掌も熱く火照っていた。

  それでも先生は呼ばない。

  彼はわかっていたのだ。今、押し留めたのは斬り合いではない。伸びてきた手が、懐の深さを探りに来ただけだ。中身に触れなければ、手は引っ込む。引っ込んだ先で、もっと厄介なやり口が練られるだろう。

  夜明け前、柳澈涵が内室から出てきた。とっくに起きていたような顔で。

  彼は戸口の楔を一瞥し、静かに言った。

「悪くない。余計な動きはしなかった。」

  弥助は掠れた声で問う。

「先生……あれは誰なんでしょう。」

  柳澈涵は針箱の蓋を閉じた。

「まだわからん。ただ、あれだけ軽く歩ける者は、金目当てではない。探しているのは金ではなく、“道”だ。」

  少し間を置いて、さらに続ける。

「覚えておけ。旅の中でいちばん毒なのは刀じゃない。“お前を知っている誰か”だ。」

  八重美が横でくすりと笑った。

「弟子が戸を守ってくれれば、師匠は全体を守れるわ。」彼女は弥助を見て、珍しくからかいではない色を目に宿し、「さっきの一突き、灯りを点けるよりよっぽどきれいだったわね。」と認めた。
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