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第一百五十五話 内眷相会す・阿市、鋒を試す
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永禄九年正月を過ぎ、雪は薄くなった。だが、長く降り続く。
澄斎の庭は日ごとに冴え冴えとし、枯れ枝には霜が絡みつき、まるで口にされぬ言葉がぶら下がっているようであった。
その日の昼下がり、阿市が澄斎を訪れた。
華やかに騒ぎ立てることなく、侍女を二人だけ連れ、淡い色の衣をまとっているが、足取りは揺れない。
阿市は遊びに来たのではない。清洲の火加減を測りに来たのだ。家の風向きを、自分の眼で読みに。
八重美は廊まで出迎え、春先に雪の間から顔を出す花のような笑みを浮かべた。
「阿市殿。」
礼は教本どおりに、寸分違えず。
だが、そのきっちりとした所作のどこかに、袖口に忍ばせた小刀のような軽やかさがあった。柄は柔らかくとも、刃は冷たく光る。
阿市も礼を返し、視線を彼女の髪の先から袖口へ、袖から瞳の奥へ――最後に、その笑みの中に退ききらずに残っている、わずかな光の芯に止めた。
「その笑い方、京で見たことがある。」阿市は静かに言う。「ただ――京よりも、揺れぬ。」
八重美はぱちりと瞬きをした。
「京は風が多うございますから。あまり強く笑うと、作法まで吹き飛ばされてしまいそうで。」
阿市はわずかに口元を緩める。
「作法を、自分の衣のように着こなしているのね。」
「衣ではございません。」
八重美の笑みは軽やかなままだが、その言葉はしっかりと釘を打つ。「門でございます。」
阿市は目を上げた。
「門を立てれば、風は勝手には入り込めない。
けれど、清洲の風は京よりも荒い。
あなたが立てる門は、外の風を防ぐため? それとも――内側の風を防ぐため?」
八重美はすぐには答えない。まずは阿市のために茶を注いだ。
手首は微動だにせず、茶の面に立つ泡は多すぎもせず、少なすぎもしない。並みの茶人では出せぬ手つきだった。
「外の風は、さほど怖うございません。」
茶を差し出しながら言う。
「怖いのは――色で門を買ったと、寝所で勢いを得たと、そう決めつける口でございます。」
軽い声音でありながら、そのひと言は暗闇から伸びる舌を一刀で断ち切るような鋭さを持っていた。
阿市はじっと彼女を見つめ、ふっと笑う。
「そこまで正面から言ってしまうのね。
自分の進む路を、門の上に大書きするようなものだわ。」
八重美も笑みを返す。
「読むべき人に読んでいただくための文字にございます。
読むべきでない者には――先に引っ込んでいただければ、それでよし。」
二人は向かい合って座る。外の雪明かりが障子を透けて室に入り込むが、不思議と寒くない。
やがて阿市が、ふいに問いを替える。
「墨俣が動き出すこと――知っている?」
八重美は唇を結び、静かに答える。
「夫君から、少し。」
阿市の瞳の奥がわずかに揺れる。
「自然な呼び方ね。」
八重美は逸らしもせず、むしろ笑みを深めた。
「自然なもののほうが、風には耐えられます。」
阿市は茶碗を置き、その声を針のように木に打ち込む。
「もしも本当に墨俣が立てば、最初に噛みつくのは、美濃とは限らない。
功が眩しすぎれば、まず刺さるのは内側の目よ。」
八重美の笑みが一分だけ薄くなる。
「では、私はどうすればよろしゅうございますか。」
阿市は彼女を見据える。
「多くを動かす必要はない。
ただ――揺れないこと。
誰もあなたの綻びを見つけられないほど揺るがなければ、探す矛先は別のところへ向く。」
八重美は頷き、少し考えてから、今度は逆に問いを返した。
「では、阿市殿は。」
阿市も笑んだ。
「わたし?」
袖口を整えながら言う。
「信長公の傍にいる。信長公が歩を速めるなら――家の中で風をしまっておく者が要るの。」
そこまで言ったとき、窓の外を鳥の影がかすめ、雪の乗った枝から霜がぱらりと落ちた。
何かの兆しのようでもあった。
阿市が腰を上げるとき、廊の板に落ちる足音は、ほとんど聞こえないほどに軽い。
門口まで来てから、一度だけ振り返る。
「清洲は、京とは違う。」
言葉は短い。
「清洲の刀は、必ずしも鞘から抜かれはしない。
だが――必ず腰にある。」
八重美は深く身を折った。
「わたしも、その腰の側に。」
阿市はごくわずかに頷き、背を向けて歩み去る。
八重美は廊に立ち尽くし、雪明かりを横顔に受けながら、ようやく笑みを引いた。
瞳の奥の光は、むしろ強くなっている。
阿市が試しに来たのは、礼ではなかった。
骨である。
自分の骨を見せた。
見せ過ぎず、隠し過ぎず――ちょうどよい加減で。
その夜、柳澈涵は軍議から澄斎に戻った。
八重美は彼を待つように一盃の熱い酒を差し出し、ひそやかに言う。
「清洲の風は――半分は、わたしが抑えましょう。」
柳澈涵は彼女を見た。言葉は返さない。ただ静かに酒を受け取る。
障子が風にふるりと鳴った。
遠いどこかで立ち上る川霧まで、一緒に震えたかのようだった。
澄斎の庭は日ごとに冴え冴えとし、枯れ枝には霜が絡みつき、まるで口にされぬ言葉がぶら下がっているようであった。
その日の昼下がり、阿市が澄斎を訪れた。
華やかに騒ぎ立てることなく、侍女を二人だけ連れ、淡い色の衣をまとっているが、足取りは揺れない。
阿市は遊びに来たのではない。清洲の火加減を測りに来たのだ。家の風向きを、自分の眼で読みに。
八重美は廊まで出迎え、春先に雪の間から顔を出す花のような笑みを浮かべた。
「阿市殿。」
礼は教本どおりに、寸分違えず。
だが、そのきっちりとした所作のどこかに、袖口に忍ばせた小刀のような軽やかさがあった。柄は柔らかくとも、刃は冷たく光る。
阿市も礼を返し、視線を彼女の髪の先から袖口へ、袖から瞳の奥へ――最後に、その笑みの中に退ききらずに残っている、わずかな光の芯に止めた。
「その笑い方、京で見たことがある。」阿市は静かに言う。「ただ――京よりも、揺れぬ。」
八重美はぱちりと瞬きをした。
「京は風が多うございますから。あまり強く笑うと、作法まで吹き飛ばされてしまいそうで。」
阿市はわずかに口元を緩める。
「作法を、自分の衣のように着こなしているのね。」
「衣ではございません。」
八重美の笑みは軽やかなままだが、その言葉はしっかりと釘を打つ。「門でございます。」
阿市は目を上げた。
「門を立てれば、風は勝手には入り込めない。
けれど、清洲の風は京よりも荒い。
あなたが立てる門は、外の風を防ぐため? それとも――内側の風を防ぐため?」
八重美はすぐには答えない。まずは阿市のために茶を注いだ。
手首は微動だにせず、茶の面に立つ泡は多すぎもせず、少なすぎもしない。並みの茶人では出せぬ手つきだった。
「外の風は、さほど怖うございません。」
茶を差し出しながら言う。
「怖いのは――色で門を買ったと、寝所で勢いを得たと、そう決めつける口でございます。」
軽い声音でありながら、そのひと言は暗闇から伸びる舌を一刀で断ち切るような鋭さを持っていた。
阿市はじっと彼女を見つめ、ふっと笑う。
「そこまで正面から言ってしまうのね。
自分の進む路を、門の上に大書きするようなものだわ。」
八重美も笑みを返す。
「読むべき人に読んでいただくための文字にございます。
読むべきでない者には――先に引っ込んでいただければ、それでよし。」
二人は向かい合って座る。外の雪明かりが障子を透けて室に入り込むが、不思議と寒くない。
やがて阿市が、ふいに問いを替える。
「墨俣が動き出すこと――知っている?」
八重美は唇を結び、静かに答える。
「夫君から、少し。」
阿市の瞳の奥がわずかに揺れる。
「自然な呼び方ね。」
八重美は逸らしもせず、むしろ笑みを深めた。
「自然なもののほうが、風には耐えられます。」
阿市は茶碗を置き、その声を針のように木に打ち込む。
「もしも本当に墨俣が立てば、最初に噛みつくのは、美濃とは限らない。
功が眩しすぎれば、まず刺さるのは内側の目よ。」
八重美の笑みが一分だけ薄くなる。
「では、私はどうすればよろしゅうございますか。」
阿市は彼女を見据える。
「多くを動かす必要はない。
ただ――揺れないこと。
誰もあなたの綻びを見つけられないほど揺るがなければ、探す矛先は別のところへ向く。」
八重美は頷き、少し考えてから、今度は逆に問いを返した。
「では、阿市殿は。」
阿市も笑んだ。
「わたし?」
袖口を整えながら言う。
「信長公の傍にいる。信長公が歩を速めるなら――家の中で風をしまっておく者が要るの。」
そこまで言ったとき、窓の外を鳥の影がかすめ、雪の乗った枝から霜がぱらりと落ちた。
何かの兆しのようでもあった。
阿市が腰を上げるとき、廊の板に落ちる足音は、ほとんど聞こえないほどに軽い。
門口まで来てから、一度だけ振り返る。
「清洲は、京とは違う。」
言葉は短い。
「清洲の刀は、必ずしも鞘から抜かれはしない。
だが――必ず腰にある。」
八重美は深く身を折った。
「わたしも、その腰の側に。」
阿市はごくわずかに頷き、背を向けて歩み去る。
八重美は廊に立ち尽くし、雪明かりを横顔に受けながら、ようやく笑みを引いた。
瞳の奥の光は、むしろ強くなっている。
阿市が試しに来たのは、礼ではなかった。
骨である。
自分の骨を見せた。
見せ過ぎず、隠し過ぎず――ちょうどよい加減で。
その夜、柳澈涵は軍議から澄斎に戻った。
八重美は彼を待つように一盃の熱い酒を差し出し、ひそやかに言う。
「清洲の風は――半分は、わたしが抑えましょう。」
柳澈涵は彼女を見た。言葉は返さない。ただ静かに酒を受け取る。
障子が風にふるりと鳴った。
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