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第一百五十四話 軍議に楔定まる・猿、令を得る
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永禄八年も冬に入り、清洲城の炭火は赤々と燃えているのに、軍議の空気はそれ以上に冷たい。
二度目の軍議は、さらに短く終わった。
抜刀の前に吸い込む一息ほどの短さである。
信長は「議」が嫌いだ。「定」が好きなのだ。
藤吉郎は席の前に膝をつき、背を低く伏せながら、その肩甲骨にはいつでも跳びかかれる獣のような張りが見えた。
信長は声を張り上げることもなく、ただ口を開く。
「墨俣の件――お前が行け。」
諸将の間にどよめきはない。
だが、その一拍の沈黙は、空気の喉元を一列の歯で噛み締めたような気配を帯びていた。
心中に不服を覚えた者はいる。
だが、その唇を動かす者はいない。
信長公が“鍋”を差し出した。
伸ばせば掴める。だが、横から手を出せば、真っ先に火傷するのは自分だ。
「藤吉郎、この身を賭してお受けいたします。」
「命など、たかが知れている。」信長の声は淡々としている。「高くつくのは、お前が“空から城を生やした”と相手に信じ込ませられるかどうかだ。」
藤吉郎の双眸に、ひょいと滑稽味のある光が瞬いて消える。
「では――そう信じ込ませてみせましょう。」
そこで柳澈涵が口を開いた。
「まず、川の夜路を取ること。」
藤吉郎は頷く。
「水の道は、何とか致します。」
「“何とか”ではない。“取る”のだ。」柳澈涵は言葉を切る。
机上の地図に指を走らせ、上流の隠れた着岸点、臨時の資材置き場にできる林地、見た目には不便だが、最も目を引かぬ夜の小径の三つを、きっちりと突き示した。
「木と縄は別々に。釘と火も別々に。塩と米は、さらに離せ。
人も物も火も一つに積めば、夜の火ひとつで、お前の“一夜”は灰に変わる。」
藤吉郎はしばし沈み、それから口元を大きく緩める。
「さすがにございます。いくつにも割ってしまえば、誰にも全容は見えませぬ。」
信長は彼に視線を移す。
「誰が要る。」
藤吉郎は姿勢を正す。
「川で人を鎮められる手が欲しゅうございます。蜂須賀のところから、一人借りられれば尚よし。」
言葉に無駄はない。
夜の川路を任せるには、水も人も闇も知る者が必要だ。
「許す。」信長は一字だけで答えた。
議はすぐに散じた。柳澈涵も他とともに立ち上がり、余計なことは言わない。
廊の風が行灯の火をひと揺すりしたとき、藤吉郎が追いついて声を落とした。
「柳殿。誰かに問われたとき、私はあなたをどう言えばよいでしょう。」
「私のことは、言うな。」柳澈涵は振り返らない。
「しかし、必ず問われましょう。“誰がその風を送った”かと。」
藤吉郎は猫のような笑みを浮かべる。
柳澈涵は足を止め、冬の城壁を見上げた。
「すべて、お前が考えついたと言え。」
藤吉郎は一瞬だけ固まり、それから笑い出す。
「心得ました。人の考えを、自分のものと申すのは大得意にございます。」
「本当にそう言い切れるなら――この件ごと“天の御心”と申してしまえ。」
柳澈涵の声は淡々としている。
藤吉郎は笑みを引き締め、真っ直ぐに頭を垂れた。
その背を返したとき、遠くで城門の閉じる重い音が響いた。
道を一つ閉ざす音にも聞こえ、道を一つ開く音にも聞こえる。
墨俣へと続く道は、もはや地図上の一点ではない。
諸将の胸板に打ち込まれた一本の楔である。
楔が木に入れば――抜こうとするたびに血を見る。
二度目の軍議は、さらに短く終わった。
抜刀の前に吸い込む一息ほどの短さである。
信長は「議」が嫌いだ。「定」が好きなのだ。
藤吉郎は席の前に膝をつき、背を低く伏せながら、その肩甲骨にはいつでも跳びかかれる獣のような張りが見えた。
信長は声を張り上げることもなく、ただ口を開く。
「墨俣の件――お前が行け。」
諸将の間にどよめきはない。
だが、その一拍の沈黙は、空気の喉元を一列の歯で噛み締めたような気配を帯びていた。
心中に不服を覚えた者はいる。
だが、その唇を動かす者はいない。
信長公が“鍋”を差し出した。
伸ばせば掴める。だが、横から手を出せば、真っ先に火傷するのは自分だ。
「藤吉郎、この身を賭してお受けいたします。」
「命など、たかが知れている。」信長の声は淡々としている。「高くつくのは、お前が“空から城を生やした”と相手に信じ込ませられるかどうかだ。」
藤吉郎の双眸に、ひょいと滑稽味のある光が瞬いて消える。
「では――そう信じ込ませてみせましょう。」
そこで柳澈涵が口を開いた。
「まず、川の夜路を取ること。」
藤吉郎は頷く。
「水の道は、何とか致します。」
「“何とか”ではない。“取る”のだ。」柳澈涵は言葉を切る。
机上の地図に指を走らせ、上流の隠れた着岸点、臨時の資材置き場にできる林地、見た目には不便だが、最も目を引かぬ夜の小径の三つを、きっちりと突き示した。
「木と縄は別々に。釘と火も別々に。塩と米は、さらに離せ。
人も物も火も一つに積めば、夜の火ひとつで、お前の“一夜”は灰に変わる。」
藤吉郎はしばし沈み、それから口元を大きく緩める。
「さすがにございます。いくつにも割ってしまえば、誰にも全容は見えませぬ。」
信長は彼に視線を移す。
「誰が要る。」
藤吉郎は姿勢を正す。
「川で人を鎮められる手が欲しゅうございます。蜂須賀のところから、一人借りられれば尚よし。」
言葉に無駄はない。
夜の川路を任せるには、水も人も闇も知る者が必要だ。
「許す。」信長は一字だけで答えた。
議はすぐに散じた。柳澈涵も他とともに立ち上がり、余計なことは言わない。
廊の風が行灯の火をひと揺すりしたとき、藤吉郎が追いついて声を落とした。
「柳殿。誰かに問われたとき、私はあなたをどう言えばよいでしょう。」
「私のことは、言うな。」柳澈涵は振り返らない。
「しかし、必ず問われましょう。“誰がその風を送った”かと。」
藤吉郎は猫のような笑みを浮かべる。
柳澈涵は足を止め、冬の城壁を見上げた。
「すべて、お前が考えついたと言え。」
藤吉郎は一瞬だけ固まり、それから笑い出す。
「心得ました。人の考えを、自分のものと申すのは大得意にございます。」
「本当にそう言い切れるなら――この件ごと“天の御心”と申してしまえ。」
柳澈涵の声は淡々としている。
藤吉郎は笑みを引き締め、真っ直ぐに頭を垂れた。
その背を返したとき、遠くで城門の閉じる重い音が響いた。
道を一つ閉ざす音にも聞こえ、道を一つ開く音にも聞こえる。
墨俣へと続く道は、もはや地図上の一点ではない。
諸将の胸板に打ち込まれた一本の楔である。
楔が木に入れば――抜こうとするたびに血を見る。
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