戦国澄心伝

RyuChoukan

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第一百五十九話 霧の楔はすでに打たれ・墨俣に息が入る

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     永禄九年初夏、木曽川の水はゆっくりと、しかし容赦なく増えていた。

昼間に見ているかぎりは大したことはない。だが夜になってはじめて思い知る――水面が一寸高くなるごとに、夜道の危険は一分増す。夜道が一分険しくなるごとに、人間の度胸はそれ以上に無理やり鍛えられる。



墨俣の柵の影は、もう立ち上がっていた。

まだ「城」と呼べる代物ではない。

だがそれは、呼吸する器のようでもあった。

昼のあいだは、木材、縄、釘、塩、米を呑み込み、

夜になると、火と霧と、どこまでが真実かわからぬ噂を吐き出す。

対岸・稲葉山城の見張りからは、その火だけが見える。

火の中にいる人影は見えない。

見えるのに、つかめない。

その感覚は、見張れば見張るほど神経を逆なでし、

苛立ちを増やし、苛立つほどに、底のない不安へと変わっていく。

柵の中を、藤吉郎は早足で歩いていた。

まるでこの「奇跡」が一瞬でも止まれば、天が前言を翻し、手ずから取り上げてしまうとでもいうように。

彼の手にあるのは刀ではなく、炭筆一本。

荒い紙の上を筆先が走る。書きつけているのは詩句ではなく工程だった。

どの材木をいつ入れ替えるか、どの継ぎ目の縄を締め直すか、どの火の加減を半寸落とすか。

蜂須賀小六は、川べりにしゃがみ込んで泥をつまんだ。

指先でこねる泥には、細かな砂が混じっている。

「水口が変わったな」

顔も上げずに言う。「霧はもっと沈む」

藤吉郎はふっと笑った。

その笑いには、もはや愛想もおどけもなく、身命を賭ける直前の興奮だけが残っていた。

「霧が沈むのはいい。霧が沈むほど、天が味方してくれているように見える」

「天は誰の味方でもない」

小六は言う。「天の使い方を知っている者の味方をするだけだ」

藤吉郎は一瞬、言葉を詰まらせた。

だが次の瞬間には、さらに深く笑った。

「ならば、天の使い方を知っている者になればいい」

櫓脚へ上る土手に登り、対岸を見やる。

稲葉山城の輪郭は、暮色の中で一塊の黒鉄のように沈んでいる。

あまりに重く、まるで自分から「ひびが入る」ことを認めまいとする鉄塊のようだ。

そこへ、柵の内から報せが来た。

清洲からの使いが着いたという。

藤吉郎が受け取ったのは短い札。

ひと目見て、札の端を掌に押し込む。

その一目に入っていたのは多くの文字ではない。柳澈涵の、いつもの冷たい筆致による一句だけだった。

『堅きを求むるに及ばず。ただ日々、稲葉山に墨俣の膨らむ姿を見せよ』

藤吉郎は、その一句を心の中で何度もなぞった。

そしてふと悟った。

墨俣の真の役目は、敵の刃を受け止めることではない。

稲葉山の視界に打ち込まれる「楔」となることだと。

毎夜、見させる。

毎夜、考えさせる。

毎夜、その「考え」で、自分たちの心をすり減らさせる。

彼は片手を上げ、火の位置を三尺ほどずらすよう命じた。

足元だけを照らし、人影は照らさない。

縄を照らし、影は落とさない。

木材も三箇所に分けさせる。

一つは川べり、一つは林の中、一つは柵の内の隅。

誰がのぞいても、その一部しか見えないように。

部下の小声で問う。

「藤吉郎様、そんなふうに分けては、運ぶ手間が増えまする」

藤吉郎は叱らず、笑った。

笑い声そのものが、言葉を磨いだ刃のようになる。

「遅さは、敵の目に見せるためのものだ」

「速さは、ここで働く手の中だけにあればいい」

夜が落ちると、川面には薄い霧が立ちはじめた。

濡れた布を一枚かけられたように、音が吸い込まれていく。

柵の内の火は消えない。だが霧に呑まれて、半分だけ見える火となる。

対岸に一筋、微かな光が閃いた。

稲葉山城の斥候が火を上げたのだ。

蜂須賀小六は、その火を見つめる。

その瞳は、水底の冷たい石のようだった。

「今夜、奴らは試しに来る」

藤吉郎は袖口を正し、笑みを細く絞る。

「試させればいい。

ただし戻ったとき、自分たちが何を“試した”のか説明できなければ――その時点で、こちらの勝ちだ」

霧がさらに濃くなると、対岸の火がひとつ増えた。

巡回のリズムではない。

「動く」側のリズムだ。

墨俣の夜が、息を吹き込みはじめる。

そして稲葉山城のほうでは、誰かが心の中で、刃をひときわ鋭く研いでいた。
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