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第一百五十八話 城、一夜に成る・稲葉山、震う
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永禄九年暮春。清洲城では桃の花が例年より早く開き、軍情はその花よりもなお速く動いた。
捷報が城中に飛び込んだとき、織田信長は廊下で風の音を聞いていた。
「墨俣、立ち上がりました。」
報告の言葉は短い。
信長は眉一つ動かさず、ただ問う。
「美濃は――何を吐いた。」
使いは一拍遅れて口を開き、斥候の報告を書付のまま読み上げる。
対岸の巡邏線が変わったこと。渡し場の見張りが増えたこと。
稲葉山城の夜の灯が以前より密になったこと。
城中には、尾張が川の神を得たのだと言い出す者。
霧を操る妖法者がいるのだと恐れる者。
様々な流言が立っているということ――。
信長の口元に、一筋の笑いが走った。
熱を持たぬ笑いだ。甲冑の上から刀の背で軽くコツリと叩いたような音がする。
「よし。」
「先に乱れたのは、あちらだ。」
柳澈涵はその場に同座し、平らな声で言う。
「乱れは第一歩にすぎません。
“自分たちが悪いから乱れた”と、あちら自身に思わせなければ。」
信長は彼を見る。
「まだ、どう打ち込む。」
「墨俣を一本の釘として、毎夜、少しずつ、刺し続けること。」柳澈涵は言う。
「深々と刺し込む必要はありません。
眠りにつく前、心がいちばん緩んだところにだけ、毎夜ひと刺し。
長く続ければ、必ず自分たちの手で抜こうとする日が来る。
そのとき――手が震える。」
信長の眼の奥に、さらに強い光が宿る。
「藤吉郎は、守り切れるか。」
「守り切れぬなら、それでよい。」柳澈涵は淡々と答えた。
「守り切れぬからこそ、新しい牙が生える。」
信長は腹の底から笑った。火の気を帯びた笑いだ。
「相変わらず、言葉が容赦ない。」
軍議が散じると、柳澈涵は澄斎へ戻った。
澄斎の燈は穏やかで、屋内の人心はそれ以上に温い。
阿新と阿久はすでに熱い汁を整え、弥助は廊下で木刀を振っている。
汗が鬢を伝い落ちる。柳澈涵の姿を見るや、弥助は慌てて木刀を収めて礼を取るが、その瞳には押し隠せぬ渇きがあった。
八重美は奥から現れた。衣の色は淡く、しかし室内の光を抑えるほどの落ち着きがある。
両手に一盃の熱い酒を載せ、柳澈涵の前にそっと差し出しながら言う。
「お帰りなさいませ、夫君。」
声は小さいが、その一言で、家の中の空気がぐっと定まる。
柳澈涵は盃を受け取り、彼女の目を見た。
その瞳には、媚びはない。ただ、はっきりとした“託し”がある。
礼の言葉は要らない。ただ酒をひと口含む。
熱さが喉を下りていき、心のどこかに残っていた冷えを押し沈めた。
夜も更けたころ、城内を、ごく限られた者にしか届かぬ筋から別の報せが走った。
幸蔵は外の賭場や裏路地にいた。
別筋から渡ってきた紙片には、針ほどに短い文が一行だけ記されている。
――稲葉山城にて、“影より局を見る者”を探している。
柳澈涵は紙片を火に翳し、灰になるまで焼き、掌に受けた。
黒い灰は、掌の上で黒雪のように冷たく散った。
八重美は彼の傍らに寄り添い、小さな声で問う。
「いよいよ、“刀”を探し始めましたか。」
柳澈涵は燈火を見つめ、かすかに答える。
「探しているのは刀ではない。
夜、眠れなくしている“目”のほうだ。」
障子の外で春風が吹いた。燈の火がほのかに揺れ、その揺れは遠い稲葉山城の火までをも、いっしょに揺らしたかのようだった。
柳澈涵は空になった盃を置き、立ち上がって窓辺へと歩む。
美濃の方角を見やる。
城は見えない。ただ夜の色だけが続いている。
だが、彼にはわかっていた。
稲葉山城の“心臓”には、すでに細い亀裂が走っていることを。
一度走り出した亀裂は――
これから先、音を立てて広がるしかない。
捷報が城中に飛び込んだとき、織田信長は廊下で風の音を聞いていた。
「墨俣、立ち上がりました。」
報告の言葉は短い。
信長は眉一つ動かさず、ただ問う。
「美濃は――何を吐いた。」
使いは一拍遅れて口を開き、斥候の報告を書付のまま読み上げる。
対岸の巡邏線が変わったこと。渡し場の見張りが増えたこと。
稲葉山城の夜の灯が以前より密になったこと。
城中には、尾張が川の神を得たのだと言い出す者。
霧を操る妖法者がいるのだと恐れる者。
様々な流言が立っているということ――。
信長の口元に、一筋の笑いが走った。
熱を持たぬ笑いだ。甲冑の上から刀の背で軽くコツリと叩いたような音がする。
「よし。」
「先に乱れたのは、あちらだ。」
柳澈涵はその場に同座し、平らな声で言う。
「乱れは第一歩にすぎません。
“自分たちが悪いから乱れた”と、あちら自身に思わせなければ。」
信長は彼を見る。
「まだ、どう打ち込む。」
「墨俣を一本の釘として、毎夜、少しずつ、刺し続けること。」柳澈涵は言う。
「深々と刺し込む必要はありません。
眠りにつく前、心がいちばん緩んだところにだけ、毎夜ひと刺し。
長く続ければ、必ず自分たちの手で抜こうとする日が来る。
そのとき――手が震える。」
信長の眼の奥に、さらに強い光が宿る。
「藤吉郎は、守り切れるか。」
「守り切れぬなら、それでよい。」柳澈涵は淡々と答えた。
「守り切れぬからこそ、新しい牙が生える。」
信長は腹の底から笑った。火の気を帯びた笑いだ。
「相変わらず、言葉が容赦ない。」
軍議が散じると、柳澈涵は澄斎へ戻った。
澄斎の燈は穏やかで、屋内の人心はそれ以上に温い。
阿新と阿久はすでに熱い汁を整え、弥助は廊下で木刀を振っている。
汗が鬢を伝い落ちる。柳澈涵の姿を見るや、弥助は慌てて木刀を収めて礼を取るが、その瞳には押し隠せぬ渇きがあった。
八重美は奥から現れた。衣の色は淡く、しかし室内の光を抑えるほどの落ち着きがある。
両手に一盃の熱い酒を載せ、柳澈涵の前にそっと差し出しながら言う。
「お帰りなさいませ、夫君。」
声は小さいが、その一言で、家の中の空気がぐっと定まる。
柳澈涵は盃を受け取り、彼女の目を見た。
その瞳には、媚びはない。ただ、はっきりとした“託し”がある。
礼の言葉は要らない。ただ酒をひと口含む。
熱さが喉を下りていき、心のどこかに残っていた冷えを押し沈めた。
夜も更けたころ、城内を、ごく限られた者にしか届かぬ筋から別の報せが走った。
幸蔵は外の賭場や裏路地にいた。
別筋から渡ってきた紙片には、針ほどに短い文が一行だけ記されている。
――稲葉山城にて、“影より局を見る者”を探している。
柳澈涵は紙片を火に翳し、灰になるまで焼き、掌に受けた。
黒い灰は、掌の上で黒雪のように冷たく散った。
八重美は彼の傍らに寄り添い、小さな声で問う。
「いよいよ、“刀”を探し始めましたか。」
柳澈涵は燈火を見つめ、かすかに答える。
「探しているのは刀ではない。
夜、眠れなくしている“目”のほうだ。」
障子の外で春風が吹いた。燈の火がほのかに揺れ、その揺れは遠い稲葉山城の火までをも、いっしょに揺らしたかのようだった。
柳澈涵は空になった盃を置き、立ち上がって窓辺へと歩む。
美濃の方角を見やる。
城は見えない。ただ夜の色だけが続いている。
だが、彼にはわかっていた。
稲葉山城の“心臓”には、すでに細い亀裂が走っていることを。
一度走り出した亀裂は――
これから先、音を立てて広がるしかない。
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