179 / 268
第一百八十一話 立政寺会・虚父実兵
しおりを挟む
永禄十一年七月二十五日、岐阜城下・立政寺。
信長はここを将軍の行館として急造した。義昭を迎えるため、城下総出で寺を修繕し、金碧を施し、越前での住まいよりもなお奢らせた。
信長自ら、林秀貞、柴田勝家、丹羽長秀、森可成ら重臣を率いて寺門外に出迎える。数千の織田軍が道の両側に列を成し、長槍は林のごとく、甲冑は鮮やかに光る。
迫ってくる武威の圧――流浪の長かった義昭は眩暈を覚えた。恐怖ではない。歓喜だ。これこそ彼が渇望した“力”。
義昭が輿を降り、将軍の威を保とうと背筋を正す。
信長は歩み寄り、片膝をつき、武家の正式な大礼をとった。
「尾張 織田信長、公方さまに拝謁つかまつる! 来迎遅参、殿下に御苦労をお掛け申した!」
面目は尽くされた。
宴、酒が巡る。
義昭は頬を赤らめ、下座の信長を見、朝倉義景の死んだような顔を思い出し、胸が詰まった。杯を掲げて信長の前へ歩み――涙さえ落ちた。
「信長どの……」
声が震える。「今日の我が身、すべてはそなたのおかげ。そなたは臣ではない。再造の恩人だ。これより先、そなたを……父と呼ぶ」
場が凍り付いた。
年齢で言えば、信長は義昭よりわずか三歳上にすぎない。だがこの“父”は、義昭が差し出せる最大の餌であり、幕府再興のためなら何でも投げるという政治の賭けだった。
信長は一瞬、目を止め――すぐに大笑した。
「殿下、恐れ入る! そのお言葉、信長、身に余ります! 必ずや上洛の御供、力の限り尽くしましょう!」
笑いながら杯を飲み干す。
だが、その眼の底は――氷のように冷えていた。
宴が散る。
柳澈涵は澄斎の井戸端で髪を洗った。黒い染料が水に落ち、白髪が現れる。
“澄原龍立”の仮面を洗い流し、柳澈涵へ戻る。
信長が来た。供はない。身体にはまだ酒の匂い。
「柳」
信長が白髪を見て言う。「やはり白のほうが似合う」
「はい」
柳澈涵は髪を拭く。「信長公。……あの“父”の一言、いかがでした」
「反吐が出る」
信長は二語だけ吐き捨てた。宴の笑みは影もない。
「奴は思っている。名分を少し与えれば、田舎侍が尻尾を振ると。父と呼べば、俺が代わりに噛みついてやると」
冷笑が走る。「……違う。奴は用心棒を雇ったつもりだが、実際は強盗に身を売っただけだ」
「明智光秀は」
柳澈涵が問う。
「面白い」
信長が言う。「俺を見る目が、神を見るようでもあり、鬼を見るようでもある。だが頭は冴えている。上洛の兵糧を命じたら、半日で案を出した」
「良い刃です」
柳澈涵は言う。「だが気をつけよ。彼は“理”を重んじすぎる。いつかあなたの“力”が“理”を押し潰す時、その刃は手を傷つける」
「手を傷つける?」
信長は拳を握る。「俺が強ければ、刃は従う」
信長はここを将軍の行館として急造した。義昭を迎えるため、城下総出で寺を修繕し、金碧を施し、越前での住まいよりもなお奢らせた。
信長自ら、林秀貞、柴田勝家、丹羽長秀、森可成ら重臣を率いて寺門外に出迎える。数千の織田軍が道の両側に列を成し、長槍は林のごとく、甲冑は鮮やかに光る。
迫ってくる武威の圧――流浪の長かった義昭は眩暈を覚えた。恐怖ではない。歓喜だ。これこそ彼が渇望した“力”。
義昭が輿を降り、将軍の威を保とうと背筋を正す。
信長は歩み寄り、片膝をつき、武家の正式な大礼をとった。
「尾張 織田信長、公方さまに拝謁つかまつる! 来迎遅参、殿下に御苦労をお掛け申した!」
面目は尽くされた。
宴、酒が巡る。
義昭は頬を赤らめ、下座の信長を見、朝倉義景の死んだような顔を思い出し、胸が詰まった。杯を掲げて信長の前へ歩み――涙さえ落ちた。
「信長どの……」
声が震える。「今日の我が身、すべてはそなたのおかげ。そなたは臣ではない。再造の恩人だ。これより先、そなたを……父と呼ぶ」
場が凍り付いた。
年齢で言えば、信長は義昭よりわずか三歳上にすぎない。だがこの“父”は、義昭が差し出せる最大の餌であり、幕府再興のためなら何でも投げるという政治の賭けだった。
信長は一瞬、目を止め――すぐに大笑した。
「殿下、恐れ入る! そのお言葉、信長、身に余ります! 必ずや上洛の御供、力の限り尽くしましょう!」
笑いながら杯を飲み干す。
だが、その眼の底は――氷のように冷えていた。
宴が散る。
柳澈涵は澄斎の井戸端で髪を洗った。黒い染料が水に落ち、白髪が現れる。
“澄原龍立”の仮面を洗い流し、柳澈涵へ戻る。
信長が来た。供はない。身体にはまだ酒の匂い。
「柳」
信長が白髪を見て言う。「やはり白のほうが似合う」
「はい」
柳澈涵は髪を拭く。「信長公。……あの“父”の一言、いかがでした」
「反吐が出る」
信長は二語だけ吐き捨てた。宴の笑みは影もない。
「奴は思っている。名分を少し与えれば、田舎侍が尻尾を振ると。父と呼べば、俺が代わりに噛みついてやると」
冷笑が走る。「……違う。奴は用心棒を雇ったつもりだが、実際は強盗に身を売っただけだ」
「明智光秀は」
柳澈涵が問う。
「面白い」
信長が言う。「俺を見る目が、神を見るようでもあり、鬼を見るようでもある。だが頭は冴えている。上洛の兵糧を命じたら、半日で案を出した」
「良い刃です」
柳澈涵は言う。「だが気をつけよ。彼は“理”を重んじすぎる。いつかあなたの“力”が“理”を押し潰す時、その刃は手を傷つける」
「手を傷つける?」
信長は拳を握る。「俺が強ければ、刃は従う」
0
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる