188 / 268
第一百九十話 禁制の札・黙許の血
しおりを挟む
入城二日目、晴れ。だが京の空気は、雨上がりより汚れていた。湿り気ではない。
――貪欲の匂いだ。
東寺の本陣には、訴えの文書が雪のように舞い込む。「借宿して出ない」「布を持ち去って払わぬ」「女に手を伸ばす」「往来で米を奪う」……。美濃の兵は山の苦労に慣れ、花の都へ入った途端、手が疼き、心が野に走る。
光秀は信長の前に膝をついた。顔色は鉄のように青い。
「主君、このままでは我らは三好家と何が違いましょう。義昭公から三度も問いが来ております。公卿も皆、見ています!」
柴田勝家が脇で唸る。
「弟兄は命懸けで攻め上った。布切れぐらい何だ。京の連中は女々しい。」
信長はすぐに答えない。段に座り、茶碗を弄ぶ。指は揺れない。眼は冷たい。鞘に潜ませた刃のように。
ふいに言った。
「柳。」
一拍。
「お前はどう見る。」
柳澈涵は陰に立つ。手には紙片の束。この数日、幸蔵が賭場筋を市井へ潜らせ、最も汚く、最も真実の声を掘り出させていた。
柳澈涵は一条だけを告げる。
「闇市の米価が、今朝三割上がりました。」
淡々とした言葉が、肺へ刃を刺す。
「民が我らに米を奪われると恐れております。恐怖は刀より速く人を殺す。信を立てねば、この城下は座りません。」
信長は手を上げ、茶碗を地へ叩きつけた。
「パァン。」
磁器が四散する。音は大きくない。だがそれは宣言だった――京の規矩は今日から変わる。
「規矩を立てよ。」信長。
一刻後、三条大橋。高札が立つ。柳澈涵の筆。墨がまだ生々しい。大書は一行だけ。
――狼藉、濫妨する者、斬。
乾く前に、試し斬りが来た。旗本、信長の側近。女の金簪を掴み、丹羽長秀の憲兵に橋詰で押さえつけられている。
「俺は主君の者だ! 清洲からお供してる! 女の玩具くらいで――!」
信長が馬で来る。諸将が従う。旗本は最後の藁に縋るように叫ぶ。
「主君! お助けを! 次はしません!」
信長は馬を止め、見下ろす。眼に怒りはない。あるのは漠然。死体の埋め場所を確かめるような冷え。信長は柳澈涵を見る。
柳澈涵は一言も言わない。高札の脇で、旗本を見つめる。医者が切除すべき壊疽を診るように。沈黙――それが許可だった。
信長は理解する。
「長く仕えたな。」
刀を抜く。声は日常のように平ら。
「だからお前の首を借りる。京に規矩を刻むためだ。」
閃光。首が転がる。血が高札の柱へ噴き、“斬”の字が真紅に染まる――新しい印のように。
町衆は死んだように黙った。征服者の刃が、まず“身内”へ落ちるのを見たのだ。
柳澈涵は歩み寄り、血の中から金簪を拾う。拭い、隅で震える女へ差し出した。
「お納めください。」
声は恐ろしいほど静か。
「これからは、道を歩くのに俯く必要はありません。」
人垣の外、八重美が傘を差し、遠くから見ていた。眼に恐怖はない。あるのは冷たい光――網が、ようやく掛かったのを見た眼。
――貪欲の匂いだ。
東寺の本陣には、訴えの文書が雪のように舞い込む。「借宿して出ない」「布を持ち去って払わぬ」「女に手を伸ばす」「往来で米を奪う」……。美濃の兵は山の苦労に慣れ、花の都へ入った途端、手が疼き、心が野に走る。
光秀は信長の前に膝をついた。顔色は鉄のように青い。
「主君、このままでは我らは三好家と何が違いましょう。義昭公から三度も問いが来ております。公卿も皆、見ています!」
柴田勝家が脇で唸る。
「弟兄は命懸けで攻め上った。布切れぐらい何だ。京の連中は女々しい。」
信長はすぐに答えない。段に座り、茶碗を弄ぶ。指は揺れない。眼は冷たい。鞘に潜ませた刃のように。
ふいに言った。
「柳。」
一拍。
「お前はどう見る。」
柳澈涵は陰に立つ。手には紙片の束。この数日、幸蔵が賭場筋を市井へ潜らせ、最も汚く、最も真実の声を掘り出させていた。
柳澈涵は一条だけを告げる。
「闇市の米価が、今朝三割上がりました。」
淡々とした言葉が、肺へ刃を刺す。
「民が我らに米を奪われると恐れております。恐怖は刀より速く人を殺す。信を立てねば、この城下は座りません。」
信長は手を上げ、茶碗を地へ叩きつけた。
「パァン。」
磁器が四散する。音は大きくない。だがそれは宣言だった――京の規矩は今日から変わる。
「規矩を立てよ。」信長。
一刻後、三条大橋。高札が立つ。柳澈涵の筆。墨がまだ生々しい。大書は一行だけ。
――狼藉、濫妨する者、斬。
乾く前に、試し斬りが来た。旗本、信長の側近。女の金簪を掴み、丹羽長秀の憲兵に橋詰で押さえつけられている。
「俺は主君の者だ! 清洲からお供してる! 女の玩具くらいで――!」
信長が馬で来る。諸将が従う。旗本は最後の藁に縋るように叫ぶ。
「主君! お助けを! 次はしません!」
信長は馬を止め、見下ろす。眼に怒りはない。あるのは漠然。死体の埋め場所を確かめるような冷え。信長は柳澈涵を見る。
柳澈涵は一言も言わない。高札の脇で、旗本を見つめる。医者が切除すべき壊疽を診るように。沈黙――それが許可だった。
信長は理解する。
「長く仕えたな。」
刀を抜く。声は日常のように平ら。
「だからお前の首を借りる。京に規矩を刻むためだ。」
閃光。首が転がる。血が高札の柱へ噴き、“斬”の字が真紅に染まる――新しい印のように。
町衆は死んだように黙った。征服者の刃が、まず“身内”へ落ちるのを見たのだ。
柳澈涵は歩み寄り、血の中から金簪を拾う。拭い、隅で震える女へ差し出した。
「お納めください。」
声は恐ろしいほど静か。
「これからは、道を歩くのに俯く必要はありません。」
人垣の外、八重美が傘を差し、遠くから見ていた。眼に恐怖はない。あるのは冷たい光――網が、ようやく掛かったのを見た眼。
0
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる