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第一百九十二話 東山再起・夫人の帖
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柳澈涵は織田の本陣に住まなかった。東山の残院へ戻る。
庭の楓は火のように赤い。かつての焦げ跡は新葉で半分隠れたが、消えてはいない。「澄原医房」の札がまだある。磨かれて、異様に明るい。まるで名が戻るのを待っているように。
八重美はすでに院で待っていた。京へ来て三日。だが旧宅は隅々まで整えられている。彼女はもはや“遊医の神秘の夫人”ではない。今や“織田家影見の夫人”。
装いは素。袖口に淡い雲文を一輪――京の公卿女房が最も好む型。華美を避け、品だけを骨に染ませる。
「お帰り。」
振り返り、指で一枚の帖を弄ぶ。柳澈涵は一瞬だけ眼を和らげた。
「夫人、疲れたか。」
「疲れません。」
八重美は帖を渡し、狐のように笑う。
「京の風は道中より素直。古い友が皆、待っている. この院からどんな光が漏れるか、見たがっている。」
帖は山科言継夫人から――菊見の招き。柳澈涵は一瞥する。
「菊を見に来るわけではない。」
「承知しています。」八重美が小さく言う。
「探りです。田舎武士が脂粉銭まで奪うかどうか。そして――私の線を使えば、夫が信長公の前で顔を立てられるかどうか。」
柳澈涵はさらに直球で問う。
「どう返す。」
「礼も返し、言葉も返す。」
八重美は言った。
「澄斎の門は開いております。だが外の風は入れない。外の汚れを持ち込まぬなら、茶はいくらでも。」
柳澈涵の眼に、かすかな賛が走る。
「網は夫人の方が早い。」
そこへ佐吉が帳面を抱えて駆け込む。息も整わない。
「先生! 里村紹巴様がお見えです! それから……三条西家も使いを!」
柳澈涵は笑う。碁石が盤に落ちる音のように。
「皆、古馴染みだ。」
里村紹巴が入り、まず楓を見て嘆く。
「物は残り、人は変わる。」
柳澈涵に深々と礼をする。寺町書肆の頃より十倍重い礼。
「柳様. あの連歌の折から、先生は池の魚ではないと知っていました。今や武士で満ちた京で、この東山の小院だけが、私に一歩を許してくれる。」
柳澈涵は座へ導く。
「名は変わっても、茶は熱い。」
続いて三条西家の家司が進み、巻物を恭しく差し出した。
「我が主よりご挨拶。主は申します。当年、先生の『火後の石』の連歌を、今も忘れぬと。再び大変の京にて、先生の眼の“石”は、新たな苔を生みますか、と。」
柳澈涵は巻物を受け取る。重い。それは京の“脈”そのものだった。
「三条西殿へ。」
柳澈涵は答える。
「苔は生える. 洗われもする。雨は止んだばかり。石はまだ濡れている。乾いてから、苔の色が分かる。」
八重美が、隣で小さく笑う。彼女は知っている。今日からこの院は住処ではない。
――京の耳であり、喉でもある。
庭の楓は火のように赤い。かつての焦げ跡は新葉で半分隠れたが、消えてはいない。「澄原医房」の札がまだある。磨かれて、異様に明るい。まるで名が戻るのを待っているように。
八重美はすでに院で待っていた。京へ来て三日。だが旧宅は隅々まで整えられている。彼女はもはや“遊医の神秘の夫人”ではない。今や“織田家影見の夫人”。
装いは素。袖口に淡い雲文を一輪――京の公卿女房が最も好む型。華美を避け、品だけを骨に染ませる。
「お帰り。」
振り返り、指で一枚の帖を弄ぶ。柳澈涵は一瞬だけ眼を和らげた。
「夫人、疲れたか。」
「疲れません。」
八重美は帖を渡し、狐のように笑う。
「京の風は道中より素直。古い友が皆、待っている. この院からどんな光が漏れるか、見たがっている。」
帖は山科言継夫人から――菊見の招き。柳澈涵は一瞥する。
「菊を見に来るわけではない。」
「承知しています。」八重美が小さく言う。
「探りです。田舎武士が脂粉銭まで奪うかどうか。そして――私の線を使えば、夫が信長公の前で顔を立てられるかどうか。」
柳澈涵はさらに直球で問う。
「どう返す。」
「礼も返し、言葉も返す。」
八重美は言った。
「澄斎の門は開いております。だが外の風は入れない。外の汚れを持ち込まぬなら、茶はいくらでも。」
柳澈涵の眼に、かすかな賛が走る。
「網は夫人の方が早い。」
そこへ佐吉が帳面を抱えて駆け込む。息も整わない。
「先生! 里村紹巴様がお見えです! それから……三条西家も使いを!」
柳澈涵は笑う。碁石が盤に落ちる音のように。
「皆、古馴染みだ。」
里村紹巴が入り、まず楓を見て嘆く。
「物は残り、人は変わる。」
柳澈涵に深々と礼をする。寺町書肆の頃より十倍重い礼。
「柳様. あの連歌の折から、先生は池の魚ではないと知っていました。今や武士で満ちた京で、この東山の小院だけが、私に一歩を許してくれる。」
柳澈涵は座へ導く。
「名は変わっても、茶は熱い。」
続いて三条西家の家司が進み、巻物を恭しく差し出した。
「我が主よりご挨拶。主は申します。当年、先生の『火後の石』の連歌を、今も忘れぬと。再び大変の京にて、先生の眼の“石”は、新たな苔を生みますか、と。」
柳澈涵は巻物を受け取る。重い。それは京の“脈”そのものだった。
「三条西殿へ。」
柳澈涵は答える。
「苔は生える. 洗われもする。雨は止んだばかり。石はまだ濡れている。乾いてから、苔の色が分かる。」
八重美が、隣で小さく笑う。彼女は知っている。今日からこの院は住処ではない。
――京の耳であり、喉でもある。
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