戦国澄心伝

RyuChoukan

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第二百零二話 外郭尽滅・阿坂の一矢、血を見る

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 永禄十二年八月下旬、伊勢路。

 木造城外の風には、新旧二つの匂いが混じっていた。古いのは塩と杉。新しいのは裏切りの後の汗酸だ。門前に迎えの笑顔が多すぎるほど並ぶほど、刀を抜きたくなる。

 信長が入城して間もなく、地図を広げて軍議となった。柳澈涵は山河の要衝を指し、伊勢の骨節を一本ずつ示す。阿坂、大河内、田丸、その先に多気、そして霧山。どこも脈の結び目だ。ひとつ押さえれば、血の流れが遅くなる。

 信長は鞭柄で阿坂を軽く叩いた。

「まず、この歯を抜く。」

 阿坂城は大きくはないが、山頭と険路を押さえ、大河内の喉元に刺さる釘のような城だ。釘を抜かぬまま囲めば、自分の首を相手に差し出すことになる。

 八月二十六日、軍勢は木造を発つ。雨は針のように顔を刺し、細塩のようだ。山道は泥に滑り、馬蹄の一歩一歩が綱引きになる。人も馬も、意志で前へ引きずらねば進まない。

 阿坂城下、木下藤吉郎が先に坂へ取りついた。軍議文書ではすでに「羽柴秀吉」と記されていたが、呼び声の方はまだ統一されていない。彼は雨を障害と思わない。むしろ、恥を隠す幕とした。鉄砲は鳴りにくく、弓矢は湿る。ならば兵を短い刃の小隊に割り、盾と短兵で壁へ貼り付いて詰める。爪で城壁の皮を剥ぐように。

 城頭の矢は雨ではない。釘だ。一本一本に悪意がはっきり刻まれ、旗手、指揮、顔を上げる勇の者を狙い撃つ。

 秀吉の笑みは残る。しかし雨に研がれて薄くなった刀背のように、鋭さの裏に冷えがある。

「顔を上げるな。」傍らの副将に低く言う。「上げたら的だ。壁に貼れ。蛇みたいにな。」

 第一の柵が破れた瞬間、城内の強弓が斜めに唸った。一矢が雨を裂いて飛び、藤吉郎の左脇腹を掠める. 血は雨に赤く映えない。ただ黒く滲む。墨を水に落とした色だ。

 副将が声を失う。

「殿下!」

 秀吉は傷口を押さえた。痛みを骨の隙間へ押し戻すみたいに、容赦のない力で。倒れない。むしろ、いっそう背を立てる. 自分を旗にするように。

「叫ぶな。」歯を見せて笑う。白い歯が、逆に恐い。「叫んだら士気が漏れる。」

 刀を抜き、破口へ突っ込む。背後の兵潮がそのまま流れ込む。雨水、血水、泥水が石段の上で混ざり、黒赤の小川になった。城門がこじ開けられたとき、城内から短い悲鳴が上がり、すぐ雨に呑まれた。

 阿坂はその日、落ちた。

 外郭の第一の歯が地に転がり、伊勢の喉元は一段、空いた。信長は報を聞き、ただ一言だけ問う。

「猿は死んだか。」

「死んでおりませぬ。負傷しながら督戦しております。」

 信長は頷いた。それは褒め言葉ではない。駒に駒の価値を刻む仕草だ。

 滝川一益が陣の端で、山から流れ下る黒赤の水を見て、低く言った。

「外喉が切れた。大河内は息が詰まり始める。」

 柳澈涵が答える。

「窒息だけでは足りぬ。窒息の中で、“体面”を考え始めさせる。」
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