戦国澄心伝

RyuChoukan

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第二百零一話 袂を分かつ・鉄の河、神国へ入る

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 永禄十二年(西暦一五六九年)八月、岐阜。

 空は異様なほど低く垂れ、墨を吸い込んだ綿の塊のような雲が、城外の軍陣の上に幾重にも折り重なっていた。風に秋の匂いはなく、あるのは湿り気を帯びた冷たさと、鉄の生臭さだけだ。まるで、まだ落ちていない刑の気配が、先に空気を締め上げている。

 織田信長の軍勢は、鉄の河となって列を成す。甲冑は互いに噛み合い、旗指物は林のごとく立ち、馬蹄が地を踏むたび、泥水は同心円に震え広がった。そこにあるのは単なる兵数ではない。道も村も、そして人の心さえも粉砕しうる「重量」だった。

 前軍、柴田勝家。赤備えは火のようだが、空の重さに押されてなお苛立ちを増す。黒鬣の馬に跨り、十文字槍を鞍前に横たえ、髭は戟のように硬い。眼が言っているのはただ一つ――早く、だ。

 左翼、滝川一益。鉄砲隊と忍びの備えを、油布と輜重の間に散らす。火薬袋は防水の油布で二重に包み、火縄は革袋に収め、火門には薄い鉄の覆いまで被せた。雨を恐れているのではない。雨が人の胆を鈍らせるのを恐れている。

 右翼、丹羽長秀。隊列は静かで、軍心の上に置かれた鎮め石のようだ。先登は求めない。ただ、兵糧を切らさず、道を切らさない。戦場で最初に死ぬのは人間ではない。秩序だ。丹羽長秀は、秩序を刀として振るう男だった。

 中軍の帳前、信長は「鬼葦毛」に騎乗する。南蛮胴の冷たい光が、陰雲の下で時折、刃のように覗いた。彼は「討つ」とも「征く」とも言わない。ただ鞭を上げ、南を指す。

「伊勢へ。」

 その一言が、天下の向きを半寸だけ、確かに変えた。

 木造の一線はすでに裂けている。北畠の門闩は緩み、伊勢の呼吸は乱れ始めた。信長は大河内に噛みつくことを急がない。まず外側の歯を一本ずつ抜く。援路も退路も、面子も体面も、まとめて抜き切ってからだ。

 京都を空にするわけにはいかない。二条城の廊下には、雨の筋が細かな刑具のように垂れ下がっている。

「光秀。」

 明智光秀が進み出た。桔梗紋の陣羽織は暗がりで霜のように白い。表情は揺るがず、揺るがなさが逆に、すべての感情を喉の奥に押し込めた堅さを感じさせる。

「京都はお前に預ける。」信長は振り返らない。「義昭を締めろ。公卿も締めろ。俺が南へ下る隙に手を伸ばす者がいたら、先に斬って後で申し開け。」

「御意。」光秀は頭を垂れ、雨のように平らな声で応じた。

 信長は身を翻し、陰に立つ男を見る。

 柳澈涵(りゅう・てつはん)は「絶影(ぜつえい)」に騎り、黒蓑を垂らしていた。具足は着けず、腰にあるのは「澄心村正(ちょうしん・むらまさ)」ただ一本。将ではなく、戦場へ持ち込まれた尺のようだった。人の心の亀裂を測るための。

「柳。」信長は薄く笑った。笑いは軽く、刃の背のように冷い。「ついて来い。伊勢は神国を名乗る。お前の眼で見たい――どこが硬く、どこが裂けているかをな。」

 柳澈涵はわずかに顎を引く。

「病を見るなら、脈に触れねば。」

 出陣前夜。京都南郊、柳の下。

 八重美(やえみ)は紫の油紙傘を差し、傘骨の雨粒が細い線となって落ちていた。哀れみも怨みもない。ただ、離別を一つの「完遂すべき課業」として飲み込んだ者の、さらに深い冷静があった。

 雷霆峨保(らいてい・がほ)は厚背の大太刀を背に、彼女の後ろに立つ。門の内側に据えられた鉄の閂のように。口は開かないが、屋内外の生死を肩で押さえつけている。

 柳澈涵は馬を降り、玉佩を解いて雷霆峨保の掌へ置いた。

「雷霆。」柳澈涵はその眼を見据える。「伊勢で俺は死なない。だが帰って来たとき、夫人の髪が一本でも欠け、澄心楼の煉瓦が一つでも落ちていたら――それだけは許さぬ。」

 雷霆峨保は片膝をつき、玉佩を握り締めて鳴らした。

「先生、ご安心を。人が在れば、楼は在ります。」

 八重美は近づき、柳澈涵の蓑の襟を整える。指先は温いのに、動きは一切、泥を引かない。

「伊勢は雨が冷いわ。」小さく言う。「骨に寒気を入れないで。」

 そして、ほんの少しだけ唇を上げる。

「あなたは神国の看板を剥がしに行く。私は京都で、この鬼どもを見張っておく。」

 絶影が嘶き、鉄の河へ踏み入った。

 雨がついに本格的に落ちた。世界が二つに割れる。半分は南へ――鉄馬金戈。半分は北へ――紙と毒が、暗がりで蠢く。
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