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第二百零七話 越前の桜・饗宴の下の深淵
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元亀元年(西暦一五七〇年)四月下旬、越前・敦賀。
春の名残の桜が、越前の谷という谷を埋め尽くしていた。ひと風吹けば、淡紅の花弁は雪のように降り、土を覆い、ついさっき乾いたばかりの血の跡さえ覆い隠す。
織田・徳川連合軍三万。巨大な鉄の蟒蛇のように、敦賀口へと身を横たえ、谷を塞いだ。
四月二十五日、天筒山城、陥落。
軽い戦ではなかった。険しい山腹。朝倉勢は絶望の中で雷石を転がし、熱油を浴びせた。織田方の足軽は、仲間の屍を踏み台にし、血水と泥が混じる斜面を、手足で掻きながら這い上がった。池田勝正隊の三千は狂ったように城門をこじ開け、裂け目をつくった。
攻めは苛烈、代価は重い。だが信長は代価に興味がない。彼が欲しいのは速度だけだった。
四月二十六日、金ヶ崎城。
城主・朝倉景恒は、山を埋める織田の指物を見て、ついに折れた。金ヶ崎は開城。続いて敦賀口外縁の支城も、次々と門を開いた。
火の粉が敦賀湾を照らし、敗兵は船を奪い合って逃げる者、道端に膝をつき武器を差し出して震える者――夜の港は、勝者の灯と敗者の息で満じた。
その夜、信長は金ヶ崎城の天守にて宴を開いた。
征服者の姿を誇示するため、篝火をすべて点し、夜空は白昼のように焼けた。
上座の将たちは広間を囲み、酒は小川のように流れた。信長はすでに酔いを帯び、朱の盃を掲げて北の闇を指し、声を張り上げて笑った。
「見よ! 越前の門は開いた!」
「明日、明日だ! 全軍を動かし、一乗谷へ直に踏み込む!」
「朝倉義景の庭で、奴が育てた名桜がどんな色をしているか、この目で見てやる!」
将たちは一斉に盃を掲げ、笑い声が梁を震わせた。
ただ一人、徳川家康だけは下座に座り、盃を握ったまま、ときおり帳の外の黒い山影へ視線を流した。眉の皺は、消えない。
柳澈涵は、宴にいなかった。
彼は城の最も高い場所に立ち、夜風に衣の裾を鳴らしていた。背後に弥助が立ち、柳澈涵の佩刀を抱えている。
「先生、勝ちました。なのに、なぜお喜びにならぬのです」弥助が問う。
柳澈涵は舞い落ちた桜の一片を受けた。掌の上で、花弁は乾いた血の雫のように赤い。
「弥助。地形を見ろ」
柳澈涵は足元の闇を指した。
「北は越前の奥――我らが進むべき腹。東には、小谷城。沈黙しているが、浅井の地だ。南は、来た道」
「ここは袋だ」
彼は花弁を指先で潰す。
「桜が艶やかすぎる。下に埋まる死人が多い証だ。順すぎる――誰かが門を開け、こちらへ入れと招いているようだ」
「袋の底が閉じたら、この三万、ひとりも逃げられぬ」
弥助の背筋が震えた。
柳澈涵は振り返り、城頭の石段に腰を下ろす。懐から、八重美が出立の折に押し込んだ包みを取り出した。中身は南蛮風の、牛革の硬底行軍靴。
楼下で轟く歓声と酒令の中、柳澈涵は畳に適した足袋を黙って脱ぎ、硬底の靴を履いた。紐を幾重にも巻き、足首を締め上げる。
締めるほどに痛い。だが彼は、さらに締めた。
まるで、必ず来るはずの長い、みじめな逃走のために、先に刻印を押すように。
「備えろ、弥助」柳澈涵は低く言った。「風向きが変わる」
春の名残の桜が、越前の谷という谷を埋め尽くしていた。ひと風吹けば、淡紅の花弁は雪のように降り、土を覆い、ついさっき乾いたばかりの血の跡さえ覆い隠す。
織田・徳川連合軍三万。巨大な鉄の蟒蛇のように、敦賀口へと身を横たえ、谷を塞いだ。
四月二十五日、天筒山城、陥落。
軽い戦ではなかった。険しい山腹。朝倉勢は絶望の中で雷石を転がし、熱油を浴びせた。織田方の足軽は、仲間の屍を踏み台にし、血水と泥が混じる斜面を、手足で掻きながら這い上がった。池田勝正隊の三千は狂ったように城門をこじ開け、裂け目をつくった。
攻めは苛烈、代価は重い。だが信長は代価に興味がない。彼が欲しいのは速度だけだった。
四月二十六日、金ヶ崎城。
城主・朝倉景恒は、山を埋める織田の指物を見て、ついに折れた。金ヶ崎は開城。続いて敦賀口外縁の支城も、次々と門を開いた。
火の粉が敦賀湾を照らし、敗兵は船を奪い合って逃げる者、道端に膝をつき武器を差し出して震える者――夜の港は、勝者の灯と敗者の息で満じた。
その夜、信長は金ヶ崎城の天守にて宴を開いた。
征服者の姿を誇示するため、篝火をすべて点し、夜空は白昼のように焼けた。
上座の将たちは広間を囲み、酒は小川のように流れた。信長はすでに酔いを帯び、朱の盃を掲げて北の闇を指し、声を張り上げて笑った。
「見よ! 越前の門は開いた!」
「明日、明日だ! 全軍を動かし、一乗谷へ直に踏み込む!」
「朝倉義景の庭で、奴が育てた名桜がどんな色をしているか、この目で見てやる!」
将たちは一斉に盃を掲げ、笑い声が梁を震わせた。
ただ一人、徳川家康だけは下座に座り、盃を握ったまま、ときおり帳の外の黒い山影へ視線を流した。眉の皺は、消えない。
柳澈涵は、宴にいなかった。
彼は城の最も高い場所に立ち、夜風に衣の裾を鳴らしていた。背後に弥助が立ち、柳澈涵の佩刀を抱えている。
「先生、勝ちました。なのに、なぜお喜びにならぬのです」弥助が問う。
柳澈涵は舞い落ちた桜の一片を受けた。掌の上で、花弁は乾いた血の雫のように赤い。
「弥助。地形を見ろ」
柳澈涵は足元の闇を指した。
「北は越前の奥――我らが進むべき腹。東には、小谷城。沈黙しているが、浅井の地だ。南は、来た道」
「ここは袋だ」
彼は花弁を指先で潰す。
「桜が艶やかすぎる。下に埋まる死人が多い証だ。順すぎる――誰かが門を開け、こちらへ入れと招いているようだ」
「袋の底が閉じたら、この三万、ひとりも逃げられぬ」
弥助の背筋が震えた。
柳澈涵は振り返り、城頭の石段に腰を下ろす。懐から、八重美が出立の折に押し込んだ包みを取り出した。中身は南蛮風の、牛革の硬底行軍靴。
楼下で轟く歓声と酒令の中、柳澈涵は畳に適した足袋を黙って脱ぎ、硬底の靴を履いた。紐を幾重にも巻き、足首を締め上げる。
締めるほどに痛い。だが彼は、さらに締めた。
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「備えろ、弥助」柳澈涵は低く言った。「風向きが変わる」
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