戦国澄心伝

RyuChoukan

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第二百零八話 小豆の袋・影見の解き札

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 四月二十七日、深夜。

 金ヶ崎の饗宴は散った。だが三万の陣は眠らない。

 言い知れぬ不穏が潮のように広がり、前方の斥候は報告が鈍り、後方の兵糧道は詰まっている気配を見せ始めた。

 夕刻から、忍びの報は雪片のように柳澈涵の陣幕へ飛び込んだ。

「北近江の路、関所増兵」
「浅井の旗、若狭境に出現」
「烽火台、異動」

 柳澈涵は札を追うほどに顔を強張らせた。最も見たくないものが、形を取って現れつつある。

 その時、陣外が騒がしくなった。

 血にまみれ、衣の裂けた密使が転がり込む。武士ではない。身なりからして、お市の方の近習の下働きらしい。

「の、信長公へ……!」

 密使は地に伏し、血で濡れた布袋を両手で差し出した。

「こ、これは……お市さまが命懸けで……!」

 騒ぎで叩き起こされた信長が、単衣のまま現れた。頬には宿酔の赤みが残る。

 布袋を見て眉をひそめる。

「お市? あの娘、近江の土産でも寄越したか」

 手を伸ばす。将たちも寄り、空気がわずかに緩む。

「待て」

 鋭い一喝。

 柳澈涵が人の輪を割って出た。礼を略し、まっすぐ袋だけを見据える。

 ただの粗布の袋。だが異様なのは、両端が麻縄で死ぬほど固く縛られ、中央が不自然に膨れていることだ。

「信長公。触れるな」

 柳澈涵の声は氷のように冷たい。

 腰の「澄心村正」を抜く。刃が一閃。

 ザッ――布が裂けた。

 次の瞬間、裂け目から無数の赤い小豆が、血の珠のように溢れ落ちた。床へ弾け、転がり、蝋燭の灯に刺すように赤い. 赤すぎて、目が痛む。

 沈黙。

 大帳は、死人のように静まり返った。小豆が床を転がる微かな音だけが、やけに大きい。

 信長の顔に凍りついた驚愕。

 柳澈涵は刀を納め、掠れた声で言った。疲れが滲むのに、ひとつひとつが耳を貫く。

「信長公。これは“情報”だ」

 床の小豆を指す。

「袋口は朝倉。袋底は浅井。両端が縛られている」

 柳澈涵は顔を上げ、信長の目をまっすぐ見た。

 そして、区切って告げる。

「長政が……叛いた」
「離反で恐ろしいのは刀ではない。路だ。退路が断たれた。袋が封じられれば、この三万は――この袋の死豆と同じだ」

 信長の指が震え始める。

「ありえぬ……」信長は呟いた。「長政は妹婿だ。お市もいる。俺の強さを見た上で、どうして……どうしてそんな真似が……」

「報――!!」

 斥候が転げ込む。声は泣きそうに割れていた。

「報! 浅井長政、挙旗! 北近江を越え、退路を断ちました! 前衛、金ヶ崎まで三十里を切ります!」

 カラン――。

 信長の盃が床に落ち、粉々に砕けた。

 桶狭間の雨夜にも顔色ひとつ変えぬ魔王。昨夜まで一乗谷で桜を見てやると言った覇者。

 その顔に初めて、“恐怖”という名の影が差した。

 死への恐怖。

 そして、背信への呆然。

 深淵が、口を開けた。
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