207 / 268
第二百零九話 朽木の賭け・三十騎、夜へ
しおりを挟む
四月二十八日、未明。
金ヶ崎城の広間は、息が詰まるほど重かった。
撤くか、戦うか。
戦えば、前後を挟まれ、袋の中で瓮の魚になる。
撤けば、全線は崩れ、三万のうち十が一も残らぬかもしれぬ。
信長は腰掛けに座り、顔は蒼白。爪が肉へ食い込む。
長い沈黙の末、彼は吐いた。
「是非に及ばず」
五文字が、傲りをすべて抜き去った。
「退く」
信長は跳ねるように立つ。
「輜重は捨てろ。大軍も捨てる。俺は馬廻りを連れて先に抜ける!」
最も冷酷で、最も正しい判断だった。
大軍が一斉に動けば、ただの標的. 総大将が抜けてこそ、この盤は全損にならない。
「殿(しんがり)は誰が務める」信長が問う。
誰も答えない。死に役だ。
人垣の末で、小柄な影が震えながら手を上げた。
「わ、わたしが……残ります」
羽柴秀吉。足が震え、顔は白い. だが目だけは博徒の刃を宿していた。
これは運命を変える唯一の目だと、彼は知っていた。
「私も残る」
明智光秀が出る。顔は静かだった。
柳澈涵は地図の前に立ち、矢のように配置を決めてゆく。
この瞬間の彼は、信長より総大将に近い。
「乱すな」
柳澈涵の指が地図を強く打つ。
「池田勝正殿。三千の本隊で正門を守れ。あなたが骨格だ。あなたが折れねば、追撃は抜けぬ」
池田勝正は歯を食いしばり、頷いた。
「光秀殿、秀吉。山道の両翼に伏せ、機動の支点となれ。崩れる兵を拾い、徳川殿の退路を護れ」
柳澈涵は振り返り、背後の雷霆峨保を見た。
「雷霆」
「はっ」
「澄心軍団の百を率いて残れ。城は守るな。路を守れ。猿(秀吉)に手を貸せ。死なせるな。必ず連れ戻せ」
雷霆峨保は短く拳を打つ。
「先生、ご安心を。路がある限り、俺がいます」
配分は終わった。
信長は柳澈涵、松永久秀、そして数十の近習を連れ、夜陰に紛れて陣を抜ける。
目指すは唯一の生路――朽木谷。
だがそこは、同時に鬼門でもある。
朽木谷の主・朽木元綱の態度は、曖昧だった。
若狭の山道、夜風は骨を削る。桜の花弁が馬蹄に踏み込まれ、泥の中で砕ける音がした。
隊は谷口で止まる. 前方で松明が揺れる. 朽木の関所だ。
力で突破すれば、この数十は確実に死ぬ。
松永久秀が馬を進め、振り返って柳澈涵に意味深な笑みを向けた。
「柳殿。私は説得に行くべきか、それとも――信長公を斬って首を持ち込み、褒美を貰うよう勧めるべきか」
乱世随一の“悪党”が、この夜、信長の命を指先で弄んでいる。
柳澈涵は笑わない。
馬を寄せ、鞘の先を音もなく松永の腰に当てた。
「松永殿」
声は軽い. だが軽すぎて、刃だった。
「やってみるといい」
「お前が路を浅井に売るなら、俺は先にお前を閻魔に売る. 平蜘蛛の茶釜は――俺が代わりに叩き割ってやる」
松永久秀は一瞬固まり、次いで腹の底から笑った。
「面白い! 面白い!」
馬腹を蹴り、独り関所へ向かう。
「待っていろ! 魔王に路を買ってくる!」
半刻後、関所の松明が三度揺れた。
路が開いた。
三十騎は闇の谷へ突入する。
風が唸り、狼狽の一隊へ、別れの笛のように鳴り続けた。
金ヶ崎城の広間は、息が詰まるほど重かった。
撤くか、戦うか。
戦えば、前後を挟まれ、袋の中で瓮の魚になる。
撤けば、全線は崩れ、三万のうち十が一も残らぬかもしれぬ。
信長は腰掛けに座り、顔は蒼白。爪が肉へ食い込む。
長い沈黙の末、彼は吐いた。
「是非に及ばず」
五文字が、傲りをすべて抜き去った。
「退く」
信長は跳ねるように立つ。
「輜重は捨てろ。大軍も捨てる。俺は馬廻りを連れて先に抜ける!」
最も冷酷で、最も正しい判断だった。
大軍が一斉に動けば、ただの標的. 総大将が抜けてこそ、この盤は全損にならない。
「殿(しんがり)は誰が務める」信長が問う。
誰も答えない。死に役だ。
人垣の末で、小柄な影が震えながら手を上げた。
「わ、わたしが……残ります」
羽柴秀吉。足が震え、顔は白い. だが目だけは博徒の刃を宿していた。
これは運命を変える唯一の目だと、彼は知っていた。
「私も残る」
明智光秀が出る。顔は静かだった。
柳澈涵は地図の前に立ち、矢のように配置を決めてゆく。
この瞬間の彼は、信長より総大将に近い。
「乱すな」
柳澈涵の指が地図を強く打つ。
「池田勝正殿。三千の本隊で正門を守れ。あなたが骨格だ。あなたが折れねば、追撃は抜けぬ」
池田勝正は歯を食いしばり、頷いた。
「光秀殿、秀吉。山道の両翼に伏せ、機動の支点となれ。崩れる兵を拾い、徳川殿の退路を護れ」
柳澈涵は振り返り、背後の雷霆峨保を見た。
「雷霆」
「はっ」
「澄心軍団の百を率いて残れ。城は守るな。路を守れ。猿(秀吉)に手を貸せ。死なせるな。必ず連れ戻せ」
雷霆峨保は短く拳を打つ。
「先生、ご安心を。路がある限り、俺がいます」
配分は終わった。
信長は柳澈涵、松永久秀、そして数十の近習を連れ、夜陰に紛れて陣を抜ける。
目指すは唯一の生路――朽木谷。
だがそこは、同時に鬼門でもある。
朽木谷の主・朽木元綱の態度は、曖昧だった。
若狭の山道、夜風は骨を削る。桜の花弁が馬蹄に踏み込まれ、泥の中で砕ける音がした。
隊は谷口で止まる. 前方で松明が揺れる. 朽木の関所だ。
力で突破すれば、この数十は確実に死ぬ。
松永久秀が馬を進め、振り返って柳澈涵に意味深な笑みを向けた。
「柳殿。私は説得に行くべきか、それとも――信長公を斬って首を持ち込み、褒美を貰うよう勧めるべきか」
乱世随一の“悪党”が、この夜、信長の命を指先で弄んでいる。
柳澈涵は笑わない。
馬を寄せ、鞘の先を音もなく松永の腰に当てた。
「松永殿」
声は軽い. だが軽すぎて、刃だった。
「やってみるといい」
「お前が路を浅井に売るなら、俺は先にお前を閻魔に売る. 平蜘蛛の茶釜は――俺が代わりに叩き割ってやる」
松永久秀は一瞬固まり、次いで腹の底から笑った。
「面白い! 面白い!」
馬腹を蹴り、独り関所へ向かう。
「待っていろ! 魔王に路を買ってくる!」
半刻後、関所の松明が三度揺れた。
路が開いた。
三十騎は闇の谷へ突入する。
風が唸り、狼狽の一隊へ、別れの笛のように鳴り続けた。
0
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
強いられる賭け~脇坂安治軍記~
恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。
こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。
しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる