戦国澄心伝

RyuChoukan

文字の大きさ
209 / 268

第二百一十一話 泥濘の王・影見の扶持

しおりを挟む
 四月二十九日、朽木越えの山道。

 雨がまた降り始めた。

 若狭の山路はもとより険しいが、今は完全な泥沼だ。

 信長の馬は途中で力尽きた。

 半天下の主は、泥の中を己の足で歩くしかない。

 誇りだった南蛮胴は泥と草屑に塗れ、石のように重い. 整え抜いた髷は崩れ、髪は乱れ、見る影もない. 草鞋はとうに破れ、歩くたび水膨れが裂け、痛みが骨へ突き刺さる。

「……はっ……はっ……」

 信長は木に手をつき、今にも膝を折れそうになる。

 近習たちも傷を負い、目は死んだように濁っていた。

 ただ一人、なお歩みが崩れぬ者がいる。

 柳澈涵。

 硬底の行軍靴は泥を掴み、足を逃がさない. 蓑は濡れきっているのに、襟元だけは不思議なくらい白い。

 前方に、断崖の道がある。

 信長が足を滑らせ、身体が一気に谷へ吸われた。

「主公!」

 叫びが上がる。

 その瞬間、一本の手が、信長の手首を確かに掴んだ。

 柳澈涵は両足を泥に打ち込み、片手を岩の割れ目に掛け、信長の落下を力ずくで止めた。

 二人は半身を宙に晒し、目が合う。

 雨が信長の頬を流れる. 雨か、冷汗か、区別がつかない。

 信長は、自分の背後にいた男が、今や唯一の支柱であることを見た。

 そして、かすかに笑った. 惨めな笑いだ。

「柳……」
「いま手を離すか、俺に一刀くれてみろ. 天下は……唾棄するほど容易い」
「朝倉の賞は万金だぞ」

 柳澈涵は答えない。

 腕に力を込め、青筋を浮かせ、信長を少しずつ道へ引き戻した。

 信長が座り直すと、柳澈涵は懐から乾物の糧を取り出し、差し出す。

「信長公」

 泥を払って、淡々と言う。

「天下には、あなたという刀が要る」
「刀は鈍れば研げる. 刃こぼれなら直せる. だが折れたら――この乱世で、どれほど人が死ぬ」

 立ち上がり、霧の雨を指す。

「もう一夜、耐えろ. 四月三十日、必ず京へ着く」

 信長は糧を受け取り、乱暴に噛み切った。

 柳澈涵の、雨の中でも澄んだ眼を見て、信長の奥の恐怖が引いていく. 代わりに、さらに狂気を帯びた炎が灯った。

「行くぞ!」

 信長は膝を押して立つ. 声は掠れても、芯は折れない。

「京へ戻る!」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天正の黒船

KEYちゃん
歴史・時代
幕末、日本人は欧米諸国が日本に来た時の黒船に腰を抜かした。しかしその300年前に日本人は黒船を作っていた。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

ヤバイ秀吉

魚夢ゴールド
歴史・時代
題名通り、性格をヤバくした羽柴秀吉の伝記モノです。

強いられる賭け~脇坂安治軍記~

恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。 こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。 しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

処理中です...