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第二百一十九話 二条の淵(ふち)・義昭の探り
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元亀元年(西暦一五七〇年)六月下旬、京都。
二条御所の檐(のき)下を抜ける風は、いつもより軽い。だが、まとわりつく。薄い汗が肌に貼りついたまま、拭えず、振り払えない。信長が岐阜へ戻って間もない。京都という都市を締め上げていた一本の弦が――ほんの一寸だけ緩んだ気配がした。
牛車の停まり方が密になる。足音が、やけに乾いて響く。門前の石段の埃でさえ、踏まれ続けて磨かれ、鈍く光っていた。これは胆が据わったからではない。空の読みが巧くなっただけだ。空が曇れば、先に傘を探す。少し晴れ間が出れば、雨を避けられる者の視界へ、我先に身を寄せる。
信長が京を離れた。その瞬間、公卿たちは「将軍」という二文字を、急いで持ち上げ始めた。敬意ではない。予備の札である。
今日、義昭が能の会を催した。宴ではない。杯盤の喧噪もなく、ただ衣擦れと、扇骨の開閉がするだけ。舞台は『敦盛』。鼓の打ち方が遠雷のようで、胸郭をじわりと押し潰してくる。
足利義昭は、中央に端坐していた。手には扇ではなく、精巧な染付の鳥餌壺(とりえつぼ)を持つ。彼は舞台を見ない。席を見ている。背筋が立ちすぎている者。視線が泳ぐ者。賜杯の瞬間に指先が震える者。挨拶の笑みが“力み”になっている者。彼が一度、呼吸を止めただけで、相手の呼吸の拍(はく)が変わる。礼ではない。線だ。その線を、義昭は心の内で結び、見えない名簿へと描き込んでいく。
柳澈涵は側席にいた。目立たぬ位置だが、敷居のように、誰も迂回できない場所。義昭の視線が、ようやく彼へ落ちた。恨みも、親しみもない。ただ冷え切った量り(はかり)がある。刀を掌(たなごころ)に横たえ、重さを測るような眼。この刀は――いったい、誰の腰に結ばれている?
「柳殿」
声は大きくない。だが、その一言で、座の細い囁きは空白へ押し潰された。柳澈涵は立つ。席を離れぬまま、「在ります」とだけ答える。義昭の指が鳥餌壺を回す。蓋と胴が擦れ、微かな陶音が鳴った。ここが御所だと、壺が義昭自身へ言い聞かせている。
「京を行き来することも多かろう。苦労を掛ける」
口調は温和で、体面に一分の瑕もない。
「二条は御所だ」
「京にいるなら、規矩も、差配も、本来こちらが出すべきもの」
言葉は正しい。買うとも、裏切れとも、一字も言わない。ただ、柳澈涵という人物を、そっと「将軍門下」という枠へ押し込もうとする。押し方は軽い。だが、周りが“もう決まった”と錯覚するには十分だ。
公卿たちの眼が、微妙に動いた。待っている。柳澈涵がその段を踏むか。それとも、その段そのものを、人前で折るか。
侍従が酒を捧げる。柳澈涵は受け取った。だが、杯は上げない。唇も濡らさない。ただ、酒盃をそっと机案へ戻した。
「とん」
畳に落ちた杯底の音は、あまりに軽い。だが、座中の全員が聞いた。酒面が微かに揺れ、すぐに静まる。呼吸ごと、押さえ込まれたかのように。
「将軍のご厚意、痛み入ります」
柳澈涵の声は水のように平らだった。
「ただ、臣が受けるのは京の託(たく)にて」
「御所の養(やしな)いではございません」
目を上げる。避けず、折れず。
「将軍より厚き賜りを受ければ」
「かえって、京を歩くに不都合となりましょう」
義昭の指が、ぴたりと止まった。鳥餌壺が手の中で固まる。
柳澈涵は言わなかった。「信長の者だ」とも、「将軍に服さぬ」とも。ただ、義昭が差し出した“縄”を、皆の前で、きれいに断った。賜れば、借りになる。借りぬなら、跪かぬ。
義昭は長く柳澈涵を見た。やがて笑った。笑みは薄氷だ。光は返すが、温めない。
「柳殿は……よほど、歩くのが好きと見える」
柳澈涵は礼をし、席を退いた。背は揺れない。己の位置を「客卿」という二字に釘で打ち、微塵も動かぬ背である。
澄心楼へ戻ると、茶はまだ温かった。八重美が窓辺で糸を繰っている。目を上げず、ひと言。
「今日、あの方は酷いことを言った?」
柳澈涵は座り、茶を取る。水面の紋は動かず、薄い鏡のようだ。
「いいや」
鏡を見つめたまま、言う。
「言ったのは、好い言葉ばかりだ」
八重美が笑う。淡いが、深い。
「好い言葉こそ、探りよ」
「好い言葉が分かる者ほど、長く生きる」
二条御所の檐(のき)下を抜ける風は、いつもより軽い。だが、まとわりつく。薄い汗が肌に貼りついたまま、拭えず、振り払えない。信長が岐阜へ戻って間もない。京都という都市を締め上げていた一本の弦が――ほんの一寸だけ緩んだ気配がした。
牛車の停まり方が密になる。足音が、やけに乾いて響く。門前の石段の埃でさえ、踏まれ続けて磨かれ、鈍く光っていた。これは胆が据わったからではない。空の読みが巧くなっただけだ。空が曇れば、先に傘を探す。少し晴れ間が出れば、雨を避けられる者の視界へ、我先に身を寄せる。
信長が京を離れた。その瞬間、公卿たちは「将軍」という二文字を、急いで持ち上げ始めた。敬意ではない。予備の札である。
今日、義昭が能の会を催した。宴ではない。杯盤の喧噪もなく、ただ衣擦れと、扇骨の開閉がするだけ。舞台は『敦盛』。鼓の打ち方が遠雷のようで、胸郭をじわりと押し潰してくる。
足利義昭は、中央に端坐していた。手には扇ではなく、精巧な染付の鳥餌壺(とりえつぼ)を持つ。彼は舞台を見ない。席を見ている。背筋が立ちすぎている者。視線が泳ぐ者。賜杯の瞬間に指先が震える者。挨拶の笑みが“力み”になっている者。彼が一度、呼吸を止めただけで、相手の呼吸の拍(はく)が変わる。礼ではない。線だ。その線を、義昭は心の内で結び、見えない名簿へと描き込んでいく。
柳澈涵は側席にいた。目立たぬ位置だが、敷居のように、誰も迂回できない場所。義昭の視線が、ようやく彼へ落ちた。恨みも、親しみもない。ただ冷え切った量り(はかり)がある。刀を掌(たなごころ)に横たえ、重さを測るような眼。この刀は――いったい、誰の腰に結ばれている?
「柳殿」
声は大きくない。だが、その一言で、座の細い囁きは空白へ押し潰された。柳澈涵は立つ。席を離れぬまま、「在ります」とだけ答える。義昭の指が鳥餌壺を回す。蓋と胴が擦れ、微かな陶音が鳴った。ここが御所だと、壺が義昭自身へ言い聞かせている。
「京を行き来することも多かろう。苦労を掛ける」
口調は温和で、体面に一分の瑕もない。
「二条は御所だ」
「京にいるなら、規矩も、差配も、本来こちらが出すべきもの」
言葉は正しい。買うとも、裏切れとも、一字も言わない。ただ、柳澈涵という人物を、そっと「将軍門下」という枠へ押し込もうとする。押し方は軽い。だが、周りが“もう決まった”と錯覚するには十分だ。
公卿たちの眼が、微妙に動いた。待っている。柳澈涵がその段を踏むか。それとも、その段そのものを、人前で折るか。
侍従が酒を捧げる。柳澈涵は受け取った。だが、杯は上げない。唇も濡らさない。ただ、酒盃をそっと机案へ戻した。
「とん」
畳に落ちた杯底の音は、あまりに軽い。だが、座中の全員が聞いた。酒面が微かに揺れ、すぐに静まる。呼吸ごと、押さえ込まれたかのように。
「将軍のご厚意、痛み入ります」
柳澈涵の声は水のように平らだった。
「ただ、臣が受けるのは京の託(たく)にて」
「御所の養(やしな)いではございません」
目を上げる。避けず、折れず。
「将軍より厚き賜りを受ければ」
「かえって、京を歩くに不都合となりましょう」
義昭の指が、ぴたりと止まった。鳥餌壺が手の中で固まる。
柳澈涵は言わなかった。「信長の者だ」とも、「将軍に服さぬ」とも。ただ、義昭が差し出した“縄”を、皆の前で、きれいに断った。賜れば、借りになる。借りぬなら、跪かぬ。
義昭は長く柳澈涵を見た。やがて笑った。笑みは薄氷だ。光は返すが、温めない。
「柳殿は……よほど、歩くのが好きと見える」
柳澈涵は礼をし、席を退いた。背は揺れない。己の位置を「客卿」という二字に釘で打ち、微塵も動かぬ背である。
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「今日、あの方は酷いことを言った?」
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「いいや」
鏡を見つめたまま、言う。
「言ったのは、好い言葉ばかりだ」
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