戦国澄心伝

RyuChoukan

文字の大きさ
239 / 268

第二百四十一話 比叡山の影・山門は語らず、勢が先に冷える

しおりを挟む
 元亀元年十月中旬、坂本口・比叡山麓。

 浅井・朝倉が比叡山へ退いたのは、戦を怖れたからではない。戦場を「泥と血」から「名と勢」へ移すためだ。山門が影を半分でも貸せば、その影で、天下人の眼に織田を「悪」と書ける。

 比叡の霧は厚い。古い綿屑のように厚く、人を絡め、馬を絡め、刃を絡める。霧の中の山門は見えたり消えたりする. 口を閉じた顔のようだ. 口は言葉を吐かないが、勢を噛んでいるのが分かる。

 麓には「殺生禁断」の石碑が立つ。雨が洗い、字は黒ずむ。柳澈涵は碑の前で一眼だけ見た. 笑いも怒りもない. 彼は知っている. この碑は戒ではない. 門票だ. これを借りた者は、天下人の心に名分を一枚、足せる。

 営帳で弥助が問う。
「なぜ奴らは下りて戦わぬ?」

 柳澈涵は三本指を立てた。深い言葉は使わない。それでも人心の縛り方が、骨まで分かる。

「第一、名目。将軍が逆と言えば、お前は逆になる。名が立てば、名のために死ぬ者が出る。」
「第二、怖畏。寺社は怖れを経に書き、経を律にして唱える。戦わねば罪、戦い死ねば功。」
「第三、願生。生を願う道を約束されれば、死が路になる。百姓は百姓でなくなる。路を許された死士になる。」

 指を収める。
「三つが一つに縛れば、最も怖い。武士は退きを知るが、死士は退きを知らぬ。」

 雷霆峨保が眉を寄せる。
「どう解く。」

 柳澈涵が答える。
「詞を奪う。」

「人を一人捕まえて勝ちではない。写す鎖を断ち、語り口を截ち、奴らが口にする『詞本』を替える。京の恐怖が、書く字を見つけられぬようにする。」

 その夜、彼は「封口」を始めた. 人を殺すのではない. 源を断つ。
 堺路と町人の中で最も伝言の上手い者に「改口の値」を渡し、講談師に語りを一段替えさせ、寺社の外の香火銭を一時断ち、「将軍御内書」の伝達鎖に一つ「遅」を入れる. 京の恐怖は水だ. 性を塞げぬなら、河道を変えるしかない。

 それから柳澈涵は山門の者に会いに行く。
 会うのは、僧兵を抑えも放ちもできる大僧正だった。衣は飾らぬが、歳月の沈みを纏う. 顕如のように信で押すのではない. 「山門が長く生きすぎた」ことそのものが圧だ. 怒る必要もない. 沈黙するだけでよい。

 茶屋. 香と湿気が絡む. 大僧正が微笑む。
「東山より来た先生、何ゆえ我が山の脚を踏む。」

 柳澈涵は礼は周全にし、口は直に開く。
「山門清浄、何ゆえ甲兵を霧に容れる。」

 大僧正は茶碗を取り、ひと息吹く。
「清浄は衆生を護る。魔が起これば、刀を借りねばならぬ。」

 柳澈涵は見据える。
「刀が仏名を借りれば、仏に血が付く。血が付けば、清浄は幾分残る。」

 大僧正は笑みを崩さない。
「先生、山門を案じるには及ばぬ。山門が案ずるのは血ではない。天下の去処だ。武家が天下を争えば、勝った者が山門を路として扱う。どうせ借りられる路なら、先に『借り得る者』を選ぶだけ。」

 柳澈涵はしばし静かにする。その言葉を骨へ入れて秤にかけ、そしてゆっくり言った。
「山門が今日『借り得る』を選べば、明日は『借りられて器』になる。」
「器は用あるときは供えられ、用なければ泥に棄てられる。その泥は、摂津より冷たい。」

 大僧正はようやく笑みを引いた。
「先生、言葉が鋭い。」

 柳澈涵は退かない。
「鋭いのは、貴殿らを傷つけるためではない。比叡山に見せるためだ。山が兵の名だけ借りれば、いずれ兵が山の名を借りる。そのとき山門の沈黙は、刀より速く天下の口へ伝わる。」

 大僧正は答えず、霧の中の山門を見上げた。その眼は棋局を見る眼だった. 長い沈黙ののち、淡々と言う。
「山門は今日、語らぬ。」

 柳澈涵は立ち上がる。
「語らぬことが、語りです。」

 茶屋を出て、聖山を振り返る. 山は語らぬ. だが彼の胸にはもう明白だった. 坂本の釘を重く打ち戻さねば、京の北門は霧に、縫い目から少しずつ喰われていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天正の黒船

KEYちゃん
歴史・時代
幕末、日本人は欧米諸国が日本に来た時の黒船に腰を抜かした。しかしその300年前に日本人は黒船を作っていた。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

ヤバイ秀吉

魚夢ゴールド
歴史・時代
題名通り、性格をヤバくした羽柴秀吉の伝記モノです。

強いられる賭け~脇坂安治軍記~

恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。 こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。 しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

処理中です...