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第二百六十二話 北嶺分脈・澄斎夜刻
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元亀二年(西暦一五七一年)六月、京都・東山澄斎。
夜はすでに深い。澄斎の外廊に垂れる竹簾は、真っ直ぐに落ちている。雨気はなお在るが、檐下の風が一寸一寸それを遮り、残った冷湿は地に伏して細い一線となり、室へは入れぬ――入ってよいものではない、と心得たように。内室の炭火は微かに紅い。旺ではないが、安定している。安定の仕方が、京都の規矩に似る――騒がせず、溢れさせず、ただ、熱すべきものは暗がりで熱し、冷たくあるべきものは明るみで冷たくする。
八重美は盃と箸を替えると、灯影の後ろへ退いた。多言はない。温めた酒の壺だけを、なお手の届くところに置く。温めるのは酔わせるためではない。言葉を最後まで言い切らせるためだ。
信長は盃を取った。仰ぎ、一気に飲み干す。
盃の底が机に戻る音は短い。木に楔を打つようだ。血は見えぬが、緩みは釘で止まる。
信長は笑った。柔らかな笑みではない。覇がある。伊勢の泥井と、近江の張り詰めた線とを一緒に量り、天下の重さは「言い分」ではなく「落とし所」に在ると、すでに掴んだ笑いだ。
灯影が微かに揺れる。机の端には、まだ墨の落ちていない素紙が一枚、残っている。柳澈涵は指腹で紙角を鎮め、反り返るのを許さない。その所作は極めて軽い。だが、その軽さの中で、今夜のための界がすでに立つ――界の内の言は外へ漏らさぬ。
信長が口を開く。声は高くない。だがまず、他人が言葉を走らせる道筋を一度、問うて塞いだ。
「摂津と北嶺、比ぶればいかがだ。」
名を出さぬ。字も持ち上げぬ。けれど天下人が好んで持ち出す「仏門」を、先に言葉の上へ据える問いである。
柳澈涵は即答しない。目を一瞬だけ上げる。視線は澄んで冷たい――この問いが敵か、辞かを見分けている。
「彼の地は、久しく拒め、久しく耗せる。」彼は言う。
「京畿から遠い。遠ければ、緩められる。緩められるなら、近き処を先に整える余力が残る。」
一息置く。語はさらに収まり、しかし硬さが増す。
「北嶺は違う。」
「北嶺は京の北に在る。近すぎて、兵を動かさずとも先に紙を動かせる。護法浄穢の一句があれば、人の目を覆える。札一通、引一段、関一処――それだけで近江と越前の間に、明言を嫌う曲がりが幾つも生まれる。近江の線はいま張り詰めている。浅井に越前との呼応を許さぬには、先に北嶺の手を伸ばさせぬことだ。」
信長は聞き終えると、口許の笑みを引っ込めた。寒月が刃を照らすような冷えだ。
「近き者を先に整える。」
柳澈涵はそこで、素紙を裏返した。さらに白く、さらに冷たい面が現れる。北の高処のために取り置かれた白。彼は名を避けず、筆を取ってすぐに書く。墨は濃くない。だが、極めて安定している。潮気でさえ散らし難い安定だ。
信長の目が、その三字に留まる。しばらくして、ようやく言った。
「比叡山。」
室内の静けさが、さらに一層、圧される。
信長は虚を問わない。先後だけを問う。
「まず、いかに立てる。」
柳澈涵は山名の傍の空白を、指先で軽く叩く。
「まず、界を立てる。」
「界が立てば、先に刀を動かす要はない。」
声は高くない。だが硬い。石を井口に落とすように。響きは多くないが、言い訳の穴を塞ぐ。
「比叡山が分を守り、誦経修持に止まり、人の使いを通さず、人の糧を運ばず、人に路を貸さぬなら、なお清と称してよい。清がある限り、洛中は面を護る。面がある限り、山門には帰る所がある。」
「もしなお清名を屏として、分限を越える事を行うなら――札はなお届き、路はなお開き、人はなお往来するなら――」柳澈涵の指が紙上を軽く一点、打つ。動かせぬ点が落ちる。
「その時は、誰が逼らずとも、すでに自ら清を捨てている。清を自ら棄てたなら、刀を動かすのは寺を犯すにあらず、越分を正すことになる。」
信長の笑みが、極短く掠めた。
「先に、帰る所を残す。」
柳澈涵は淡く応じる。
「帰る所は、山のためではない。天下のためだ。」
信長が話を筋へ収める。
「いくつに分ける。」
柳澈涵は条目を書かない。山名の傍に指先で三処、虚ろに点を立てる。字ではない。だが路になる。
「兵――手。」
「財――筋。」
「名――影。」
三句は短い。短さが、刀背で刃を押さえるように効く。
信長は盃の縁をわずかに回す。冷光が指間に一瞬走る。
「まず手を言え。」
柳澈涵が言う。
「比叡山の手は、堂口の牌位にあらず。山門の道途にある。」
堂の名も、伝説も挙げぬ。関節だけを語る。
「坂本は門。大津は喉。湖上の舟楫、東海道の車馬、京畿の往来――多くはここで息を替える。路が断たれねば、衆徒は影のごとく聚散できる。守りは険に凭り、行いは夜に凭る。列陣せずとも、人心を先に乱すに足る。」
一息置き、さらに冷たく落とす。
「さらに要は、彼らが自ら鋒鏑の場へ出る必要がないことだ。ただ一段の路を開き、一程の人を遮り、一紙の札を渡せば、浅井・朝倉の往来に名分の皮が被る。名分が被れば、多くの口は明言を嫌い、多くの手は明伸を嫌う。」
信長が目を上げる。問は直截だが、俗へ落ちない。
「いかにして越分を定める。」
柳澈涵の答えは、さらに直い。
「その所為を、すべて指し示せる形にすることです。」
新奇な語を使わず、指せる三つだけを列ねる。
「路を指す。誰が関を開き、誰が道を引くか。」
「粮を指す。何処で起こり、何処を過ぎ、何処へ入るか。」
「人を指す。誰が札を渡し、誰が手を換え、誰が使いを匿うか。」
「この三つが指せれば、疑色ではない。根がある。」
信長は黙る。「根がある」を胸中で一度、磨いたようだった。
柳澈涵の指は第二の点へ移る――財。炭火が白髪に映る。光は派手ではない。だが、いよいよ冷える。
「比叡山の筋は、一つの財庫にあらず。三つの源にある。」
彼は三指で、なお虚ろに立てる。
「其の一、路財。坂本・大津――関所の験符、舟車の停泊、倉場の出入。路が一日走れば、一日の利が生まれる。」
「其の二、田財。近江諸処の荘園からの寄進、租税と借上。細水長流で、外の者には尽くし難い。」
「其の三、名財。祈祷・護法・浄穢の辞が集める供奉と人情。名が光れば財は来る. 財が来れば勢に随って散らせる。」
信長の口角が動く。笑いとも冷えともつかぬ動き。
「筋は路にもあり、詞にもある。」
柳澈涵は「はい」とは言わない。法を手へ落とす。語は淡いが、さらに締まる。
「まず坂本・大津を締める。」
「道途整粛を名目に、牌符を重ねて設ける。盗禁・防秽を名目に、舟車を細かく験する。行きを断たず、しかし往来には名と録を付ける。」
「次に募縁・寄進を正す。」
「受納の例を定める。収めてよい――ただし由なくして入れぬ。出してよい――ただし端なくして去らせぬ。」
「最後に転手の人を束ねる。」
「往来の輩に自在を許さぬ。誰が中継し、誰が引介するか――すべて録目の下に落とす。そうすれば財は急に絶たぬが、暗流は自然に渋る。」
ここまで来ると、室内はいよいよ静まる。静なのは無言だからではない。暗がりの幅が急に狭まったからだ。北嶺が最も恐れるのは、一太刀二太刀ではない。路・財・人が、分明に照らされることだ。
信長が目を上げる。
「京は、この法を受けられるか。」
柳澈涵が言う。
「京は『整粛』だけを聞き、『点名』は聞きません。」
「名目は雅正でなければならぬ。雅正が立てば、諸家は規矩の面を護る――京都が護るのは面であって、人ではない。」
信長は盃を軽く伏せ、第三の点へ入る。
「影。」
柳澈涵は「影」を裂いて見せる。
「比叡山の影、その最も厉い処は、彼らが自ら言い立てることではありません。旁人に代わって言わせられることです。」
「護法と言えば、体面をもって受ける者が出る。浄穢と言えば、秽を恐れて退く者が出る。国のため祈ると言えば、上は遽かに手を下し難い。」
「影が禁裏の光に牽かれれば、兵刃が出ぬうちに、辞章が先に闇を塗る。」
信長が不意に笑う。笑いは短い。だが刃のように鋭い。
「ならば、先に清を失わせる。」
柳澈涵は冷静のまま、「失清」を行へ落とす。
「失清は汚言に凭らず、越分に凭る。」
「越分は必ず痕を残します。痕が集まれば影は清くなくなる。清が失せれば諸家は自ずと退く――京都が最も得意とするのは、叫んで破ることではなく、もはや代わりに口を開かぬことです。」
室内が一息、沈む。炭火が小さく鳴り、余韻を収めるようだった。
信長は、すでに定まった策を繰り返さない。今夜の約束として、北嶺の段だけを取る。
「京側で、先に録を起こせ。」
「坂本・大津は牌符と出入の録を先に立てる。募縁・寄進は受納の例を先に定める。往来し転手する者は、名を先に収め、去来を先に明らかにする。」
一息置く。盃の酒は尽きている。笑みはまだある。だがさらに冷える。
「まず、その手を袖の中へ収めさせる。」
柳澈涵の応は極めて安定している。
「手が収まれば、声は自然に軽くなる。声が軽くなれば、影は自然に薄くなる。」
信長は聞き終えると盃を取り、また一気に飲み干した。
外廊では更漏が改まっている。雷霆峨保が檐下でそっと足を換える。時刻だ。信長は長居すべきではない。長居すれば、誰かがこの夜に辞を添える。
信長は立つ。歩みは速くない。気はすでに定まっている。
柳澈涵も立って見送る。ただ内の敷居まで。礼を越えぬ。八重美は灯影の後ろに退いたまま、やはり多言はない。ただ酒壺を引き取り、未だ尽きぬ刃をひとまず隠す――次の夜にまた取り出すために。
院門の外では近侍が雨具と馬を用意している。湿気は馬の鬣に伏し、光らぬが冷たい。
信長は院を出る直前、机上の素紙を一度だけ振り返った。
「比叡山」の三字はまだ乾ききらず、灯影に押さえられている。北嶺の息を先に押さえたようだ。傍らの三つの短痕も明らかである――手・筋・影。
彼が口を開く。声はなお平らだが、来た時より沈む。
「先に、道途を締めよ。」
柳澈涵はわずかに頷く。
「道途が締まれば、影を借りる手は伸びにくくなります。」
信長はそれ以上言わず、雨影へ入った。廊下の灯は院門まで追って来ない。残るのは足音と湿気だけ――それらもやがて消える。洛中はなお静かだ。何事も無かったかのように静かだ。
だが澄斎のこの一夜は、すでに北嶺を灯の下へ置いた。
夜はすでに深い。澄斎の外廊に垂れる竹簾は、真っ直ぐに落ちている。雨気はなお在るが、檐下の風が一寸一寸それを遮り、残った冷湿は地に伏して細い一線となり、室へは入れぬ――入ってよいものではない、と心得たように。内室の炭火は微かに紅い。旺ではないが、安定している。安定の仕方が、京都の規矩に似る――騒がせず、溢れさせず、ただ、熱すべきものは暗がりで熱し、冷たくあるべきものは明るみで冷たくする。
八重美は盃と箸を替えると、灯影の後ろへ退いた。多言はない。温めた酒の壺だけを、なお手の届くところに置く。温めるのは酔わせるためではない。言葉を最後まで言い切らせるためだ。
信長は盃を取った。仰ぎ、一気に飲み干す。
盃の底が机に戻る音は短い。木に楔を打つようだ。血は見えぬが、緩みは釘で止まる。
信長は笑った。柔らかな笑みではない。覇がある。伊勢の泥井と、近江の張り詰めた線とを一緒に量り、天下の重さは「言い分」ではなく「落とし所」に在ると、すでに掴んだ笑いだ。
灯影が微かに揺れる。机の端には、まだ墨の落ちていない素紙が一枚、残っている。柳澈涵は指腹で紙角を鎮め、反り返るのを許さない。その所作は極めて軽い。だが、その軽さの中で、今夜のための界がすでに立つ――界の内の言は外へ漏らさぬ。
信長が口を開く。声は高くない。だがまず、他人が言葉を走らせる道筋を一度、問うて塞いだ。
「摂津と北嶺、比ぶればいかがだ。」
名を出さぬ。字も持ち上げぬ。けれど天下人が好んで持ち出す「仏門」を、先に言葉の上へ据える問いである。
柳澈涵は即答しない。目を一瞬だけ上げる。視線は澄んで冷たい――この問いが敵か、辞かを見分けている。
「彼の地は、久しく拒め、久しく耗せる。」彼は言う。
「京畿から遠い。遠ければ、緩められる。緩められるなら、近き処を先に整える余力が残る。」
一息置く。語はさらに収まり、しかし硬さが増す。
「北嶺は違う。」
「北嶺は京の北に在る。近すぎて、兵を動かさずとも先に紙を動かせる。護法浄穢の一句があれば、人の目を覆える。札一通、引一段、関一処――それだけで近江と越前の間に、明言を嫌う曲がりが幾つも生まれる。近江の線はいま張り詰めている。浅井に越前との呼応を許さぬには、先に北嶺の手を伸ばさせぬことだ。」
信長は聞き終えると、口許の笑みを引っ込めた。寒月が刃を照らすような冷えだ。
「近き者を先に整える。」
柳澈涵はそこで、素紙を裏返した。さらに白く、さらに冷たい面が現れる。北の高処のために取り置かれた白。彼は名を避けず、筆を取ってすぐに書く。墨は濃くない。だが、極めて安定している。潮気でさえ散らし難い安定だ。
信長の目が、その三字に留まる。しばらくして、ようやく言った。
「比叡山。」
室内の静けさが、さらに一層、圧される。
信長は虚を問わない。先後だけを問う。
「まず、いかに立てる。」
柳澈涵は山名の傍の空白を、指先で軽く叩く。
「まず、界を立てる。」
「界が立てば、先に刀を動かす要はない。」
声は高くない。だが硬い。石を井口に落とすように。響きは多くないが、言い訳の穴を塞ぐ。
「比叡山が分を守り、誦経修持に止まり、人の使いを通さず、人の糧を運ばず、人に路を貸さぬなら、なお清と称してよい。清がある限り、洛中は面を護る。面がある限り、山門には帰る所がある。」
「もしなお清名を屏として、分限を越える事を行うなら――札はなお届き、路はなお開き、人はなお往来するなら――」柳澈涵の指が紙上を軽く一点、打つ。動かせぬ点が落ちる。
「その時は、誰が逼らずとも、すでに自ら清を捨てている。清を自ら棄てたなら、刀を動かすのは寺を犯すにあらず、越分を正すことになる。」
信長の笑みが、極短く掠めた。
「先に、帰る所を残す。」
柳澈涵は淡く応じる。
「帰る所は、山のためではない。天下のためだ。」
信長が話を筋へ収める。
「いくつに分ける。」
柳澈涵は条目を書かない。山名の傍に指先で三処、虚ろに点を立てる。字ではない。だが路になる。
「兵――手。」
「財――筋。」
「名――影。」
三句は短い。短さが、刀背で刃を押さえるように効く。
信長は盃の縁をわずかに回す。冷光が指間に一瞬走る。
「まず手を言え。」
柳澈涵が言う。
「比叡山の手は、堂口の牌位にあらず。山門の道途にある。」
堂の名も、伝説も挙げぬ。関節だけを語る。
「坂本は門。大津は喉。湖上の舟楫、東海道の車馬、京畿の往来――多くはここで息を替える。路が断たれねば、衆徒は影のごとく聚散できる。守りは険に凭り、行いは夜に凭る。列陣せずとも、人心を先に乱すに足る。」
一息置き、さらに冷たく落とす。
「さらに要は、彼らが自ら鋒鏑の場へ出る必要がないことだ。ただ一段の路を開き、一程の人を遮り、一紙の札を渡せば、浅井・朝倉の往来に名分の皮が被る。名分が被れば、多くの口は明言を嫌い、多くの手は明伸を嫌う。」
信長が目を上げる。問は直截だが、俗へ落ちない。
「いかにして越分を定める。」
柳澈涵の答えは、さらに直い。
「その所為を、すべて指し示せる形にすることです。」
新奇な語を使わず、指せる三つだけを列ねる。
「路を指す。誰が関を開き、誰が道を引くか。」
「粮を指す。何処で起こり、何処を過ぎ、何処へ入るか。」
「人を指す。誰が札を渡し、誰が手を換え、誰が使いを匿うか。」
「この三つが指せれば、疑色ではない。根がある。」
信長は黙る。「根がある」を胸中で一度、磨いたようだった。
柳澈涵の指は第二の点へ移る――財。炭火が白髪に映る。光は派手ではない。だが、いよいよ冷える。
「比叡山の筋は、一つの財庫にあらず。三つの源にある。」
彼は三指で、なお虚ろに立てる。
「其の一、路財。坂本・大津――関所の験符、舟車の停泊、倉場の出入。路が一日走れば、一日の利が生まれる。」
「其の二、田財。近江諸処の荘園からの寄進、租税と借上。細水長流で、外の者には尽くし難い。」
「其の三、名財。祈祷・護法・浄穢の辞が集める供奉と人情。名が光れば財は来る. 財が来れば勢に随って散らせる。」
信長の口角が動く。笑いとも冷えともつかぬ動き。
「筋は路にもあり、詞にもある。」
柳澈涵は「はい」とは言わない。法を手へ落とす。語は淡いが、さらに締まる。
「まず坂本・大津を締める。」
「道途整粛を名目に、牌符を重ねて設ける。盗禁・防秽を名目に、舟車を細かく験する。行きを断たず、しかし往来には名と録を付ける。」
「次に募縁・寄進を正す。」
「受納の例を定める。収めてよい――ただし由なくして入れぬ。出してよい――ただし端なくして去らせぬ。」
「最後に転手の人を束ねる。」
「往来の輩に自在を許さぬ。誰が中継し、誰が引介するか――すべて録目の下に落とす。そうすれば財は急に絶たぬが、暗流は自然に渋る。」
ここまで来ると、室内はいよいよ静まる。静なのは無言だからではない。暗がりの幅が急に狭まったからだ。北嶺が最も恐れるのは、一太刀二太刀ではない。路・財・人が、分明に照らされることだ。
信長が目を上げる。
「京は、この法を受けられるか。」
柳澈涵が言う。
「京は『整粛』だけを聞き、『点名』は聞きません。」
「名目は雅正でなければならぬ。雅正が立てば、諸家は規矩の面を護る――京都が護るのは面であって、人ではない。」
信長は盃を軽く伏せ、第三の点へ入る。
「影。」
柳澈涵は「影」を裂いて見せる。
「比叡山の影、その最も厉い処は、彼らが自ら言い立てることではありません。旁人に代わって言わせられることです。」
「護法と言えば、体面をもって受ける者が出る。浄穢と言えば、秽を恐れて退く者が出る。国のため祈ると言えば、上は遽かに手を下し難い。」
「影が禁裏の光に牽かれれば、兵刃が出ぬうちに、辞章が先に闇を塗る。」
信長が不意に笑う。笑いは短い。だが刃のように鋭い。
「ならば、先に清を失わせる。」
柳澈涵は冷静のまま、「失清」を行へ落とす。
「失清は汚言に凭らず、越分に凭る。」
「越分は必ず痕を残します。痕が集まれば影は清くなくなる。清が失せれば諸家は自ずと退く――京都が最も得意とするのは、叫んで破ることではなく、もはや代わりに口を開かぬことです。」
室内が一息、沈む。炭火が小さく鳴り、余韻を収めるようだった。
信長は、すでに定まった策を繰り返さない。今夜の約束として、北嶺の段だけを取る。
「京側で、先に録を起こせ。」
「坂本・大津は牌符と出入の録を先に立てる。募縁・寄進は受納の例を先に定める。往来し転手する者は、名を先に収め、去来を先に明らかにする。」
一息置く。盃の酒は尽きている。笑みはまだある。だがさらに冷える。
「まず、その手を袖の中へ収めさせる。」
柳澈涵の応は極めて安定している。
「手が収まれば、声は自然に軽くなる。声が軽くなれば、影は自然に薄くなる。」
信長は聞き終えると盃を取り、また一気に飲み干した。
外廊では更漏が改まっている。雷霆峨保が檐下でそっと足を換える。時刻だ。信長は長居すべきではない。長居すれば、誰かがこの夜に辞を添える。
信長は立つ。歩みは速くない。気はすでに定まっている。
柳澈涵も立って見送る。ただ内の敷居まで。礼を越えぬ。八重美は灯影の後ろに退いたまま、やはり多言はない。ただ酒壺を引き取り、未だ尽きぬ刃をひとまず隠す――次の夜にまた取り出すために。
院門の外では近侍が雨具と馬を用意している。湿気は馬の鬣に伏し、光らぬが冷たい。
信長は院を出る直前、机上の素紙を一度だけ振り返った。
「比叡山」の三字はまだ乾ききらず、灯影に押さえられている。北嶺の息を先に押さえたようだ。傍らの三つの短痕も明らかである――手・筋・影。
彼が口を開く。声はなお平らだが、来た時より沈む。
「先に、道途を締めよ。」
柳澈涵はわずかに頷く。
「道途が締まれば、影を借りる手は伸びにくくなります。」
信長はそれ以上言わず、雨影へ入った。廊下の灯は院門まで追って来ない。残るのは足音と湿気だけ――それらもやがて消える。洛中はなお静かだ。何事も無かったかのように静かだ。
だが澄斎のこの一夜は、すでに北嶺を灯の下へ置いた。
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